曖昧トルマリン

graytourmaline

芹の白和え

 エメラルド色の炎が収まり、見慣れ始めた応接室の暖炉から体を出しながら靴を脱ぐと、魔法で赤外線センサーを付加した電球がひとりでに灯り、視線の先にある吹き抜けの玄関全体に施した訪問者記録用の魔法が静かに発動する。侵入者対策として各部屋に設置した魔法は今日もちゃんと働いてくれているらしい。
 濃い霧のかかった窓の外を眺め、肩から下げた鞄に大きな衝撃が加わらないよう気を付けながら玄関に備え付けているシューズラックに靴をしまいスリッパに履き替える。玄関の前に設置されている曲がり階段を上りながら感圧式の魔法も問題なく動いている事を確認し、屋敷全体を保護している超音波センサーの動作にも不備がないか一通り目を通した。
 侵入者に怯え過ぎだろうと言われるかもしれないが、将来的に騎士団や闇の陣営と敵対する事になるのなら、今から警戒し過ぎなくらいが丁度いい。
 それに、ある程度の力を持った魔法使いならば一瞬で見破り突破が可能な魔力感知式のセンサーを動かしている裏で、重力偏差法のセンサーをこっそり稼働させているメルヴィッドの店と比較すれば大分良心的だ。大体、重力偏差なんて物を使用した探査法を理解出来る魔法使いがこの世にどれだけいるのだろうか、少なくとも私の脳では理屈の触りを説明された時点で理解出来ず実用化など到底無理だとは判ったが。
 脳味噌の初期値設定段階から既に違う事をしみじみと感じながら踊り場から一番近い扉を開けると、極力私らしく模様替えした主寝室が視界に広がる。主寝室だけあって他の部屋よりも若干広く、矢鱈と豪勢なメインバスルームに通じる唯一の部屋でもあった。しかしサブバスルームとシャワールームが別にあるとはいえ、何故メインバスルームが寝室からの直通構造なのだろうか、文化的な側面が大きいとは思うのだが、日本人の私には理解し難い不思議な間取りである。
 こんな広い部屋でなくても十分生きていけるのでメルヴィッドに譲りたい所なのだが、一応書類上の家主は私なので私の部屋という事になっていた。尤も、主寝室、メインバスルーム、そしてウォークインクローゼットと連なっている1部屋を同居人達は遠慮なく好き勝手入り込んでは自由気侭に使用しているようなので、共同部屋兼私の寝室と言い換えれば多少心は休まる気がした。
 唯一共用となっていない、不必要に広いダブルベッドの上に何時の間にか放置されていた本を手に取り、タイトルを読んだ後で杖を振って元あった場所へと移動させる。アメリカで発表された多重人格者のノンフィクション小説、メルヴィッドは既に読破済みなので読んでいたのはエイゼルだろうか。未だ非魔法界の事に感心が薄いユーリアンとは考え難い。
「さて、只今帰りました。ギモーヴさん、ピーター君、それにスノーウィ君」
 所が変わっても相変わらずの子達に帰宅の挨拶をしながら鞄に手を入れ、中から青い花の描かれた白い陶製の壺を取り出しサイドボードの上に置く。様々な春の花が描かれたそれを見て、唯一バスケットの中のギモーヴさんが珍しい反応した。最近忘れがちだが、彼女は霊獣であるが故に壺の中身もすぐに判ったのだろう。
 パールビーズで作ったティアラを頭に乗せ、3本の脚をよたよたと動かしてバスケットの縁まで来ると外に出たいとジェスチャーされたので、相変わらずもちもちでさらさらの彼女を両手でそっと掬い上げ外へ出した。ギモーヴさんは何を考えているか判断の付かない表情のまま壺の下部まで歩いて行き、見上げ、そして何かを納得したように目を閉じて傍らで眠り始める。
 許してくれたのだろう、多分。壺中の彼を受け入れる事を。
 ギモーヴさんがそのまま冬眠に入らないように彼女の周囲の空気を温めてからもう一度壺を撫で、表面に咲くブルーベルを指でなぞった後に部屋を出る。
「おや、エイゼル。そんな所にいらっしゃったのですか、只今帰りました」
「お帰り。思ったよりも遅かったね」
