嗄れた唇
多分、いや、絶対には何も考えていない。メルヴィッドは逆に、どうすれば私が不愉快に感じるのかをよく考えて判断を下したのだろう。ホグワーツの在校生が溢れる三本の箒で、ブラック家の先代当主と2人きりでテーブルを囲んでいろと宣言するのは思考は違えど気が合う証拠だ、私をこんな目に遭わせている呼吸する馬鹿と動く不合理は纏めて一緒に死因も共有して欲しい。可能な限り、早急に。
唯でさえあの不気味な女装男に精神を疲弊させられたというのに、それから数分も経過しない内にこんな環境下に置かれる身にもなって貰いたい。酒と食べ物と人間の体臭が大量に混ざった匂い、次第に大きくなっていく雑音、値踏みするような他人の視線、そして何よりも、アークタルスとの無意味な会話が追い打ちをかけてくる。
オリオンの父親であり、ブラック家当主も務めたこの男を一言で表現するならば、目障りな男だ。辣腕を振るっていたシリウスのような表立ったカリスマ性は薄いが、長期間補助役を勤めていた為か諜報活動や情報操作のような裏方面で力を発揮させる術を知っている。
過去にこの男の名はダイアゴン横丁よりもノクターン横丁で頻繁に耳にした。以前勤めていた骨董店でも、帳簿が時折不可解な動きを見せるとこの男の名前が出て来た記憶がある。ボージンかバークか、その両者かがこの男と情報を取引していたのだろうと当たりは付けていたが、馬鹿正直に尋ねた事はない。目を付けられる事を危惧していた訳ではなく、単純に興味を持てなかっただけだ。
関心を持たなかった理由など判り切っているだろう。この男は半世紀以上前から、純血名家の当主でありながら知マグル穏健派で通っている。魔法界の裏だけではなく、表の更に表でもあるマグル界の情報も収集しているのだと自ら宣伝していた。だからホグワーツに籍を置いていた当時は軽蔑し、どのようにして、何の為にそんな事をしているかなど考えもしなかった。
無論これは使い物にならない過去の価値観で、今の評価は多少変化している。
限りなくマグル界に近い側から魔法界へ干渉した場合、関与が露見する可能性が極端に低下する事を、バンスの件でが証明した。ダンブルドアのような証拠もなしに勘で動く相手にはあまり意味を成さないが、それでも時間稼ぎや尤もらしい言い訳の種くらいにはなるだろう。数年この世界にいただけの一個人であるの立場でそれなのだ、アークタルスならばもっと勝手の良い物を所持しているに違いない。
確定はしていないが過去の記憶や情報から併せて考えると、アークタルスがマグル界の情報源として利用している可能性が高いのは魔法界から拒絶されたスクイブや魔法界を知りながら魔法使いではない者、魔法使いの親族に当たるマグル達だろう。この中で、まず間違いなく情報源だと断定出来るのはスクイブだ。穢れた血以上に差別対象となるスクイブがマグル界で真っ当な生活する環境と能力を整備する団体の後援者としてこの男が名を連ねている事を、オリオンが裏切りだと罵倒していた記憶が蘇る。
今思うとあれはスクイブ保護を銘打ちながらスパイの養成をしていただけであり、そもそも親マグル派と知マグル派は全くの別物であるからその怒りは見当違いだと反論出来るが、当時は私も未熟でその言葉に同調していた。
マグル達が始めた戦争を愚かだと嘲笑出来る平穏な環境を整えたのがアークタルスである事も、知ったのはつい最近、この男の告白を土産話として持って帰って来たの口からだった。仮にそれが事実だとしたら、統治機構、軍隊、マスメディア、少なくともこれらにはアークタルスの私兵が潜り込んでいると推測しない方がおかしい。
あの時代、ダンブルドアが戦時下の魔法界の為に何をやっていたか、そして今の時代、これから何をするかを総合的に判断すると、危険人物度数は目の前のこの男の方が上だと認識せざるを得なくなる。しかし、後継者であるレギュラスが役立たずを更に腐らせながら半回転させたような無能で使い物にならない現状、不確定な未来予想と目障りな事を理由に殺す訳にもいかない。
