曖昧トルマリン

graytourmaline

■ 時間軸:爺同士が乳繰り合った後日

■ 50話『ほうれん草とアーモンドのサラダ』の補完話

■ お爺ちゃんの印章に自分の嗜好をぶっ込んで来るアークタルスさん

■ タイトルからして安定の乳繰り合い

■ アークタルスさん視点

私のスピカ

 樹木の表皮のように固く、幾つもの大きなタコが出来た太い指の先から作り出される黒い軌跡を、幼い緑の目が好機の視線で追いかける。テーブルに散らばる紙の上に並ぶのは飾り気のない正六角形をぐるりと囲うウロボロスばかり。やっと両手の指で足りる年齢になったばかりの子供が作るには少々渋いが、この子がいいと言うのならば、いいのだろう。
 向かいに座っていた彫刻師が私の存在に気付き立ち上がろうとするのを手で制した。私はこの男にそんな事をして欲しい訳ではない。
「順調かな」
「個人用は、何とか」
 未だ幼児のようなあどけなさの抜けない顔が微かに紅くなり、大きな三人掛けのソファの真ん中に埋もれていたが慌てた様子で視線を上げた。澄んだ瞳が私の姿を映し、花が咲くような笑みを向ける仕草に安らぎを覚える。
 亀の甲羅の模様と蛇なのだと小動物のような仕草で幼いながらも賢明に説明する少年の頭を撫でながら隣に座り、ほぼ決定稿となっているそれに視線を落とす。
「六角形は究極の安定や調和の象徴で、それを守護するウロボロスは無限、完全、永続を意味しているね。縁起の良い印章だ」
「アークタルス様まで。あまり複雑な図ではないからでしょうか、本当に色々こじつけられる物なんですね。先程様子を見に来たメルヴィッドは、シクロヘキサンとベンゼンについて色々考察していましたよ」
「シクロヘキサンは判るが、ウロボロスは……ああ、アウグスト・ケクレのベンゼン環か」
 大人は皆自分の理解したい方向に理由を歪めてしまう、ただの亀の甲羅と蛇なのに、と拗ねた子供の口調で年齢相応の表情しているが可愛らしく、思わず頬を撫でてしまうが、触れ合う行為は人前であろうと気にしないようで膨れっ面はすぐに緩んでしまった。
 小さな体を更に小さくして拗ねるも愛らしかったが、矢張りこの子には無邪気な笑顔が一番似合う。たとえ、年齢に不釣り合いな、強かな精神力を持ち合わせていも、だ。
 決して平坦でもなければ、明るくも、幸福でもなかった道を傷付きながら孤独に歩んで来たというのに、これだけの笑顔を自然に浮かべるだけの力がこの子の内側にはあるのだ。多少の狂気を潜ませた思考はあるが、しかし、精神の構造が常人と違う方向に働いていなければ、まともな感性を僅かにでも残して生き残る事すら不可能と呼ばるような10年だったのだろう、私と同様に。
 レギュラスに聞いた話になるが、この服の下に存在する小さな体には、生きたまま肉が腐り落ち、蛆に食われ、無残に抉れた赤黒い穴が無数にあるのだそうだ。温厚で、ブラック家当主としてはやや頼りない、人間らしいともいえるあの孫が、死んでさえいなければ相手を嬲り殺せたのにと未だに言う程の。
「アークタルス様、どうなさったのですか?」
「なんでもないよ。それで、個人用以外で何を悩んでいたのかな」
「こちら、なんですが」
 味気のない誤魔化し方だったが、空気をよく読むは何も判らない演技をして流してくれる。本当に、大人好みの出来た子だ。
 差し出された紙に描かれていたのは赤子を膝に乗せた女神、右手にはノニとバンレイシを掛け合わせたような奇妙な果実が乗っている。果実がアトリビュートとなる女神は洋の東西を問わず少なくないが、男の子供が共にいるのは聖母子像だからだろうか。いや、この子からはキリスト教徒の匂いはしない、第一、聖母子像で果実を手にしているのは嬰児のキリストであってマリアではなかった筈だ。
 視線から私の悩みを察したが無邪気な仕草で説明をする。インドの女神で、子供と安産と盗難除けを守護している、と。恐らく仏教のハーリーティーの事だろう、ならば奇妙な果実は吉祥果に違いない。柘榴ではないのは、知識が中国由来ではない証拠だろう。メルヴィッドに教えて貰ったのか、何処かで、たとえば、マグルの美術館で彫像や絵画を見たのだろうか。
