生姜ミルク
瞬きをしてみても視界は変わらず暗いだけで、何故だろうと首を傾げようとした所で頭部にある2つの違和感を拾う。1つは両目を覆うように包帯が巻かれていた事と、1つはその包帯の感触が妙に頭へフィットしている事だった。
寝起きの脳の癖に何があったのか理解してしまう。いずれ判る事ではあるが、出来る事なら知りたくなかった。否、目の手術を行ったようなので、多分それ以外の薬を使ったら回復に支障が出るだろうから処方されなかったのだろうが。
折角、綺麗にスタイリングしていた髪が無残に刈り取られていた。
判っている。判っているから大丈夫だ。
現状を確認する限り目の治療が必要だったようなので、そうなればどうしても髪は邪魔になる。大丈夫だし判っている、けれど、頑張ってあの頑固な癖毛をお手入れした手間と時間が一瞬で崩壊したこの喪失感は拭えない。前向きに、そう、前向きに考えよう。これから季節も変わるから気分転換にベリーショートにしてみよう、ツーブロックにするのは夏になってからでいい。
スキンヘッドから立ち直るのに要した時間がどのくらいだったのか判らないし、判りたくもないが、目の前に現れた懐かしい気配に少しだけ気分が浮上した。
「どれくらい振りかは判りませんが、お久し振りです。ユーリアン」
「久し振りって程じゃないよ、5日間寝通してたけど。頭打ったって聞いたから何かあったら楽しかったのに、本当に爺は変わらないね」
「おや、5日もですか。常備菜はありましたが、あの2人の食事は大丈夫でしたか」
「爺、起きてすぐ知りたい情報が何でそれな訳? 他にもっとあるだろ、色々」
「後は、そうですね。間食の甘味が空になって殴り合いの喧嘩が発展しなかったとか」
「お前何で相変わらず救いようのない馬鹿なの? 治療のついでに脳味噌の除去手術でもされればよかったのに」
きっと物凄く嫌そうな顔をしているであろうユーリアンの声に向かって微笑むと、盛大に溜息を吐かれ、でも変わってないようで安心したと小声で呟かれる。
「その言い分ですと、メルヴィッドやエイゼルに変化でもありましたか」
「ああ、あの馬鹿共ね。まあ、会えば判るよ、隠すだろうから判らないかもしれないけど」
他人の気持ちに疎い私が彼等に隠されて判るはずがないだろうと胸を張ると、なら諦めろとバッサリ切り捨てられた。身も蓋もない気がするが、英断のような気もする。
「っていうか、爺の聞きたい事って本当にそれだけなんだ。その体がどうなったとか、もっと自分の身近な事に興味ないの?」
そんな質問をされる事が既に何かあったと断言しているようなものなので、別に興味も湧かないのだが、正直に答えても面白くない。5日振りに頭を働かせ、もう少し気の利いた言葉はないかと現状と照らし合わせて探り出す。
しかし結局、頭を打とうが何されようが、私の脳味噌が非常に残念だと言う結果は変わらないので、平凡な言葉を返す事にした。
「右目でも潰れましたか」
「うわ、つまんない。眼球が破裂したんだからもっとそれらしく慌ててよ」
「今すぐ目玉が生えて来たらいいのに。義眼って幾らくらいするんでしょうか、隻眼はオッドアイと並んで凄く中二病っぽいから嫌です」
「棒読みで演技するにしても生やすとか言うな気色悪い。あと中二病って何」
「14歳前後に発症する妄想を根源とした生暖か痛い言動病です」
「僕も嫌だよ、主にお前の慌てる内容が」
「では一体どんな内容で慌てれば満足するんですか。大体、目が治らないと聞いたアークタルス・ブラックの反応を想像しただけで慌ただしさはもうお腹一杯で胸焼けします」
「色々大変だった事は否定しない。暇だから経過観察してたけど、特に事件後2、3日は寝ていて正解だったよ」
「あの人、私が関わると人脈にも権力にも金にも糸目を付けなくなって見境なくなりますからねえ。まあ、そうでなくても使い勝手の良い状況になっているはずですから、加害者の誰か死にました?」
「甘いね、ブラック家の当主だった男が死に逃げなんて許すはずないだろ」
軽度の浦島太郎状態の私を相手してくれる事になったユーリアン曰く、10歳の子供を殴り殺そうとした凶悪犯、ルビウス・ハグリッドは僅かばかりの財産が全て慰謝料へ消える事は裁判前から確定、ブラック家による包囲網が張られアズカバンへ入れられる準備も着々と進み、弁護人としてダンブルドアが出張って来た為、あのジョン・スミスも参戦を表明したそうである。裁判も始まっていない1人目の時点で事態は既に泥沼の混沌としていた。出来ればこの件は関わりたくないし、結果以外は聞きたくない。
