曖昧トルマリン

graytourmaline

小豆ミルク

 腕の中で震えていたエイゼルが微動だにしなくなったのはそれからすぐの事だ。睡眠不足なのにアルコールを摂取し、その上ずっと目を覚まさなかった私の意識が戻った安堵や内心を吐露して気が緩んだからか、気を失うように寝落ちしてしまった。
 泥のように眠り始めた体に負担がかからないようソファの端に寄り、抱き締めていた形から膝枕の体勢に変えて、髪を撫でながらテレビのスピーカーから聞こえる砂嵐の音に耳を傾ける。私が来た時代では既に取り除かれてしまったこの波音のような鈍いノイズ音は母親の胎内のそれとよく似ているらしいが、果たして成人したこの子にも効果はあるのだろうか。
 何とはなしに子守唄を口ずさみながら膝の上の大きな子供を手の平で愛でていると、頭上で扉が開閉する音が聞こえた。エイゼルは今この場におり、ユーリアンは扉を使用する必要がない、消去法で考えるとメルヴィッドしかいないのだが、音の発生元が主寝室、要は私の部屋なのが謎である。
 大きなベッドで快眠したかったのだろうか、しかしそれならメルヴィッドの性格からしてもっと早く、それこそ引っ越し当日に交換しろと言ったに違いない。眠りこけている間に必ず提出しなければならなかった書類もないはずだ、第一その手の書類はキッチン横の小さな書斎に詰め込まれている事を彼は知っている。そして私が細々と集め、取り置いている私物に用があるとも到底思えない。今迄水音がしなかったので主寝室から直通するバスルームを使っていた訳でもなければ、煩わしい人間同士の喧騒を傍観しているギモーヴさんを構って気を紛らわせていた訳でも、勿論ないだろう。
 ユーリアンが言うにはメルヴィッドにも何かしらの変化があったようだが、これがそれなのだろうか。となると、私の貧困な想像力では既に対応し切れない。今膝上で眠っているエイゼルだって、どうなっていたのか全く予想出来なかったのだ。
 この体を抜けて会いに行ってもいいが、階段を下りる音がするのできっとこちらに来るのだろう。そうでなかったら、またその時考えよう。別段急ぐような事でもない。
 気配の薄いエイゼルに生気を与えながら呑気に構えていると、キッチンに続いている方の扉のノブがゆっくりと回転する小さな音が聞こえた。あまりに慎重過ぎるので銃を構えながら突入準備をする軍人の姿が脳裏を過ったが、警戒しているのだろうか。そもそもこの家には侵入者対策として魔法を駆使した様々なセンサーが張り巡らされているのだからそう怖がる必要もない筈である。尤も、自動通知設定を解除している場合はその限りではないが。
 時間潰しにそんな事を考えながら2曲、3曲と子守唄を口ずさみ、4曲目辺りで流石に可怪しいと気付く。扉を薄く開けたまま、メルヴィッドが次のアクションを起こさない。
 気配はある、視線も感じるのでそこにいるのは確かなのだが、それ以上は何もしない。まさかメルヴィッド以外の誰かがこの家にと一瞬考えるが、そうなるとこんな気配をだだ漏らしで私を凝視している理由が判らない。否、メルヴィッドでも私を凝視する理由は皆目見当がつかないのだが。
 5曲目を終えた所ではたと手を止め、包帯に覆われ見えない目を扉の方へ顔ごと向ける。気付いているから来て欲しいと無言で告げてみても、矢張り何のアクションもない。
 少し、心配になった。
 この部屋は温かく、私はソファに座ったままだが、扉の向こうのキッチンはきっと底冷えしていて、しかも彼はそんな場所で立ち竦んでいる。
 あれからまだ5日である、きっと怪我だって完治には程遠い。何よりも、エイゼルがこうなのだから、メルヴィッドもきっと碌に食事を摂っていないはずだ。そう考えたら急に、今迄彼を無視していた事実に胸が苦しくなる。
 エイゼルにそうしているように、せめて応急処置として生気を分け与えたい。
「メルヴィッド」
