ほうれん草とアーモンドのサラダ
とても、嫌な予感がしたのは気の所為ではない。
「は自分の印章を持っているのかな」
他人との会話を上手くキャッチボール出来ない私にしては珍しく、この言葉が行き着く先を予想出来たので思わず必要ないとの旨を言いそうになったが、もしも予想を外した場合はアークタルス・ブラックからの評価が急激に下がる恐れもあったので、結局僅かな可能性に賭け正直に持っていないと正直に答える。
当たり前であるが、賭けには負けた。
そもそも私は騙し騙される行為に魅了を感じない、賭け事に不向きな性質なのだ。知られたくない事は隠し通せるが、それ以外の割とどうでもいい事はほぼ全て顔に出るので人を欺く事が出来ない。他者を意図的に騙せる程、私の頭の出来は良くないのである。
「ならば丁度いい機会だ、今度、私が贔屓にしている工房を紹介してあげよう。用途に応じて2つか3つ、持っていて損はない」
1つでも多いと思うのに2つや3つのどの辺りが丁度いいのだろう。彼の言葉を理解出来ないのは私の頭が悪い所為なのだろうか。
印鑑が普及している日本ならば兎も角、今迄の経験上、イギリス国内の魔法界で印章を使用する機会は個人では滅多になかった。精々仕事で、例えばメルヴィッドが店主として上客に手紙を出す際、封蝋の刻印に使用する程度である。
無論ブラック家の人間ともなれば個人で印章を使用する機会も多々あるだろうが、生憎私の方は一般人であった。元の世界に戻れば替紋も幾つか所持する立場にあるのだが、この世界の立場は旧家と僅かな繋がりのある単なる子供に過ぎない。
しかし今更断る訳にもいかず、さてどうするべきかと悩んでいると、視線の先の老人が揶揄うような笑みを浮かべる。
「メルヴィッドにも、いずれ必要になるだろう。いや、彼にこそ、かな」
続けて告げられたその言葉に、顔の筋肉が引き攣った。年齢と共に経験を重ねている所為なのか、アークタルス・ブラックはメルヴィッドの目的にある程度の見当が付いているらしい。そして、私がそれを知っていると言う事も。
数秒、睨み合うように視線を交わし、諦めたように肩を竦めて私は降参する。別段、シラを切り通して隠す程の事でもない。
「は本当に嘘が吐けないね」
「どうしても、得意になれそうにありません」
私には是非重要な話をしないようにと忠告をすると、揶揄うような笑顔のままで二つ返事をされた。あまりにも軽薄に過ぎるので本気なのかどうなのか判らないが、忠告はしたから大切な情報が漏れても彼の自己責任という事にしておこう、そう思い込んでおかないとストレスで胃に穴が開く。
「君は観察眼が優れているからね、少しずつ、メルヴィッドを真似て繕う事を覚るべきかもしれないな。でないと、要らぬ事に気付いて余計な敵を作りそうだ」
「ええと、努力する方向で検討させていただきます」
要するに無理だと出来るだけオブラートに包んで伝えると、包んだ傍から思い切り破れたのか、そもそも私のオブラートは誰に対しても硬質だったのか、検討ではなく努力するようにと珍しく甘い言葉が返って来なかった。否、強制ではなく口頭注意の時点で既にかなり甘いのだが、アークタルス・ブラックは基本的に私の発言を全肯定する癖があるようなので、そうされなかったのが新鮮であった。
ただ、メルヴィッドを真似るのは無理であろう。赤の他人に接する彼と、顔見知りに接する彼と、私に対しての彼の落差が激し過ぎるので参考になりそうもない。特に顔見知りと私の間の壁が限りなく厚かった。アークタルス・ブラックの覗き見たメルヴィッドも、所詮はそれらしく繕った彼なのである、とは流石に言うまい。
真実をひた隠し、困ったような笑みを浮かべながらコツを伝授して貰えるよう頼んでみると先程よりもかなり前向きな発言をすると、アークタルス・ブラックは満足したように次の品を手に取った。それで満足してしまう辺り、彼は本当に甘い。
