甘酒ミルク
現在位置は応接室。前方には玄関があり、短い廊下に出て左に曲がればリビングへ行き着く。しかし、ユーリアンの言葉が正しければ現在時刻は午前3時過ぎ、とてもメルヴィッドやエイゼルが起きているとは思えなかった。
2人がいるとすれば上階に割り振られている個室。そこに最短で行く場合には右手で壁伝いに歩きながら玄関まで行き、曲がり階段を登らなければならない。右手奥がメルヴィッドの部屋、左手奥がエイゼルの部屋だ。
もう1つ、メルヴィッドがいる可能性が高いのは暖炉から左手で壁伝いに歩き、すぐ傍に扉がある調剤室だろうか。若干遠回りになってしまうが、左手からでも玄関前の階段には辿り着ける。念の為暖炉を出て左を歩き、調剤室と思われる扉をノックするが反応はない。どうやら彼は自室らしい。
仕方なく左手を壁に付きながら歩き出すと、廊下に出た所で左側から砂嵐の音が聞こえ、誰か起きているのだろうかとリビングの扉をノックする。程なくして扉が開き、息を飲む音を聞いた。強いアルコール臭のする呼気に混じり、柑橘系のフルーツとスパイスの香りがする、アルコールの匂いは蒸留酒ではなくワイン、多分、グリューワインを飲んだのだろう。
目が覚めたんだと呟かれた声の聞こえる位置から推測するとエイゼルか、メルヴィッドはもう少しだけ、身長が高い。
「?」
「はい、5日前にいい年して無茶をしでかした挙句ベッドに沈んでいた爺ですよ。ユーリアンにはもう会いましたが……エイゼルですね、ちゃんと食べていましたか?」
爺、そしてユーリアンという、私達4人の間でしか通じない単語を上げると目の前の気配が警戒を解く方へ動いた。私に変装した誰かの可能性も考慮して杖を構えていたらしい、酒を嗜んでいても油断しない辺りが頼もしい。
「目が見えないのに、判るんだ」
「判りますよ。3人共、全部、違いますから」
「でも同一人物だ」
「記憶に共有部分のある、年の違う三つ子みたいなものでしょう。同じ遺伝子情報を持っているだけの、違う名前を持った違う人ですよ。どうしたんですか、急にそんな事」
「……本当に、君、起きたんだ」
「そうですけれど。大丈夫ですか、エイゼル。少々酔っているように聞こえるんですが」
「5日も寝たから朝まで起きてるよね。付き合ってよ、寝られないんだ」
前言撤回、話の内容が飛んでいる。嗜む程度を越えて、かなり酔っているようだ。今の彼に頼り過ぎるのは危険だろう。
私の手を引いたエイゼルはやや乱暴にソファに投げ、横座りになったのを修正する前に、膝の上に何かを投げて寄越した。触れて確かめてみると何種類もの布で出来た人型の塊である事が判明した、片側から派手に綿が飛び出している。多分破壊されているのは上半身。無事な左足に刺繍はない。
「ピーター君ですか。これ、どうかしましたか」
「判るのに判らないんだ?」
「はあ、申し訳ありませんが、全く」
省略が過ぎて脳内通訳を必要とする会話になってきたが、多分腕の中の存在がピーター君だと判るのに、それの意味する所は判らないのか、と尋ねたのだろう。きっと。
気に入らない事があって八つ当たりでもしたのだろうかと考えるが、やり方が中途半端過ぎてエイゼルらしくない。いきなり山盛りの灰を差し出し、手を突っ込ませてコレ何だと可愛らしく問いかける程度はやりそうな彼なのに。
ここまで来たら修復は不可能だと遂に臨終を迎えたピーター君の残骸を撫でていると、向かい側から殺気が飛んでくる。私の返した答えが悪かったか、気を失う前に何かこの子の神経を逆撫でするような事をやらかしてしまったのだろうか。
冗談でなく私が理解出来ていない事が判ったのか、エイゼルは苛立ちを表現するように盛大に舌打ちをしてテーブルの脚を蹴る。上に乗っていた陶製の重い物質、恐らく中身の入ったままのマグカップが倒れ、ワインが何処かに流れる音が聞こえた。
体にエネルギーを溜め込んだ年頃の男の子の怒り方である。誰にも縛られたがらない自由人で、3人の中では最も飄々としている彼がここまで苛立っている原因は一体何だろう。そういえば、ユーリアンがエイゼルとメルヴィッドは変わったとか何とか言っていたが、もしかしてこれの事だろうか。
変わったと言うより、どうしようもなく苛立っているだけのようだが。彼だって腹の立つ事くらいはあるだろう、爺の私にだって触れてはいけない話題があるのだから。
やがて彼の中で考えが纏まったのか、口が開かれる。内包している殺気が膨らんだ。
