曖昧トルマリン

graytourmaline

コールドビーフ

 口の中に溜まった血を吐き出し、軋む音を立てながら疲労の度合いを知らせる筋肉を御して体を臨戦態勢へ持っていく。
 吹き飛ばされた衝撃で眼鏡が行方知れずとなったのか、視界の輪郭が霞んで見えた。右目の様子が可怪しい気がするが、まあいい、たかが片目程度ならば存分にくれてやろう。それならそれで幾らでもやりようがあるので問題ない。
 相手の体格と合わせて考えると反撃の一手目は杖よりもメイスの方が適していると脳味噌が判断している間にも体は前へと駆け出し、手には長く装飾具として私の左腕にいたそれが握られている。物質の境が消失し色の区別しか出来ない世界でも、儀礼用のメイスは過度な装飾を施されたその美しい姿を煌めかせ、洋梨を逆さにしたような柄頭が獲物を探した。
 矯正道具を失った目は補助程度にしか使えないが、この騒がしい室内では耳も然程役には立たない。しかし今この瞬間だけは、相手に感謝する事となった。
「トム・リドル! 何でお前さんが此処におる!」
 頭の中に糞と糞虫の死骸が詰まった汚らしい肉袋の怒声が私に位置と距離を教え、その方向に向かって動くよう全身の筋肉が働きかける。同時に、何を思ったのか左手が逆手に杖を抜き、肉体が脳に向かって早く唱えろと何かを打診した。急な展開に、それでも伊達に長年脳筋と付き合っていない柔らかい脳は追い付いて、この場で最も適当である魔法、大蛇の守護霊を召喚する。
 普段より一層眩い光を放った守護霊は出現直後から巨大な牙を剥き、宙を蛇行しながら前方へと突進して眼前の黒い小山へ白銀色の蔦のように絡み付いた。
 人間と比較して体が大きく力が強い生き物は、ただそれだけで何よりも厄介な存在になる。更に人間の知能と自我を持ち、半分でも巨人族の血も引く男に対し、生半可な足止めの魔法は通用しなかった。ましてや今は私の視力の低下が著しい、狙いを定める事も困難な状況下で私の意思を汲み取り、怯む事なく物理的足止めが可能な存在を使わない手はない。
 筋肉脳が生んだ私の守護霊ならば、半巨人相手では長さが足りず、全身に巻き付いて絞め殺せない事を理解する知恵がある。首に絡み付いたとしても力の差は明白だ、両手が自由ならば毟り取られる。蛇の姿をした白い光は男の右腕1点に集中し、振り解かれないように、またより深い傷を与えられるように、血管と神経の集中する首筋に鋭い牙を立てていた。
 牙が食い込む痛みによる煩わしい叫び声を聞く限り、排除目的がメルヴィッドから私の守護霊に移行したのは幸いである。視界が限定されているので確認は取れないが心配はしていない、踏んだ場数は少ないが、このタイミングを見逃して態勢を整えず腰を抜かして呆ける程メルヴィッドは間抜けではない。
 暴れる半巨人に向かって赤色の閃光が炸裂するも威力が弱く無傷。私ではない誰かの麻痺呪文が放たれた事を確認するも、怒りで抵抗力が上がっているのか効果が薄く動きは止まらない、元々気絶するしないに関わらず容赦をするつもりが毛頭なかった事もあり、杖を戻しながら予定通り膝を弛めて跳躍、飲食物が散乱するカウンターを蹴り更に上へ飛び、空中で姿勢制御を行いながら両手持ちしたメイスを振り上げ、力の限り振り下ろす。
 手応えはあったが、野太い悲鳴が上がった事を考えると、残念ながらペチュニア・ダーズリーがやったように頭蓋骨を粉砕し、中身を派手にぶち撒ける事が叶わなかったようだ。ただ、黒い塊が蹲って動かなくなったので、ある程度の傷を負わせる事は出来たらしい。メイスが悪い訳ではないが、この武器が金砕棒でなかった事が悔やまれる。全面に鋭い刺を持ったあれならば、僅かに掠っただけでも骨を砕くついでに肉と血管も裂き、与えられるダメージは増加したかもしれないのに。
「息が臭い野蛮人もどきにしては中々御機嫌な挨拶の仕方だが人真似を徹底するなら人間式にしてくれないか!? 出来ないようなら地獄へ還れ、迷ったなら送ってやるからどうぞおいでませ!」