「想像以上に色々いたんですよ。懲りないマスコミやら、NGOだったか市民団体だったかよく判らない組織やら、まあ、姿現しでダイアゴン横丁まで行ったので誰がいても別によかったんですけど、全て撒くには少々数が多くて」
「帰宅が遅れた理由は判ったけど、市民団体がよく判らない」
「一番大きな勢力は犯罪者の遺灰を公共の墓地に撒くなとか、そんな事を顔を真っ赤にして喚いていました。あと死蝋を燃やさずに何処ぞへ寄付しろだとか、私は悪魔の子だから今すぐ殺せとかそういった過激派の団体も幾つか。あれは宗教団体でしょうかね。全く、何処の誰が情報を漏らしたのやら」
「抗議している団体の素性は知りたくもないけど、情報漏洩元は警察関係者か火葬場の職員に決まってるじゃないか。お疲れ様とだけ言っておくよ」
 私の書斎で何かを読んでいたエイゼルは文字の羅列を追う事に飽きたのか、少し遅い昼食を準備しようとキッチンへ足を向ける私に付いて来た。何処か落ち着きがなくそわそわしているように思えるが、気の所為ではないだろう。
「それで、どうだった?」
「何がですか?」
「君があの死体に張った罠の事だよ」
 元々は墓暴きをするかもしれない騎士団員への嫌がらせとして設置した罠であったアレの事を言っているらしい。中々不愉快な結果になっていたと笑えば、さもありなんと言いただけな表情で返される。
「噂では何人か精神病院入りやカウンセラーのお世話になっていて、捜査に支障が出ているみたいですよ」
 口を利けない遺体の前で死者を貶す屑が不幸になりますように、と祈りを装った私の呪いを受け、エメリーン・バンスの事件を担当した人間が次々精神を病んでいるからこそ、他人の不幸に鼻の効くマスコミ関係者が今回も集まったのだ。
 とはいうものの、私が罠として設置した呪いはそう大したものではない。リチャードの遺体に向かって暴言を吐いた人間の形をしたゴミが呪われると発動条件も限定されていれば、彼の遺体に誠意ある謝罪をすれば呪いから解放されると解除条件も簡単なものである。呪いそのものだって、光を反射する物質の中から死蝋化したリチャードが偶に黙って見つめて来るだけの、肉体的には一切負担のかからない軽いものだ。
「君にとって捜査は人命より重いみたいだね」
「私に呪われているのは、反論出来ない死者の前で暴言を吐くような方々ですよ。遺体の前でなければ幾らでも吐いて下さって結構ですし、前だとしても心の中で吐き捨てるのならば呪いは発動しません。大体、物言えぬ相手に無責任な発言をする精神に蛆の湧いた人間が、この程度の事で発狂されても困ります」
「相変わらず破綻してるようで何よりだ」
「そうでしょうか?」
「疑問に思う必要も、理解する必要もないよ。狂っている事が君の強みだから」
 言いながら、エイゼルは何時の間に取って来たのか書斎に置いてあった新聞や雑誌のスクラップを宙に浮かべ並べ始める。魔法界、非魔法界で取り上げられたリチャードとエメリーン・バンスに関する記事だ。
 特にエメリーン・バンス殺害に関しての記事は科学的事実から記者が脳内で作り出した単なる妄想と推測まで幅広く網羅し混沌としていたが、そもそも警察の捜査自体が混迷を極めているのでこればかりはどうしようもない。
 当初の目論見通り、不可解な事件をどうにか理解出来る形にしようと警察があらゆる角度から検分し、遺体を掘り返してまで判明したのは、エメリーン・バンスを殺したのは間違いなくリチャードであったという揺るぎのない事実であったのだ。
 目撃証言を集めて作られた当日の犯人の足取りは、彼の墓に一番近い村から始まり、エメリーン・バンスの家を折り返し地点に、再びスタート地点に戻っている。犯行現場で採取した指紋やDNAも間違いなく彼の物であり、一命を取り留めたエメリーン・バンスの夫も犯人はこの男だとリチャードを示した。
 顔は整形出来る、指紋や掌紋もゼラチンを使用すれば複製が可能だ、目撃証言も参考程度に過ぎない。未だDNAは解答待ちだが、赤血球の分類であるABO式、Rh式、MN式は全て一致、白血球の型であるHLA型もリチャードが犯人だと告げていた。