耳障りの良い言葉で取り込もうにも、出自が怪しい私では大して心に響かないだろう。私と比較すると付き合っている期間は長いが、それでもたかが数ヶ月分、誤差の範囲内に収まるメルヴィッドも同様だ。この男と相性が良いのは消去法でなのだが、そのにしても思考と価値観が常識から逸脱していて真っ当な対人関係を築く能力は心許ない。
三者共にアークタルスに呑まれるような人間ではないから、その辺りの心配をしなくていいのが多少の慰めになる。と言うか、そうでも思わないと現在進行中の会話を含めてやってられない。
「ニッシュ君はの事を、随分気に入っているようだね」
「ええ、恥ずかしながら、一目惚れなんです」
「そのようだね。お陰でレギュラスが警戒しているよ」
「参ったな。下心なく、純粋に可愛いと思っただけなのに。見た目も性格も仕草も、ポメラニアンの子犬みたいだなと。メルヴィッドからはブラザー・コンプレックスを拗らせないように釘を刺されましたけれど」
無難な会話のダシとしてを使いながら、女避けをしているメルヴィッドに肩を抱かれている姿を熱量が篭ったように偽装した視線で眺める。威嚇してきた孫とは違いこの男は微笑み1つで流したが、周囲の幾人かが嫉妬に塗れた視線をへ向けたので不愉快に見える表情を浮かべてから笑みを含ませた真面目な顔に戻す。
「可愛がり過ぎるな、というのも難しい話ですね。幼気な仕草の割に考え方は大人びて真摯な子だから、つい色々と構ってしまいたくなって」
「言いたい事は、判らないでもないがね」
非難ではなく、肯定寄りの声色でアークタルスが返しながら、愛玩動物を眺めるような視線をカウンターの3人へ送る。
いや、ような、ではないか。少なくともに関しては、愛玩動物に対するそれだろう。対等な関係だと思われていないからこそ、のある種やり過ぎにも思える言動はアークタルス本人を含めた誰からも目溢しされているのだ。
今も平然とレギュラスの頭を撫でているが、アークタルスはその光景を笑いながら眺めているだけだ。現当主に対してもに対しても、責めるような視線を一切向けていない。他の誰かが同じ行為に及んだら顰蹙を買う行為も、愛玩動物というフィルタリング機能が強力に発揮されて微笑ましいものとして写っているのだろう。必要がなかったので口に出して尋ねた事はないが、も私達に対して同じような考えを抱いている気がしてならない。
、アークタルス、ダンブルドア。100年近く生きている老人なんてものは、どれも碌でもない。そんな暴論を脳内で展開する前に、一際大きな声が遠くで上がった。
この無意味極まりない音が飽和する空間の中でも耳に届くような大声は流石にマナー違反だろう、酔っ払い同士のいざこざかと眉を顰めながら出処を突き止めようとした瞬間、カウンターの向こうでガラスの割れる音が鳴り響き自然と視線がそちらへ動いた。
1つや2つでは済まない、大量の酒瓶やグラスが棚の中で破砕され、一抱えもありそうな黒い物体と共にカウンターの向こうへ落下して行く姿を捉えた。その視界の端では腕を振り抜き終わった姿のハグリッドが床に向かって怒りに染まった視線を投げている。何が起こったのか理解が追いつかないまま、それでも酒瓶を砕きながら姿を消した物体が何であるか脳が認知して叫び声を上げさせた。
何故がハグリッドに殴り飛ばされたのか、その疑問が浮かぶよりも先に体が椅子を引き倒し、混沌と化した店内中央へ駆け寄ろうとする。現場から離れようとする人の波に逆らいながら足を速め、立ち竦んだまま喚くだけの女や我先に避難しようとする男を撥ね退けて進もうとするが、近付くにつれて度胸はあるが脳味噌がない野次馬の人垣が増え、遂には通行が遮断される。
通せと張り上げた声はカウンター内から飛び出して来た白銀の蛇に向けられた歓声に掻き消され、次いでメイスを振り上げながら飛び出して来たの姿に拳を突き上げて喜ぶ馬鹿共に殺意を滾らせる。
突発的に起こったこれは決してシナリオ通りに事が進む見世物ではない、明らかに形勢が不利の状態で、それでも獲物を使い分け、振り回しながら血を撒き散らし戦っているが目の前に居るのに、この熱気に狂った愚か者共はそれを楽しんでいた。