「煩い! 邪魔をするな!」
「耳穴で飼っている蛆虫を掻き出して人間様の親切を受け取れ糞食野郎!」
 後衛特化の火力が高いメルヴィッドが態勢を立て直すまでの囮となるべく声を張り上げながら挑発を繰り返し、出来る限り開けた位置に誘導するが上手く行かない。
 メイスから杖に武器を持ち替え、蹲る半巨人を挟んで私と直線上に位置する家具や室内装飾品を呼び寄せてダメージを図るも強度が足りず、呼び寄せられた物質の方が尽く破壊された。魔法生物の闊歩する岩山や森林で長く独自文化を形成し生き残って来ただけあって、半分だろうと巨人族の血を受け継ぐ骨肉は頑丈に過ぎる。
 但し、所詮人間と同じ炭素生物である、弱点は多い。
 魔法に対しての抵抗力は高いが火炎そのものの耐性は人間と同じ様に皆無、用意が悪い事にガソリンとポリスチレンで作ったナパームもどきは家に置き去りにした四次元バックの中で眠っている。魔法で同じ物質を生成し火を付けようにも燃焼に周囲の酸素を大量消費するこれは私が一緒に死ぬ危険もあった。第一、私も既に酒浸しで、全身から揮発するアルコールに火炎系魔法を使って杖先が着火した瞬間自滅する。死ぬのは構わないが、特攻は最終手段にしたい。この半巨人では割に合わない手段だ。
 矢張り今の私では殺し切れない、応援となるべく魔法使いは見えないだけですぐそこにいるのだ、出来る限り注意を私に向かせながら時間を稼げば突破口が開く。
「誰と間違えているかは知らないが彼等は私の大切な人達だ! 手を出すならば殺す!」
「俺が間違うはずがねえ! そいつはトム・リドルだ!」
「トムでもリドルでもないと言っているのが聞こえないのか! 被害妄想脳に詰まった糞を口から吐き散らすな! 理不尽な糞を垂れるくらいならば理不尽に死んでいろ!」
「そいつは生かしちゃならねえ存在だ!」
「幻覚剤ジャンキーの私生児がどの面下げて!」
「誰が私生児だと!?」
 釣れた。私の語彙が完全に尽きる前に出来た事には感謝するが、視力が低下した状態で半巨人と殴り合うのは辛い。一刻も早く援護が欲しいがその気配は未だ訪れない。
 肉体言語で会話を続けようとするハグリッドを拒絶する為に盾の呪文を展開し、這ったままの体勢で放たれた太い腕の薙ぎ払うような1撃を防御、即座に杖からメイスに切り替えを行い、腕を振り抜けなかった事で姿勢を崩した巨体を打ち上げるように、勢いと体重を加えた両手持ちで下段から攻撃、肋骨に守られていない場所を上手く捉えたのか肉の潰れる感覚が手に伝わった。
 子供の体と半巨人の相性が悪く振り抜くには力が不足している為、腕を引いて利き腕で片手持ちしたメイスの柄頭を高く掲げ、上方向からの縦攻撃を行いながら左手で引き抜いた杖で降下呪文を唱え速度を倍加させる。肥大呪文で質量を増加させる方法も存在したが、この細腕では倍以上の太さと重さになったメイスを扱える保証がなかった。
 肉を潰され、骨を砕かれた事で漏れた大きな呻き声の発せられた方向がようやく判り、大本の指令系統である頭蓋骨を破壊すべく杖を戻し、両手持ちの横薙ぎに移行する。足を開きながら腰を軽く落とし野球の打者のように振りかぶった瞬間、予想していなかった方向から武装解除の呪文が飛来した。奇襲ではあるが威力はない、手放しそうになるメイスを握り締め、力の乗らない1撃を半巨人の頭に与えるも当然大したダメージにはならない。
 遠くの何処かで揉める少年達の声、だってハグリッドが危なかったと目と脳と判断力が腐り落ちた事を抜かす特大の馬鹿の肉を後でじっくり削ぎ落としてやろうと算段を立てながら妨害呪文と盾の呪文を多重展開して、眼球諸々の腐った馬鹿に触発されてハグリッドを守るんだとか抜かす輪をかけた馬鹿共からの追撃をやり過ごすが、この場にいる全員を鏖殺したいくらいに数が多い。