 宙に手を伸ばし名前を呼ぶと、扉の向こうで気配がゆっくりと動く。蝶番が軋み、思っていたよりもずっと薄い、エイゼルよりも更に薄い気配が足音を立てて近付いて来た。視界が塞がれていても彼の状態が思っていたよりもずっと酷いものだとすぐに理解出来てしまい、メルヴィッドが手を取った瞬間からそれまでエイゼルに流していた生気を彼に注ぎ込む。
 死と生の狭間の、ぎりぎり生の側に立つ存在。分霊箱ホークラックスである彼等がどういったものかを改めて確認させられ、血の管に冷たい液体が流れる。
 彼等に老いはなく、本体を破壊されなければ死ぬ事もない。けれど、肉体を保つ為の供給が断たれれば、霧のように消えてしまう。
 もしも、全ての供給を断たれて彼等の姿が消えてしまったら、次に生気を注ぎ込んで復活した彼等は、同じ記憶を引き継いでくれているのだろうか。今迄築いて来た記憶をゼロにリセットされ、君は誰だと問われたら、私はきっと、今度こそ正気を保っていられない。

 薄かった気配が人並みに戻り、メルヴィッドが手を握ったまま私の名前を呼んだ。離す気配がない事に、どうしようもなく安堵する。
 この子も心配して、怒っているのだろうか。否、けれど彼やエイゼルには言った。貴方達の為ならば死ぬ事が出来ると、貴方達の利益になるのならば命の一つくらい差し出す心構えは出来ていると。ユーリアンは当然だと笑っていたけれど、彼等は笑いもしなければ無論だとも言ってくれない。
 尤も、私の信用度は限りなくゼロか、ゼロにしたいと思われているのだから、この言葉が真に受けて貰えなくても仕方がないと言えばそれまでだが。
「……
「はい」
 私が思考出来る程度には長い沈黙の後、ゆるりと呼ばれた2度目の名前はどこか重く濁っていて、繋いだままの指先からは緊張が伝わった。
 私は馬鹿で愚鈍でどうしようもなく身内に甘い爺なのだから何を言っても大抵は笑顔で流せると言うのに、何をそう言い淀む事があるのだろうか。理由は判らないが、幾ら頭脳が優秀でも年若い子は若いなりに色々と思う所があるのだろう。
 長い長い沈黙の中、砂嵐の音に混じり時折口を開きかける音や、乾いた唇を舐める音ばかりがするので、大丈夫だとの意味を込めて指先を絡めるように握り直すと、何故か少しだけ怯えられた。あの長く美しい指先が震えている。
、お前は」
「はい」
「お前が守りたかったのは本当に私なのか?」
 言い終えた瞬間、弾くように手を振り解かれそうになり慌てて握り締めた。囁くような声でするりと放たれた問いに動揺したのは私ではなく、告げた本人で。
「あ……ち、違う。こんな事を言いたかった訳じゃない、私は、私が言いたかったのは」
 視覚が幾ら使い物にならなくても容易く想像出来る、彼は今、目に見えて混乱していた。
 全く、可愛らしい限りではないか。初めて誕生日プレゼントをあげた日の事を思い出す。元来、彼の頭脳はこの手の状況で能力を発揮出来ないのだが、未だに本人はそれを理解していないか、理解していても制御が出来ないでいるらしい。
「メルヴィッド」
「さっきまでフスイの札を探していたんだ、あれはあの夫婦、ダーズリー家の女の左目を治癒した。治った事を私も確認したんだ、だから」
「メルヴィッド。どうか今は、私の言葉を聞いて下さい」
 私の部屋から物音がした理由が判明したが、それよりも優先しなければならない事が今、目の前で起こっている。
 誤魔化されてはいけないし、逃してもいけない、大切な事象が。
「私が守ったのは確かに貴方、メルヴィッド・ルード・ラトロム=ガードナーです。エイゼルでも、ユーリアンでも、リドルでもなく、メルヴィッド、貴方です」
 メルヴィッドはメルヴィッドであり、他の誰でもないと、当たり前の事を子供に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を区切りながら話し、先程よりも一層冷たくなってしまった手を離すものかと握り締めた。
「気付いていたんですね」
「……ああ」
「ごめんなさい、隠していて」
「何故」
「半世紀以上前の事とはいえ、男同士で、養父と肉体関係にあったんですよ。性に潔癖な昔の貴方では、受け止め切れないと思ったんです」
