曖昧トルマリン

graytourmaline

鴨のリエット

 三本の箒で元気な子供達を遠目に観察していると思われていたアークタルス・ブラックを真っ先に発見したのは、菫の移り香を撒き散らしながら上機嫌で杖を弄っていた私だった。
 あの方向にあるのは郵便局くらいなのだが、普段と比較するとやや不機嫌そうな表情をしていたので、もしかしたら早速ホラス・スラグホーンに分厚い抗議の手紙でも送ったのだろうか。吠えメールという当事者を辱める為だけに近隣に迷惑を掛ける下品な道具は使わないだろうと予想出来る程度には、彼は紳士的な人間であるので。
 兎も角、気付いたからには彼を放置する訳にもいかない。杖を買って貰えて御機嫌な子供を装い、年齢の事もあり随分ゆったりと歩いているアークタルス・ブラックの方へ駆けて行くと、やっと彼の存在に気付いたらしい他3名の内、誰かが驚いた風に私の名を呼んだ。その声をアークタルス・ブラックが拾い、視界に私の姿を認識したのか途端に穏やかな笑顔になる。持ち駒に好意を寄せられるのは非常に有難いが、ブラック家は本当にこれで大丈夫なのだろうかと何十回目の問いかけを心の内側でだけ行った。
「無事に杖は買えたかな?」
「はい、お陰様で3人共。ご覧下さい、この慎ましさが一切感じられない漢らしい杖」
「これはまた凄い杖を見付けたね。何センチあるのかな?」
「66センチだそうです」
「成程、この杖が合うのなら、オリバンダーで見つからないのも納得出来る。見た目は驚くけれど、不必要に飾り立てられていない素朴で良い杖だ。大切にしなさい」
「はい、勿論です」
 躓いて転ばないようアークタルス・ブラックの手を取り、杖をベルトに挟みながら路地の先で立ち止まっているメルヴィッド達の方へ歩き出すと、私の物とはまた別の移り香が微かに鼻孔を擽った。移り香と言えば聞こえはいいが、妙に獣臭く感じる。
 梟のそれとは違う四足の獣から発せられる臭いから記憶を辿ると、数年前、この世界に来た直後に訪れた店も、私の世界ではこんな家畜の臭いをさせていたはずだと掘り起こしに成功した。
「アークタルス様、郵便局に御用があったか、どなたかとお会いしていたんですか?」
「郵便局には行っていないよ、古い知人と少し話をね。どうしてかな」
「なんだか、お別れする前にはしなかった動物の匂いがするので」
「ああ、しまった。あれの匂いが移ってしまったみたいだ、君は花の良い香りがするね。香水はまだ早いと思っていたが、今度、一緒に選びに行こうか」
 杖を振って獣臭さを消したアークタルス・ブラックは紳士然とした表情でラテン男のような台詞を口にする。否、彼自身は多分、可愛がっている少年に紳士としての香りはこんな物がいいとアドバイスするつもりなのだろうが、如何せん老いて尚、年齢相応の美しさを保持している男性なので口説き文句にも聞こえてしまった。
 彼のような男性ならば今でも異性に不自由しないのは目に見えて判る事だったが、死別した奥方の親族がやらかした事もあり、山程の疑念とトラウマを抱え込んでいる心はきっともう、死ぬまで恋や結婚という愚かな選択をしないだろう。こうして甘い毒を注ぐ私を猫可愛がりするという恋愛や結婚より遥かに愚かな選択をしているので、他の選択肢に入る余地がないと表現した方がより正確なのかもしれないが。
「香水ですか。素敵ですね、楽しみにしています。でも初心者なのでまずは既成品にして下さいね、オリジナルフレグランスはもっと大人になってからで」
「悲しいな、も遂に牽制を覚えるようになってしまったか」
「牽制ではありませんよ。私が成長して大人になってしまっても、こうして一緒に買物をしましょうという約束です」
 握り合わせていた手を一度解き、今度は指を絡めるようにして繋ぎ直すと、拗ねる演技をしていたアークタルス・ブラックの顔に複雑な喜びが広がった。
 素直に喜べない気持ちも判らなくはない、私はとうに捨ててしまったが、彼には老衰と呼ばれる肉体的に自然な死が静かに何処からか、確実に迫っているのだから。
