ポワヴル・ロゼのショコラ
本日の彼はお客様の1人である、そんな事をさせられる筈がないだろうと正論を説くも、しかし自分はハウスエルフだからと食い下がって来た。人間に仕えるのが彼等の本能であり名誉なので、言い分としては判らない事もない。
但し、納得するとは限らないので、彼にはそこの所をよく覚えて欲しい。
「では取引をしましょう。今後ブラック家にお邪魔した際は、私も給仕に混ぜて下さい」
「それはなりません! 坊ちゃんは大切なお客様に御座います!」
「そうでしょう。同じ様に、この家ではクリーチャーが大切なお客様なんですから、諦めて下さい」
大体今回のこれはホームパーティでもなく、ただ単に引越しと書類提出を一通り終え、マスコミも引き剥がし、心と時間に余裕も出来て、アークタルス・ブラックのご機嫌取りの為の模様替えも全力でしてみたから家に来て食事しないか程度の物なのだ。
堅苦しさとは正反対の場所に位置している今回の食事会、態々有能なハウスエルフ代表の彼の手を借りるまでもない。
適温に保持したワインや炭酸水等の飲料も運び終え、最後に取り皿をテーブルに並べながら手伝い不要と言い放つと、何故か理不尽だと嘆かれた。私の言葉のどの辺りが理不尽なのか全く見当も付かないが、彼の嘆きを微笑ましそうに眺めていた2人の主人が気にする程の事ではないと言ってくれたので大丈夫なのだろう。
スープをよそう私の隣でデカンタを手に取ったメルヴィッドは、4人分のグラスに薄紅色の液体を注いでいた。
除かれたのは私の分ではなくアルコール耐性が皆無のクリーチャーだったので、どうやら私にも飲めという事らしい。ここイギリスは酒類の販売に関しては厳しい癖に、飲酒に関しては家庭内なら5歳から可能という些かアレな法律があるので問題ではないのだが、それにしたって肉体年齢が10歳児の私に、ブラック家の前で飲めとは酷い話である。幸い、彼等は子供の飲酒に対して寛容だったからよかったものの。
目の前にグラスを掲げて手軽に乾杯を済ませると、各々が料理に手を伸ばしながら普段と何等変わらぬ口調で食事を始めた。とはいっても、ブラック家からの招待者達は名前が判らない料理に手が止まっているようであったが。
仕方がないといえば仕方がない、今回、私は全方向の逃げに走ったのだ。
玄人はだしのクリーチャーが作るフランス料理を日頃から食べ慣れている彼等に、素人に毛が生えた上に正しい知識もない、なんちゃってフランス料理を堂々と出せる程、私の肝は太くない。同じなんちゃってならばフランスよりももっと東、出来ればアジア近辺の、しかも正式な物ではなく魔改造に逃げたいと心から望んだ結果がこれである。
トマトとヨーグルトミントの2色のソースが添えられた巨大な肉団子を切り分けていたメルヴィッドが料理の説明を求めたので、あらかじめ脳内に入れておいた情報を引き出しにかかる。一通り料理の名前や由来を教えたとはいえ、メルヴィッドはあくまでホストであってこの料理を作ったのは私なのだから、詳しく説明の出来る私が口を開くべきなのだろう。
「こちらがエジプトやイランで作られるピクルス、トルシーの盛り合わせになります。スープは同地方で食べられているアーブグーシュト、ペルシャ風羊肉と野菜のトマト煮込みと説明すればいいんでしょうか。こちらのチャパティと言う全粒粉のパンケーキを浸して一緒にどうぞ」
「ふむ、ナンではないのだな」
「ああ、いえ。作り方は一緒なので国や地方によってはこれもナンと言えます。ナンの定義が曖昧過ぎて大論争が起きているのが現状なので」
興味深そうに頷いたアークタルス・ブラックに嫌な予感がしたが、ただの予感だったのかすんなりと次の説明に移る事が出来た。
「サラダは今の時期、手に入り辛い夏野菜で作ったグリークサラダです。先日アークタルス様が案内して下さった農園で年間を通して新鮮な野菜が手頃な価格で手に入る事を知ったので、早速購入させていただききました。というよりも、今回の食卓に上っている材料は全てそうです」
