曖昧トルマリン

graytourmaline

キウイのパヴロヴァ

「レギュラスはこちら、ではないようですね。アークタルス様と、クリーチャーはしばらくぶりにお顔を拝見しましたが、変わりありませんか」
「ああ、か」
「ご、ご無沙汰しております。坊ちゃん」
「はい、お久し振りです。アークタルス様は昨日振りですが、お元気でしたか?」
「はは、見ての通りだよ」
 病室の向かいに設置されている特別室利用者専用の談話室から人の気配が漏れていたので顔を出すと、そこには現在進行形で起こっている様々な事象に対しての疲労を隠し切れず、気怠い空気を全身に纏ったアークタルス・ブラックがソファに深く座り込んで溜息を吐いていた。絵画の1枚もない殺風景な部屋の中でクリーチャーはお茶とお菓子の用意をし、私の姿を確認すると大きな目に涙を一杯溜め込みながら震える声で挨拶をする。
 慌ててカップをもう1つ用意しようとするクリーチャーを軽く制して灰色の視線が向かう隣室、会議室へ顔を向けた。これも特別室利用者専用の部屋なので、本来この特別室と呼ばれる一画は私のような一般病床で事足りる患者ではなく、ブラック家のような立場の人間が入院する際に使用されるものなのだろう。
 入院先でも仕事優先とは、重要な立場に就く人間はつくづく大変だと他人事のように考えながら、相変わらず涙腺が緩いクリーチャーが足元で号泣し始めたのでやんわりと抱き寄せて涙を拭ってやった。
 入院してからというもの彼とレギュラス・ブラックの2人は見舞いに来なかったので、このイメージチェンジにも程がある顔面を見るのは今日が初めてであるが、流石にこの怖い顔が原因なのかと口に出してボケる度胸は今の私にはない。おいたわしいと泣き崩れるクリーチャーを撫でる私を、アークタルス・ブラックの静かな視線が見つめていた。
「レギュラスを、探しに来てくれたみたいだね」
「アークタルス様が私の我儘を聞いて下さったみたいでしたから」
「君から頼まれなければ、或いは私の方から君に、傲慢な申し入れをしていたかもしれないな。一度だけで構わないから、どうか、あの子に会って欲しいと」
「おやまあ。本当にお疲れのようですね、アークタルス様まで何を言い出すのやら。一度だけなんて悲しい事を仰らないで下さい。この怪我の原因はあの大男で、レギュラスは何も悪くありません。今の状態は全て、私の判断で、私が勝手に仕出かした結果です」
「エイゼルが君の言葉を聞いたら、良い顔をしないだろうね」
「ええ……辛そうな顔を、させてしまいました。理屈では理解出来ているから、感情が落とし所を得るまでもう少し待って欲しいと。レギュラスもメルヴィッドも悪くない事は判っているけれど、心が追いつけないのだと」
 エイゼルの心境に関しては当たり前のように嘘なのだが、本人も大体そう見えるように振舞っているし、こう伝えておいた方が角が立たないだろう。
 それよりも、レギュラス・ブラックだ。
 伝え聞いた話によると、彼は自分の所為で私の目がほとんど使い物にならなくなったと思い込み、エイゼルからお前に心配する権利があると思うのかと追い打ちをかけられ、事後処理に没頭する事で現実逃避を図っていたらしい。
 まともに眠れず、碌に食事も摂れていない有り様らしく、倒れて病院送りになる前に何とかしろとメルヴィッドから依頼を受けたのが3日前、それからすぐアークタルス・ブラックにお強請りをして、ようやく今日、連れて来て貰えたようだ。但し、現在隣室に閉じ籠もっているようなので、同意なく騙し討ちの形で連行したのだろう。
 全く、騙す方も騙す方だし、騙される方も騙される方だと苦笑しながら、滂沱の涙を流すクリーチャーの背中を擦った。彼の純粋で泣き虫な所は主人達譲りなのだろうか。
「おいたわしや、坊ちゃん。ああ、クリーチャーの、クリーチャーの目を差し上げる事が出来ればどんなに良かったか」
「いけませんよクリーチャー、そんな物騒な事を言っては。それに私は元々」
