■ 時間軸:お爺ちゃんが意識を取り戻した後
■ 67話『メロンのブランデー風味』に詰め込めなかった裏話
■ ゆで卵を料理出来ない呪いにかかっている分霊箱達の話
■ エイゼル作の残念料理についての詳細
■ ごく普通に家族ごっこをしているエイゼルとお爺ちゃん
■ お爺ちゃん視点
ハードボイルドには早過ぎる
入院中でも全く動じていなかったというギモーヴさんを手渡しながら、食材の入った紙袋を抱えたエイゼルがそう告げた。何でもメルヴィッドは外せない用事があるらしく、本日は病院食にしようかと決断しかけた所で、態々エイゼルが名乗り出てくれたらしい。
病院食という物体は不味いと相場が決まっているものだが、ここの病室はランクがランクなので例外に当てはまり、お貴族様御用達の食事が提供される。ただ、矢張りそれよりも、メルヴィッドが作った食事の方が美味しく感じられたし、何より嬉しかったのだが。
「エイゼルが態々作ってくれるなんて意外です」
「君の為なら、私だって食事を作りたいんだ。メルヴィッドばかりいつも構ったり甘やかしたりして、狡いじゃないか」
「そんなに私の事を思って下さっていたんですね。それで、本音は?」
「面白そうだったから」
「そちらの方が余程素敵な理由ですよ」
食べる事は生きる事、それに楽しみを見出だせるのならば何よりである。幼子のような好奇心で動くエイゼルに笑いかけながら、ギモーヴさんにとても良い事だと同意を求めた。
髪は剃り落とされ、義眼にサングラスとなった姿でも私だと判るのか、それとも誰であろうと全く気にしていないのか、ギモーヴさんはもっちりした体を緩慢な動きでたぷんと揺すり、手の平の中で目を細めるような仕草をする。
同意は得られなかったが今日も変わらず愛らしい彼女を鑑賞し尽くしてから視線をエイゼルに戻すと、紙袋から取り出され、小さなキッチンに並べられた食材を眺めながら腕組をして何やら考え込んでいた。彼の目の前に存在するのは、挽き肉、玉葱、市販のカレールー、それにパックされたままの卵が10個と、手作り感が溢れる不格好な丸パン。最後の2つは別にして、お手軽なドライカレーかキーマカレーを作る為の材料だろう。
恐らくメルヴィッドが書き残してくれたであろうレシピを眺め、伊達眼鏡越しに黒い目がぱちりと瞬く。
「全部一緒に大鍋で煮込んでもそう変わらない物が出来そうだけど」
「完成した物質を消化器系に全力で詰め込んでいいのならそれでも構いませんよ。消費する割合は責任を持って貴方が9、止められなかった私が1でどうでしょう」
「書かれた通り作ろうかな」
便利な調味料の1つとして数えられるカレールーだって、そこまで万能にはなれない。丸パンと殻付き卵と皮付き玉葱が沈下しているカレー風味の茶色がかった液状の何かを錬成しようとしたエイゼルに、食べられなくはないが恐らく不味いだろうと指摘するとすぐに考えを改めてくれたようである。
手持ち無沙汰となり何か手伝おうかと思ったが、書いてある通りに作るだけなので半分目が見えない私がいても邪魔になるだけだと一蹴された。仕方なくベッドの上で雑誌を広げるが内容が頭に入らず背中がむず痒くなり、成程他人が料理を作っている間はこんな気持ちになるのかと密かに苦笑する。メルヴィッドは簡単な作業や味見程度の事ならば手を出す事を許可してくれていたので、何から何までやって貰えるのはとても新鮮な感覚だった。
時折、飴色とは具体的に何色なのか、だとか、ゆで卵を作るレシピがない、だとか若干どころか前半が大分不安な独り言も聞こえて来るが、直接こちらに聞きに来たりはしないので食べ物の領域内には収められているのだろう。まな板が刻まれる音や洗剤の焦げる臭い等、明らかに駄目なレベルの行為は今の所していないし、作っているのはカレーなので余程の事がない限りは復帰させる事が出来る。