「ありがとう、このロゼもうちの物だね。気に入ってくれたかい?」
薄紅色の液体の揺れるワイングラスを掲げたアークタルス・ブラックに私とメルヴィッドが笑顔で応えると、それはよかったと返される。
ワインを嗜まない私には辛口で料理に合わせやすい飲料程度の感想しか思い浮かばなかったが、人付き合いやら何やらで色々と経験を積みつつあるメルヴィッド曰く、強烈な個性がない代わりに料理との相性や守備範囲が異様に広く、気取らない味なのだそうだ。要はワインは水である、と地で行くワインらしい。よく判らない。
「ワインも野菜もそうだけど、うちは大規模な土地を使ったハウス栽培と、優秀なハウスエルフの成長魔法との合わせ技で安定供給しているからね。ホグワーツとか魔法省とか、ダイアゴン横丁の食料品店のような大口の需要先もあるから一般にも安く通販出来るんだ」
「そこを押さえてしまうと買い手を独占してしまう事になりませんか。確か魔法界には競争法がなかったはずですが、施行する動きは」
「日刊紙を予言者新聞が寡占している間はないだろうね、あそこと魔法省は癒着して御用達メディアになっているから。そうだ、のレポートは僕も読ませて貰ったよ、これでまた色々と改善出来そうだ」
メディアと政府の癒着という判り切ってはいるが実はとんでもない事をさらっと吐き出したレギュラス・ブラックは、この話はここでおしまいと言うように話題を変えて来た。確かにこのまま突き進むと料理が不味くなる方向に行く未来しか見えないので混ぜっ返さず、素直に乗る事にしよう。
「少しでもお力になれたようで光栄です」
「少しどころじゃない。社の方から成人したら是非と念入りに推薦を頼まれたよ」
「素敵なお誘いですね、考えておきます」
「一応伝えておくとだけ返したから、進みたい道があるなら断っていいからね」
寧ろ断るべきだとレギュラス・ブラックの目が告げているような気がするが、気がするだけだと内心で言い聞かせ、メルヴィッドに料理を取り分けられて恐縮しながら未知の物体を口に運んでいるクリーチャーに微笑みかける。
「不思議な物体ですが、害はありませんよ。豆腐といって、東アジアから東南アジア辺りで食べられている大豆の絞り汁を凝固させた食べ物です。今回はそれにキノコと冬野菜の五目餡を絡めた中華風にしてみました」
「が1500年くらい前の文献を読み漁って今日初めて再現したそうだよ」
「私昨日卯の花作りましたし、それ以前も麻婆豆腐や肉豆腐作った経験あるのをご存知ですよね!? なんて事言うんですかホラ吹くの止めて下さい15世紀前の未検証物質を食べたと純粋なクリーチャーが信じてしまうじゃありませんか!」
放たれた言葉は完全に嘘なのだがその外見からか何なのか、メルヴィッドの話は他者に信じ込まれやすい。別にそれが駄目な訳ではないが、今この瞬間だけは駄目である。事実、彼の言葉を信じかけたクリーチャーはこっそりと安堵の息を吐いていた。
流石にクリーチャーの主人2人は騙されなかったようだが、何故か微笑ましい光景を見る目付きで私を見ている。
「は本当に食べ物の話題に関してだけは誰に対しても容赦がないね。揶揄う分には面白いからそっちの方がいいけど」
「メルヴィッド。明日から3食を点滴に、おやつはサプリメントに変えましょうか」
「流石にそれは困るかな」
感情を捻じ伏せ顔面の筋力を総動員して形作った笑顔で告げた言葉が混じり気のない本気だと悟ったのか、メルヴィッドは私とクリーチャー双方に軽く謝罪をした。勿論軽薄なのは上辺だけで、目の奥から読み取った表情は真剣そのものであったのだが。
しかし真に受けられたのは果たして良かったのか悪かったのか、幾ら怒れる私でも3食点滴とサプリメントという鬼のようなメニューを作ったりはしない。精々蛇料理と虫料理とおたまじゃくし料理を3食用意して有無を言わさず食べさせる程度の暴挙を行うのみである。嫌だと拒絶された場合は魔法を使い、直接胃に送り込めばいいのだし。強靭そうな内臓を持つメルヴィッドならば咀嚼をしなくても腹を下したりはしないだろう。