まあしかし、私は大概間抜けなので、今後の為に多少そういった事を繕う術を習う必要はあるだろう。どうせ今日の様子は後で報告しなければならないのだ、ついでに頼んでみればいい。恐らく私には無理だと言われ即座に却下されるだろうが、否、それよりも前に情報漏洩の件でワインボトルかビール瓶辺りで殴打される方が先か。
割とどうでもいい事を考えていると、隣でアークタルス・ブラックの手が右往左往している事に気が付いた。何かを探しているらしいのだが、生憎この棚に何が入っているのか判らない私は彼の力にはなれない。
「この辺りは二等ばかりだな。私の記憶ではこの辺りに、そうだこれだ、勲一等マーリン勲章。ミスター・ベルビィを知っていたに説明するのは今更だが、こうして実物を見るのは初めてだろう。手に取ってみるかい?」
「宜しいのですか」
「私の物だから心配する事はない」
二等ばかり、との言葉も気になるが、それも目の前の勲章には遠く及ばなかった。
マーリン勲章の勲一等と言えばイギリス魔法界の最高勲章である。そんな大切な物を玩具を与えるように簡単に手渡して来たアークタルス・ブラックは、折角ちょっとだけ引っ込めた甘さを再び全面に出し、孫を猫可愛がりする祖父さながらの視線を送って来た。
これは単なる私の想像に過ぎないのだが、当主となる都合上、レギュラス・ブラックもここまで甘やかされなかったのではないかと思う。
そんな失礼な事を考えながらも、私の目は勲章に釘付けになっていた。断っておくが、別に欲しい訳ではない。確かに綺麗だとは思うが、それ以上に重要で価値があるのはこの金属の塊を受章した理由であった。
「凄い……あの、差支えなければ、受章した経緯を伺っても」
「勿論だ。というより、君にこの自慢話をしたくて仕方がなかったのだよ、私は」
大抵の輩は結果にのみ関心を寄せ、そんな玩具にばかり目が行って肝心な部分を聞こうともしないと嘆くアークタルス・ブラックの手を握り、私が聞くから大丈夫だと無言でアピールする。彼の嘆く通り大抵の人間、特に年若い人間にとって同じような台詞が繰り返される老人の武勇伝や自慢話は大体が退屈で苦痛も大きいだろうが、幸いにして私は中身が爺で、その手の話を聞くのも好きであった。勿論、誰の自慢話にも食い付く訳ではなく、餌や相手は私なりの基準できちんと選ぶが。
硝子戸を閉じ元の場所まで戻ると、先程とは違いアークタルス・ブラックがこちら側のソファに腰を落ち着かせたので当然のように隣に座る。そんな素直な私が好きなのか、アークタルス・ブラックはまた可愛いと言う単語を連呼しながら頬を揉み始めた。どうやらこの可愛いがり方を気に入ってしまったらしい。
しかし彼の私への可愛がり方は日を追う毎にメルヴィッドに対するレギュラス・ブラックに似て来ているような気がするのだが、矢張り行き着く先は例の帰還兵と愛犬のようなアレなのだろうか。先日のように4人が揃い踏みした場合はちょっと煩い事になりそうだと考えながら好きなようにやらせておくと、やがて構い倒す事に満足したのか何度か髪を撫でながら、この勲章は1940年の物だと教えられる。
「今からもう半世紀以上前になるのか……1939年に、マグルの間で戦争が始まってね。君も学校で習ったはずだから知っているかと思うが、マグルの世界では第二次世界大戦、といわれている。世界を巻き込んだ戦争だが、そんな下らない事に魔法使い達を巻き込ませる訳にはいかなかった」
結論から語られなかった説明に、私の貧困な想像力が否応なしに働いた。
メルヴィッドから聞いた私の記憶が正しければ、既に徴兵を回避するシステムは完成していたはずである。戦争や非魔法界での小競り合いから魔法使いを保護する仕組みは当時から存在していたのでアークタルス・ブラックの功績ではない。
となると、戦争に関係が深く、且つ彼が行った事は一体何だ。
「当時の当主は父だった。無能な祖父を当主の椅子から蹴落とし、学生の時分から魔法界を守る為に辣腕を振るい、産業革命末期を乗り越え、第一次世界大戦から魔法族を保護したあの人に、再び災厄が訪れた。ただ、今迄と違う事が幾つかあった、前回の戦争ではまだ学生だった後継者達が軒並み成人していた」