第一、彼も一応ホグワーツ主席であった身でありレシピも手元にあるのだから、目に余る程の奇妙な冒険はしでかさないだろう。通常調理なのに玉葱が飴色になるまで10分とかからなかった事には若干の不安を覚え、卵の茹で時間にも問題が発生しているようだが、玉葱はこの後煮込む筈だし、卵は噂によると8時間茹で通しても特に問題ない味に仕上がるらしいので、極端に短い時間で無ければごく普通のゆで卵が完成する筈だ。
どのようなカレーが出来上がるのかと不安と好奇心を等分で抱え込みながら、ギモーヴさんのお腹を撫でるセクハラをして時間を潰していると、程なくしてもうこれでいいかと妥協の言葉が聞こえてきた。
「、多分出来たよ」
「今行きます。因みにどんな味に仕上がりましたか?」
「レシピには味見しろなんて書いてなかったからしてない」
「然様ですか」
味見をしていない初心者の料理。この言葉を聞いて不安が膨らまない人間が果たしているのだろうか。今度彼がキッチンに立つ機会があったら、最終段階前に必ず味見をするように注意する事にしよう。
イギリス料理は基本的に薄味であるからその程度ならリカバリー出来る筈、入れられたのはカレールーだけで変に癖のある調味料が大量投下されていない事を願いつつテーブルまで足を運ぶと、ひと目でそれが無駄な行いだった事を悟った。
刺激臭はないが、サングラスをしていても判る毒々しい程に鮮やかな赤。その赤い液体にぷっかりと浮かぶ、オレンジ色をした複数の丸い物体、あれは茹で上げられた卵だろうか。
「エイゼル」
「何」
「随分……気合の入った色のカレーを作りましたね」
「ああ、まあね。飴って青とかピンクとか奇抜な色が多くてどんな色か想像出来なかったから、取り敢えず棚の調味料の中で一番色の強そうなパプリカ粉で玉葱を炒めたんだ。それとも隣のターメリックが正解だった?」
「飴色は鼈甲飴色の略で、刻んだ玉葱を30分以上炒め続ける事によって生まれる色です。なのでパプリカ、ターメリック双方不正解ですが、それでもスイートパプリカパウダーを手に取った貴方の判断力に最大級の賛辞を送りたいと思います」
匂いからして唐辛子系ではないとはすぐに判ったが、もしも赤唐辛子で味付けしましたと言われた日には即処分対象になる事間違いない。パプリカもトウガラシ属なのだが、今はそんな野暮ったい突っ込みはしないでおこう。
皿の中で存在を主張している卵を見つめながら席に着き、何故輪切りにするなり、くし切りにするなりしなかったのかと今にも問いただしたくなる衝動をぐっと堪えながらスプーンを握り、赤い液体を口に運ぶ。
「どうかな」
「……カレー風味のグヤーシュ、ですかね」
「グヤーシュって?」
「ハンガリーのスープです」
見た目通り、パプリカが強力に味を主張しつつ、裏でカレーが頑張って必死に手を振っている。カレーの横辺りで玉葱の辛味が気付いて欲しそうに舌の上に残り、その影で甘味が申し訳なさそうに三角座りしていた。挽き肉は食感としては残っているものの、味は欠片も存在していない。
次いでゆで卵を崩そうとスプーンを突き刺そうとするが、妙に固い。更に力を込めるとゆで卵にあるまじき形に変形し、このまま力を込めていくとあらぬ場所に向かってゴムのように弾け飛びそうだったので、大人しくナイフで分割して食べてみる。
当たり前だが、固い。茹でる際に酢を入れたのか、茹で終わった後で更にカレーの中で煮込んだのか、噛んだ瞬間ぐにっとした食感がして、強引に口を閉じると奥歯の方でゴムが弾ける音が聞こえたような気がする。弾力ばかりが賢明に主張して、味の方は黄身も白身も何故か抹消されていた。
電子レンジで卵を爆発させたメルヴィッドといい、卵で電子レンジを爆発させたユーリアンといい、彼等はゆで卵に拒絶される呪いにでもかかっているのだろうか。
総評。味、見た目、共に微妙。パプリカとゆで卵のカレー風スープと言われれば納得するが、断じて私の知るカレーではない。ゆで卵を一度引き上げ、追いカレー粉と味を和らげる為の乳製品、それに蜂蜜かマーマレード辺りを足して、もう一煮立ちさせればそれらしくなるかもしれない。
「……」
「はい」
「ハンガリー料理ってこんなに不味いものなのかい」