「代理では、ないんだな」
「まさか、ある訳ないでしょう。この4年、演技の苦手な私が貴方に対して、1度でも秋波を送るような素振りを見せましたか」
「……ない」
 逃げる気配がなくなったので手の力を緩めると逆に握り返される。全く、なんていじらしいのだろうか、頬が緩んで仕方がない。
「見捨てた癖に何をと仰るかもしれませんが、私が、自らの魂を捧げ、人生を狂わせる程に恋慕した人は、私の世界のリドル以外に存在しないんです。今迄も、これからも、この先何時迄もずっと、私が私で失くなる迄、永遠に」
 私の養父であり恋人でもあった人、リドルは死んだ。
 魂を引き裂きながら予言と運命に呑まれて、それでも己の知りうる限りに抗いながら流されて、最期の最期まで戦い続けて、ダンブルドアの遺志に踊らされ操り人形になった人間達に殺され、墓すら建てる事を許されず逝ったのだ。
 もう虚の中にしか感情を注ぐ事の出来ない、私が唯一恋をしたあの世界のあの人と、記憶も肉体も存在するこの世界のこの子が一緒などありえない。この子にも注ぎたい愛情は抑え切れないくらいにあるが、そこに恋は一雫だって存在しない。私の思考は御し切れない愛に狂ってはいるが、この先二度と恋で盲たりはしない。
 そもそも、である。器が似ているという理由だけで彼の代理として見ているのならば1人で十分で、復活させた後は箱庭の中で蝶よ花よと甘やかし、必要ならば洗脳や監禁すら厭わず、ダンブルドアやヴォルデモートには決して近付かせないようにしただろう。
 取引しよう、協力者になろう、共に利用し合いあいつらを殺してやろう、そんな物騒な誘いはかけない。
 正直にそう言ってしまおうか。けれど、それで手を振り払われたら、私が立ち直れない。弁明の機会すら二度と与えられないだろう。唯でさえ、私の言葉は他者へ伝わり難いのに。
 どうか、意識の塊である言葉が出来るだけその意味を保持したまま伝わるようと願いながら、静かに口を開く。
「メルヴィッド、エイゼル、ユーリアン。他に存在する、分霊箱ホークラックス。そしてヴォルデモートと、私の世界のリドル。貴方達は、年の離れた多胎児みたいなものですよ。ある程度共通の記憶を持ち、同じ顔をして、同じ遺伝子を持つだけの、別人です」
 言い終えた後、先程同じ様な言葉をエイゼルにも言った事を思い出した。きっと、膝の上で眠っているこの子も気付いたのだろうと考え至る。酔っ払いの特性故に話の前後は繋がらなかったが、そうでなければあんな質問はしない。
 エイゼルはこの事実から生まれる感情の処理を一時的に取り止めていたが、メルヴィッドは深く抱え込み考え過ぎてしまったようだ。しかも、当初私が思っていた方向とは違う場所に向かって。
 もっと、ちゃんと言っておけば、この子は憔悴する程思い悩まなかっただろう。最初にこの子を選んだのも、手を先に差し出したのも、私だというのに、そこまで考えが至らないくらいに切羽詰まったのだ。
 私の中で貴方は貴方以外に成り得ないと言葉にさえ出していれば、恋人と同じ姿だから助けたなんて、そんな馬鹿げた妄想を抱かなかっただろう。
 全てにおいて、私の思慮と言葉と行動が不足していたのだ。
「メルヴィッド」
 膝の上のエイゼルを潰さないよう身を捩りながらメルヴィッドを手繰り寄せ、隣に座らせた後で頭部を小さな胸の中に抱き込む。薄い病院着越しに胸元が濡れたのは、気付かないふりをしてあげた。
「ごめんなさい、伝え切れていなくて」
 耳元でそう囁くと、少し強く手を握られる。言葉も視線も知覚出来ないが、馬鹿だと罵られたような気がした。
 勿論それは当然なのだが、同意よりも先にどうしようもなくなる程に愛おしい態度に笑みを堪え切れず、口端を吊り上げたまま額に唇を落とす。
「貴方を愛しています。誰よりも大切な、私の朋友」
 きっと驚いて見上げているであろうメルヴィッドは、こんな言葉も情も必要ないとすぐに打ち棄ててしまうだろう。
 それでも私は1人の友として、彼への愛を告白せずにはいられなかった。