 流れるように言いかけて、これを言葉にしてしまったら、またクリーチャーが泣いてしまうだろうかと咄嗟に口を噤む。
 続きの言葉が想像出来ないのか、クリーチャーは泣き腫らした目で首を傾げた。何でもないと誤魔化してしまおうかと考えていると、その気配を汲んでくれたのか、私達を観察していたアークタルス・ブラックが顔を洗って来るようクリーチャーに命じる。ついでに、見れる顔になるまで戻って来るな、とも。
 怒りはないが呆れた様子のアークタルス・ブラックを見て始めて、主人の前で悲哀の感情を爆発させていた事に気付いたのか、クリーチャーも頬を朱に染めながら深々と頭を垂れて私の前から姿を消す。空気を読んで再び名前を呼ばれるまでは姿を現さないだろうと、特に理由もなくそう思った。
 残された私は促されるまま彼の正面に座り、一人、淹れられたばかりの紅茶を飲む老人を観察する。
 血の気が少ない乾いた肌に、皮膚の下を流れる古い血、草臥れた筋肉、微かに軋む細く脆い骨、それらを動かす柔らかで力強い精神力と、決して癒えない虐待という名の暴力の痕。サングラス越しに私の視線を感じたのか、湯気の向こうの灰色の瞳が緩く微笑み、言葉の続きを望んだ。
「私は元々、五体満足とは言えない人間ですから」
、君は」
「だから今更、隻眼になろうが盲目になろうが、どうという事はありません」
 服の下の、生きながらにして蛆虫に食われ、床擦れによって腐れ落ちて抉れた肉の輪郭をなぞりながら微笑み返せば、一瞬で室内の空気が固まる。ごく自然な理由だと思うのだが、この様子を見る限り予想していない解答だったらしい。
 ティーカップを持ったまま固まったアークタルス・ブラックに、釘を刺しておいた方がいいだろう。彼は私の手駒だが、同時にメルヴィッドの手駒であるブラック家の当主であるレギュラス・ブラックに対しても多大な影響力を持っている、手駒同士の力関係のみを見た場合、私に分があるのだ。アークタルス・ブラックが私に引き摺られ過ぎると、折角距離を置いてもレギュラス・ブラックがまたこちらに付いて来てしまう。
 基本的にこういったバランス感覚が崩壊しているのだが、その崩壊している私ですらこれ以上は拙いと認識しているのだ。かなり遅いかもしれないが、この機会を利用して手を打った方がいいだろう。
「アークタルス様、人間の命の価値は決して平等ではありません。私の価値はレギュラスよりも遥かに安く、見劣りします。私が死んだ所で魔法界に影響はありませんが、ブラック家の当代当主たるレギュラスが死ねば大きく揺さぶられるでしょう。正当な、直系の後継者の不在はブラック家がそれまで統括していた政治や経済が分裂し、弱体化を招くと容易に想像出来ます」
 ブラック家の影響力も過ぎると専政となり、現時点の内にある程度の切り離しは行った方が良いという意見もあるだろう。実際、私の世界ではこの時代、既にブラック家は細分化され力を失っていたが、魔法界は回っていた。
 だが、ずるずると続いたあの内乱。魔法界の地盤を固めているブラック家当主としての自覚がある人間が独裁体制を作り上げ、表裏で指揮を取っていたならば、如何なる結果に関わらず革命による犠牲者数は少なく済んだ筈である。
 あの所為でイギリスの魔法使いはかなりの人数が無意味に殺され、その後の安全面や教育面、政府の危機管理能力の見直し、中でも1人の英雄に頼り過ぎ再発防止策制定の動きが全く見られない点から国際的な評価も確実に下落した。
 まあ、宗教的な要素を含有している内輪はあの散々な結果にそこそこ満足しているようであるし、リドルが殺されてしまった以上どうなろうと私の知った事ではない。不十分な体制のままテロやクーデターが再発しようと、日本に飛び火しない限りは関係もない事ではあったのだが。
 仕方ない、今この瞬間には関係ある事なのだ。