「なんで信じたんだ」
この子が、何を言っているのか未だに全く判らないのだが、それは起きたばかりで回転率がゆっくりとしか上昇しない私の脳が悪いのだろうか。悪いのだったら謝罪しておこう。
「ええと、未だ理解出来ないようです、申し訳ありません。馬鹿な爺の頭でも理解出来るように言っていただけると大変ありがたいです」
「……言いたくない」
「弱りましたねえ」
エイゼルが何を伝えたいのか皆目見当が付かないのだが、本人は頑なに口を閉ざし次の台詞を拒んだ。
その代わりにアクションは起こしてくれたのか、ふらついた足取りでキッチンの方まで一度消えると、再び戻って来ると背中合わせに座り込んだ。トマトジュースのような匂いがするので、ウスターソース入りの酔い覚ましでも飲んでいるのだろう。男らしく、ジョッキグラスで、一気に。
顔が顔なのでスマートに格好を付けて飲んでいる仕草は安易に想像が付くのだが、ジョッキで一気。現在背中の彼がどんな風になってるのか見れないのがちょっと惜しかった。まあきっと普通に格好良いのだろうが。
全く浪漫を感じないシチュエーションで仰け反った時に触れた布越の体温は平熱よりも高く、3月の真夜中過ぎには丁度いい。猫背になった固くて広い男の子の背中に凭れ掛かり、体温を分けて貰いながら何故エイゼルがピーター君を寄越したのか考えてみる。文句は今の所言われていないので、凭れた事に関しては大目に見てくれているらしい。尤も、酔って判断力が鈍っている可能性も高い。
さて、酩酊しているエイゼルの愉快な動きが停止したので思考を戻そう。
腕の中にいるピーター君の残骸は下半身のみ。残留している綿が引いている方向から察するに、より正確にいえば右腰部から左腋窩部にかけてやや斜めに上半身が消失しているが、それ以外は特に変化した様子は見られない。切り口は鈍らな刃物で力任せに引き裂くようにして切ったか或いは、こんな言い方は適当ではないかもしれないが、右下から左上にかけて破裂させたかのように不揃いだった。
匂いや手触りに変化はなく、繋ぎ合わされた端切れと綿からは柔軟剤の香りだけがする。内部に何か入れたのかと軽く探ってみるが綿しかないようだ。上半身が行方不明な事を除けば、それ以外は至って正常のヴォーパルバニーである。
探り方を変えながら3度4度と調べ直して、そこでやっと、見付けようとしていたのが内部違いだと気付く。受け取った直後に判っていた事をすっかり忘れているとは、全く私の頭はどうしようもない。
この子が私に与えてくれた、ありったけの善意だというのに。
「守ってくれたんですね、エイゼルが」
「……なんで信じた。なんで、あんな下らない戯言を信じたんだ! 君なんか殺されてしまえばよかったのに! 今からでも遅くないから大至急死ね!」
「エイゼル、痛いです。ちょっとではなく大分痛いですからね」
「煩い! 痛がってるなら笑うな!」
態々振り向いて空になったジョッキを背中に打ち付けて来るエイゼルに抗議の声を上げるが、元々嘘が苦手な為、思い切り顔に出ていたらしい。
姿は見えないが毛を逆立てて威嚇する子猫のようだと思っていると、その考えも表情に出ていたのか人の話を真面目に聞けと怒られた。酔っ払いの照れ隠しは理不尽で暴力的だが、よく考えてみると彼等の照れ隠しは酔っていない状態でも理不尽で暴力的なので通常運転なのだろう。
「なんで、中を見なかったんだ」
「解析したら効力がなくなると言ったのは貴方じゃないですか。折角いただいたプレゼントを自分の手で壊すなんて事はしませんよ」
「あんな言葉を真に受けて、馬鹿みたいだ」
「仕方ないじゃありませんか。嬉しかったんです、嘘偽りなく」
だってこれは、エイゼルから貰った誕生日プレゼントだったのだ。
年が明けて、配送会社の怠慢で寝不足気味のメルヴィッドが振り回され、更にリチャードの事で警察までが家に来たあの日に、酷くご機嫌な彼がくれた魔法。
あの時はてっきり、私の悪口を言い出したり説教を始めたりするだけの、自由人と名乗る彼らしい冗句の詰まった魔法だと思っていたのだが、思っていたよりもずっと、彼は私の身を案じてくれていたらしい。
「ありがとうございます。貴方の魔法がなければ、私は初撃で死んでいました」
「死ねばよかったのに」
「ふふ、天邪鬼さんですねえ」