 それでもただ1点、絶対と言い切れる彼が犯人になり得ない理由が、事件発生の3年以上前の1987年7月26日に殺されていた事である。これが未だに、どうやっても覆す事が出来ない。司法解剖までされたのだから、仮死状態なんて事態もありえないのだ。
 それでも科学的に考えられる極僅かな可能性は、現時点で3つ。
 リチャードの一卵性双生児、彼と全く同じ遺伝子を持つ人間がこの世界の何処かにいて、更に指紋や掌紋も偽造も行って犯行に及んだ、というものもあるが、母親が彼は双子ではないと否定しているだろうから正直現実的ではない。
 もう一方の、彼が骨髄移植のドナーとなり、レシピエントが偽装して犯罪に走ったとする方がまだ説得力があるが、彼は献血こそしたがドナーとなった記録は一切存在しないのでこれも超現実的である。
 最後のこれは複合型で、一卵性双生児がドナーとなりレシピエントが偽装、犯行に及んだ可能性だが、はっきり言って現実感が皆無であった。
 尤も、事実はより科学という名の現実から乖離しているのだが。
 結局、決め手になるどころか現場は益々混乱する中、彼は今日、こうして火葬された。蝋化して腐敗する事はなくなったとはいえ、解剖しなければならない死体の置き場はある程度限られている、何時までも安置所に放置しておくわけにも行かないからだろう。
 高温の炎に晒されて小さくなってしまったリチャードを綺麗な骨壷に入れ、この家に迎え入れた。先程ギモーヴさんが寄り添った壺がそれだ。
 それによって、彼の魂が安寧を得られるかどうかは判らない。そもそも、彼は私がこんな人間だった事に失望しているだろうし、もっと言えば私が関わらなければ彼は死ぬ必要すらなかったのである。たとえ警察に捕まり裁判にかけられたとしても、死刑制度が廃止されたこの国では法に殺される事はない。
 結局、彼の事を尊い英雄だと口先で誤魔化していても、私は始終彼を都合良く利用しているだけの汚い人間の1人なのだ。彼のように、歪んでいながらも尚、前を向いて真っすぐには生きられない。
「そういえば、訪問して来た黒人の刑事さんと現場で会った主任さん。彼等も引っ掛かったようですね。1ヶ月会わなかっただけなのに可哀想なくらいに窶れていました」
「いい気味だ、の間違いじゃないかな」
「そんな酷い事思いもしませんよ。精々、そうか、そうか、つまり君はそういうやつなんだな。と感じる程度です」
「ヘルマン・ヘッセ、だったかな」
「子供の頃読んで軽いトラウマになったのも今となっては懐かしい思い出です」
「君に純粋な少年時代があったなんて信じられない。拷問や虐殺の世界史や人体実験に関した本を平然と読んでた様子なら想像出来るけど」
「読んでいましたよ。ただ、案外その手の物は平気でしたね。全身が腐敗していたり人間の生首齧ったりする魔法生物が普通にいたからでしょうか」
の価値観が狂った原因の一端を垣間見た気がしたよ、理解したくなかったけど」
 パスタを茹でるために水を張った鍋を火にかけ、冷蔵庫から適当な食材を取り出そうとすると、スクラップを消失させたエイゼルが何時だったか暇潰しに読んだ本に書いてあった料理が見てみたいとリクエストをして来る。
「絶望のパスタって名前のイタリア料理だけど」
「あれですか。構いませんよ、今日はメルヴィッドもいませんから」
 名前に惹かれたらしいエイゼルの提案を二つ返事で承諾すると、口を尖らせながら嫌がられると思ったのにと可愛らしい事を言ってくれる。確かに、とてもメルヴィッドには出せない料理であるが、私が食べる分には問題ない。
 オリーブオイル、ニンニク、鷹の爪、そして細めのパスタを用意し、これだけしか使わないのかと視線で訴えるエイゼルに笑顔で肯定する。