「アークタルス様もご存知の通り、マグル界では情報革命が起ころうとしています。未だ歩き始めたばかりのそれは、現政府のマグルに対する理解度が十分であれば回避に然程問題ありませんが、残念ながら、とてもそうとは言えません。ならば、軋轢を覚悟の上で外部が突き動かすしかなくなります。アークタルス様の英雄である、シリウス様が行ったように」
 無論、全員が全員賢者ではないように、全員が全員愚者である可能性は確率的に低い。最低でも数%の値で現状を把握し、未来を予測して動く事の出来る人間はいるだろうが、この世界の制度に問題があるのか指揮を執る人間が総じて間抜けなのか、本来行政機関に多く所属していなければ可怪しいそちら側の人間は寧ろ例外で極少数に過ぎないのである。
 組織の大きさ故に動きが鈍いのは仕方がないが、大半が内側しか見ようとしない事が問題であった。個人が起草する下らない条例は通す癖に、本当に必要な法の草案を練ろうともしない。それが判っていたからこそ激動の時代、彼の父であるシリウス・ブラックは家の力を最大限利用して自ら動いたのだろう。100年経過しても危機に鈍感なその気質が変わらないとは、流石に予想し得なかったようだが。
「政府への介入、それを単独で可能とするブラック家の当主は巨大な抑止、或いは逆抑止力です。パワーゲームで最も重要な位置を占める一族の帝王学を身に付けた後継者は、何を犠牲にしてでも必要でしょう。況してや今回は誰も死なず、たかが未就学児1人の怪我程度で済んだのですから、犠牲の少なさに関しては喜ぶべきです。その床に伏した子供が、私であろうと、なかろうと」
 訴える点としては、この程度で十分だろう。
 まあ要点を短く纏めると、たかが一兵卒の為に組織を死なせるな、である。どうにも、私の話は長くていけない。
「父も、そう言っていたな」
「シリウス様も?」
「ああ、そうだ。全てを犠牲にしてでも生き残れ、ブラック家当主は誰とも交換出来ない、故に誰よりも優先させなければならないと、そう言っていた。大戦下に、そして当主の地位を引き継ぐ際にも聞いた言葉だ」
 持ち上げていたティーカップをようやく下ろしたアークタルス・ブラックは、大きな溜息を吐いてソファに深く座り直した。
 少し戸惑ってから杖を取り、カーテンや扉を間違いなく閉めてから、先程ジョン・スミスが唱えたものよりも更に強い防音魔法を無言で唱え、再び口を開く。
「君に、懺悔をしたい」
「それでアークタルス様が満足するのならば構いませんが、私は神父ではありませんし、神父に向かない性格なので、誰かにうっかり喋ってしまいますよ?」
「誰かに言ったりはしないさ。君は、そんな下らない人間ではない」
 薄暗くなった部屋の中でアークタルス・ブラックは緩く微笑む。私には初めて見せる、仄暗い笑みに妙な違和感を覚えた。
がハグリッド、あの半巨人に襲われ反撃していた時、私は、焦燥の陰で確かに安堵したのだ。あそこに立っているのがレギュラスでなくてよかった、ブラック家の当主は、私の大切な孫は掠り傷で無事だったと」
「まさか、たったそれだけの事を気にしていたんですか。先程も言いましたが、それはごく普通の、当然の反応だと思いますよ」
「君という人間にとっては、たかがその程度で済ませる事が出来る問題なのだろうね。けれど、私は自分の考えに吐き気がしたよ。こんなに幼い、命の恩人が、血塗れになりながら何度も立ち上がり、必死で孫を守っている姿を見て、安堵するなんてと」
 俯いた灰色の瞳が影を落とす。視線は左から左上、行動心理学的に見ると自発的なものではなく過去に誰かから何か言われた可能性があるが、エイゼルだろうか。しかし、幾ら自由人の彼でも流石にアークタルス・ブラックに対して毒を吐くとは思えないのだが。
 向こうで鬱々と引き篭もっているレギュラス・ブラックには悪いが、もう少し待って貰いこちらを探ってみよう。
「なんだか、アークタルス様らしくない言葉ですね」
「私だって人間だ。弱音くらい吐くよ」
「いえ、そうではなくて。何と言えばいいのか」
