■ 時間軸:vs. ハグリッド戦後~お爺ちゃんが目覚める前
■ 合計年齢200歳(90歳 vs. 110歳)の老老戦 in 魔法省
■ 68話『キウイのパヴロヴァ』の補完話
■ 腹に一物抱えているアークタルスさんの三人称視点
heads-up
時代がかった濃藍色の長外套の下から覗く傷一つない革靴の底が床を軽く打つ度、発色ばかりが際立った布地を纏う人間の群れが形を変えながら執拗に付いて回るが、彼等を一顧だにせず、灰色の瞳はひたすらに前を向いていた。
陶磁器質の化粧煉瓦が規則正しく敷き詰められた廻廊はさながら霧深い闇夜に落とされた沼の水面のようで、上辺で無数に蠢く魔法使い達の影を亡者の如く反射し、喧騒と熱量が奪われた不帰の国の姿を映し出しているかのように見えた。
ならば、最も早く旅立つべきなのは、誰よりも老い先の短い自身であろう。そんな感想を抱きながら、アークタルスは灰色の目をゆっくりと瞬き、乾きつつあった眼球の表面を幾らかの涙で洗った。
全く、何という様だろうか。二桁に上る年月は確実にブラック家から力を奪い取っていた事を改めて実感しながら、心の奥で呟いた。彼自身が労力をかけて魔法省に出向かなければならないのがその最たるもので、老いを知らぬ当代当主であった頃は指揮階級の人間が所縁を頼り、不定の手段でアークタルスやシリウスへの接触を図ってきたというのに、今では家名すら耳にした事のない加害者の血族が嘆願か罵詈かに大別出来る世迷い言を吐きながら、面会の約束も取り付けないまま直談判に来る始末である。
暴行及び暴行幇助の現行犯であり、目撃者はアークタルスも含めた多数、そして被害者3名の内1人は年端も行かぬ未就学児童、且つ、意識不明の重体。情状酌量の余地などない事を報道媒体を用いて魔法省職員に告げさせようと、我が子だけは救われる筈だと思い込んだ輩は光を求める羽虫のように老いたる彼の元へ次から次へと群がった。半世紀と言わず四半世紀も昔であれば、ブラック家が表舞台へ出て来たというだけで身の程を知り、事態は収束へ向かったというのに。
しかし、この考えは現実から逃れる為に作ろうとしている唾棄すべき懐古趣味であり、ブラック家の力を衰えさせた原因は自らにあると胸の内で強く律する。次代当主として実の息子、オリオンを指名した自らに原因があるのだと。己の脆弱性を改める事も出来ないまま次世代を見下し、誰も育てようとしなかった事が根本的な原因なのだと。
失った物は大きく、取り戻すには膨大な手間と時間が必要とされる。けれど、それすら惜しんでしまえば何も彼もが二度と戻らなくなる。
周囲で喚き散らす魔法使い達を裏から脅し黙らせるのは容易だ、力を失ったとはいえ、ブラック家は何も出来なくなる程に凋落はしていない。しかし、それでは駄目なのだ、既に大衆へ露見している事件を力尽くで闇へ葬っては今後の糧とならない。眉や指先を微かに動かすだけで全てが片付いた時代を懐かしむのは構わないが、現在という時間軸に過ぎ去りし権威は必要ない。
今、必要なのは正当な制裁によって正当な対価を払わせる事だ。アークタルスは、憂さを晴らしたい訳でも、金銭が欲しいのでもない。
ブラック家はたとえ相手が誰であれ不当を許さない、明らかな罪を許容し害悪を世に放つ真似はしない、法規範に則した処分を断固として求める。出身寮も家名も、血統さえも考慮せず、第三者から見て公正且つ明確に加害者と断定出来る者には裁判を通じてそれ相応の刑罰を望む。それを社会へ印象付けなければならない。
純血を名乗る者達を門前払いし、女尊男卑や若年者至上主義を掲げる差別団体の主張を退け、ブラック家の家名だけで闇の魔法使い達との繋がりを妄想し脅迫文まで送って来る陰謀論者には相応の罰を求め、謝罪の言葉を口にせず許しを請うだけの女子供へ世界の冷たさを叩き付ける。複数の証言を揃え、目撃者の合意を得た場合には記憶すら証拠とし、反省の色すら見せない彼等が如何に害悪であるかを世間へ訴え、法と人倫を滔々と語る。
