曖昧トルマリン

graytourmaline

菜の花と炒り玉子の混ぜご飯

 薄気味悪い霧が立ち込め小雨の降る屋根の上から、一昨日2月に入ったばかりのロンドン中心部を眺めるが、この土地から離れていた期間があまりにも短かった所為なのか全く懐かしさを覚えなかった。精々、相変わらず霧と雨が多いくらいにしか感じない。
 現在は遠く離れたカンブリア州に居を構えているのでこの辺りの天気はよく知らないが、同じ国内なので今日も濃霧と雨ならば多分昨日も濃霧と雨で、きっと明日も濃霧と雨なのだろう。
 足元のセミ・デタッチド・ハウス、2棟の2階建て住宅がシンメトリー状に融合している住宅の、向かって左側の家屋の煙突に腰を掛け星の見えない夜空を仰ぎながら時間を潰していると、程なくして目の前にエイゼルが姿を現した。
「こっちは終わったよ、次よろしく」
『早いですね』
「君に比べれば口は上手いからね」
 リストに掲載された1人、私にとっては然程重要ではない為名前も覚えていない自殺未遂常習者の説得を終え、肉体から魂を切り離すまで凡そ10分。たとえ自殺願望があった相手とはいえ、一体どのような話術を使えばこんな簡単に人を殺す事が出来るのだろうか。私なんて服従の呪文でも使わない限りどうやっても他殺にしかならないのに。
 流石エイゼルだと言うと私のコミュニケーション能力と言語処理能力が落第確定なくらいに凄惨極まっているだけで、普通の事らしい。彼等の普通は世間の特別分類相当だと思うのだが、どうなのだろう。
 別に、だからといって心底知りたい事でもないので時間潰しも程々に切り上げ、雨に濡れる屋根の下へと体を滑り込ませた。
『乱雑な部屋ですね』
 整頓されていない棚から溢れた本に、私にとっては今は懐かしきカセットテープの山。床には食品の包装紙や食べ滓がゴミ箱の周囲に散乱している。数年前に売れていたバンドの黄ばんだポスター、ほとんど手の付けられていない参考書、その間からちらりと見える錠剤の詰まった茶色の薬瓶。そして私の来た時代ではカセットテープと共に遺物となっている、重たくて大きなラジカセ等に埋もれるようにして年若い青年がベッドで横になっている。
 左手首には夥しい数の躊躇い傷、しかし首筋は綺麗で皮膚の上を刃が滑った形跡はない。
 計算するまでもなくBMIで40以上を叩き出しそうな肥満体で、不健康そのものな色合いをしている肌、特に顔面は吹き出物に覆われている。一瞬、誰かに似ているなと思ったが、数年前に殺したダーズリー家の男連中であった。
 主にカロリーの高い食品を摂っているようだが、散乱しているパッケージを見る限りダドリー・ダーズリーと同じようにスナック菓子にジャンクフードばかりなので基本的な栄養素が欠乏し、栄養失調を患っているだろう。
 尤も、彼は精神的に既に死んでいるし、肉体的にもこれから死ぬので大きな問題はないのだが。しかし、どうやったらここまで醜く太る事が出来るのか、日本人だったらこうなる前に糖尿病等の病気であの世に行く事がほぼ確実なので、逆に興味が湧いてくるのも確かである。流石欧州一の肥満大国という所だろうか。
 必要のない考えはこの辺りで止めておき、久し振りにハリー以外の肉体に入る事にした。が、予想以上に辛い、というか、鈍くて重い。
「何ですかこの体」
 喉から出るくぐもった高い声に眉を顰めるも、体の動き全てが鈍く感じ顔面の筋肉を動かせた気がしない。ただ単純にカロリーを取り過ぎただけで、よくもここまで醜く太れるものだ。この筋肉では運動らしい運動もしていないし、出来ない。
「そんなに酷いかな」
「まだ死にかけていた猫に入った時の方が楽でしたよ」
 一刻も早くこの体を殺す為、エイゼルの本体が入った底知れない闇色の立方体を手の間、或いは腹の上に出現させて生気を注ぎ込む。そこまで嫌かと視線で尋ねられたので首肯すると、彼自身は瀕死の猫も肥満児もどっちも御免だと非常に素直な意見が返って来た。