次に、私の右目が潰れた原因を作った人間である。あの半巨人の所為といえばその通りなのだが、実際はもう少しだけ複雑で、ルビウス・ハグリッドが私を殴った事で店内に設置してあった酒瓶やジョッキの群れに私が突っ込む羽目となり、破片が顔面に突き刺さったあの時点。癒師の見立てでは私の目は無事だったらしい。
ではどこで目が潰れたかというと、大方の予想通り、エイゼルが怒りを剥き出しにする直前に余計な事をしてくれた女、三本の箒の店主、マダム・ロスメルタが原因だったらしい。
彼女としては私を傷付けるつもりは毛頭なく、割れたガラスが危険なので誰かが怪我をする前に元の形に戻してしまおうと杖を振っただけなのだそうだ。
そうして深く考えず、修復呪文を唱えた結果、私に突き刺さっていたガラスの破片群が一直線にそこまで飛んで行ったらしい。つまり、抜き取られないまま頬肉や瞼、そして眼球を裂きながら。成程、余程の事が起こらない限りは悲鳴を上げない私でも、これは流石に喉が破れるレベルで痛がるのは無理もない。
そういえば以前に似たような事があったが、エメリーン・バンスの裁判後のレギュラス・ブラックは木片を抜いてから椅子を修理していた、魔法界ではそれが当たり前なのだ。あの時の事を考えると、今回の件は矢張りマダム・ロスメルタ側のミスである。
彼女の場合は殺意は皆無なのだが、だからといって当然許されない行為であった。寧ろこの場合、右目だけで済んだのは幸運である。エイゼルの立ち位置が悪ければ私も彼も仲良く死んでいたかもしれないし、それ以上の恐怖として、この肉体が死んだ場合、死体に憑けない私は強制排除されレギュラス・ブラックに全てを目撃されてしまい、計画が何も彼も水の泡になっていたかもしれないのだから。
そんな事があり、当然彼女も連行され取り調べの裁判待ち要因となり、店主がいなくなった事で三本の箒は閉店中。正直魔法界の裁判関係は理不尽で面倒臭いからこの件に関しても私への参加要請は勘弁して欲しいと嘆くが、誠意のないユーリアンからの応援しか今の所は私の耳に届かなかった。
因みにお気に入りを傷物にされた事で、やる気に満ちたブラック家先々代当主様に対抗する彼女の弁護を誰がするかで揉めているらしいが、こちらはダンブルドアが挙手する気配はないそうだ。非常に判り易い男である。
その他に控えているのがまた、裁判。確かに裁判を行わければ社会的な責任を負わせる事が出来ないので仕方がないのだが、もういっそ全部ブラック家に丸投げしたい。
今度の相手はというと、私に武装解除の呪文を放った生徒を筆頭としたホグワーツ生達である。確かに理に適った事を一切言わない、被害妄想だけで暴走した加害者に肩入れした事で私の左腕の骨が粉砕され、連鎖式に右目は失明、現場に更なる争いを招いたのは紛れもない事実である。
特に赤い寮出身者の保護者連中が不満を露わにしているようだが、それに怒ったブラック家と理事会に所属するマルフォイ家の緑の寮出身者同士が手を組み、校長が生徒達に悪気はなかったとの糞弁護をした事で黄色い寮出身の理事であるジョン・スミスもスミス家の名を大々的に出し、責任の所在を曖昧にする事は生徒の不安を煽るものだと連名で全面抗争を宣言したらしい。
確かにこの場合は、誰が何をしたかはっきりさせないと、手出ししなかったがその場に居合わせてしまった生徒まで白い目で見られる羽目になるのではないかと邪推してしまう。それに加え、将来彼等を雇う事になる経営側からすると、こいつ以前こんな事しましたと判りやすく書いたラベルは欲しい所である。
因みに私の過剰防衛に関しても文句を言っている輩が居たらしいが、現場の一部始終を見ていたアークタルス・ブラックが反論し、思い込みで人殺しを決行した倍以上の体格を持つ大人から家族と親友を守ろうとしただけの幼い子供に不満がある奴は、出る所にきっちり出て来れば全員纏めて相手にしてやろうと声明を出した途端、公開処刑を恐れて誰も何も言わなくなったらしい。ブラック家の力の恐ろしさを再確認すると同時に、彼を味方に付ける事が出来てよかったと安堵する。