そんな事を考えながら和食代表のレバーのポン酢煮と蕎麦のネギ焼きを説明していると、熱心に聞いているクリーチャーとは反対に何やら神妙そうな顔でブラック家の祖父と孫が私とメルヴィッドを見つめていた。何故そこまで凝視されているのかとの疑問が表情に出ていたらしく、祖父の方に苦笑を返される。
「いや、そうして怒るも微笑ましいなと思ってね」
「微笑ましいですか?」
「傍から見るとそう見えるかもしれませんが、こう見えては本気ですよ」
冗談抜きで食べ物関係は危険なのだと、やんわりと微笑みながらメルヴィッドが告げてくれるがアークタルス・ブラックは好々爺の表情で頷きながら魔改造料理であるイクラとサーモンのクリームパスタを物珍しげに食べていた。
真面目に聞く気がない彼の口からイタリア人にこの魔改造料理の事が欠片も伝わらない事を願うばかりである。尤もその前に、イギリス人は缶詰スパゲッティの件で表に出ろと顎で指図されそうではあるが。
「は本人が一番抉って欲しくない所を刺激するタイプなんですが、そうですね……たとえばアークタルス様が、このパスタを食べるくらいならスパゲッティ缶を食べた方がマシだと暴言を吐いたとしましょう」
「あの、メルヴィッド。幾ら自己評価が低いと言われている私でも、そこまで言われたら怒りを通り越して泣き崩れますよ?」
「難しいな、の怒りの範囲は特殊で局地的過ぎるよ。それじゃあ、私と同じ失言をしたという過程でどうかな」
「それなら、まだ何とか」
レギュラス・ブラックやクリーチャーならば兎も角、アークタルス・ブラックはそういう事もコミュニケーションの一環だとか嘯いてやりそうであった。小さな子が大人の意地悪で些細な冗談でショックを受けている様は可哀想だがしかし、それを上回る可愛らしさが混同しているので気持ちは判らないでもない。
アークタルス・ブラックやその孫もそれを自覚しているようで、メルヴィッドの言葉に同意の笑いを浮かべ先を促す。1人だけ狼狽えている純粋なクリーチャーが可哀想で、可愛らしかった。
「揶揄われたと判った君は、アークタルス様に何と言って返すのか教えてくれないか」
メルヴィッドの提示した仮定に、私はなけなしの想像力を働かせながらにこやかに言葉を待ち侘びている老人に視線を向けた。
当たり前だが、メルヴィッドと同じ文句を言っても彼は然程動揺しないだろう。かといって彼にゲテモノ料理は行き過ぎて引かれる可能性が大きい。何よりも、虚弱そうな彼の消化器系が耐えられそうにない。
となると、ここは矢張り定番のあの台詞だろうか。
「アークタルス様」
「うん、何かな」
「嫌いです」
おじいちゃんきらい。
古今東西、溺愛する子供に言われこれ程心に刺さる言葉もないだろう。多分。
そんな余計な物を一切省いたシンプルな言葉を真顔で口にすると、アークタルス・ブラックは持っていたカトラリーを取り落とした。右手は震え涙目になっているのだが、ちょっと真に受け過ぎではないだろうか。仮定の話だと言うのにこちらが心配になって来る。
「お祖父様、仮定の話です。あくまでも、たらればの話ですから」
私の不安を察したのか、今にも口から魂を飛ばしそうな祖父に戻って来るよう実の孫が呼びかけると意識を取り戻したようで、額に浮かんだ冷や汗を拭いながら恐ろしい経験だったと呟いた。大袈裟だと笑い飛ばすには顔色が悪く、少々申し訳ない気持ちになる。
「アークタルス様、大丈夫ですか。私が言い過ぎたばかりに」
「ああ、心配する事はない。どうなるのかと期待していた私が悪いのだよ、君は何も悪くない。しかし確かにこれは、実際に体験すると笑えないな」
「は相手に最も効果のある言葉を選んで攻撃して来ますからね」
「そうか、じゃあ僕相手だと何て言うのか興味が湧くな」
目の前で既に年長者2人が撃沈されかけたというのに物好きな事を言い出す辺り、流石ブラック家と褒め称えるべきなのだろうか。私も大概世間から乖離しているが、レギュラス・ブラックもまた、普通とはちょっと違う方向に乖離しているように思えて仕方がない。