酌量の余地すら考えさせない姿勢に、人の心を持たない冷酷な男と陰で叩かれている事は承知していた。アークタルスが、そして最大の被害を受けた少年に連なる者達が、和解に一切応じず、示談すらも拒絶しているのは事実である。
しかし手加減をしてそれで、一体何になるというのか。アークタルスには悪しき前例を作り出す趣味も信念もない、いつかの未来に偶然同じような事件が起きた時、口先だけの謝罪と一握りの金貨で済まされた和解と示談に塗れた判例が持ち出される事はあってならない。
強者も弱者も関係なく、ただ法に従い、一の罪に対して一の罰を求める。そのような当たり前の事から、アークタルスは始めなければならない。けれども、幸いにして彼は孤独ではなく、支える人間が存在した。
取りわけ、アークタルスが打診するよりも早く事態の流れを察し、持ち得る人脈を駆使して今回の事件で被害者が不利にならぬよう大衆への印象操作を行った旧友のホラスには感謝しきれない。また、被害者の1人でもあるメルヴィッド・ラトロム=ガードナーと、加害者ではあるが正当防衛が認められる見通しのエイゼル・ニッシュ両名の行動と判断は道理的且つ冷徹で容赦がなく、人としての感情を露わにすれど、それ以上の強固な理性で動く事の出来る人間である事が証明された。
全てが動き出してから手を挙げた者達、ホグワーツの現役理事であり、魔法界へ影響を与えられるマルフォイ家のルシウスと、スミス家のジョンの助力は手が足りぬ現状有り難かったが、奥に透けて見える薄汚さに辟易もした。時流を読み権力に媚び諂う姿勢を見せる行為は一向に構いはしない、献身の体現者たるですら身内の汚らしさならば受容する仄暗い情意を孕んでいるのだ、清廉な貴族など夢物語である事はアークタルスとて百も承知している。しかし、夢や物語の形すら繕えず、抱え込んでいる欲を剥き出しにして腹の内を悟られるようでは心許ない。
そこまで思考して、規則正しく動いていた両足が停止する。
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへおいで下さい」
廻廊から逸れた先の行き止まりに設置された、複数の乗場戸。耳障りな音を立てながら到着したばかりの垂直式昇降機の両脇には屈強な肉体を持つ魔法省の職員が控えていた。地下2階、魔法法執行部と感情の読めない女性の音声を流しながら左右に開かれた扉の先は伽藍堂で、姿を隠した何かが潜んでいる気配も感じられない。
左手側の男が昇降手としてアークタルスのみを中へ通し、扉の向こうで身勝手な事ばかりを喚き続ける魔法使い達を威圧しながら閉扉操作を行う。乗場戸の向こうに残された右手側の男は魔法使い達の前に立ち塞がり重量制限と通路阻害を理由に同乗の禁止を宣告したが、返って来たのは意外性を感じさせない差別発言と、少ない語彙からなる罵倒だった。しかし扉が完全に閉まると、それも聞こえなくなる。
所用で先に寄った地下9階から移動した時には影も形も見せないでいた男達に対し、アークタルスは感謝を述べる事もなく、ただ平坦な声で軽い質問をした。
「MLESが出張る程の混乱なのか」
「いいえ、閣下」
ゆっくりと降下する箱の隅で魔法法執行警備部隊の長外套を着用した男が直立不動の姿勢を取り、堅く明瞭な声で返答をする。アークタルスに武官の気質はないが、現状からほど近い未来を推測すると楽な姿勢に崩すよう指示を与える必要もないと判断した。
胸元に刺繍された家名は何世代かに渡り魔法使いを輩出した一族のもので、故に彼はアークタルスの家が持つ権力の規模も正しく理解しているのだろう。押し殺せない不安定な精神が視線や発汗、呼吸に表れ、一族の将来と自身の身が一瞬後には塵芥と化す結末を回避する手段を探っているようにも見えた。それでも、件の過激派勢力や吸魂鬼を前にした魔法使い達程の狼狽振りではないようだが。
閣下とアークタルス自身ではなく彼の持つ威厳に対して話し掛けたのは8割が本心、残りの2割はご機嫌取りとすぐに理解して、いっそ昇降機の外へ残して来た者達のように全くの無知であれば幸せであったものをと、同情と侮蔑を均等に折り重ねた感情を抱く。