「アークタルス様と弟様、それにポルックス様」
「そうだ。ただ残念な事に、弟はシグナス叔父様の側に付きマグル出身の魔法使いを迫害する法案を通そうとし、ポルックスは何も考えず生みの親の陰でマグルが如何に愚かなのか叫んでいたな」
「それは……不満の掃け口を作っただけで、何の解決にもなっていないのでは」
「君の言う通り、彼等の行為は単なるガス抜きに過ぎない。それで何とかなると、あの3人は本気で思っていたようだが、当然そんな事ではどうにもならない。隣で父を支えられるはずだったフィニアス叔父様は、魔法族ではなくマグルを守る為に家を出て行ってしまった。アークタルス、いや、私ではなく叔父の方だ、あの人は毒になるような事はしなかったが、薬になるような行為も一切しなかった」
「アークタルス様は、違ったのですね」
「いや、当時を振り返ると私もポルックスとそう代わりはしない。ただ、私はシグナス叔父様ではなく父の下に付いて魔法族保護の為に動き回った。私は特に、物資の確保を担当していたんだ。戦争状態になると、イギリスは地理的にどうしても物資不足に陥る」
「フランスやアメリカと違い、イギリスは自給率の低い痩せた土地の島国ですからね。確かマグル界では、ドイツのUボートが彷徨いて輸入に制限がかかっていたんですよね」
「そうだ。特に困っていたのがホグワーツで、生徒達の食料すら確保する目処を立てていなかった。いや、魔法省自体がたかがマグル同士の戦争と高を括り魔法界の生活必需品を確保する計画を立てていなかったのだ。魔法も万能ではない。燃料は兎も角、食料の創造は不可能だと証明されているのにも関わらず」
金貨や宝石の山を抱えて餓死する未来が見えかけて、アークタルス・ブラックは妻子の事を顧みずブラック家の人間として魔法界の為に働いた。
外交や法整備、魔法族の露見を防ぐ為のシステム構築や徴兵から逃す為の偽装工作を行った父親のように目に見えるような華々しい物ではなく、大変地味な物ばかりだったらしい。けれど、それでよかったのだと彼は笑った。
「生活に直結する物は多い。色々な事をやったが、特に大掛かりだったのが大規模農園と牧場、養殖場の整備かな」
「食糧難と衣類不足、魔法界では羊皮紙を使うようなので、その辺りも含めた対策ですか」
「ああ、特に食料は一次の時は軍部内での配給に留まっていたから問題なかったが、二次はそれが国民全体に広がる噂を耳にした。幸い、ブラック家は食材の生産から宅配事業も然程大きくはなかったが手を付けていたからね、ノウハウだけはあった。ただ問題は、土地と人材が圧倒的に足りなかった」
但し、金だけはあった。とアークタルス・ブラックは続けた。
「魔法省に大金を寄付して、見返りに魔法省の管理する土地と雇用先を探しているハウスエルフを優先的に確保した。これはその時、寄付をした事で貰い受けた勲章だ」
激動していた時流に乗り損ね、運が悪ければ滅びていたか、他国に対して多大な負債を抱えていたかもしれないイギリス魔法界の為に働いた彼の行動云々ではなく、金を寄付した事だけを評価されたのだ。
これで勲一等なんて馬鹿みたいだろう、と老人は笑った。寂しそうな笑みだった。
だから彼は、勲章を玩具のように扱ったのかと今更気付く。
「アークタルス様」
「何かな」
「……ごめんなさい、何と言えばいいのか」
「いや。いいんだ、ありがとう。その表情だけで、言葉は要らない」
持っていた勲章を脇に退け、灰色の瞳から視線を逸らす。回された左腕が私の肩を力強く抱いた。私も知り得なかったこの老人の行いを、一体、どのくらいの魔法使いが知っているというのだろう。
「君が私の行動を正当に評価してくれた。父も……あの厳しかった父も、私の働きに満足をしてくれた。それで十分だ、それに」
「それに?」
「散々寄付をした事で、相続税等が免除されているのは有難い」
悪戯っぽく片目を瞑ったアークタルス・ブラックに、私は自然と頬を緩めた。