「ごめんなさい。レギュラスとクリーチャーは考え付きません」
「酷いな、僕達は仲間外れなのかい?」
「だって、お2人は私に意地悪な事しませんから。想像出来ないんです」
あくまでも調子に乗り過ぎて逆鱗に触れた相手を刺して沈めるような言葉であって、彼のような人間に対する言葉は生憎持ち合わせていないのだ。
意地悪ではなくて愛情表現なのだと嘘しか感じられない言葉を吐くメルヴィッドと、その通りだと同調するアークタルス・ブラックを適当にあしらう演技をしていると、若い灰色の目が緩み、穏やかに笑う。
「そういう理由なら仕方がないね、クリーチャー」
「はい、レギュラス様」
「、この挽肉料理は何という名前かな」
「転換方法が大人気ないですよ、アークタルス様」
「何の事だか、私には判らないな」
微笑ましい主従の語らいを分断する90歳児に苦笑するとメルヴィッドもそちらに乗り、この料理だけは名前が大層酷いのだと話題を強引に逸らした。
意地悪で大人気ない年長者達に従者との会話を断たれたレギュラス・ブラックは、仕方がない人達だとでもいうように楽しそうに笑うだけなので心配は無用であろう。ロゼワインを口に付けながら視線を私に向け、そんなに酷い名前なのかと疑う仕草を一切見せずに尋ねて来るだけだった。
「酷くはありません。ただ、明確な名称が見当たらなくて、南東欧~南アジア風、牛の肉団子のグリルとしか言い様がないだけです」
「指定地域と料理名の両方が細かいようでざっくり過ぎだよ」
「この国がいいと指定して下されば決められます」
言った直後に、赤と灰色の視線がテーブルの上で交差する錯覚を感じる。どうやら私は失言をしてしまったらしい。料理系ならば対応出来るので、別に構いはしないが。
「ルーマニアかな」
「いや、ここは世界3大料理の1つであるトルコが無難だろう」
「じゃあ僕はインドで。クリーチャーはどうする?」
「ク、クリーチャーは……ギリシャで御座います」
「そんな顔しなくても大丈夫ですよ、クリーチャー。判ってますから」
主人から圧力が掛けられればハウスエルフであるクリーチャーは否応無しに国名を上げなければならなくなるだろう。ギリシャと告げたのはせめてもの慰めで、トルコの隣国且つ、今回ギリシャ風サラダが出されたので、もしかしたら迷惑にならないかもという期待からに違いない。他の大人に比べてなんと良い子なのだろうか。
メルヴィッドがけしかけたからなのか、妙な所でブラック家の血が騒いだらしいレギュラス・ブラックには祖父同様に嫌いだと言ってみるが、彼は私を弟のように思っているので当然効果が低く、あっさりと迎撃されてしまった。
「そう? 君が僕を嫌いになっても、僕はが大好きだよ」
「……私もレギュラスが好きです、愛しています」
「ふふ、嬉しいな」
「成程、そう返せばいいのか」
「アークタルス様には絆されません」
「。君、何でアークタルス様には手厳しいんだい?」
隠蔽すると後が怖いので例の可愛い発言が彼まで伝わっている事は既に報告して殴打済であるが、一応の演技でメルヴィッドが尋ねて来る。私は彼とレギュラス・ブラック、そしてアークタルス・ブラックを眺めて口篭り、それを見て色々悟ってくれたらしい老人が連日構い過ぎてしまったらしいと誤魔化してくれた。
「それで、料理名は決まったかな」
出来ればこちらも誤魔化して欲しかったが、そこまで優しくはなってくれないらしい。
「ルーマニアならキフタ、トルコならキョフテ、インドだとコフタ、ギリシャはケフテスの、トマトとヨーグルトミントの2色ソース添えといった所でしょうか」
「ヨーグルトミントソースならレギュラスの言ったインド料理でいいんじゃないかい?」
「そのソースのメジャー所は確かにインドなんですが、ブルガリアやモロッコ、トルコにスリランカに、その他の国々でも普通に作りますから。それに、トマトソースはイタリア料理の基本ですが、トマトの原産はアンデス山脈高原地帯で消費量ならアメリカが世界一でしょう? この国の料理です、と断言出来る特徴ではないんですよ」