アークタルスはその立場故に、魔法省の内部は事の大小に関わらず知り尽くす必要があった。過去に海の外から納入された昇降機の仕掛けも、当然心得ている。
2人の男を乗せた金属製の立方体は魔法事故惨事部、そして魔法生物規制管理部の入る階を無音で通過し、床が撓むような錯覚を感じさせながら地下5階で停止した。内側からでなく外からの操作で止められたが、昇降手に過ぎない屈強な部隊員は極度に緊張しているものの動じた様子はない。腹芸が苦手なのだろう、これではあらかじめ地下5階で停止する事が決められていたのだと白状しているようなものであった。
温もりが乏しい案内音声と共に開いた扉の向こうで待機していた白の老爺、アルバス・ダンブルドアは軽い足取りで淡黄色をした洒落た意匠の長外套の裾を翻し、当然のようアークタルスの隣に並ぶ。
国内最大の勢力を誇る純血一族の元当主と今世紀最強の魔法使いの板挟みから解放さる事となった昇降手役の魔法使いがぎこちない動作で扉の外へ出て行く後ろ姿に、悪気無く堂々としていればいいものを、と顎で外を指しながら考える。扉が完全に閉まった所で動き出す昇降機の中、視界の下方で刺繍の施された袖が杖を振った後に操作卓の赤い釦へ向かうのを目にした。
駆動音を停止させ、間髪入れず乱暴な動作で非常停止する昇降機にたたらを踏み壁に手を付きながら口を一文字に結ぶ、その隣で、90年に渡る歳月を生きたアークタルスから見ても親と子の年齢差があるダンブルドアは折っていた腰を伸ばし、穏やかに口角を上げ老人らしい笑みを浮かべる。
「初体験、ではないようじゃな。その様子だと」
緊急時に作動させる停止装置を用いてブラック家の元当主を強引な手段で足止めをしたには随分無礼な物言いだが、平等を盾にした軽はずみな言動は如何にもダンブルドアらしいと内心で評し、感情を一切表に出さないまま形が幾分か崩れた長外套の皺を軽く払う。
ダンブルドアの予測は外れており、筐体の仕掛けにブラック家は関与しておらず、アークタルス自身にも経験はなかった。ただ、知識としてならば心得ており、魔法省が幾度目かの改修を行う際に昇降機内での安全確保の為と到底同意出来かねる理由を堂々と銘打ち、操作卓を非常停止項目の存在しない英国式から標準搭載している米国式へ変更した過去は彼の頭の中に収まっている。
非魔法界の技術を盗用し多くの改修が同時に為された中で、新型昇降機という小事に注意を払う魔法使いは稀有であった。情報伝達組織が報道の自由という名の下で報道しない権利を行使した結果、米国式へ変更された事も積極的に調べなければ判らなくなり些細な反発も起きず採用された。
そうして、非常停止機能を備えた操作卓は提案者の目論見通り、知識を有する者が意図的に粗雑な密室を作り出せる装置として使われるようになった。
「複数機稼働しているとはいえ、長時間停止させると魔法省の職員に迷惑がかかる。なに、長い話にはならんよ」
他者への配慮も忘れていないのだと態とらしく宣言する姿は浅ましく滑稽であったが相手側の都合に合わせて指摘するのも煩わしいと感じ、厳しい表情を浮かべたまま幾つかの無言呪文を唱えるに留まる。一撃が強力な呪文の多くは事前に張り巡らされていた障壁に干渉され未発動に終わり、自然発生しては宙に漂う魔法力と同程度の、取るに足らない呪文が筐体の外へ飛び出した。
手応えを感じたものの決して表情に出さないまま、アークタルスは口を開かず視線で用件を促し、強制された会話を許容する姿勢を見せた。悪びれもせず光り輝く青が不吉に感じたが、今この場に必要とされない感想は単なる直感として胸の内にしまい込んだ。
「ヴォルデモートが復活する兆しが見え始めた。今度こそ、君の力を借りたい」
「お断り申し上げます」
会話を了承したものの提案には明確な拒絶の言葉を返し、耳に付く機械音から逃れるように軽く首を振ってから更に続ける。
「貴殿と手を組む事によって、私に、どのような利益が見込めるのでしょうか」