 妙な違和感がある、と先程感じたものをそのまま伝えると、灰色の瞳が僅かに反応し、一瞬後でそれを繕った。彼は今、自分が反応してしまった事を自覚した、私にバレたと悟り咄嗟にそれを誤魔化したのだ、ならば彼の期待通り切り込もう。
「誰が、そんな下らない事を言ったのですか?」
「……参ったね。は本当に、観察眼が優れている」
「はぐらかさずに、教えて下さい。アークタルス様、誰が貴方に、そのような穢らわしい言葉を吹き込んだのですか」
 私の手駒に阿呆な事を告げた馬鹿を撲殺すると言外に強力な意味を込め意図的に腹の底から声を出し、無理だろうと力なく苦笑する相手の表情を見て全てを悟った。
 判らない筈がないだろう。権力と人脈を押し固めて作られているアークタルス・ブラックに無理と言わせ諦めさせる相手なんて、魔法界には片手で数える程しか存在しない。その中で最も可能性が高いのは、アレ以外に存在しない。
「アルバス・ダンブルドア。あの糞外道、アークタルス様にまで」
、落ち着きなさい。私は大丈夫だ」
「けれど、そのような酷い事を言われているのに」
「たった今、君が私の罪を赦してくれた。ダンブルドアはレギュラスと君を天秤に掛けさせたが、君が私の判断は間違っていないと認めてくれたんだ。もう、あの男の問いに意味は失せた」
 言いながらアークタルス・ブラックは立ち上がり、目の前までやって来ると少し屈んで、何故か親指で私の下唇をなぞった。
 予測していなかった行動に驚き、次いでユーリアン以外の身近なスリザリン出身者を全員この場に正座させ問い詰めたい気分に陥る。だからどうしてスリザリン系は揃いも揃ってこうなのだと。全力で祝ってやるから全員今すぐ嫁と後妻を連れて来いと言いたくなる。
「あの、アークタルス様」
「それよりも、だ。幾ら私の為に怒ってくれたとはいえ、糞外道はいただけないね。囮として動いてくれていたあの乱闘時は仕方がなかったとはいえ、それでも時折、は品を欠く言葉を使ってしまうようだ」
「……囮になったと、気付いていたんですね」
「今、その話はしていない。はぐらかしてはいけないよ。先程君もそう言ったね」
「仰る通りです。申し訳ありませんでした、以後は、頭に血が上っていても言葉遣いに気を付けます」
「素直でいい子だ。けれど、あまりに他人行儀でも私も悲しいからね、楽に構えてくれ。普通の、穏やかで優しい君が私は好きだよ」
 指先を唇から離し、短いなりに触り心地が良い私の髪を子犬を愛でるように一度だけ撫で上げたアークタルス・ブラックは、隣に座っていつも通り頬を揉み始める。伸ばすエイゼルといい、揉む彼といい、この頬の触り心地は中々に人気のようだ。
 彼独特のコミュニケーションを真正面から大人しく受け入れていると、ふいに灰色の瞳が鋭く光った。それに気付いた反応を返すと、それがふわりと柔らかくなる。
「ところで、ミスター・スミスだが」
「はい」
「情報を尊ぶのは好ましいが、抜け駆けは卑劣だと思わないかな?」
 指先や手の平をぴたりと止め、威圧感を含んだ笑顔で首を傾げるアークタルス・ブラックにつられる演技をして、私も同じ方向に首を傾げる。子供特有の愛らしさは大分削られている顔だが、少しでも場を和ませておかないと拙いと本能が察知したらしい。
「しかも、それを取引材料に使うとは、ね」
 年齢など振り払うかのように慄然とする程美しい笑みを浮かべ、アークタルス・ブラックは今迄溜め込んでいた怒りを表に出した。否、怒りを通り越して、殺気になっている。
 本格的に拙い。否、私は全く拙くないが、ジョン・スミスの身に危険が迫っている。盗聴防止の魔法を掛けていたにも関わらず先程の会話が完全に筒抜けであったらしい。
「そんなに怖がらなくてもいい。君に対しては欠片も怒っていないよ」
 その言葉を逆に取るとジョン・スミスに対しては大いに怒っているのだろう。