稚拙な罵倒でハグリッドの注意を引き、人垣の向こうで翻ったメイスが照明と血液、そして巫山戯た妄言でハグリッドを援護し始めた呪文の光を反射する。攻撃が止んでいないという事はまだ生きている、けれど、魔法力量が一般人並で攻守性能に際立ったものがないと宣言するが、あの体で半巨人と数ばかりが多い素人相手に何処まで持つか。
時間がない、目の前で騒ぐゴミ共が邪魔だ。目標を逸れて流れて来た魔法を相殺し、盛大に舌打ちをしながら活路を探した。見物人全員を巻き込み行動不能に陥らせろと囁く本能を捻じ伏せ、逃げ場を与えてやるなと主張する理性で脳を支配する。
唐突に訪れた非日常の中で、自分の正義を一方的に発散させるのはさぞ痛快な事だろう。けれど、そこから日常へ回帰した時に付いて回るのは賞賛ではなく侮蔑であると、この脳の足りない者達に教育してやろう。本能のままに反射で行動するのは私の流儀に反する、そんな事を仕出かすのはだけで十分だ。
一旦身を引き、ただ呆然と座っているだけの生徒がいるテーブルに足を掛け、食器を割り料理を踏み躙りながら必要以上の力を杖に宿らせる。人の壁から解放され開けた視界には壁際に殴り飛ばされ血塗れになりながら嘔吐すると、バランスを崩し床に腰を打ち付けたハグリッド、そして倒れたまま動く事も出来ない役立たず2人の姿がよく見えた。
ああ、この馬鹿共を身を挺して庇ったのかと、ようやく全貌を理解した。大した怪我もしていないのに呻き声を上げながら這い蹲って敗者の格好をしているメルヴィッドとレギュラス、それとは対照的に、血と嘔吐物に塗れ立ち上がる事すら困難に思える損傷を負っているにも関わらず臨戦態勢のまま杖を構えた。
「全く、笑えるね」
そんな言葉を口にしつつも、口角は上がろうとしない。
不愉快な光景に終止符を打つべく溜め込んでいた力を感情と共に放出し、人間と似た形をしただけのケダモノを呪文で強制的に黙らせる。店の調度品を巻き込みながら倒れ、死んだように動かなくなったが、呼吸をし、生きているから問題ないだろう。やり過ぎたとは思わない、寧ろ、殺されなかった事を幸運に思え。
強制的に戦闘を終わらせた事で静寂に包まれた店内の視線が集まるが、それもこれもどうでもいい。テーブルから飛び降りて目前の馬鹿共に目を遣るが、それで道を開けるような考えに及ぶようなら最初からこのような場所にいないだろう。
ああ、本当に。どいつもこいつも低能に過ぎる。
「退け」
口調など取り繕わず命令をして始めて、自らが邪魔者だと悟った馬鹿が道を作る。左右に割れた人波の先には、思っていたよりもずっと酷い怪我を負っているが呆然とした様子で座り込んでいた。全身から血を流し、半身の至る所にガラス片が刺さり、碌に目も見えていなかった事が判る。怪我の具合から見ると、ハグリッドの初撃だけは、きっと私が気紛れに与えた魔法が防いだのだろう。しかし自称脳筋とはいえ、満身創痍と呼べるその格好でよくあそこまで応戦し切ったものだ。
その隙を付いているのかどうかは知らないが、遠くで伸びているハグリッドに気付けの呪文を掛けようとしている輩に向かって舌打ちすれば、怯えたような仕草をした後にそこから慌てて離れて行った。何を考えているか知らないが、何処の寮の馬鹿だ。
「汚物の分際で、私のに何をしてくれたのかな?」
「……えーぜる」
「昨日も同じ事を言ったけど、私はそんな間抜けな名前じゃないよ。ほら、手をゆっくり開いて。もう武器を離しても大丈夫だから」
床に溜まった血と吐瀉物を消し、ガラス片に気を付けながらを横抱きする。血を失っている所為か体温が低い、怪我をしている箇所だけが熱く不安を煽った。
緊張が極限まで達し、杖とメイスを握り締めたまま筋肉が固まったのだろう。赤く濡れた震える指で手を開く仕草を試みるを静止して1本ずつ指を剥がしていく。目の焦点が合っておらず頭が前後左右に振れ安定していない、三半規管もやられたか、頭を殴られた可能性もある。失血が思ったよりも少ない事だけが救いだ、このまま病院へ担ぎ込めば重要な血管は無事で済む。
緊急性はあるが命に関わる程の重体ではない事を確認し終わってから、今頃間抜けな面を下げてやって来た馬鹿2人を睨み付け、指示に従えと圧力をかける。