「約束ですよ、アークタルス様」
「……ああ、約束しよう」
 私が理解している事に彼も気付いているのだろうが、それを晒す程私達は空気が読めない訳でも間抜けでもない。傍から見ると滑稽な約束であるが、こういったごっこ遊びに似たやり取りも偶には必要なのである。
 しんみりした雰囲気を纏いつつ、所謂恋人繋ぎのまま3人のいる場所まで戻ると、何を言うでもなくごく自然な動作でエイゼルが反対側の手を繋ぎ、そうする事がマナーだとばかりに指を絡めて来た。当然、レギュラス・ブラックが不愉快そうな表情をするが、祖父の前なので爆発しそうな怒りを抑え込んでいる。極端な方向へ走りがちな彼なので、反動でとんでもない事態にならないよう、今にも雨を降らしそうな雲とその向こうの太陽光に隠された星に願っておいた。色々な要素が相俟って多分叶わない願いだろうが。
 時折擦れ違うホグワーツ生は奇妙な5人組が気になるのか無遠慮に私達を眺めては何事か言い合っているが、全員が全員年若い彼等に反応を示さずにいたお陰で、無事三本の箒に入店する。
 エネルギーのあり余る学生ばかりで混雑する店の中は妙に暑く感じ、エイゼルと手を離して上着の前を開けて風を通した。カウンターから遠い奥のテーブルを選び、窓際の席にアークタルス・ブラックを座らせていると、窓硝子に映ったレギュラス・ブラックが肩を叩いてメルヴィッドと一緒に3人で注文に行かないかと誘って来た。ほとんど面識のない老人と2人きりで待機させるなと黒い瞳が訴えたが、先程の意趣返しなのか若い灰色の瞳が無言で却下している。その横でアークタルス・ブラックは鷹揚に構え、メルヴィッドはというと苦笑する演技に留まった。
 さて、では私はどうするべきか。
「そうですね。今迄ずっと2人と手を繋いでいましたから、今度は一緒に行きましょう」
「寂しいな。、私を置いていくのかい?」
「すぐ帰って来ますから良い子で待っていて下さいね。注文は何にしますか」
「君の出してくれる飲み物以外は喉を通りそうもないよ」
「エイゼルは何時だって私が喜ぶ言葉を下さいますね。では特製超回復ドリンク、10kgの水と4kgの砂糖で作ったカクテルをバケツで一気飲みさせて上げましょう。エイゼルの胃袋ならきっと耐えられると思いますし、騒ぎが好きな学生ばかりのこの場も盛り上がります。何より、私が作るのできっと美味しい筈ですよ?」
「うん、ごめんね。幾ら強靭で容量の大きな消化器系を持っていても回復を超える前に私の血液が耐えられずに死にそうだから遠慮させて貰おうかな。その代わりに、お湯割りの蜂蜜酒をお願いしたいんだけど」
 3食点滴、間食サプリメントをメルヴィッドへ提案した時と全く同じ笑みを浮かべながらエイゼルに勧めてみるが、当然のように拒否をされ真っ当な注文を返される。
 私達の遣り取りに笑みを漏らすアークタルス・ブラックからはポートワインと、また伝統的な紳士の飲み物を所望された。学生向けのこのパブにそんな物が置いてあるのだろうかとも思ったが、彼が注文するからにはきっとあるのだろう。もしも存在しなければ彼の味覚を幾らかは知っているレギュラス・ブラックに選択を丸投げすればいいだけの話だ。
 困った時は何も彼もを他人任せにする事を決定し、上着を羽織ったまま3人で連れ立って行ったカウンターで、この場で最も子供らしい飲み物であるバタービールをメルヴィッドが問答無用でまず注文してくれる。名前からしてハイカロリーな飲み物だが味はそこそこで冒険する必要がないので文句は言うまい。本当はメニューの下部に書いてあるホットレモネードを飲みたい気分だったのだが、レギュラス・ブラックもホグズミードに来たのならこれを飲むべきだと目を輝かせて言って来るので無下に拒む事も出来なかった。