「利益ばかりを優先していると損失が見えなくなってしまう。魔法界が闇の陣営に支配されてしまえば、次に目障りになるのは穏健派である君や、君の愛する者達じゃ」
「その程度の些事ならば見通しを立てております、このような若輩者の身を案じて下さった貴殿の忠告へ僅かばかりの感謝も示しましょう。しかし私は、敬意を持ち得ない方との取引に応じる程に、若くはないのです」
「ハグリッドの犯した罪は、全てが終わった後に必ず償わせると約束しよう。しかし今は未だ目を瞑って欲しい。彼は魔法使いと巨人族とを繋ぐ架け橋と成り得る男なのじゃ」
「申し訳ありませんが、我が一族は口約束をしない主義ですので。また、無力な幼子が瞑る目さえ潰す男が、巨人族に特使として無条件の信頼を勝ち得る考えるのは、現状では難しいかと存じ上げます。ですので、私の未来の損失以前に、ご自身の部下が起こした過失をまずは清算していただきましょう」
「君はあの子供を無力と評するのか」
「ええ、は人より少しばかり勇敢なだけで、何の力も持たない子供です。騒ぎを沈静化させたのはエイゼルですから、あのままでは無残に殺されていたでしょう」
罪を償わなければ交渉すらしないと拒絶した灰色の目は壁を向いていたが、見ているのは現在ではなく過去に収集した情報達だった。
ルビウス・ハグリッドの経歴を洗えば、彼がどれだけ信用に値しない人物であるかはすぐに判る。半世紀前、学生の身分で人を殺した経験すらある男が巨人族と友好を築いたと吹聴したとして、鵜呑みにする魔法使いが一体どの程度いるだろうか。真っ当な教育を受け、内部に実らせた者ならば耳を貸すに値しないと判断を下すだろう、また、少しばかり想像力が豊かな者ならば巨人族の手先だと疑う事もある筈だ。
ハグリッドが魔法使い達へ行った蛮行を知らぬ巨人族ならば、一時的には欺けるかもしれない。けれどやがて、ハグリッドは自らの首を締め始める。申し訳ないから始まる詫び状ではなく、許して欲しいから始まる自己弁護の言い逃れ用紙を送り付けてくるような腹芸の出来ない男なのだ。彼の犯した罪は遅かれ早かれ白日の下に晒され、魔法使いと巨人、両者の関係は嘘の代償が上乗せされ更に悪化する事は想像に難くない。
半巨人が実在している現実からも判るように、この世の全ての魔法使いが巨人族を嫌悪している訳ではなく、巨人族の全てが魔法使いを敵視している訳でもない。人間を知ろうとする好奇心か慎重性を有する巨人が特使の正体を調べた瞬間に、まやかしの架け橋は崩壊し事態は悪化する。
ダンブルドアはその危険を回避する妙案を持っているのだろうか。だとしても、その案が明示されていない以上、信用に値しない。
そもそもダンブルドアはハグリッド以外の部下に対して一切触れていない。それがアークタルスの気に触った。ミネルバ・マクゴナガル、セブルス・スネイプ、そしてエメリーン・バンス。彼等を始めとする多数の不誠実な魔法使い達がダンブルドアの下に集っている事実を彼は掴んでいた。彼等の名前を出し、指摘しなければ、ダンブルドアはこうして素知らぬふりを続けるのだろう。
顰蹙を買う術に長けた男だと感心しながら、乾いた唇は内心で燻っている不満を吐露せず会話を別の方向へと持って行った。
「また、ホグワーツで流れ、世間にまで溢れ出した不快な噂すら正せない貴殿の誠意を無条件に信用する程、私は耄碌しているつもりはありません」
三本の箒で盗みを働いたが、ハグリッドに咎められ、逆上して襲いかかった。
細かな点で差異はあるものの、現在魔法界で流れているこの噂は事実とも真実とも離れている点で一致する。大方、先程付き纏っていた有象無象が、自身の正当性を捏造したい故に流した噂なのであろうが、被害者側に立つ者が同じ場にいない事もあり収まる気配は今の所感じられない。噂は間接的な行動にも波及しており、直ちに事実の歪曲を中止するよう要望という名の妄言が書かれた手紙は既に3桁に届き、中には被害者一同への開示を躊躇わせる品性の欠ける匿名の脅迫状も届いていた。
