■ 時間軸:お爺ちゃんが意識を取り戻した後
■ 67話『メロンのブランデー風味』と多少かぶっている
■ 2部全般を通してギモーヴさんが考えていた事
■ それなりに働きたいギモーヴさんが文句垂れてるだけ
みつあしかみさま
質の悪い土に囲まれた身体を少しずつ動かしながら此度で何百度目の春を終えたのかと寝ぼけ眼で考えてはみたものの、思考した端から記憶が靄のように漂い消えてゆく。長らく何も口にしていない所為なのか、そうでなければ、吾もいい加減に歳なのか。
なれど、どれ程大雑把に見積もろうが精々千回から千五百回程度しか春を経験していないのだから、神として未だ弱年と称しても支障あるまい。矢張り、頭が鈍っている原因は腹が空いているからなのであろう。
さてはて、記憶を辿った所で腹は満たされぬが、一度湧き起こった疑問を放り出すには時間が有り余り過ぎている。最後に金貨を口にしたのは一体どれくらいに昔の事であっただろうかと内なるものに問いかけてみるのもまた、正当な暇潰しの一つであろう。たとえ、それが、どれ程虚しくとも。
時には夜空を横切る光帯の如く輝き、時には主人の離れた蜘蛛の巣の糸よりも細い記憶を辿ると、朧げではあるが、故郷から程近いあの土地で暮らしていた時期が真っ当と呼べる最後の食事だろうと思い至る。
財を成す瑞獣やら、天災を告げる霊獣やらと、大層持て囃す輩に盗まれ、窮屈な箱に詰められて陸と海を渡った末に辿り着いたこの土地では、金貨どころか粗悪な貨幣の一片すら与えられなかった。今もこうして望まれた通りに運気を上げ店を繁盛させ、疫病が流行する兆しを察せば一声か二声、玲瓏たる声で忠告をしてやっているというのにも関わらず。
粗悪な砂礫で寿命を繋ぐのにもとうに飽いており、ひもじさに耐え兼ねて時折玻璃の箱の中に入れられる蜘蛛に蟋蟀、蜻蛉のような吉祥の虫を人目を忍びながら食んで飢えと乾きを誤魔化してはいるが、四つ足のけだもの共と同じものばかり食べていては霊力が削がれ、胃の腑も干涸らびてしまう。
思い立ったが吉日というではないか、良い加減に頃合いなのであろう。何時頃か前にやって来た雄の蟾蜍が、何度目前かの秋の暮れ辺りからしきりに関係を持とうとしている、その一挙一動が煩わしい事もある。姿形が僅かに似ているだけに過ぎぬ疣だらけの下等生物に欲情されるなど怖気立って仕方がない。
蚩尤が牛に恋せぬように、彭侯が犬と番わぬように、人の子とて毛深い狒々に劣情を抱いたりはせぬであろう、青蛙神たる吾も足が余分に付いている蛙に情欲は沸かぬのは道理である。蛇足ならぬ蛙足、という訳だ。
然程柔らかくもない土から這い出て欠伸を一つ零し、瑞獣たる吾が擁する福運を受け取るに相応しい人間がいないものかと玻璃の外の景色を眺めると、これはまた随分お誂え向きの男が居た。
美しく知的な顔立ちに甘い声色を持つ成熟しかけの雄、人の子の中でも大層美麗な部類といえ、当人も意識しているのか一つ一つの仕草は洗練されている。その癖、纏う運気が軒並み貧相で涙を誘う程に哀れであり、中でも博奕に対しての凶の相がありありと見て取れた。この人の子を金銀宝玉で飾り立てればさぞ見栄えする事だろう、これは吾の力の発揮のし甲斐があるというものだ。
吾の所までやって来た男に向かい、さあ手に取るがいいと無言で促せばいとも簡単に申し付けに従う。物分りの良い者はどの種族であろうと好ましい、その上見栄えも良く、特に瞳などは紅玉の如き美しさを持っていた。何よりも、吾の力を存分に発揮出来るようなみずぼらしい運気の持ち主なのが心嬉しい。
この人の子に神たる吾を侍らせる権利を与えてやろう。富の象徴とも取れる豊かな体を揺すり吾の考えを伝えてやると、男はすぐさま金貨と文字で前権利者との契約を履行しその権利を正式に譲り受けた。