 自分に正直なエイゼルに苦笑しつつ改めて辺りを見渡すと、つい最近1ポンド紙幣から姿を消してしまった男性が由来の科学雑誌が束になって手の届く範囲に転がっている事に気付いた。参考書は新品同然であるが、知識欲自体はあったらしい。
 それを見て昼間の会話を思い出したのか、エイゼルは何気なく指先を合わせながら此処に来る前に私宛の手紙を受け取ったと告げる。
「メアリー・スペンサー宛てになってたけど、君のペンネームだよね」
「偽名らしくて判り易いでしょう」
「まあ、食糧管理者を意味する職業姓の人間が食品に関する事を書いてれば、確かにそう思えるけどね。メアリーは何処から?」
「メルヴィッドの肉体を作る為に命を下さった方の名ですよ、書類上は彼の義母ですね。最初は彼女の名前をそのまま取ってメアリー・ガードナーにしようと思っていたんですが、判り易過ぎると却下されました」
 メルヴィッドと同じガードナー姓では私が書いたと一発で露見するからもうちょっと捻れと言われたので、センスのない脳味噌を必至に絞って作った名前を見せた瞬間、所詮私の命名感覚はその程度かと嘆かれた。しかし、そんなものは今更である。比較的真面目な内容の論文なので極普通のありきたりな名前くらいが説得力だってあるだろう、きっと。
 変な名前か地味な名前しか作り出せない残念な私の脳に苦笑し、諦念の表情を見せてから手紙の内容をエイゼルに尋ねた。
「手紙の差出人はシェアード・ユニバース誌からですか」
「そう、その雑誌のデイヴィッド・ジョーンズって編集者から。彼が君の担当編集? 論文読んだけど結構いい出来だって褒めてたよ、その割に再校は大変そうだったけど」
「兼、編集長ですよ。彼とハウスエルフで回している雑誌なので。しかし、あんな感じでよかったんですね、安心しました。エイゼルもありがとうございます。準備に集中し過ぎて手紙が来ていた事に気付きませんでした」
「勝手に手紙を読まれても全く怒らない辺りが君らしいね」
 読まれて困る内容は手紙に書かないし受け取らないと告げれば、同意を示すように軽く肩を竦められる。最悪、第三者に知られては困るような物を書く羽目に陥ったとしても、件の馬鹿を釣った手紙のように地味に手の込んだ物を使用するに決まっていた。
 その程度には、私だって賢明なのである。
「暇潰しに訊くけど、あの雑誌は結局どんな方向を目指しているんだい」
「魔法使いが知るべき科学、を掲げていますがアークタルス・ブラックが出資しただけあって若干保守寄りですね。ただ、科学に極端な賛美や偏見等のフィルタを掛ける事を禁止しているので知識としては割と中立で正確です」
「ああ、成程。君の書いた狂牛病の論文だってマグルを見下している訳じゃなくて、ありのままの事実を科学的に判り易く書いているだけだ」
「別に非魔法界式の畜産を止めろとは言っていませんからね。親マグル派を自称して肉骨粉を使用している馬鹿は滅びろ、程度の清い思いを込めて書きはしましたが、当時書き手が何を思って書いていたかなんて読者には判りませんし」
「君は本当に、ある一定の物事に対して全く容赦がないよね」
「私の起爆装置に成り得る要素は、食べ物への冒涜、親しい方への中傷、それに忘却術の3点のみですよ?」
「そうかな、私が以前爆破させたダンブルドア賛美は?」
「ちょっと違うような気がします。スペック賛美には同意しますし、性格を賛美されても相手の評価が一定期間地の底に這う程度で感情の爆発はしません」
「ゼロには行くけどマイナスは突破しない、と」
「ですね。だからあの日の深夜、私はエイゼルに対して怒らなかったでしょう?」
「そう言われると、そうだったね」
