曖昧トルマリン

graytourmaline

■ 時間軸:レギュラスとエイゼルのファーストコンタクト

■ 54話『わかさぎの天麩羅』の裏話

■ 生前と同じ過ちを犯すレギュラスと平然と煽るエイゼルの話

■ レギュラス視点

虚像崇拝

 ソファの上で抱き締めていた柔らかく温かな体が、何かに気付いたような小動物のような仕草で肩を撥ねさせた後、言葉もないまま腕の中から抜け出す。普段ならば彼の保護者が帰宅したのだろうと考えられるような気にも留めない些細な事だというのに、今日はその喪失感に奇妙な胸騒ぎを覚えた。
 先程、マグルの警察から齎されたあの電話の所為だろうか。それとも、メルヴィッドがダンブルドアに狙われているかもしれないと恐慌を起こした彼の姿に今頃当てられたのか。理由の掴めない直感に従うべきか否か、一瞬逡巡した後にリビングの出口へ向かう。
 背筋から這い上がって来る悪寒を押し殺し、目を輝かせながら家族と来客を迎えに行こうとするの背を何かあったら大変だからと理由を付けて追うと、すぐに隣に並んだ緑の視線が尊敬の色を帯びてこちらを見上げた。多くの人間に傷付けられて来たにも関わらず誠実さや純真さを失わない澄んだ瞳に、思わず漏らしそうになった吐息を抑え込む。
 この子は、美しい。
 物心付く頃には既に家畜や奴隷同然に扱われ、歪んだ価値観を押し付けられ、汚いものに塗れた光景ばかりを見せられて、あらゆるものに絶望して、自暴自棄のまま道を踏み外してもおかしくない環境で育ったにも関わらず、この子は何処までも素直で美しい。
 家を裏切ったあの碌でもない兄が後見人で、その親友の男が実の父親だという事実も、という個の前では意味を成さない。賞賛すべきものを手放しで賞賛し、尊敬すべきものを心から尊敬し、愛すべきものをひたむきに愛する、真っ当な環境で育った者ですら難しい行為を当然の事として行うの、傷を負っても無垢であり続けるその魂を僕は愛している。
 何時ものように肩を抱き寄せてしまおうかと腕を伸ばそうとするが、未だ収まらない胸のざわめきがそれを留めた。この悪寒は、一体何だ。
「ただいま。良い子にしてた?」
「していました。お帰りなさい、荷物持ちます」
「いや、私より彼のトランクを頼めるかな」
 内に存在する靄のようなものの正体も判らないまま、開いた玄関から笑顔のメルヴィッドが現れる。彼が帰宅し、が満面の笑みで出迎えるのが当たり前だという日常の光景に微笑もうとして、失敗した。
 扉の向こう、メルヴィッドの背後に、彼と同じ容姿をした男が憂いを含んだ笑みを浮かべて佇んでいる。その光景に、先程から主張を繰り返していた悪寒が全身を駆け回った。
 一体、この男は何だ。メルヴィッドの双子の兄弟と呼ぶには少し歳が離れているが、あの手紙に書かれたまま兄弟として受け取るにはあまりにも似通い過ぎている。何故メルヴィッドもも平然としているのか理解出来ない、もしかして、彼がこう見えているのは僕だけなのかと不安になる。しかし、この男が不審な行動を取った姿は未だ見ていない、けれど、それではどう説明すればいい。
 初めてメルヴィッドと出会った際に脳裏に響いた警鐘が再びけたたましい音を上げ、目前の対象と距離を取れと叫ぶ。彼は、僕にとって良くないものだと。
 あまりに非現実的な光景に脳と表情が停止しかけたが、それを察したメルヴィッドがの髪を軽く撫でながら声をかけてくる。あの男とは違う、宝石のような赤い瞳と穏やかな声に恐怖に染まりかけた思考が僅かに落ち着く。