他にも細々とした物が山積しているらしいが、現在の時点で全体的にいえるのは、アークタルス・ブラックとジョン・スミスが別方向ながら手を組んで張り切っている事だろうか。
現当主のレギュラス・ブラックも精力的に動いているらしいのだが、私を助ける事が出来なかった事に責任を感じ、少々躍起になり過ぎているらしい。血みどろになりがら半巨人とタイマンを張る私を見て、自分はなんて駄目な男なんだと仕事にどっぷりと沈みながら毎日のように己の事を責め続けていると言う。殺し合いに近い殴り合いを特等席で観覧させられるというのは、普通は引く事案だと思うのだが、矢張り彼のフィルターは少々変な具合にかかっているようだ。
肝心のメルヴィッドとエイゼルの事に関しては、ユーリアンは口を噤み、気になるのなら今からでも会いに行けばいいと優しい事を言ってくれる。
「暖炉ならこの部屋にあるし、爺の家とブラック家の2つにだけ繋がってるよ」
「直通暖炉って。もしかしなくても、この部屋って特別な個室ですよね」
「アークタルス・ブラックが関わってるからね」
「あの人の溢れ出る愛って、一体何処から湧いて来るものなんでしょうか」
「僕が知る訳ないだろ、お前の駒なんだから責任持って御せよ」
「ユーリアン、あの人要りますか? メルヴィッドとエイゼルは老人好きではないので、そちらに流してもいいですよ」
「気持ちが重いから要らない。それ以前に多分あの男、僕みたいなタイプは警戒するよ」
「それは何となく」
判りますと言おうとして、遠くで誰かの話し声が聞こえ口を噤む。足音や話し声からして2人、1人は人間サイズの男性、1人はハウスエルフのようだ。
「3時の見回りだ」
「見回りという事は、看護師ですか」
「ああそうか、爺寝てたから知らないんだ。聖マンゴの見回りは3時間毎、補助兼護衛としてハウスエルフが付くんだよ。因みに今は真夜中の3時過ぎ」
「夜中に暴漢が出るのは何処の世界の病院でも一緒のようですね」
「マグルはどうしているんだい、ツーマンセル?」
「単独行動らしいですよ、入院した事がないので本当かどうかは知りませんが。聞いた話だと、重い懐中電灯を携帯して、いざという時の武器にしているそうです」
「爺の脳内病院の話をしているんじゃないからね?」
「あ、近付いて来ましたね」
今目覚めた事を知られたら私の家と同時にブラック家にも連絡が行くのだろう、そうなるとメルヴィッドやエイゼルと話す機会は後へ回ってしまう。ここは姑息に狸寝入りをしようとベッドに横になると、演技が見破られないよう体から離れ、より眠っている姿に近い状態にする。ユーリアンの言う通り、目に入った景色は深夜の病室だった。
扉を開けて入って来た男性の看護師とハウスエルフは手順に沿った点検を行い、宙に浮いている私を無視して異常がない事を確認し合う。実は現在体に魂がない状態なのでかなりの異常事態が発生しているのだが、私を認識出来ない彼等に知覚しろというのは酷であった。
「この子で最後。問題ないな。よし、帰るぞ」
「了解であります」
小声で囁き合った2人は扉を締め、薄明るい廊下に出ると普通の声量で話し始める。声の雰囲気は、深夜の病院に相応しくない程快活だ。
「じゃあ暇潰しに何時も通り、帰路がてら、こわーい話をしてやろう」
「今日は何でありますか」
「そうだな。丁度いいから、生まれて来られなかったあの子の弟の話にするか」
「あの子とは、・様でありますか」
「そ。・ことハリー・ポッターの、弟。この病院で死産したリリー・ポッターの、名前のない2人目の息子」
興味深い内容である。
嘘か本当か判らないが、リリー・ポッターが受けた拷問の内容から推測すると、真実の割合が高いだろうか。場を盛り上げる為に都合よく脚色された嘘の可能性もあるが、聞いて損にはならないだろう。
『すみません。帰宅前にちょっと寄り道します』
「僕も行く、爺が寝込んでから面白い事がなかったし」
前の会話を考えると、私がいると面白いのではなく、私が居なくなった事でメルヴィッドやエイゼルが面白くなくなったと言う意味の発言なので、ぬか喜びは出来なかった。
少し残念に思いながら病室のドアをすり抜け2人の後を追うと、当たり前のように私に気付かない男は、ハウスエルフに向かってハリーの弟に関しての事を口にする。