 この子の知識の源が何処にあるのか時折知りたくなるが、それを探るのは流石に時期尚早だ、また別の機会にしておこう。
「表現し切れていない、という顔をしているね」
「はい。それで、是非アークタルス様にも少しお知恵を……こちらは、私1人の力だけで生まれたものではありませんから」
「また君はそうやって、可愛らしい事を言うのだね」
「事実を告げただけで可愛いと言われるのは心外です」
「諦めてくれ。私にとっては、どのような君も可愛らしいのだから」
 分不相応な欲を持って接して来た輩とは真逆の人間を愛でずして、一体誰を愛でるのだろう。物事に対して誠実で真摯ではあるが、決して潔癖ではなく正義漢でもない。合理主義者の面も持ち清濁併せ呑むのも平然とやってのけながら、見返りを求めずひたすらに愛情を与え尽くす。そのような考えに行き着くとは到底思えない人生だったにも関わらず。
 この子は特殊傾向の存在だ。血で血を洗う戦場で人間を殺した後、なんの問題もなく日常へ復帰出来る類の人間だと表現しても差し支えないだろう。死体の山を築き、血と肉と泥を踏み締めて帰還したその足に美しい靴を履かせ、平然とハロッズまで買い物に出掛けられる神経の持ち主。
 真っ当な神経をしているとは到底思えないが、平凡な日常の中に嵐のような激しさを見る事はない。今のこの子は、どこまでも穏やかな、凪いだ夜の海のような狂気の世界に生きる住人だ。
 こんな人間が存在する事、そしてその人間が自分の傍らでこうして子供の面を隠しもせず拗ねている事が奇跡のように思えた。
 アークタルス様の方が可愛いのにと、眼鏡の度が合っていない言葉に現実へ引き戻されるが内容そのものは無視をして、アルカイックスマイルを浮かべる女神を眺める。
 ようやく少年になったばかりの体に豊かな母性を宿し、愛する者を惜しみなく慈しむの面は表現されているが、魔法界とマグル界の知識を織り交ぜながら食べる事と生きる事を文字でのみ説くメアリー・スペンサーという人物には物足りない。母性はあるが知性がない、赤子が知識というイメージを遠ざけている。
「そうだね……では、女神にデメテルの要素を入れてはどうだろう。古典ギリシア語で母なる大地と呼ばれる彼女は、穀物の栽培法を人間に教えた豊穣神だ」
「春の星座、乙女座のモチーフとなった女神ですよね。背中に翼を生やして、右手には羽ペン、左手には麦穂を持った」
「そう。彼女の持つ麦穂は農業のシンボルになっている。羽ペンは正義の象徴だが、こちらは今の、吉祥果のままがいいだろう」
「アークタルス様、この女神様の事をご存知だったんですね」
 知らないふりをするべきではなかったと後悔したが、この子は、そんな些細な事で機嫌を損ねたりはしないだろう。試しに頭を撫でれば、はっとした表情をされ、すぐに輝くような笑顔を浮かべた。
「アークタルス様のお陰で案が纏まりました。ありがとうございます」
「それはよかった」
 春の光のような笑顔に唇を落とせば擽ったそうに笑われ、お返しだと頬に口付けられる。マグルのインド文化や宗教を知らない彫刻師が突如現実世界に戻って来たかのような顔をしてスケッチを始めたが、気に留める程の事でもなかった。彼は筋金入りの魔法使いだ、相当前から私達の会話に付いて来れなかったみたいだが、仕方あるまい。
 彼のような有象無象に重きを置く必要はない、もっと重要なのは、麦穂の先に存在するそれをが受け入れてくれた事だ。この子自身がその意味を理解していなくても構いはしない、意味を理解した他所の連中が、この印章の主は私のお気に入りなのだと気付けばそれで。
 春の夜空に輝く青白い星、乙女座のα星スピカ。
 メアリー・スペンサーという偽りの名を持つ優しい狂気の少年が、アークタルスである私のそれであると気付く事が出来れば、それで以上の事は望まない。