「私と貴方がトカイワインのボトルで仲良く撲殺される前に訂正しておきましょう。これはカレーでもグヤーシュでもありません、パプリカとゆで卵の残念なスープです」
「そう言われれば、食べれるような気がする」
自分の料理を残念と言われて納得するのは相当であるが、作った物に対しての変なプライドを持っていないので改善は容易だろう。
料理が面白そうと言ってくれたし、レシピも理解出来る範囲では守り、美味しい物を食べたいという欲求もある。後は判らない事はすぐに訊く事と、味見を教えればいい。元はメルヴィッドと同一人物なのだから、エイゼルが改善しない訳がないのだ。
「エイゼル。味、付け直しましょう」
「出来るのかい」
「多少パプリカの味は残りますが、出来ますよ。幸いそれ以外は濃い味という訳でもありませんし、焦がした訳でもありませんから。まあ、逆に今言った事をやられるとリカバリーが難しくなるので覚えていただけると有難いです」
舌の上に残る微妙な味をリセットする為に頬張ったふかふかの丸パンがメルヴィッド手製のヨーグルトブレッドだと判り、可愛らしく真摯な彼の気遣いに自然と笑顔になる。
彼が書いたレシピを無駄にしない為、鍋の中の卵を引き上げ、残っていたスープに向かってカレー粉を投入し、目分量で調味料をブチ込みながら適当に味見をする。味見は1回でという文句はよく耳にするが、別にこれはプロの料理でもない。結果的に美味しくなれば途中何回やろうと問題ないと開き直り、こんなものかと妥協した味を隣で卵を切り分けていたエイゼルに食べさせてみる。
「凄いな、カレーになってる。前食べたのとは違うけど」
「以前食べたカレーの味なんて覚えているものなんですか」
「メインで食べたものは大体ね。君の味付けは、私好みだから」
「……ああ、もう。なんて事を」
何故あの子もこの子も、皆こんなにも可愛らしい事を言ってくれるのだろうか。
メルヴィッドにも同じ事を言われた経験があるのだが、それにも関わらず、再び頬が紅潮して耳まで赤くなって行くのが判った。胸から溢れそうな感情を処理する事が出来ず、意味も無く鍋の中を掻き混ぜる。
まるで恋する乙女の行動だが、恋などした覚えもなければ乙女とは対局に位置する爺なので冷静になれと脳味噌が警告を発した。熱い頬にエイゼルの手が触れ綺麗な顔で苦笑されると、何故彼等はこんなにも良い男なのに揃いも揃って嫁も彼女も婚約者も連れて来ないのだと祝いたい気持ちが溢れ出て来る。お陰で少しは冷静になれたが、今度は全力で祝福したい気持ちが治まらない。
「面白い発見だった。。君、なんでこんな些細な事で照れてるの?」
「その人の為に作った料理の味を覚えて貰えて、それが美味しかったと言われる以上に嬉しい事なんて、そうはありません」
「プライドの極振り具合が酷いよ。人生と人格、どっちがバグってるんだい」
「根本的な性質に問題が発生しているみたいなので、両方じゃないですかね」
「成程」
生まれ持った性質とその者が作る料理との相互関係は皆無だと学者のように真面目な声で、微かに笑みを含ませたエイゼルが結論付けた。
「ところで、固くなったゆで卵を元に戻す方法はあるのかな」
「単純に考えれば魔法でタンパク質を弄ればいいだけなので不可能ではありませんが、技術が確立されていないので未来に期待しましょう。現時点では、料理は足りない物を補う事は出来ますが、過ぎた物を減らす事は出来ない、そう思っていただければ」
「料理に関しては、君がそう言うのならそうなんだろうね。潔く諦めるよ」
けれど、エイゼルならば杖一振りで元に戻しそうではある。何せこの子は天才なのだ。しかし同時に、ただの欠食青年でもあるのも事実である。
余計な事を考えていると、くし切りにされた卵を一欠片差し出され、素直に口を開ければ結構だと頷かれながら放り込まれる。
黄身が鋭部に寄っている固茹での卵は相変わらずゴムのような食感で何の味もしない物質だったが、不思議と顔に笑みが広がるのが判ってしまった。