「リリー・ポッターって覚えてるか? 5年前の、あの未解決の集団不審死事件。あの被害者の1人だけど」
「はい。お世話した事もあったであります」
「そっか、なら話は早い。あの人な、人間の男見ると発狂しただろ。磔の呪いかけられた挙句、強姦されたんだよ。例のあの人の部下の、生き残りに。それだけでも酷い話なのに、そこで終わらなかったんだ」
一呼吸置いて、まさかと言いたそうなハウスエルフに対して、男は不気味に見えるよう形作った笑みを、薄暗い廊下の中で浮かべた。
「そう。彼女は妊娠してたんだ、誰とも判らない男の子供を」
男は続ける。10年前、ここに担ぎ込まれた当初、リリー・ポッターの精神はあそこまで酷く疲弊していなかったそうだ。というよりも、ショック状態が強過ぎて何に対しても反応を示さなかったらしい。
それに変化が現れたのが、彼女の腹部に膨らみが確認出来始めた頃。まともに生活出来る精神は失われても、自分の中に入っているそれが一体何であるかを理解する思考は残ってしまっていたという。泣いて、叫んで、果ては自傷行為までして堕胎を望む彼女に対して、病院側は冷淡な行動を取った。
「まあ、つまり。堕胎出来る状態だったのに、正常な判断が出来ないからって妊婦の要望無視して腹の中で育てて産ませたって事だ。胎児に障害はないみたいだし精神病んでるからまともな判断出来てないって」
腹は日に日に大きくなって、破水したのに陣痛は起きなくて、薬を無理矢理飲まされながら子供を生む瞬間が、最も修羅場だったらしい。
「出産中ずっと叫んでたってよ、嫌だって、産みたくないって」
暴れる妊婦を押さえ付けて子供を産ませ、はい元気な男の子ですよと見せに行く鬼畜の所業をした看護師は鬼の形相をしたリリー・ポッターに首を締められそうになり、生まれたばかりの胎児を床に落として殺してしまったという。
産みたくないと叫び続ける女に命懸けで無理矢理産ませ、その後で生まれた子供を殺す。周囲から異常者と呼ばれる私でも中々思い付かないような生臭い拷問であった。これで精神崩壊しなかったらその人間はきっと、人間の形をした別の何かであろう。
普通の人間であったリリー・ポッターの精神は更に異常を来し、遂に回復しないまま正体不明の何者かに殺された。そして犯人は未だ見当も付いていない。最後の事件の犯人である私が言うのも何であるが、なんとも酷い話である。しかし、更にこれには続きがあった。
「お前さんこっちの世界の区分け知ってたっけか、分娩中に死んだ胎児までが、死産扱いされるんだけどさ。産み終わって生きてたのに、すぐに生命反応がなくなったら生まれた後に死にましたって扱いで」
「それではその子も、生まれてから死んだ扱いでありますね」
「本当にお前さん純粋だね。残念だけど、子供は死産扱いされたよ」
「何故でありますか?」
「お前さんが身内で他人事だから俺言っちゃってるけど、普通言える訳ないだろ。抱いてた赤ん坊落とした所為で死にました、なんて。俺だって酔った同僚から話し聞くまで、この病院でそんな事があったなんて一切知らなかったよ」
丁寧に証拠を隠滅したのだろうな、と私の考えと彼の意見が一致し、ハウスエルフが祈りのようなものを捧げる。男が、そんな気休めすら無駄だろうと一蹴した。
「だって裁判の証拠だから押収されたし、その死体」
「押収、死体を押収でありますか」
「そう、押収だよ、押収。亡くなった赤ん坊なんて物なんだよ、あの連中にとっては。マスコミにすら取り上げられない、原告も被告もいない裁判だったから記憶がなあ……何だったかな、目の色がさ、その強姦した男の1人と一致したんだっけな。クラウチとかいう奴」
男の言うクラウチとは間違いなく、父親に服従の呪文をかけられた状態で現在クラウチ家に幽閉中のバーテミウス・クラウチ・ジュニアの事だろう。
以前アークタルス・ブラックに語ったように、私は彼も冤罪と見ている。私の世界に居たリドルは彼について多くを語らなかったので情報が不足しているが、しかし本当にバーテミウス・クラウチ・シニアは裁判官としても父親としても碌でもない男であるようだ。
「生後半年以上経過しないと瞳の色は落ち着かないから判んないのに証拠として採用されたらしくてさ。俺マグル出身だし、親兄弟親戚皆マグルだからさ、普通の魔法使いより向こうの世界の付き合いもあるけど、魔法界って何だかなって思う時があるよ。こっちで働いてる以上、大っぴらに文句言えないけどさ」