手紙の内容は兎も角、校内で大々的に流れる噂を知らぬ校長は存在しないだろう。直接教育の現場に関わる事のない理事であるマルフォイ家やスミス家の人間すら耳にしていたそれを知らぬ存ぜぬで通すのならば、自身が無能であると声明を出しているに他ならない。
貴方は無能なのですか、というアークタルスの無言の問いに対して、ダンブルドアは噂は事実と異なる事を認め、次いで、しかし生徒達に悪気はなかったのだと人の上に立つ者として不快な言い訳を口にした。
「その言葉を口にする権利を有しているのは、被害を受けた者達だけでしょう」
「現場に居合わせ事件に巻き込まれてしまった生徒達は皆、減点と罰則を要求したがそれ以上を求めず、相手を思いやり許す優しさを見せている。こうして訴訟だ何だと騒いでいるのは君達だけじゃ。そもそも、あの幼子は望んでいるのかね、これだけの大事を」
「勿論、望んでいます。は法治主義の傾向が非常に強い子なので」
唱えている主義が、悪法も法として認める形式的法治主義か、人権保障を原則とする実質的法治主義なのかは敢えて触れず、軽く腕組みをしてダンブルドアとの心理的距離を図りつつ、アークタルスは続ける。
「ですので、評議会への圧力も早急に中止していただけると、此方も無用な手間を省く事が出来るので有難いのですが」
「さて、君が何を言っているのか儂には理解出来ぬのだが」
都合の良い時にだけ老人の振りをしたダンブルドアは再び操作卓に触れる為に腰を屈め、密室を解除する釦に軽く指先で触れた。緊急停止から再始動を始めようと重苦しい稼働音を上げる密室で、濃藍と淡黄色の細い影が温度を感じさせない灰と青の視線を交わす。
肉食獣の唸り声のようにも聞こえる音の中で階層表示の明かりが緩やかに点灯し、現在地が未だ地下5階である事を示した。ダンブルドアが乗り込んで来てすぐに止まったのだから矢張りそうなのかと、アークタルスは1人静かに納得する。
「しかし、アークタルス。君はを気に入っている割に随分と淡々としておるが、それは真実、演技かのう」
動き出した昇降機の中、首の付根を持ち上げられるような奇妙な浮遊感と共に投げかけられた疑問に、アークタルスは視線を交わしたまま僅かに表情を強張らせた。青の視線がそれを見逃す筈もない。
「儂の事を快く思っていないようじゃが、ブラック家を至上とする君自身は果たしてどうなのか、問いかけた事はあるのかね。レギュラスが喧騒の外にいる事に安堵した事はないか。大怪我をし、意識が戻らない人間がで良かったと考えた事はないか。無力と評する子供に対して本当に誠実な態度であると言えるのか。それとも、君はそのような疑問すら抱けなかったのかね」
「……それは」
「言い淀む事が、既に答えになっておるよ。それとも、不必要な言い訳の為にまた非常停止させるかね? それが嫌ならば儂は外で続けても構わないが、公衆の面前で話すような内容ではないじゃろう」
地下6階、地下7階と等速で降下する立方体の室温が微かに下がる。氷のような灰色の瞳が赤い釦へ注がれるが、細く皺の多い指先はそれに触れる事無く地下8階で扉が開かれる事を選択した。
鎧戸が折り畳まれ、左右に開かれた扉の先から聞こえる噴水と雑踏の音が筐体の中にも侵入して来る。しかし待機していた魔法使い達は誰一人として乗り込まず擦れ違う事となり、また、一様にアークタルスへの感心がない。恐らく、今昇降機から出て来た男が誰であるかも知らない平凡で幸福な魔法使い達なのだろう。
ブラックを名乗る一族の容姿に精通していないのならば、彼等の過去の人生と、今のアークタルスにとって僥倖な事この上ない。
背後から名を呼ばれたので振り返ると、同乗者のいない昇降機の中に残ったダンブルドアが考えが改まる事を祈る旨を発言したが、唇で小さくありえないとだけ呟いて踵を返し姿くらましを行う。
「クリーチャー」
「此処に」
如何にも中世風の長外套から人混みに紛れ込める柳色をした羊毛製の上衣へ着替え、薄暗い路地の隙間から賑やかな大通りへと抜けながら足元へ呼び掛けると、腰よりも下の辺りから年老いて嗄れた声だけが返された。詳しい問い掛けもないまま軽く顎を上げれば、主人の望みを把握した見えざる妖精から報告が上がる。