何故かあの忌々しい蟾蜍も買い取っていたが、扱いから見るに吾とは違い四つ足は呪術の材料となるのは明白であった。ふむ、虫を食らう事でしか寿命を延ばせず他に特別な能もない雄が金華将軍たる吾に分不相応な懸想をした罰が当たったのだろう。
紅玉の目を持つ人の子に連れられ晴れた気分でやって来た新たな家は小さな石造りで、尚且つ、誠に理解し難い奇妙な風習があった。まさか着いて早々に紐で縛られた挙句、天井から吊るされるとは思わなんだ。
察するに悪霊払いの類であろうが、斯様な夷狄の奇習は全く以て度し難い。祖国の価値観では凡そ理解が及ばぬ屈辱的文化である。純潔を保ってきた乙女であり、神たる吾に対して随分な扱いではないかと憤り、解約に踏み切ろうかと考えたが、その後の待遇により考えを改める事とした。
理不尽に吊るされ意識を失った吾を解放したのは、多少見目が映える程度の凡庸な小姓であった。しかしこの小姓、紅玉の目を持つ主人と比較すると風貌こそ劣るものの、細やかな気遣いは凌いでいた。主人同様運気乏しく、加えて平時より物狂いの相が見られるが、出過ぎた欲や害意がない点が好ましい。この小姓ならば、卑しい金銭欲から吾が勝手に売られる心配をする必要もないだろう、そのように思えるような召使いであった。
小姓は介添えに関しては非常に優秀な能力を持ち合わせており、中文こそ解さぬものの、青蛙神たる吾が好むものをよく知っている。紅玉の主人の代わりに二晩か三晩毎に上等な金貨を与え、寒暖の差に弱い事を承知してか柔らかな布地で常に快適な寝床を作り、肌の手入れを欠かさず行い、非常用の食事として真珠に似た白い玉と透き通る糸で編んだ冠を献上するその働きぶりは見事なものであった。何銭にもならぬ屑金で飢餓を紛らわせ粗末な橋の下で雨風を凌ぐような男を富豪にしてやった過去もあるのだ、全ての食事に金貨を与えられるような贅はないが、それでも十二分に満足の行く部類であろう。
吾を吊るし上げた紅玉の主人も小姓からの進言で気持ちを改めたのか、直後に黒い宝玉の嵌った金の指環を献上して来た事も、勿論大いに評価出来た。顔立ちから察するに紅玉の主人の親戚筋らしい魂魄は吾の事をよく睨んで来たが手や口を出された訳でもない、吾は元より寛大であり、待遇もそこそこ気に入った。些細な悪意ならば目を瞑ってやろう。
そうして与えられた金貨で心身共に満たされ福運を呼び込む霊気も十二分に戻った頃、雅量に富む心でもって男に運気を与えてやろうとしたのだが、しかしこれがどうにも上手く運ばない。何故か。男には金欲がほとんど無かったのだ。
求めれば求めるだけ与えられるというのに、紅玉の主人には天運から与えられる金銭を一向に欲しがる気配が欠片もない。昼夜勤勉に働き、仕事を熟した分だけを給与として受け取る。それだけだ。求められなければ与えられないのだ、神たる吾とて制約は存在する。
賽子、富籤、闘蟋、何でも構いはしない。些細な賭け事の一つでもしてくれれば忽ち大富豪にしてやれるというのに、紅玉の主人はそれも求めない。
金品を献上したのだから青蛙神だと承知している筈であろう、その上でのその態度、全く以て理解し難く、時には腹立たしさすら覚えた。多少の力が働き、他の人間からの贈品はそれなりの物となっているようだが本意ではない。気の所為か近頃運気が上がった程度の認識では青蛙神の名折れである。
さりとて、強引に運気を上げるのは頂けない。そのような事をされた人の子は往々にして破滅してしまった経験からである。尾が取れたばかりの幼き青蛙神は力の強さと矜持の高さ故そのような間違いを犯してしまうのだ。吾にも斯様な日々が無かったとは言わぬ。