 流れた呪いに当たった別の生徒の仲間が怒りを剥き出しにして叫び、私達以外の場所でも小競り合いが起こり始めた。脳に被害妄想で着色された糞が詰まった半巨人が全てトム・リドルの所為だと寝呆けた事を口走りながら腕を振り下ろし、数だけは存在する魔法の防御に疲弊した盾の呪文をぶち抜いて右拳が私の胸部に叩き込まれる。
 咄嗟に反応し両手を交差させて胴を守るが、受けたのは威力を殺したとはいえ私とは比較にならない前衛物理攻撃特化型である半巨人の拳、大して鍛え上げていない体は壁に叩き付けられ左腕の骨が粉砕された。前半身も後半身も泣きたくなる程痛いが、背骨が軋み息が詰まらせながらも立ち上がる。痛みに音を上げて倒れたままでは嬲り殺しにされるだけだ。
 周囲で見当違いの騒ぎを起こしているだけの邪魔な存在、頭が痛くなるような甲高い声で叫んでいる騒音女や、ドッキリか何かと勘違いしている馬鹿男もこれを殺すおまけで挽肉と血溜まりにしたいが、流石に人の目がありすぎる上に、この体もそれを可能にする元気が尽きかけている。否、元気どころか今の攻撃で三半規管が狂いだしたのか、まともに立つことすら困難になって来た。
 血で滑るメイスを持ち直そうとするも失敗し、重力に任せて落下した柄頭が床板を割って固定され、それを掴み体を支える事で無様に倒れる事を防ぐ。が、思ったよりも無茶をしたらしく、この未熟な肉体の限界が近いのか握力が弱まり膝から崩れ落ちた挙句、胃の中の物を全て吐き戻した。逆流した内容物が口や鼻から噴出する様を見て、悲惨やら汚いやら臭いやら、言われなくても判っている事実を態々声に出す口と頭の軽い呑気で平和呆けしているお子様共を脳内で丁寧に惨殺する。
 私が膝を付いた事を好機と見た半巨人がこちらにやって来るのを確認して相手の右腕を見ると、私が倒れた事でその姿を保てなくなったのか、光り輝く美しい大蛇は既に空気に溶けてなくなっていた。首の傷は、視力が足りず判らないが致命傷にはならなかったのだろう。
 どれもこれも、私の制御力不足だ、もっと鍛錬しておけばよかったと後悔しても遅い。
 半巨人の無傷な左腕が眼前に迫り、上着の襟を捕まれ宙吊りにされる危険を察知、折られながらも決して杖を手放さなかった左手を自画自賛しながらジャケットを分解し、捕まえられた前身頃を切除させる。
 持ち上げる筈だった物質の取っ手が外れてバランスを崩し、腰を床に打ち付ける振動を感じた。立ち上がる事が出来ず座ったまま追い打ちを掛けるべく杖を振ろうとするが、それよりも早く、対象が閃光の連弾に吹き飛ばされた。家具を薙ぎ倒し、食器を割り砕き、飲食物を撒き散らしながら壁に叩き付けられ、跳ね返りながら床に這い蹲った黒い小山は死んだように動かなくなる。
 訳も判らず始まり、唐突に終了した戦闘の中、水を打ったように静まり返った店内で一番早く動き出したのは店の奥側にいた人間、何処かから飛び降りて着地したような音の後、退けの一言で背後の雑多な気配が左右に割れた。
「汚物の分際で、私のに何をしてくれたのかな?」
「……えーぜる」
 ああ、彼が、あれに止めを刺してくれたのか。
 戦闘を終えて鈍化した意識の下、既に下半身が浸かっている血と嘔吐物で出来上がった悪臭を放つ水溜りに倒れ込みそうになった所を、エイゼルの腕が支える。清めの呪文が唱えられ、血も嘔吐物も悪臭も消えた床に2人して座り込んだ。
「昨日も同じ事を言ったけど、私はそんな間抜けな名前じゃないよ。ほら、手をゆっくり開いて。もう武器を離しても大丈夫だから」
 口調は普段通りの物だが、強張って動かない私の両手をメイスと杖から離そうとする仕草がまるで壊れ物を扱うかのようで、おまけに周囲の空気が鉛のように重い。極力気を遣っているエイゼルの努力をそれ以外の人間が無に返していた。
 どうやら今の私は、傍から見ると相当拙い状態らしい。