「普段から君の料理を食べてるから言えるけど、本当に改造好きだよね」
「美味しいものを食べる事と、美味いものを食べて貰う事が好きなだけです」
その結果が魔改造になってしまうだけでとイクラとサーモンのクリームパスタを指し示すと、メルヴィッドが納得したように頷いてから客人たちを見つめ、最初はサーモンとイクラを使ったカナッペ2種とボスカイオーラの予定だったのだと引き継いだ。
「ただ、そちらで購入したスモークサーモンとイクラが美味しかったとかで、知らない内にキノコは五目豆腐の中に混ぜ込まれ、トマトソースは肉団子に移動していました。パスタのソースにイクラとサーモンが入った所でようやく予定と違う事に気付いたんです」
「クリームソースにオイスターソースと味噌を入れて、ネギ焼きで使っていたチャイブを大量投下した時には既に諦めていましたよね、メルヴィッド」
「凄く楽しそうな笑顔だったからね、今更何を言っても無駄かなと。何より牛肉の産地にまで拘るがブラック家の方に失礼な料理を出すとも思えなかったし」
「産地なんて。友人同士なんだから、そんな所にまで気を使わなくてもよかったのに」
「いいえ。牛肉は安全な魔法界産に限ります、それ以外は認めません」
「マグルの牛肉に問題が出ているのかな? 私の父の生まれた頃にはアメリカで残滓牛乳のような事件もあったが、最近のものが危険だとは聞かないな」
首を傾げる魔法界出身の3名に、ああ矢張りアレを知らないのかとメルヴィッドと視線を交わす。隣に佇み観察しながらも必要最小限しか交わろうとしなかった世界だからこそ、偶にこうした事が起こるのだ。
さて、どのように筋道を立てて説明をしようと視線を反らすと、メルヴィッドが杖を一振りして見覚えのあるレポート用紙をアークタルス・ブラックに手渡している。非魔法界の牛肉の危険性と題されたあれは、見学レポートのついでに気紛れで書き殴った私のメモだ。
「ごめんね、キッチンに放置してあったから勝手に持って来たんだ」
勿論キッチンに放置なんて言葉は嘘である。ちゃんとキッチン横にある小さな私専用の書斎にしまってあったのだが、しかしそれを今糾弾するメルヴィッドの心証が悪くなってしまうので何処かに消えておいて貰った。
そもそも、見られて困るような事は全て頭の中にしまって閉心術で固めてある。書斎には鍵もかけておらず常時開放状態なので、問題らしい問題は実は何もない。
無理にでもあるとすれば、今アークタルス・ブラックが読んでいる内容は、検証もまともにされていない書き殴りだという事くらいだろうか。
「プリオン、スタンリー・ベン・プルシナー、カリフォルニア大学サンフランシスコ校、1982年。82年か、通りで知らないはずだ。不味いな……、これは何処までが真実なのかな」
「半分以上は都合の良い、いえ、この場合は悪い引用と想像です。ただ書いてある通り、先日見学させていただいたブラック家の牧場とは違い、今現在、マグル界で使用されている主流飼料が肉骨粉である事は間違いありません」
「うちは産業革命時の比較的早い段階でマグルのやり方にはついていけないと縁を切って、父の代には流れを把握するだけで完全に決別していたからね。しかし肉骨粉か、私の記憶が確かならば原料は市場に出せない屑肉や骨粉、血液や脳に末端神経だったかな。此処に書いてあるスクレイピーという病気の伝達経路は発病した羊の脳を別の羊が摂取した事によるものだったが、そこに関連があると?」
「肉骨粉に使用されている代表的な生き物は牛、豚、鶏、そして家畜である以上は当然羊も含まれます。感染したものの発病せずに終わった羊は様々な家畜が餌として再利用され、そしてその家畜の不要部位がまた餌と続き、感染数は爆発的に増大します」
「嫌な構図だね」