裁判が終わりもう要らないと返された証拠でなくなった死体も誰も手を付けたがらない、かといって母親は人災に次ぐ人災で意思の疎通が困難になるまで病状が悪化、強制的に父親にされた男は獄中死と報じられ、墓に入れる引き取り手のないまま結局赤子の死体は研究用の標本として薬漬けにされた挙句、今は倉庫の隅で埃を被っているらしい。
「葬儀に出そうにも父親が犯罪者だからって無縁墓地にもそれとなく断られたらしくてさ。当時はあそこ、闇の魔法使いの被害者で手一杯だったらしいからさ。今入院してる半分血の繋がった兄貴に押し付けようって言った奴もいたけど、背後にヤバい家が付いてるって判った途端手の平返したし。それにしてもあの子、ああ、薬漬けの方の子、結果的に死んだけどさ、あれ、兄貴の体の傷見る限り、里親から相当酷い目に逢わされて来ただろ。無事に生きてたとしても、どうするつもりだったのかねえ」
怖い話だったはずが最後は愚痴っぽくなり、気付けば廊下ももう終わる。ハウスエルフの頭を撫でながら、男は飄々とした声で告げた。
「まあ、そういう事だから、幾ら働くのが好きとはいってもさ、お前さんももう少し怖くない職場選んだ方がいいぜ。ここに勤めてる俺が言うのも何だけど」
「それでも、ここで働くのが好きであります」
「好きって感情だけじゃ辛いのに、お前さん本当に健気だねえ」
同僚がいる部屋に帰り、見回りが終わった事を報告する男の声を背中で聞きながら、私はハリーの体が眠っている病室へと帰る。
「どうする? 盗んで行く?」
『死体は逃げないので後回しにして、今は生きている人達を優先しましょう』
肉体に入り直し枕元に置いてあった緑の杖を手にして、ベッドをカンバスにお家に帰ると子供のようなメッセージを残し、壁を伝うように歩き始める。別に体を置いて行ってもいいのだが、見知らぬ場所にこの使い慣れた体を放置するのは何となく怖い。特に、ダンブルドアが何かしでかさないかと。
「あ、そうだ。今更ですけれどこの部屋って監視、されてませんよね」
「本当に今更だね。安心しなよ、対策してる。お前が間抜けなのは承知してるから」
「ありがとうございます」
一番大切な事を一番最後に思い出す辺り、相変わらず私の脳味噌が残念なままらしい、別に他の誰かの脳味噌が欲しい訳でもないのでこのままでいいが、今迄通り、メルヴィッドやエイゼル、ユーリアンに迷惑をかける事になるだろう。
杖で暖炉に火を灯し、フルーパウダーが入っていると思われる器に手を入れ暖炉に投げ入れた。包帯に遮られた左目が緑色と光を感じ、右目は変わらず暗いまま。冗談でなく眼球を失ってしまったらしいが、まあ仕方がない。目は皮膚や骨のように再生しないのだから。
多分レギュラス・ブラック辺りが再会直後に泣きながら謝り倒すのだろうなと少し先の未来を予想しながら暖炉の中に入ると、すぐ目の前でユーリアンの声が聞こえた。
「お前はさ、馬鹿で間抜けで脳筋の使えない男だよ。頭も悪いし、冗談は最悪だし、狂人思考だし、誰もやらないようなミスも多い」
「そうですね」
反論出来ない事だと頷くと、普段はここで舌打ちの1つも入るのだが、珍しくそんな事はなかった。予想通りでつまらないという文句も来ない。
ただ、真面目な声色で、彼はこう言った。
「でも、嘘が苦手な事だけは、それなりに評価してやってもいい」
数秒、彼が何の事を言っているのか判らなかったが、幸いすぐに記憶を掘り当てる事が出来た。あの日メルヴィッドが言ってくれたように、自己犠牲なんて心底間抜けな行為を平然とやらかす馬鹿は、私1人で十分である。
「ありがとうございます。ユーリアン、貴方も自分の為に生きて、少しでも命が危なくなったらこの爺を盾にして逃げて下さいね」
「当たり前じゃないか。今更過ぎて笑えるよ、」
満足したとも、挑戦的とも受け取れる言葉に和み、柔らかく微笑むと、そろそろフルーパウダーが燃え尽きるからさっさと行けと急かされた。彼が引き止めたというのに、相変わらずな気紛れ屋さんである。
ただ、暖炉の中で家の名を呼ぶ直前、お前の事は信用出来ないがお前の言葉は信用してやると告げたこの子の顔を見れない事だけが、少し残念だなと思った。