 それに食べ物に関しての威力だって精々爆竹程度、中傷もちょっと呪ってみたり肉体言語で愉快なお話をし合う程度に抑えられる。私にとって許し難い最大限の導火線は最後に挙げた忘却術のみで、他の2点はおまけみたいなものだ。
 エイゼルもある程度はそれを理解しているらしく、尻の穴で蛇を孕む勇気はないと懐かしい言葉を持ち出して来る。別に蛙でも構わないと妥協案を示してみるも当然断られた。仕方がないのであの浮世絵の如く蛸2匹辺りまでレベルを下げておいてあげよう。
 こんな肉体の割に中々しぶといので暇潰しに下らない事を考えながら視線を逸らすと、ラジカセとテープがほぼ占領している勉強机らしき物体の上に置かれた紙が目に留まる。安っぽいノートの切れ端のようにも見えたので今迄気付かなかったが、起き上がって確認するとどうやら短い遺書らしい。
「態々書かせたんですか」
「まさか、これが勝手に書き始めたんだよ。読めないくらいに酷い癖字だけど、私には関係ない事だから指摘も解読せずに放っておいた」
「私の前に現れた黒い天使様が云々と書いてありますね。まあ、エイゼルの事が具体的に書かれていないので別に構いはしませんが」
、それ解読出来るの?」
「メディカルアルファベットで書かれたカルテを読まなければならない機会もありましたから、一見意味のある文字群と認識出来ない線の羅列には嫌でも慣れました。私だけでなく、薬剤師をしていたメルヴィッドも解読出来ると思いますよ」
「じゃあメルヴィッドにお土産としてこのコピー渡したら喜ぶかな」
「止めてあげて下さいね」
 風の噂では全世界共通で悪筆が圧倒的に多いとされる職業、医師と関わり合いがある故に育ってしまった不憫なスキルを、全く重要ではない事象に使ってくれと頼んでも殴られるだけだろう。何故かは判らないが、相変わらずエイゼルはメルヴィッドの嫌がる事を積極的にやりたがる。勿論、間違った解釈の意味合いで。
 年齢が近い所為で反発しているのか、本当に心から自由である故の気紛れなのか、この辺りは私程度の能力では判断出来ないので問題そのものを棚上げしておく。別にどちらだとしても、それ以外の理由でも、特に私は困らない。
「因みにアメリカの新聞で知った話ですが、21世紀に入ったばかりの、未だカルテが完全に電子化されていない時代だと、その読む相手の事を一切考慮していない杜撰に過ぎる文字の所為で年間7000人の人間が死んでいたらしいですよ」
「普段通りの要らない知識だけど、興味深くはあるね。医者は他人の生死を左右させる存在だという事がよく判る数字だ」
「同じく他人である薬剤師の貴重な時間も奪う辺り、罪深い職業ですよね」
 言い終わった後、強烈な目眩を感じベッドの上に倒れ込むと、そろそろかとエイゼルが呟きほとんど実体に近い状態まで来ている体を確かめ、透明度が低くなった手をゆっくりと握り込む。
 無駄話をしている間に大分生気を与える事が出来たらしい。呼吸が細くなり、睡魔に襲われた時のように瞼が重く感じた。耳の奥から聞こえる心音が弱くゆっくりとしたリズムに変化して、間近に迫る死を懸命に告げている。
 このままみっともなく死ぬのも癪なのでベッドに入り直し、瞼を閉じた状態で仰向けになった。手中の黒い箱を先程と同じように腹の上に置き、まともに扱えなくなって来た肉体からゆっくりと力を抜いていく。唇や舌は辛うじてまだ動くが、落ちた瞼は恐らくもう動かす事が出来ない。
「所でさ、君の抱えている黒い箱。私の本体が入っているんだろう、何で態々目隠ししているのか気になるんだけど」
「エイゼルが、この体に乱暴しない、と誓うのなら、教えます」
「取り敢えず言いたい事は、怒られるような物の中に隠して欲しくなかった、かな」