祖父の手から殴り書きに近いレポート用紙を受け取り、八方に目を通しながら呟くレギュラス・ブラックにメルヴィッドがワイングラスを回しながら忠告する。
「レギュラス、既に段階は進んで、もっと嫌な構図が出来ているんだ。牛海綿状脳症、通称狂牛病。本来異種間では感染しないと言われていたスクレイピーが、羊から牛へと移っている。そして、その理屈で行くと、最終的な仮説は判るね」
「最後は、人間に?」
不安そうに揺れる灰色の瞳に移ったメルヴィッドと私が重々しく首肯し、紅い瞳が次を促す。どうやら私が説明を続けろとの事らしい。
「実際、英国中央獣医学研究所の出したこの仮説を支持した政府は1988年から反芻動物の餌に反芻動物の肉骨粉を与える事を禁じ、翌1989年には生後30ヶ月以上の牛を人間用の食肉に加工する事を禁じています」
「それで、効果は」
「急くなレギュラス。この対策の効果を確認する為には時間が必要だ、結果が判るのは施行から5年から10年後の事だろう。それに既に効果が現れマグル界が恐慌状態に陥って初めて魔法界が知るようではブラック家の恥だ、それでは魔法族を守る事が出来ない」
「……はい」
「いや、お前だけではない。今の言葉は当主を支える私自身に言った事でもあるのだから、そのように落ち込むな。防疫課については、いや、今は仕事の話は止そうか」
やんわりと緩んだアークタルス・ブラックの視線が一度瞼に隠れ、再び現れたと同時に私を見据えた。普段の優しい彼ではなく、仕事をする男性の顔である。
「このような場で申し訳ないが、君に頼みたい仕事がある」
「その殴り書きを早急に整え、読めるように直せば宜しいのでしょうか。そしてそこから一気に法整備を始める、と?」
「そのつもりだ」
一瞬、マッチポンプと言う単語が頭の隅を過ったが、和製英語であるし、そもそも狂牛病関連の流れは全て真実なのだからと適当な理由を付けて今回は見ないふりをした。きっと彼なら上手くやれるだろう。
「承知しました。では、人為的に広がる病気なので従来の防疫対策では無意味と強調して、人間の良識との戦いになるとはっきり記しておきます。ただ、私は経済には疎いので、感染した場合の損失については別に依頼した方が宜しいかと……メルヴィッド、書きますか?」
「は私を万能だと思っている節があるけれど、経済も公衆衛生も畑違いにも程があるから流石に無理だよ」
「そちらのアプローチは別の知人を頼ろう。どの道、ブラック家がこれに気付けなかった不始末は付けなければならないからね」
私が知っている事をブラック家が知らないはずがないのだから、事が落ち着いたら、誰が何処で何の為にこの病気の報告を止めていたのか突き止めて再発防止策を講じるつもりなのだろう。ついでに何人かの首も飛びそうだが、流石に物理的には繋がっていると思うし、そもそも私に深くは関係しない話だ。精々、購買側として気を付ける程度で済む。
ブラック家の管理する牧場では肉骨粉が使用される以前から非魔法界と関係を断っているので問題はない。けれど、他の畜産業者が肉骨粉を使用していないとは言い切れない。
特に、非魔法界の方法というだけで碌に正しい知識もなく技術を取り入れたはいいが、前述した法整備の存在を未だ知らず安上がりな肉骨粉を餌に骨や脊髄、脳の混入した肉を売り捌いている、上辺だけの親マグル派モドキの業者がいてもおかしくない。
今後国際的に問題となる狂牛病、この病気を人間が発症する確率は極めて低いとされているが、皆無ではない。この病気は潜伏期間が長く、何よりも私がいた時代ですら特効薬が存在しない。たとえ重度のベジタリアンでも物心付かない内に食べた肉の所為で発症する可能性は僅かだが確実に存在する。そして一度発症すれば、脳に穴を空けられながら記憶を刮げ落とされ、どんな手を施そうと1~2年で死ぬしかないのだ。
現時点で感染性のない可食部位の研究はどこまで進んでいただろうか、牛だから全て駄目だとヒステリー気味に情報を垂れ流す輩を抑制する術も必要だ。厳しい顔をして思考に沈んでいた私の名を、アークタルス・ブラックが呼んだ。