決定的な力を行使出来ぬまま手をこまねている内に冬になり、年が明けた頃にどうにかこうにか、何とも中途半端に発揮された力で屋敷を一回りだけ大きくする事に成功した。すかさず件の小姓が礼の品として青く染め上げられた花が散った陶製の壺を献上に来たのだが、一方的に受け取るなど吾の矜持が許さぬ。
あの紅玉の主人はたった一人の小姓を常に手元に置き、大層可愛がっている、そして小姓はたった一人の主人を慕っている。ならば小姓の運気を上げる事で連鎖的に紅玉の主人へ報いる事が出来るだろうと考えたが、すぐに甘い考えであったと現実を突き付けられた。
欲が少ないとは感じ取っていたが、なにも、頑なに禁欲的な所まで主人に合わせる必要はないだろうに。
主人同様、金銭への欲求が著しく乏しい小姓に流石の吾も苛立つ。吾は金運を司る福の神であり、愛玩されるだけの獣ではないのだ、食って寝て生殖するだけの理性の欠片もない四足共と同じ扱いなど断じて受け入れ難い。
青蛙神として迎えられたにも関わらずそのように扱われずにいた不満が、冬の終わり頃、遂に爆発した。無理に力を行使し破滅を呼び込むつもりなど毛頭無かったのだが、何百もの時節の中で抑え込んでいた我慢が矜持という火種を抱え限界に達してしまったのだ。
結果と言えば、散々であった。
不満を糧として呼び込まれた金運は、怒りに任せ尤もらしい理由も連れて来た。外出した先で小姓が大怪我を負ったのである。
紅玉の主人は小姓の怪我が癒える迄の間、理性とも妄執とも付かない歪んだ感情にに支配され、人の子としての真っ当な生活を送ろうとしなかった。吾の食事の面倒どころか己の食事や睡眠すら拒絶する有様で、常に不安定な精神に引き摺られるように元から希薄な運気は吾の力を以ってしても底をついてしまう。いつの間にやら増えていた紅玉の主人と兄弟であろう色違いの目を持つ主人も酒を呷るばかりで、先の主人や小姓同様に、この人の子も吾の力を呈示出来るような欲深き者ではなかった。
しかし、力の暴走により引き起こされた嵐は、吾と主人と小姓の間に思っていた程の傷跡を残さなかった。
黒の上を滑る光が虹色に分解される固い膜で目を覆ってしまった小姓が、その物騒な見かけに反して相も変わらず呑気であったのが幸いしたのか、主人は時を追う事に剣呑さを拭い遂には今迄と変わらぬ埋没した日常へと回帰して来た。はて、主人と小姓の立場は実は逆であったかと訝しんだが、どうやら当人等の気質の関係で逆転したように見えただけで、矢張り主人は主人であり小姓は小姓であるとこちらも回帰する。
誰かが吾に求めぬ限りいずれまた同じ事が起きるであろうが、考えてみると、青蛙神と理解しているにも関わらず豊かな生活に対する欲求を蔑ろにする人の子等が悪いのだ。吾を敬うだけで力を求めぬとは冒涜と怠惰の極みである。
未だ青い人の子も成熟すれば吾の偉大さに気付くやも知れぬと、今はそのように思う事にしよう。或いは、人の子等の子孫が吾の力を求める日がやって来るかもしれぬ。吾は貞実なのだ。故郷を遠く離れてから初めて正統な神饌である金貨を存分に与えられた恩は決して忘れぬ。必要とされてから運気を上げてやっても決して遅くはないだろう。
そして、その為には吾自身が人の子等よりも生きねばならぬ。何の事かと言えば、小姓が怪我をしてからこの方、紅玉の主人が人の子として必要な大半の行為を蔑ろにしていた事もあり、煽りを食らった吾も真っ当な食事を与えられていないのだ。
であるからして、少々奇形ではあるが丁度良い具合に現れた黄金虫を糧とするのは、全く理にかなった行為なのである。