「守衛室の記録から、アルバス・ダンブルドアが魔法省へ到着したのはアークタルス様がおいでになる1時間程前だと確認出来ました。魔法大臣への挨拶の後、国際魔法法務局西欧課課長と地下5階第2会議室にて面談。その後、アークタルス様と接触する迄の間、動きはございません」
「西欧課だけ、となると、マリウスが危惧していた通り恩知らずな敗北主義者共が関連しているのか……面談内容の詳細は、流石に無理だったか」
「はい。申し訳ございません、アークタルス様のお力添えがありながら」
密室に閉じ込められた後に送致した断片化された呪文は昇降機外で集結し、妖精の存在を希薄にさせ魔法省内部を自由に闊歩させる事に成功していたが、欺瞞の為に展開した複数の呪文に力を振り分けざるを得ず、成果は十二分とはいえないようだった。ダンブルドア程の実力者ならばそれすら感知しているだろうが、元々仲が良好だとはいえない間柄なのだ、探りを入れられて当たり前だと思われているだろう。
表情は見えないが、従者の声帯が大きく震えた事を悟ったアークタルスは僅かな苦笑を滲ませて声を優しいものに変えた。彼が魔法省に到着する以前に起きていた出来事だ、現時点で把握出来ると期待して居なかった故に、怒りはない。
「クリーチャー、私は自分自身の実力、君の技術、そして我々の能力を正しく評価しているつもりだ。出来ない事をやれとは言わない、これだけの短時間でよく調べてくれた」
「勿体なきお言葉」
「これ以上の収穫は、今は無理だろう。私の護衛は引き上げて、屋敷に戻りレギュラスの補佐に回りなさい」
「差し出がましいようですが、追跡は宜しいのですか」
「あれは私が何をしていたかを探っているだけだ、大した収穫にはなるまい」
アークタルスが降りた昇降機に乗り込む者はいなかった。ならば1人残ったダンブルドアの行き先は高確率で階下だろうと当たりが付き、同時に用件の予想も付く。
魔法法執行部を訪れる前まで、アークタルスは地下9階の神秘部にいた。ブラック家に告げられた予言を知る為であり、表向き他意はない。
「地下9階の魔法を破る事は、ブラック家が総力を上げても厳しいだろう。今は未だ、賭けに出なければならない時期ではない」
人混みと自分の体に気を配りながら悠然と足を進め、黄色や橙がかった白い光を放つ電化製品が並ぶ店の前を通り過ぎる。未だ春の風が吹かない通りで動く人影は、寒さから逃れるように誰もが早足だった。
「面会を終えたら私も帰宅しよう。いや、レギュラスの前に頼みたい仕事があるな」
「何なりと」
「国際魔法協力部国際魔法法務局局長、同北米課課長、魔法生物規制管理部存在課ゴブリン連絡室局長、以上の3名へ茶会の招待状を。マリウスへは手紙を送りたい」
「畏まりました」
喧騒に掻き消されるような、大きくもなければ小さくもない音を発しながら妖精は姿を消し、アークタルスは何処にでもいる1人の老人として晩冬の大通りを歩く。脳裏には、僅か数分の会話をしたダンブルドアの飄々とした姿が浮かんでいた。
「まさか、このような老体に鞭打つ事になろうとは」
ダンブルドアが乗り込んで来た階が法を司る魔法法執行部の入る地下2階ではなく、外交関係を任される国際魔法協力部が入る地下5階であった故に、違和感を覚えた。昇降機の扉が閉まる前にクリーチャーへ顎で合図をして調べさせてみれば、この結果である。
国際魔法法務局の局長は人並み程度に権力に屈し易く、また、西欧課課長と北米課課長の仲は植民地時代を経た独立の名残からか、伝統的に良好とは言い難い関係だとアークタルスは知っていた。西欧課の判断が英国魔法界にとって有害であると示す事が出来れば、裏から糸を引いたダンブルドアの影響力は弱くなり、ブラック家の力が向上する。世間の目に変化はないだろうが、内部の評価は多少なり様変わりするだろう。