「私とてブラック家の人間だ。転んでもただでは起きない」
「強かでなければならないのですね」
「そういう事だ」
脇に転がっていた勲章を拾い、ソファから立ち上がったアークタルス・ブラックと共に先程の硝子戸の前にまで来る。ここに飾られている勲章の来歴を、私は何も知らない。
今知ったばかりの最初の1つが再び元の位置に戻され、それとは交代で大きなオルゴール付きのジュエリーケースを取り出し、判り辛い位置にある抽斗に指をかけた。
「蓋を開けると睡眠魔法をかけた音楽が鳴るから、そちらに手を触れてはいけないよ」
「泥棒撃退用ですか」
「それなら蓋を開けたら噛み付く仕様にしているよ。これは精々、手癖の悪い身内用だ」
そんなのが身内にいるなんて不幸だと視線で語りかけると、世の中には諦めて自衛しなければならない事が思いの外沢山あると視線で返される。
「それは、写真ですか?」
「ああ。両親と兄弟の写真だ」
モノクロームの写真には鋭い眼光を携えた美しい男性と、アークタルス・ブラックに雰囲気の似た女性。そして、何にも興味を示さない幼い頃の彼と、居心地悪そうな弟妹が佇んでいた。下2人の子供の様子を見るに、恐らく父親が苦手なのだろう。確かに写真からでも判るくらいに威圧感を常に出している、子供受けは悪そうな顔立ちであった。
それでも、アークタルス・ブラックの視線は柔らかく優しい。誰がどう感じようと、彼にとってこの写真は大切な家族と撮った1枚なのだろう。
「思えば、私も父に構って貰った記憶がない。あの人は絵に描いたように優秀で、皆に頼られていたから家にいない方が多く、母もそれに納得し結婚していた。それが当然だと思っていたからか疑問にも思わなかったが、歳を重ねて、当主とはこういう事だったのかと、始めて納得が出来た」
写真の束をオルゴールの中に入れ、そのオルゴールを棚の中に戻した彼の手が私の髪を愛おしげに撫で、少し躊躇った後でこんな言葉を口に出した。
「今度、一緒に写真を撮らないか。勿論、君とメルヴィッドさえ迷惑でなければだが」
「素敵ですね。後でメルヴィッドにお強請りしてみます」
他の物と同様の処置をすれば写真の1枚くらいならば許してくれるだろうと軽く承諾すると、何とも微妙な顔をしてアークタルス・ブラックが頷く。私はまた何か無意識に問題発言をしたのだろうか、振り返ってみても全く理由が思い当たらないのだが、こんな時は一体どうするべきなのか誰か至急教えて欲しい。
私の狼狽っぷりを見て自身の表情に気付いたのか、アークタルス・ブラックは私は全く悪くないと言いながら頭を撫でて来た。
「いや、実は先日、レギュラスやクリーチャーと話し合ったのだが、は私達に我侭を言ってくれないなと相談してね」
「……はい?」
彼等は一体、何を言っているのだろうか。
有力者と引き合わせて貰ったり、店を譲り受けたり、屋敷を相続したり、我侭なんて可愛らしい言葉を超越した次元で貰い受けていると言うのに、彼は私に、更に何を強請れと言うのだろうか。メルヴィッドなら兎も角、私なんて完全に受け身一方ではないか。
「は物欲がないだろう。家族や友人がいれば満足してしまう、そんな君に可愛らしいお強請りをして貰えるメルヴィッドが羨ましくてね」
私の物欲は人並み以上にあると思うのだが、それが表に出る前にブラック家が全力で満たしている事を完全に無視しているのは高度なボケなのだろうと思いたい。そして現在の私の姿は同年代の中では割と厳つい体格な上に中身が化物と呼ばれているような爺なので何処を取っても可愛らしさの欠片もないと思うのだが。
金と権力とその他色々を持て余している人間特有の高度なボケに何と返そうか考えていると、偶には私にも我侭を言って欲しいとアークタルス・ブラックが変な事を言って来る。貴方には先日屋敷を貰ったばかりです、と正直に返したら何か居た堪れないような地獄が待っていそうな雰囲気であった。
「え、ええと、それでは」
「何だい?」
「アークタルス様の昔話を、他にも沢山聞きたいです」