 実体を持ち始めた拳が箱の側面を軽く叩いたのか、私の力で覆っている深い闇色の影が揺らめく感覚を手が知覚した。中に入っている物体が物体なので、一応内部は冷暗になっており除湿も付加してある。早い話が、この箱は小さな冷蔵庫であった。
 その魔法を解読したのか私の閉心術が雑だったのかは判らないが、エイゼルはベッド脇で盛大に溜息を吐き、確かにあの時クリスマス・プディングが手元にあったと呟く。
「明日、覚えているように」
 エイゼルがどんな表情をしているのかは判らないが、メルヴィッドが怒った時のように6パイントの牛乳ボトルで殴られるのだろうか。しかし日付を宣言をしてくれる辺り、良心的ではある。
 ベッドで横になっているというのに平衡感覚も消失し始め、まともに口も開けなくなり、会話をする余裕も失せて来た。とはいえ、思考は相変わらず呑気なものである。
 気遣っているのか論っているのか、エイゼルの声が遠くに聞こえ意味を理解出来ない。久方振りに体験する死を抵抗もなく受け入れ、重たい体から力を抜く。
 すると呆気なく体は力尽き、同時にただの肉塊となった物質から私が剥がれた。未だ体温はあるし見た目も眠っているようにしか見えないが、名も覚えていない彼は今この瞬間、この場で、彼の望み通り安らかに死んだのである。
『さて、ではエイゼル。荷物はこれになりますので盗られないようにだけ気を付けて、一応量産品の杖と、財布にはある程度のお金も入れてありますから、打ち合わせ通り明日まで生き延びて下さいね。くれぐれも犯罪だけはしないように』
「判ってるよ、私だってそこまで気は短くない。でも、説得力を持たせる為とはいえ、肉体を得て早々にこんな小賢しい真似をする羽目になるとはね。迎えのメルヴィッドが早く見付けてくれる事を祈るよ」
『判りました、伝えておきます』
「嫌味じゃないのが何とも言えないな。心遣いは嬉しいけど、是非止めて欲しいよ。そんな事知ったら判ったと言って絶対遅れて来る」
『ふふ、メルヴィッドも困った天邪鬼さんですね』
「私にしてみれば笑い事じゃないんだけど。あとはさ、偶に私達の事を纏めて子供扱いするよね。ユーリアンが怒る原因だから気を付けた方がいいよ」
『無理です。100年近く生きている爺は、側に居てくれる今時の若い子を沢山可愛がりたいんですよ。私然り、アークタルス・ブラック然り』
 独りの老人は寂しいのだ。だから私は彼等を、アークタルス・ブラックは孫やその友人達を心行くまま可愛がる。若干、アークタルス・ブラックはやり過ぎな面もあるような気がしないでもないが。主に金銭的な意味合いで。
 怒っているような、呆れているような、何とも表現し難い顔をしたエイゼルは、私の可愛がり方は可怪しいと告げて大きい割に軽いトランクキャリーバッグを持ち上げた。
「じゃあ、そろそろ行くよ。また明日」
『ええ、また明日』
 薄い霧のように溶けたエイゼルを見送り、さて私も帰ろうかと一つ伸びをする。
 彼の為に死んでくれた傍らの遺体に感謝の意を述べ、冷たくなりつつある両手から黒い箱を消して胸の前で組ませた。
『それでは、さようなら』
 眠る彼を残して私も外へと出ると、先程と何ら変わらない深い霧と小雨が闇夜を覆っていた。人殺しをするにはうってつけの灰色の夜だ、欲望のままに人を殺さずにはいられないシリアルキラー辺りならばそんな台詞を口にするだろうか。
 しかし、何度も言うように私にとって殺人は手段であり、殺人そのものを目的とするシリアルキラーとは違う人種なので彼等の心理は計りかね、全ては妄想上の産物に過ぎない。
 第一、命を奪う減算ばかりしている殺人鬼とは違い、今回の私は人間1人分の命を同じく1人分の命に変換しているので等式が成り立つはずである。まあ、メアリー・ガードナーを除いたそれ以前の殺人は完全に減算であるがその辺りは目を瞑っておいて欲しい。
 今の世の中、直視しない方が幸せに生きていける事象は思いの外多いのだから。