 血溜まりが出来る程の傷は間違いなく負っているのだが、全身が痛いので何処がどのように怪我しているのかがよく判らなかった。調べてみると右手も血に濡れていたのか、武器を手放すとぬるりとした感触が指先に残る。覚えている事が出来たなら、滑り止めとして両方共に取っ手部分に布か紐を巻かなければならない。戦闘中にすっぽ抜けなくてよかった。
 耳の奥が完全に使い物にならなくなってしまったのか、恒常的な目眩に襲われて立てないでいる私を横抱きしたエイゼルは、珍しくメルヴィッドではなくレギュラス・ブラックの名前を呼んだ。しかし、その次の言葉で血の気が引く。
「手も足も捻挫してる所悪いけど、応急処置を済ませてメルヴィッドをそっちの病院に連れて行ってくれ。はマグルの病院に連れて行く、外科の処置が必要だ」
「でも……!」
「薬にばかり頼る魔法使いにこの子は治せない」
「レギュラス、エイゼルの判断に従うべきだ。エイゼル、治療が終わったらすぐそっちに行く。この子の血液型は知ってるね?」
「当たり前じゃないか。脂汗かいて面白くもない意地で息乱すのを隠してる暇があったら一刻も早く治して来なよ」
 輸血が必要になるレベルでこの肉体から何かを摘出しなければならない事態になっていた事よりも、メルヴィッドに治療が必要な怪我を負わせてしまった事に驚き、原因は私かと先程の行動を振り返る。あの半巨人が自由だった時間はほんの数秒、守護霊を召喚するまでの間、あの時点でメルヴィッドは襲撃されていたのだ。なのに、私は彼からの援護を期待していた。時間さえ稼げば何とかなるだろうと、止めを他人任せにして高を括っていた。
 エイゼルに横抱きされたまま腕を声の方向に伸ばし、血に濡れた指先で触れた服を握り締めると、気付いたメルヴィッドにその手を重ね合わされる。大丈夫だと告げた声が震えていて、手には汗が滲み指先が冷えていた。
「自分の治療に専念しなさい」
「けが、させた、まもれなかった」
「あの男の所為だ。は何も悪くない」
 彼を危険に晒し、怪我をさせた。
 守れなかった。
 体を使う戦闘は私が引き受けるつもりだったのに、幾ら奇襲とはいえ油断をし過ぎた。目の機能がほぼ使えない所為で何処を怪我したかまでは判らないが、今迄の会話から決して軽傷とは言えない怪我である事は判る。
「手を放して、もう行かないと。メルヴィッドの言う通り、君は自分の」
 そこまで拾えたエイゼルの声が突然、誰かの叫び声に遮られた。
 女にしては太く感情が希薄で、男にしては甘く高い。声の主を探そうにも激しい頭痛に襲われてそれどころではなくなる。一瞬で治まった頭痛の直後、左右の頬や耳の肉が裂ける痛みに目を見開くが白く眩しいだけで何も見えなかった。
 叫声が途切れ、視界が急速に暗くなる。声の距離からエイゼルが発したと推測される怒号に女が泣きながら謝罪する声、演技とは思えない怒りの爆発のさせ方に一体何があったのだろうかと訝しみ声を出そうとするが、喉が切れたのか上手く喋る事が出来ず咳き込んだ。
「エイゼル、その馬鹿を吊るすのは後だ。急がないと」
 次の言葉を言い淀んだメルヴィッドにエイゼルは盛大な舌打ちをしてアークタルス・ブラックに後の事をしばらくだけ頼む、色々と負傷し過ぎて気付く事が出来なかったが、どうやらすぐ近くまで来ていたらしい。
「馬鹿者共の相手は私1人で十分だろう。君は3人を、いや、を頼む」
 全身、特に今は顔面右側の痛みから全力で逃避する為に一体私の外見はどうなっているのだろうと考え、今迄の経緯を遡りながら簡単に脳内で纏めるが、多分碌な状態ではない事くらいしか判らなかった。
 ただ、エイゼルが姿現しした先が聖マンゴらしき建物だった事から、泣いて謝っていた女が何かをやらかし、本来は外科の処置が必要であった私の顔の右半分に刺さる何かをかなり乱暴に取り払った故に、珍しくエイゼルが怒りの感情を剥き出しにしたという経緯は血の引いた脳でも何となく理解出来た。
 まあつまり、先程エイゼルの言葉を遮るように叫んだのは、どうやら私であったようだ。