幾ら援助があった方が経済的に楽だとはいえ、これ以上彼等の金を湯水のように使われると私のなけなしの良心が痛む。なので、歳を重ねた者から直接聞く経験談という、ある意味懐が傷まず、またある意味ではどれだけ金貨を積まれても手に入らない貴重な物が欲しいと強請ってみると、アークタルス・ブラックは驚いたような顔をして、それから力任せに私を抱き締めた。あまりにも熱烈な抱擁に眼鏡が歪んだが、それに関しては後でこっそり直せば問題ないだろう。
矢っ張り孫の嫁にしたいだとか、私のような孫が欲しいだとか、ちょっと他所の純血主義者様方には聞かせられない本音を口にしている老人の背中を軽く叩き、取り敢えず落ち着くよう笑い掛けてみるが駄目というか無駄であった。流石はレギュラス・ブラックの祖父だと妙な感心の仕方をしてしまう。出会った当初、ハウスエルフ談義をした時のマニアな彼と喜びようが全く同じであった。
やがて私を抱き潰す事に満足したらしいアークタルス・ブラックは身だしなみを整え直し、一応表面上は失礼な態度を取ったと謝ってくれる。視線が満足出来ていないと物語っていたが、既に歪んでいる眼鏡を大破させない為に気付かない演技をやり通した。
「遠慮せずに好きな時に遊びに来なさい。私の話ならば何時でも聞かせてあげよう、それに君が家に来ると重い空気が払拭される。これは私達では到底出来ない事だからね」
「ありがとうございます。けれど、訪問は前もって伝えさせていただきますね」
「親しき仲にも礼儀あり、レギュラスにも同じ事を言ったのだったね。誰もが君のような気遣いが出来ればいいのだが」
「私は言われる程、気遣いの出来る人間ではないと思うのですが」
「なのに何故、自己評価だけは相変わらず低いのだろうな」
私のようなタイプは今迄ブラック家に出なかったのか、どうやったら改善出来るのか悩んでいるアークタルス・ブラックに別に必要ないと笑いかけるが、それは駄目だと返された。どうしても彼は、私の自己評価を高めたいらしい。
「は料理以前、食という大きな括りに対して興味があるのかな」
「あります」
発せられた質問の意図を全く読まないまま即答すると、目の前の表情が妙に保護者、或いは教育者じみたものになり、ならばこれで行けるかと口の中で呟かれた。一体何が行けるというのだろうか。何処にも、何にも行かなくていいのだが。
「今度、農園や牧場を見て回らないか」
「農園や牧場というと、先程お話に出て来た」
「そう。野菜や果樹ならば土作りから栽培、収穫。畜産ならば飼育。それに加えて、食品加工から流通販売までをね」
「見たいです。通しで全部見たいです、見学したいです。是非お願いします」
魔法界版6次産業には興味があるので演技ではなく全力で食い付いて行くと、アークタルス・ブラックは好々爺の表情で頷き、但しと人差し指を天に向って伸ばした。
「その代わり、見学した事を後でレポートに纏めて欲しい。権利そのものはレギュラスを含めた後継者達に譲ってしまったが一応は元事業主だからね、手が離れたとはいえ第三者の感じた事も多少知りたいのだ」
「大した事は書けないと思いますが、それで宜しいのであれば」
「勿論だよ。子供の感じたものは、大人の為になる」
大した事を書いていなくても書いたという行為そのものを褒める算段なのだろうか。多分そうなのだろうが、それならそれでいい。最初から結果が判っているのならば、こちらも気負いなく適当に書くことが出来る。別に誰かへの提出書類でも何でもないのだ、偶には好き勝手に書き散らかすのも面白そうであった。
しかし残念ながらアークタルス・ブラックの目論見は外れるであろう。
どれだけ褒めた所で年老いた私の自己評価は全く変化しないのだ。ある程度は出来るのは当然、全く出来ないのならば無能、マイナスに動く事はあってもプラスへ移動する可能性はほぼ存在しない。
しかし、馬鹿正直に告げる訳にもいかないので、結局はいつも通り真実をひた隠し、無邪気な子供の顔で笑って応えるに留まった。