 確かに彼を野放しにし過ぎると私に害が及びそうなので、地位も家の格式も高いアークタルス・ブラックに頭を抑えて貰うのは悪くない案だ。しかし、押さえ付け過ぎて彼の頭蓋骨が潰れてしまったら少し可哀想でもある。この辺りの匙加減が私は苦手なのだが、アークタルス・ブラックにもジョン・スミスにも私の家にいる3名は深く関わり合いたくないらしいので、今ここで私がどうにかするしかないのだろう。
「過去よりも、今は何の憂いも持たずに静養するべきだ。安心しなさい、君の弟は私が受け持とう。が望むのなら、私達だけの秘密にも出来る」
「アークタルス様。けれど、彼の言葉は正しいんです。たとえ、どれだけ上手く隠しても、メルヴィッドやエイゼルにずっと秘密には出来ません。アークタルス様でも、アークタルス様が用意して下さる方法でもなく、私がきっと、あの人達に対して秘密を抱え込む事に耐えられない」
 つらつらと並べた私の言葉に嘘はない。
 既にメルヴィッドもエイゼルも、この病院に眠る赤子の死体の事を知っているので全く秘密になど出来てはいないのだ。私よりも数段隠し事が得意な彼等が、そんな事は知らないと嘘の演技をしているだけで。
 弟もこの病院で殺されていた事実を隠しているだけでも辛いのだと、ここで若干の嘘を入れ、真実味を増しておくと、何故かアークタルス・ブラックの目が見開かれた。反応のタイミングから見て、彼はハリーの弟が死んでいたという事は知っていたが、殺された事は知らないらしい。
 スミス家とブラック家の情報収集手段が異なる事が明らかになったが、今はそれを突っ込むよりも次の会話に繋ぐ言葉を探した方が賢明だろう。
「何よりも、私は酷い事を。弟の事を聞いた時、とても酷い、悍ましい考えが、過ぎったんです。私もあいつらと一緒なんです。顔も、いいえ、存在すら知らなかった弟を、肉塊としてしか見ていなかった」
 サングラスに加えて口元を覆い表情をほぼ完全に隠すと、殺人に反応していたアークタルス・ブラックもすぐに驚愕の感情を内へ押し込み、抱き締めながら何を考えているのかと尋ねて来た。
「私以外、誰も聞いてはいない。溜め込まずに言ってしまいなさい」
「弟を……弟の遺体を利用しようと、考えてしまいました。弟の本当の父親は誰なのか、遺体を物証として手に入れる事が出来れば、突き止められるかもしれないと」
 罪の許しを請う悲嘆に暮れた口調さえ除けば、内容それ自体は真実である。
 顔も知らないハリーの弟、彼の人生はまことに可哀想だとは思うが、それだけだ。私の世界には存在すらしなかった生き物の死骸がどうなっていようとさして興味はない、寧ろ、現時点で生きていたら今後の計画に支障が出るので厄介であったので他者の手で死んでいた事は大変な幸運だろう。
 逆に、私の世界に存在し、尚且つこちらの世界でも密かに生存中であるバーテミウス・クラウチ・ジュニアには同情以上の感情が湧いた。人として動ける肉体を得てからリドルの隣へ戻った私と彼に接点はないが、ヴォルデモートの直下に属し、アラスター・ムーディに化けホグワーツで暗躍する未来は知っていた。否が応でも闇の陣営の人間と接触しなければならない未来を考えると、今の内に多少の恩を売っておいた方が後々動き易くなるだろう。
 勿論、全く恩を感じてくれない可能性も高いが、少なくともハリーの弟に情をかけた所で得られるものが存在する可能性の方が圧倒的に低い。
 2つを天秤に掛け、少しでも利のある方を選ぶのは今更だ。この体を奪った時だって、私はハリーを救えた可能性があったにも関わらず、誘導して選択肢を塞ぎ、騙すようにしてこの体を奪ったのだから。
「私は自分自身の関わった事件で冤罪の可能性がある判決が出ていた事が生理的に耐えられなかった。望まず生を受け殺されていた弟よりも、弟と瞳の色が一緒という、ただそれだけで強姦の罪を着せられ父にされたバーテミウス・クラウチに同情したんです」
 私は酷く穢れていると、これもまた真実を口にする。