 注文を受けた店主であるマダム・ロスメルタはレギュラス・ブラックと面識があるはずなのだが、あまりの忙しさに気付く事が出来ないのか、それともメルヴィッドの持つ桁外れの美貌に魂まで奪われているのか、特に何か指摘する事もなく、少しだけ頬を上気させて注文された飲み物を作りに行ってしまった。
 よくよく観察してみると、店内の女子生徒の半数程度がメルヴィッドかエイゼルを見つめては吐息を零し、賛美の言葉を口々に呟いては美しい顔立ちに心を奪われている。残りの半数もお喋りに夢中で未だその存在に気付いていないだけなので、周囲の様子が変化した事が判れば見惚れる事は容易に想像が付いた。幾人かの男子生徒は青春真っ只中なのか、パートナーの視線を奪った相手を睨んでいるが、今の所、私の琴線に触れるような容姿を持った子は見当たらない。
、どうしたの?」
「メルヴィッドもエイゼルも、目立つ人なんだなと思って」
「ああ、判るよ。彼、この容姿だからね。なのに恋人がいないなんて驚いたよ」
「魅力的に感じる女性に出会えなくてね。それに、今はがいてくれるから必要だとも思えないんだ。君が母親を欲しがっているのなら、結婚も視野に入れて考えるけど」
 女子生徒の視線避けの為か、メルヴィッドに肩を抱いて寄せられた私に嫉妬の視線が集まる。あちらに残されたエイゼルはというと、真面目な顔をしてアークタルス・ブラックと話し込んでいるので若い女の子は視線を向け辛いようだ。
 欲望のまま行動している癖に頭は多少回るのか、明らかな社会的強者を避け、こんな容姿の子供に殺気混じりの視線を送る短絡的な屑のなんと多い事か。ここで嫉妬を剥き出しにするのは明らかな不正解だ。そんな強い意思を込めて送った視線を保護者達が気付かないはずがない、感情を剥き出しにして向けて無能をアピールしている時点で、良い里親を演じているメルヴィッドや構い倒す事に全力を注いでいるアークタルス・ブラックに表面上だろうと気に入られる日は永遠に来なくなったというのに。
「メルヴィッド自身が愛した人と結婚するならば一切反対しませんが、私の為だと下らない理由で好きでもない女性としたら己の不甲斐なさに泣き崩れますよ。私は、今隣にいる方々と家族であれば、それだけでいいんです」
「判っているよ、君の最小単位が家族だって事は。だから無理して作らなかったし、多分これからも作らないだろうな。ああ、マダム、ありがとう」
 バタービールが2つに、マシュマロの入ったアメリカンスタイルのホットチョコレートとポートワイン、そして蜂蜜酒のお湯割りが各々1つずつ。メルヴィッドも、レギュラス・ブラックも、随分可愛らしい飲み物を注文したらしい。
「メルヴィッドが、ホットチョコレート飲むんだ?」
「そんなに意外な事かな。甘いものは好きだし、それに姿くらましで帰るから酔う訳には行かないよ。かと言って、や君と同じバタービールだと寂しいからね」
「僕は同じ方が嬉しいと思うけど」
「そうかな? じゃあ、私達だけ後で一口ずつ交換しようか」
「あ。はい、勿論お願いします」
「……ホットレモネード頼めばよかった」
 カウンターに両手を付いて項垂れるレギュラス・ブラックに苦笑し、昨日のアイスクリームと比較すると随分平和な光景だと感じながら慰めるように頭を撫でてやる。席でエイゼルやアークタルス・ブラックが待っているので運んで行きたいのは山々なのだが、完全にメルヴィッドの美貌の虜になっているマダム・ロスメルタが意中の男性を引き止めるべく、注文していない軽食類も是非持って行って欲しいとせがんでいるので、人手が必要になる関係上勝手に戻る訳にも行かないのだ。
 頭を撫でられた事で少し元気が出たと言うレギュラス・ブラックを相手しながら、さてそろそろ話が終わるだろうかとメルヴィッドの話術を聞き流していると、ふと、視界の端に影が落ち、脳内に軽度の警告音が鳴り響く。
 不自然にならないよう振る舞いながら、影の方に視線を向けると原因はすぐに判明した。ホグワーツの森番であり半巨人のルビウス・ハグリッドが来店して、その縦に長く横にも広い体で店の照明を遮っているらしい。彼と親しいのだろうか、数人の生徒がバタービールの入ったグラスを打ち鳴らし若者らしい元気な歓迎を行っている。