ダンブルドアは今の所、本気ではない。先程の説得の力を持たない言葉の羅列が何よりの証拠であった、ダンブルドアはアークタルスを真面目に引き入れる気など毛頭なく、10年の間、世間から隔離されていた老人の力を侮っている。彼の目にはヴォルデモートしか映っていない。それ以外はただ、敵対さえしなければいいのだ。
だからこそ、足を掬える。
幸いにして、アークタルスは悪くない立場に陣取り、敵対する十分な理由もあった。
「には、嫌われてしまうかもしれないな」
白い吐息と共に口に出してから、しかしそのような未来は存在しないと確信出来る故に笑みが加わる。は人間として大切な箇所が幾つか歪んでいるが、大抵の人間が成長と共に曲げてしまう筈の部分が真っ直ぐで、何より、懐は深く腹の底は浅い。
彼独自の価値観から神経を使う制御部分が存在するのは否めないが、与えられる従順さに呑まれず我を通し呑み込み、判り易い利益を提示してやれば効果的に使える。制御法を最も心得ているのは野心の強さを里子という膜で隠しているメルヴィッドであろうが、アークタルス自身も中々のものであると自負している。小さな幼獣でも爪と牙は存在する、愛玩だけでも十分であったが、それ以上の能力を秘めているのならば使わない手はない。
ひとまず、ダンブルドアの言葉を利用させて貰おう。アークタルスはそう決める。
愁傷な演技をすれば、は簡単にアークタルスの求める言葉を返すと確信があった。でなければ、たとえそれが里親の傍にいた、ただそれだけの理由であったとしても、身を挺し血を吐きながらレギュラスを庇う事などしない。満身創痍にも関わらず率先して囮となり戦い通したのは間違いなく彼自身の意志なのだ。最初から両者の間に付け込める隙など爪の先程もないが、関係性の強化が出来るのであればしないに越した事はない。
極端に論じてしまえば、命を懸けて挺身を示した以上、それ以外は嘘でも構わないのだ。アークタルスにとっても、ブラック家にとっても。真実である必要も、正義である必要もない。そして、真摯である必要も、誠実である必要すらも。
提示された実直さが偽りのものであっても、生きている限り装い続けるのならば問題ないのだ。言動と立ち振舞いが内面と真逆な演技であろうとも、演者自身が死ぬまで実直な人間像を演じ切れば、心からそうである人間との差異は消える。少なくとも、当人以外の視線から見れば、確実に。
「レギュラスがダンブルドアから盗んだ予言も存在を確認出来た。予言が事実である事も、ダンブルドアの言動から確信を得た」
不自然にへ接触するダンブルドア、その解答をレギュラスが抱えているとは思ってもみなかったが、あれだけ屋敷で自責の念に駆られている姿を見て、開心術を仕掛ける選択を放棄する程アークタルスは善人として生きて来なかった。
レギュラスが苛まれている記憶を通じて知った予言の存在は、今日この日、神秘部で確認をした。地下9階を訪れた名目上の理由はブラック家の予言の確認であり、件の予言は視界の隅で一瞬認識しただけであったが、内容を承知している以上はそれで十分であった。案内と監視を兼ねた神秘部の職員も証言するだろう、アークタルスはブラック家に関する予言を聞いただけで、他の物には触れるどころか一切興味も示さなかったと。
ついでにが継いだ名を持つ奇妙な男についての記憶も見たが、早急に対処しなければならない案件とは思えず、また、手掛かりが少なく関与している者達はそれ所ではない為、対処の仕様がない。アークタルスが守るべき魔法界にとって現時点で危険な人物はヴォルデモートとダンブルドア、この2名だと決を下す。
「魔法界の安泰は遠いが、それでも彼等を鍛え上げれば、次へ繋げる事は出来るだろう」
足を止め、見上げた先にあるのは赤煉瓦造りの古びた百貨店。パージ・アンド・ダウズ商会と看板を掲げた、聖マンゴ魔法疾患傷害病院。
湿り気を帯びた冷たい空気と人混みの中で乱れた髪を手櫛で整え、上衣と同色の衣服を来た女性型の人形へ灰色の視線を送り魔法の世界へ再び踏み込んだ。未だ寝台で眠りながら、両腕一杯の水薬を胃に送りつけられ生かされている、愛しい子供に会う為に。