あの半巨人の初撃を防御なしで受けても、頭は奇跡的に無事だと当時の私は思い込んだ。けれど、実は全く無事ではなかったし、奇跡なんてものも起こっていなかったのである。当たり前だ、普通に考えれば生まれて10年しか経過していない子供の柔らかい肉と骨が、大の大人を遥かに凌ぐ生き物から繰り出された圧倒的な物理攻撃に耐えられる訳がない。
本来ならば、私がこうなっていたのだ。
血飛沫と肉片を撒き散らしながら上半身は衝撃で千切れ、湯気を上る内臓は内容物を含んだまま無残に破裂し、無傷の下半身のみが今頃棺桶に詰められていた事だろう。
その初撃の全てを受けてくれたのがピーター君、もっと詳しくいえば、ピーター君の内部にエイゼルが設定した、この身代わり魔法だった。
どのような攻撃でも防ぐ都合のいい魔法、ではないだろう。解析すれば消失してしまう条件があったように、きっと他にも様々な条件を揃えないと使用出来ないものだったはずだ。そしてこの怪我の具合から察するに、使用出来たとしても1度きりの、意図せず打っていた博打にも似た魔法なのだろう。
しかし、エイゼルの用意したその賭けのお陰で連鎖的に全員の命が助かる事になった。教科書通りに私が前衛で盾と囮を兼任し、その間に後衛の誰かが火力の高い魔法を使う。盾が脆かった所為でメルヴィッドに怪我をさせてしまったが、それでも皆、生きている。
たとえ、彼にこう言われようとも。
「誰かの盾にする為に、君に贈ったんじゃない」
「ええ」
「あんな奴等の為に身を挺して、それで君は大怪我をして」
「エイゼル」
肩に伸ばされた手が力を込めて握られ、皮膚に爪が食い込んだ。体を捩りながらその手に触れて、腕を辿り顔の輪郭をなぞる。
うっすらと生えた髭、張りの衰えた肌、痛み始めている髪、心なしか細く、薄くなっている全体像。睡眠不足なのは既に告白されていたが、皮膚同士を少し接触させただけで栄養も不足している事が読み取れた。
何故、なんて訊くのは野暮だろう。
「ごめんなさい、私の為に使う事が出来なくて。心配をさせてしまって」
今頃そんな事に気付くこんなどうしようもない爺を、本当に、心から心配してくれていたのだろう。肩を掴む力が緩み、触れていた目尻の皮膚が引き攣り頬の筋肉が歪んだ。この子はきっと今、泣きそうな顔をしている。
ピーター君を抱えながら向かい合わせになるよう座り直し、輪郭をなぞって少しベタつく髪をゆっくり梳くと反射的に体を強張らせたが、数度繰り返す内に徐々にそれも解れて行った。アルコールがいい具合に回って来たのか、緊張の糸が切れかけている所為で睡魔が襲って来たのか、ふらりふらりと左右に振れる頭を安定させる為、空いていた片腕をそろりと背中に回し細くて熱い体をこちらに引き寄せる。
肩口でエイゼルの頭を支えて、魔法で出した毛布を掛けてから後頭部を撫で、寝かし付けるような一定のリズムで広い背中を指先で叩いた。飲んだくれて火照った体には熱かったのか文句を言われたが、そうですねとだけ返す。今は3月上旬だ、酔いに任せてその場で眠ってしまえば風邪を引いてしまう。
きっと明日、否、もう今日か、目を覚ませば二日酔いにもなっているだろうから、肉うどんでも作ってあげようか。肉と卵はある、ネギ代わりのチャイブは魔法で温度管理をしているプランターで今日も元気に育っている、中力粉もストックはある。たかが右目が見えなくなっただけだ、料理は出来るし、たとえ他に後遺症があり出来なくなっていたとしても、最終手段としてこの体から抜け出して魔法を使えばいい。
胃腸が弱っているだろうから麺は少し柔らかめに、味も薄味がいいだろうか。あやす仕草を止めないままいつも通りの事を考えていると、顔を上げるのが億劫なのか肩口に頭を預けたままのエイゼルが私を呼ぶ。触れる呼気が少し擽ったかった。
「」
「はい」
「こんな体になるくらいなら、信じて欲しくなかった」
「仕方がありませんよ。信頼は一方的なんですから」
信じろと押し付ける事が出来ないように、信じるなと強要する事も出来ない。
他人からの干渉を端から全て拒絶する酷くエゴイスティックな感情、それが信用だと意味を含ませて告げると、判っているけれど嫌だと頬を膨らまされた。
「私の感情を掻き乱すなんか、死んでしまえばよかったのに」
「ごめんなさい。本当に、しょうもない爺なんですよ、私は」
「知ってるよ」
全部知っている、そう言いながら私を抱き締め返した腕が熱いのに少し震えていた事は、この子の為に気付かないふりをした。