 絶望のパスタ、別名アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ。具が皆無なので絶望だとか、シンプル過ぎて料理人の腕がモロバレする危険があるから絶望だとか、そもそもこの2つは全くの別物だとか、説は様々だが由来の解明は専門家に任せたい。所詮私の作るものは素人料理なので料理が生まれた経緯等は然程気にする必要はないだろう。
 そんな事を考えながらニンニクの芯を取りスライスしていると、何だか思っていたのと違うと表情で語っているエイゼルがいたので、ついでに要らない知識を吹き込んでおこうか。
「因みにイタリア語で悪魔を意味するディアボロは鶏肉に香辛料をまぶして焼いた料理で、同じ悪魔でもアメリカで悪魔のケーキというと重いチョコレートケーキになりますね。台湾発祥の棺材板は揚げた厚切りトーストにホワイトシチューを詰めて蓋をした料理ですが、この棺材とは棺桶の事です。日本にもおはぎと言うお菓子に使用する米を完全に搗いたら本殺し、粒を残す程度なら半殺しと、世界には色々と物騒な呼び名の料理がありますよ」
「何でそういう要らない知識ばかり容量の少ない脳味噌に溜め込むかな。出来そのものは悪くないんだから、もっと使い勝手のある情報を入れた方がいいよ」
「無駄ですよ、興味か必要がなければどれだけ使い勝手の良い情報を詰め込んでも最低限度のものしか残りませんから」
「フランス語は読み書き出来るようになったんだろう?」
「だって正確に英訳されたフランス料理の本がないんですよ、この国。当然イタリア料理も、スペイン料理も、中華料理も何も彼も。出版される事を待つより学んだ方が早いので、仕方がないから他の言語も勉強していますよ、今はまだレシピしか読めませんけど。そもそもイギリスは料理に関する本が圧倒的に少な過ぎます」
「変な所で知識欲が発揮される君の脳味噌って本当に残念だよね。それとイギリスに美食と安定した天候を求めるの止めなよ日本人」
「天候は諦めていますが美食は求めたい所ですね、メルヴィッドやレギュラス・ブラックを見る限り舌は悪くないんですから、ちゃんとしたもの作って食べて欲しいです。EC加盟から15年以上経過して、近頃イギリスは料理が急激に進歩していると豪語していて未だこの程度ですよ。農業だってこれから狂牛病、口蹄疫、インフルエンザと目白押しですし」
「ああ、書斎に放置されていたあれ。勝手に読ませてもらったけど、料理の延長で人獣共通感染症のレポートを書く能力はあるんだから、他にも幅広く興味を持ちなよ」
「去年の秋頃、メルヴィッドにも同じような事を言われましたねえ」
 メルヴィッドと同じ感想を抱いた事が不愉快なのか、物凄く嫌そうな顔をするエイゼルを横目にオリーブオイルでニンニクを低温で炒め、軽く色が付いた所で鷹の爪を投入する。隣で沸騰した湯にも大量の塩を投下し、パスタを茹で始めれば完成も近い。
 フライパンを揺すり弱火でソースを温めながら皿とフォーク、炭酸水を用意し、パスタがアルデンテになるのを待ちながら茹で汁を足していると、何をやっているのかと目を見開かれた。多分、既存の化学知識と目の前の事象が結びついていないだけだろう。
「塩は油に溶けないのでここで塩味を付け、ついでに小麦粉の旨味を加え、乳化もさせているんです。茹で汁には麺に含まれるグルテン等の親水性、疎水性両者の特性を持つタンパク質が溶け出しているので、これが乳化の」
「ねえ、。冗談じゃなくて真面目に言うけど、本格的なレポート書きなよ」
「嫌ですよ、恥ずかしい。栄養学以前の家庭科レベルの知識ですよ、10代の子供でも持っている基本知識を書いて恥を晒したくありません」
「ここがイギリスで、しかも魔法界って事を忘れていないかい? 私ですら料理に縁の深い化学的な知識はほとんど持ち合わせていなかったんだよ」
「……まあ、乳化云々は兎も角、料理に関する化学の基礎知識はアークタルス・ブラックに相談してみます、多分反対はされないと思いますが」
「まあそうだろうね。彼さ、最近君に対して盲目的になり過ぎてるから」
「エイゼルもそう思いますか?」
 アルデンテよりも固めに茹でたパスタをフライパンの中でソースと軽く和えてから皿に移し、食事の前に魔法で片付けを始める。