「手も足も捻挫してる所悪いけど、応急処置を済ませてメルヴィッドをそっちの病院に連れて行ってくれ。はマグルの病院に連れて行く、外科の処置が必要だ」
「でも……!」
「薬にばかり頼る魔法使いにこの子は治せない」
単体の怪我ならば魔法界の技術で十分だが、頭を強く殴られた可能性がある以上、マグルの病院の方が安心出来る。その程度には、私もマグルの技術を評価していた。そもそも魔法界には造血薬はあるが輸血技術はない、肉体の再生にしても水薬の摂取が必要だ。
この男は、今のが薬を飲める状態だと、本気で思って言っているのだろうか。
「レギュラス、エイゼルの判断に従うべきだ。エイゼル、治療が終わったらすぐそっちに行く。この子の血液型は知ってるね?」
「当たり前じゃないか。脂汗かいて面白くもない意地で息乱すのを隠してる暇があったら一刻も早く治して来なよ」
庇っているのは肩と濡れた腕、と比較すれば怪我の内にも入らない状態に蔑みの目をくれてやると、当然反論も出来ず押し黙った。そのメルヴィッドに、腕の中から赤く幼い手が伸ばされる。
直後、メルヴィッドに怪我をさせたと後悔するように呟くの価値観に愕然とさせられた。
確かには以前から言っていた、私達の為ならば命を差し出すと。けれども、それは、何時もの軽口の延長で本心からの言葉ではない、その筈だったのに。
私にとって、メルヴィッドにとって、ユーリアンにとって冗談だったその言葉は、この男の中でだけは真実だったというのか。単なる協力者と、名前もない宙に浮いた関係の私達だというのに。
白くなる思考を押し留め、まずは病院へ行くべきだと言葉に出し自分自身へ告げた、その最中だった。顔に、腕に、足に、胴に突き刺さっていたガラス片が無遠慮に肉を裂きながら一斉に宙を舞い、腕の中のが激痛から全身を強張らせ絶叫する。
歪な切り口を見せる肉の間からは骨や筋肉や脂肪が覗き、溢れて来た血液ですぐに姿を覆われた。僅かに血で滲んでいただけの袖が生暖かく濡れて鮮やかな赤に染まる。
そこまで来て、やっとの身に何が起こったのかを理解した。
「修復呪文を唱えたのは何処の馬鹿だ!」
清めた筈の床が再び血色に染まり、遠くから涙交じりに謝罪する女の声が聞こえた。棚に戻り輝きを取り戻した酒瓶とグラスの前、杖を手にしたこの店の店主。こいつが、この女が余計な事を。
「エイゼル、その馬鹿を吊るすのは後だ。急がないと」
メルヴィッドに言われなくても判っている。けれど、これは何だ。こんな事が許されていいと思っているのか。
「後で殺す、絶対に殺す」
この際、雑な処理で傷跡が残ろうが関係ない。優先順位の高そうな太い血管同士を呪文で強制的に繋ぎ治す。舌打ちも隠さずに低く呟いた言葉を拾ったのはメルヴィッドとレギュラス、そして足手まといになる事を自覚をして今迄静観していたアークタルスだけだった。私の本心からの呪詛を聞かれ評価が下がろうがこの際どうでもいい、この程度の言葉で評価を覆すような男ならばこちらから願い下げてやる。
「馬鹿者共の相手は私1人で十分だろう。君は3人を、いや、を頼む」
頼むも何もない。は元々アークタルスよりも私に近い人間だ、そう真実を告げる事が出来たら、どれ程楽になるだろう。それでも、全てを捨てた馬鹿には成り切れない。
静観していた間に書いていたのであろう聖マンゴ宛の紹介状を手渡され、右往左往するだけの孫よりは使える男だと格付ける。緊急性の高いこんな時にこそ、純血名家の名前と育んで来た結び付きが力を発揮する事を理解しているのだ。
表情を繕い、アークタルス直筆の紹介状を手に柔らかく頷いて未熟な身体を抱き上げる。輸血と縫合では間に合わないような怪我にさせられたには時間がない、この男は真の意味で死にはしないが、それでもどのような形でもいいから薬を摂取させ治癒させなければ命が危うかった。
「、君は馬鹿だよ。こんな下らない事に命を懸けるなんて」
いっそこのまま攫ってしまった方が今後のの為になるかもしれない、そんな誰の利にもならない事を考えながら、血塗れの身体を抱えて姿をくらませた。