 全く平和なものだと目を細めて視線を戻すと、マダム・ロスメルタの押しに負けたふりをしているメルヴィッドがやや困った笑顔で軽食の乗った皿を幾つも受け取り、気力で復活したらしいレギュラス・ブラックが取っ手の付いたグラスを両手に持とうとしていた。出遅れた私にはゴブレットに入ったポートワインと、受け皿付きのコーヒーカップに入ったホットチョコレートしか残されていない。
 宜しくねと笑顔で告げる2人に文句を言っても仕方がない、必要もない事に気を取られ出遅れた私が悪いのだ。それにこれ以上エイゼルやアークタルス・ブラックを待たせるのも気が引ける、先行する2人を追うべく諦めてカウンターに手を伸ばそうとしたその直前、この場に不釣り合いな殺気を感じ、次いで聴覚が理性を砕いたような怒声と野生の中型動物のような荒々しく重い足音が的確な意思を持ってこちらに向かってくる音を拾う。
 速度はないが、音源からの距離が近い。振り返り状況を確認出来る時間すら足りず、カウンター奥の棚に置かれた酒類の瓶に映った歪んだ像から情報を取得。怒りの形相をしたルビウス・ハグリッドがこちらに向かって丸太のような太い腕を振り上げていた完全に理解不能な状況を無理矢理頭に叩き込み、再優先事項のラベルを張って柔らかい方の脳に分析をさせる。同時に、筋肉に塗れた脳と直結している運動神経が、緩い思考を経由する柔らかな脳では間に合わないと独自判断、緊急回避の行動を取っていた。
 肩を並べ、驚いた顔をして振り返りかけていた2人の背中を全体重を掛けた私の両腕が前方へ突き飛ばす。予想していなかった突然の衝撃に両腕が塞がったままバランスを崩し前のめりになりながら崩れるメルヴィッドとレギュラス・ブラックの距離を確認、現在進行形で腕を振り下ろしている半巨人の腕が通る間合いを目算して2人は初撃は免れた事を確信。次の衝撃に備え目を瞑り、悪足掻きのように腕を頭の側面に回そうとした。
 私1人ならまだしも、目の前の2人を含めた3人が避難するには時間が足りなかったのだ。ようやく追いついた柔らかい脳も、瞬時に判断した固い脳も同じ結論に達したのか、全く同じ命令を下して攻撃回避よりも防御を優先させる。しかし、それは追い付かなかった。そもそも、この程度の反射神経で追い付く事が出来る程の時間があったのなら、ベルトに挟んだ杖を抜き、盾の無言呪文でも唱えていれば全員無傷で済んだ話である。
 出来ないと、僅か数秒であるがそれでも時間が足りないと、緊急回避を始めた瞬間からその結論に達していたのだ。だからこの覚悟は出来ていたし、何よりも以前から言っていたように、こういった肉体を使用した分野は基本的に私が引き受けるべきなのである。
 予測通り腕の防御も間に合わず、側頭部がカウンター側に吹き飛ばされ全身が宙を横一文字に裂く。体重の軽いこの体はカウンター内部にまで吹き飛ばされ、吊るされたグラスや用意されていたジョッキを薙ぎ倒し、中身のたっぷりと入った棚のガラス瓶に上半身がぶち当たった。大量の酒瓶が割れた事で、この場に起こった異常事態に気付いた生徒達がようやく叫び声を上げ、店内は一気に混沌と化す。そんな意味のない雑音の中、遠くからの悲痛な声に私の名が混じっていたような気がするが、あれはエイゼルだったのだろうか。
 演技だとしたら大した物だと褒めたい所であるが、今となってはそれも判らない。仕方なく見極めを諦め、頭が働いているので未だ動くはずの全身に力を込めて立ち上がる。
 奇跡的に頭は無事だ。内にも外にも出血しているのか何処も彼処も痛みで一杯だが、肉は千切れていない。骨なんて余程重要な部分でなければ数本折れた所で死にはしない。衝撃で全身が痺れているが、たかがそれだけだ。満身創痍と呼ぶには、この体はまだまだ遠い。
 メルヴィッドに手を出したあの男を殺すには、これで十二分だ。