「レギュラス、と一緒にいてくれてありがとう、留守の間に何か変わった事はあった?」
「ここでは何だから、後で話すよ」
 冷や汗とも脂汗ともつかないものを背に浮かべながら、遠回しに不愉快な事があったが緊急の対策を立てなければならない事態ではないと告げると、それもそうだねと頷かれる。そうして僕等が会話している間に隣にいた筈の体温が先程と同じようにするりと離れ、体の中を這い回っていた悪寒が更に強まった。
 その男に近付くべきではないと口に出しそうになるのを堪え、談笑する2人の会話に耳を傾ける。その内容に思わず顔を顰めそうになった。何とか取り繕って驚いた表情を作る事が出来た自分を褒めてやりたい。
 記憶喪失。なんて都合の良い単語だろう。
 メルヴィッドのそれならば、まだ理解は出来る。初めて出会ったすぐ後、彼の言葉に嘘や偽りがないかクリーチャーに身辺調査をさせたが、結果は白寄りのグレーだった。彼はコネクションもない状態で何年もかけて、魔法界やマグルのメディア、医療施設や公的な書類から自分の正体を探ろうと行動していた。彼の自分探しが突如途絶えたのは半年程前の7月の事だったが、それはと出会った月でもあったから、止めた原因は判り切っている。
 けれどこの男、エイゼル・アルスタリー・ニッシュはどうだろうか。彼が本当に記憶喪失なのかどうか、それは誰にも判らない。開心術さえかけてしまえば真偽は簡単に明らかになるが、多分メルヴィッドにもにも賛同はされないだろう。
 他の有象無象から何を言われようとどうでもいいと思えるけれど、彼等とクリーチャー、そしてお祖父様から冷たい目で見られるのは耐えられない。
「レギュラスとエイゼルは私が案内するよ」
 思考の海を漂っている間に割り振りが決められたらしく、メルヴィッドの言葉にが笑顔で頷き、大きなトランクを苦もなく抱えて去って行った。階段を跳ねるように上がって行くその姿を、陰を含んだ黒い視線が追う。
 あの子の何かがこの男の琴線に触れたのだろうか。そうだとすれば、とても嫌な話だ。
 ダイニングに案内し終えたメルヴィッドは料理を取りに行って来ると告げて席を離れ、気は進まないがその間に客人同士で適当に挨拶を済ませる。
 ほんの少し前まで憂いを帯びていた筈の瞳はいつの間にか蕩けたような光を孕んでいて、その視線が何処かも判らない階上へと向く事に強い不快感を覚えた。
「可愛い子だね」
「気持ちの悪い目でを見るな。あの子が汚れる」
 繕っていた口調をかなぐり捨て不愉快だと睨みをきかせると、飄々とした表情で今度綺麗に磨かれた上等な鏡を贈ろうかと返され、こめかみに青筋が浮かぶ。
 僕が、一体何時、をそんな薄汚い目で見たというのだ。僕はあの子に対して性愛も恋愛も抱いていない。家族の如くただ純粋に、1人の人間としてあの子の隣で全てを愛しているだけなのに。
 あの子は、人を小馬鹿にした表情を浮かべている何も知らないこの男が興味本位に手を出していい存在ではない。既に心と体が好奇心の名の下に傷付けられた回数は両手両足の指でも足りないというのに、幾ら彼等からの紹介とはいえ、エイゼルという男は僕達とあまりにも毛色が違い過ぎる。この男の存在はの為にならない。
 害悪だ、排除すべきだと、結論に至った。
「ねえ、レギュラス・ブラック。君は一度、磨いた鏡に向き合うべきだよ」
 でないと近い内に後悔する事になるだろうと予言者振る記憶喪失の男の言葉に侮蔑の視線を投げ付けてから、未だ霧深い窓の外を眺める。
 灰白色のガラスの中に薄っすらと浮かんだ顔は、怒りに包まれてはいたが、それでも間違いなく僕自身のものだった。