「それと、筆名を考えて欲しい」
「確かに、報告者名が・では説得力がなくなりますね」
世の中はブラック家のような物分かりがいい人間の方が少ない。身元が露見した場合、外見年齢が10歳の子供が書いた物を信用してくれる相手は極稀だろう。かといって、食に関しての知識と興味は私に劣るメルヴィッドが書いたと嘯くのはやや苦しい、彼は外見が外見なので変な記者に目を付けられた場合、インタビュー時にボロが出かねない。ブラック家の名を使用する選択肢もあるが、非魔法界を扱き下ろす内容となる為、黴の生えた思考を持つ反純血主義者辺りから強力なバッシングを食らう事は必至だろう。
何にしても兎に角、今は狂牛病に関しての論文を見れる形で整えるのが先なので、そちらは追々考えて行けばいい。
気休めの食事会のつもりが妙な事態になってしまったと感じたのはその場にいる全員のようで、微妙な温度になってしまった空気の中でアークタルス・ブラックが緩く息を吐いた。
「ナンとチャパティの事でも書いてはどうかと唆すつもりが、大仕事になりそうだ」
「諦めて下さった事を感謝します。言語の壁が厚い上に比較数と障害が多いので、そちらは心から遠慮願いたいです」
まだ狂牛病の事を真面目に書いた方がマシだと苦笑すると誰もが意外そうな顔をするが、食べ物の論争は些細だが本当に面倒臭いのだ。別にナンとチャパティだけならば小麦粉で発酵か全粒粉で無発酵かの違いが明確にあるので楽なのだが、そこにロティが入り込むと混乱が生じる。私は料理を皆で美味しく食べて楽しみたいのであって、喧嘩の火種を撒きたい訳でも熱狂的信者から刺されたい訳でもない。
クリーチャーにまで渡っていたレポートを回収し、まあ何とかなるだろうと楽観していると、何故かいきなりアークタルス・ブラックが報酬額を提示し出した。しかも、聞き齧っただけの知識を羅列する素人が書く文章に対しての金額を遥かに超越した額を。
「アークタルス様、そんなに沢山いただけません」
「、これはビジネスだ。正当な額の報酬は必ず受け取りなさい、と言うよりも、受け取って貰わないと私が困る」
「レギュラス」
「うん、ごめんね。僕もこのくらいが相場だと思う、ねえ、クリーチャー」
「はい、坊ちゃんは素晴らしい事を成されようとしております」
「じゃあ、私が助言をしてあげようか。申し訳ないと思うのなら、その金額に見合うだけのものを書けばいいんだよ」
最後の最後に正論だがド素人に無茶を言ってくれるメルヴィッドに締められ、仕方なく腹を括る。最近の悩みの種であったソワナの魔法式やフリーズドライの魔法は現在エイゼルに頼んでいるので、彼の了承さえ得る事が出来れば優先順位の変更は可能だ。駄目だと言われたら今回得た報酬を全て彼に渡そう。要は買収である。
今夜からの予定を脳内で組み立てていると、アークタルス・ブラックに呼ばれたので顔を上げた。そこには、何故か眉尻を下げた情けない表情の老人がいる。直前まで、私に報酬を受け取れと説教をした男性と同一人物だとは到底思えない表情だった。
「私の事を、嫌いになってしまったかな」
「……ああ、もう」
90歳児が可愛らしい反応を、との言葉を何とか口元を押さえて飲み込む。
彼の為に今日の食事はトルシー以外、柔らかい料理ばかりを用意したというのに、何故そこまで気を掛けている相手にちょっと正論を言われただけで嫌いになる事が出来ようか。
何と表現すべきか、どうにも彼は少し変人なのだ。変人どころか化物と揶揄される私に言われてはお終いかもしれないが、妙な箇所で情に流され人の心に疎くなる。
「アークタルス様」
「何かな」
「先日仰っていた写真の件、了承を得ましたから後で皆で撮りましょうね」
暗に怒っていない事を告げると、アークタルス・ブラックは子供のように破顔して機嫌を取り戻す。孫と従者に視線で申し訳ないと謝罪され、メルヴィッドに至っては何処まで手懐けたのだと指文字で問われたが、全ての返答として私は微笑を浮かべるに留めた。