 勝手に洗われている鍋やフライパンの横で行儀悪く立ちっぱなしのままパスタをフォークに巻き付けていると、呆れたようなエイゼルの瞳が銀色の食器に反射した。
「当たり前じゃないか。大体、君の論文を掲載出来るような雑誌がないなら作ればいいとか言って、本当に作ったんだろう。正直、馬鹿じゃないかって思ったよ」
「あの孫にしてこの祖父あり、ですね。逆かもしれませんが」
 流石メルヴィッドに店舗1つを贈ったレギュラス・ブラックの祖父だけあるとしみじみ頷きながらパスタを食べるが、茹で汁が少なかったのか撹拌の仕方が悪かったのか少々油っぽい気がする。パスタの食感は問題ない、辛味も丁度いい、ニンニクも上手く加熱され食欲を唆る香りがするが、矢張り私の技量では未だメルヴィッドに出せる段階には遠いので、彼に出す場合は海老やらキャベツやら沢山の具材で誤魔化した方が無難だ。
 質素な食事をしながら自らの腕を再確認していると、エイゼルの視線が窓の外に向いている事に気付く。つられて私も見てみると、青白い炎の塊が敷地内を横切っていた。
「ああ、バスカヴィル君ですよ」
「不吉な名前だね、また趣味の悪い物質でも作ったのかい」
「命名したのは私ですが製作者はアークタルス・ブラックです、この家を購入した際に施した対侵入者用の魔法だと先日伺いました。青い炎を纏った黒犬の姿をしていて、基本的に湖に霧が掛かると出て来るそうですよ。何でも侵入者を追い立てて湖に沈めるのだとか」
 確認はしていないが、屋敷を譲渡された日の夜に見たあの青い炎の正体もバスカヴィル君だったのだろう。確かにあの時も湖に霧がかかっていた。
 アークタルス・ブラック曰く、家人や客人に対して害を成すような魔法ではないらしいので、何時か間近で見てみたいものである。
「それにしても、バスカヴィルか。ダートムーアから随分離れているのに何でその名前にしたんだい、ここはカンブリアであってデヴォンじゃないよ。まだ隣のノーサンバーランド産のバーゲストの方が合ってると思うけど」
「バーゲストは種族名じゃないですか、マスティフにブルドッグと名付けるようなものですよ。それとあのドラマ、気に入ったんですか?」
「それなりにね。ドイルは昔読んだ事があるし」
「有名所ですからね、メルヴィッドもクリスティをご存知でした」
「ポーやクイーン、チャンドラーだって知ってるよ」
 タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない。ハードボイルドとは程遠い性格と顔立ちでそう言いながら悪戯っぽく笑い、両手の指同士を合わせて空中で脚を組んだ。国産探偵の模倣なのか、それとも多重人格内のイギリス人の模倣なのか、いずれにしてもこちらはエイゼルによく似合う仕草である。
「その格好、絵になりますねえ」
「そうかな」
「まあ、貴方は何をやっても絵になりますよ。知ってるとは思いますが」
「知ってるけれど、みたいに判り切った事を態々口に出して言ってくれる人間はいなかったかな」
 何処からともなく柱時計の音が1回聞こえるとエイゼルは指や脚を解いて実りのない話は終わりだと態度で示した。
「夜まで一眠りしてくるよ、後の準備はよろしく」
「はい、おやすみなさい」
 フォークを持ったままの手を挙げるとエイゼルは静かにその場から消える。普段と比較すると、矢張り今日の彼は少々落ち着きがなかった。
 しかし、そうなるのも仕方がない。遂に今夜、待ちに待った肉体が手に入るのだから、テンションも多少は高揚するだろう。
 全く可愛らしい子だと緩む口端を抑えながら残りのパスタを片付け、さてこちらも最終確認をしようと顔を上げ外を眺めると、一段と濃くなった霧の中で元気に走り回っているらしいバスカヴィル君の青い光を見付けた。
 明日のこの時間には、きっと彼にもエイゼルを紹介出来るだろう。大した事ではない筈なのに、そう思うと何故か緩んでいた口端を抑える事が出来なくなった。