「アークタルス様、私は優しい人間ではありません。傲慢で、残忍で、陰惨で、手に負えない下劣な狂気を噴出させる、穢れた本能を持つ人間なんです。その本能を理性で抑える事の出来ない、他者との共鳴を拒む化物なんです」
 私の本性を知っている相手からは散々言われている事を今更言ってみると、案の定アークタルス・ブラックは悲しそうな表情をした。以前から彼は私の自己評価が低い事を懸念していたが、ここに来て最底辺に落ち込んだと思っているのだろう。しかも自覚している内容が内容である、フォローも難しい。そう、思っていた。
、君は誰よりも優しい人間だよ。君の今のそれは、普段の甘さを両立させていないだけだ」
 だから、まさかここで反論されるとは考えてもみなかった。自分自身の言動を省みるが、どう考えても甘やかしたい相手を全力で甘やかしている、優しさなど一欠片も持ち合わせていない爺なのだが。
 冷徹さと優しさは両立出来、優しさと甘さは違うのだと告げるアークタルス・ブラックに背を撫でられながら、次の言葉を待つ。
「相手の気持ちを理解出来るなどと口先だけの共感と同情をするのが甘い人間だ。いや、正確には甘いだけの、ただの平凡な善人だ。優しい人間は深い同調などしない。気持ちを肯定し頷いた直後に、物事の結果を見据え、時に相手を傷付けながらもより良い結果へと導こうとする」
 その理屈ならば、判るような気がした。私も随分酷い事をやらかしてきたのだから。
 ただ、私がアークタルス・ブラックの言う優しさをばら撒くのは、全てにおいて自分自身が得る利益の為でしかないのだ。しかしこの場合、利益の有無は基準点にならないので、そう考えるとアークタルス・ブラック的には私は優しい人間と括れるのだろうか。私の本性を知らない人間の言葉なので、何とも微妙な所である。
「私は、多くの人間を見て来たつもりだ。優しさを持たず、都合良く纏わり付き、甘いだけの、人を人とは思わないような輩を、数え切れないくらいに。肥大する欲望を満足させる為だけに他人や肉親、子供すら陥れ、破滅させ、血で血を洗う化物のような人間達や、その残滓を見て来た」
「残滓? ああ、肖像画、ですか」
「そう、肖像画だ」
 たかが肖像画の分際で、と殺気の篭った笑みを浮かべるアークタルス・ブラックに、一体ブラック家本邸で何があったのかと尋ねたくなったが、それは別に今でなくてもいいので後回しにしよう。彼が殺気を帯びるという事は、相当の事が起こったのだろう、ならば、短い話で終わるはずがない。
 それにしても、誰かの為と建前を取らず、自らの欲望の為に動く辺りが実に人間らしいと思うのだが、世間一般、もしくはアークタルス・ブラックの感覚的にはそれは化物らしい。となると、自分が面白いと思う欲望優先で色々とやらかしている私は、彼の基準だと矢張り化物に分類されるべき生物なのだろう。流石に口に出して反論したりはしないが。
「君は、いつだって優しい。誰が何と言い、君自身がどう思おうと、君は優しい人間だ」
 抱いていた腕は緩められ、淡さを含んだ言葉の後で鼻先に乾いたキスを落とされた。
 手駒として動かす為に注いだ猛毒の愛に盲た灰色の目が細められ、もしも私が本気ならばブラック家の力を使って欲しいと囁かれる。
「感情的な面からいえば、これは君の家族の事なのだから、他所者の私がこれ以上関わるべき問題ではない事は判っている。けれど、感情だけではいずれ必ず行き詰まる。君が本気で動くつもりならば、私やレギュラスの力を使いなさい。ブラック家の力はその程度で揺らぐ程、弱くない」
「アークタルス様」
「もう1つ。メルヴィッドとエイゼルへの説得に失敗して、全てに耐えられなくなったら、なりふり構わず逃げて私の元へ来なさい。君を唆し、背中を押した責任を取ろう。もしもの事ではあるが、家族の仲を崩壊させた罪を償わせて欲しい。君が和解を望めば仲に立とう、顔を会わせたくないのなら匿い続ける事も出来る」
 救済策のない中で踏み出させはしないと誓う言葉に、それでも彼は優秀な駒だと再認識する。猛進を否とし、偽善と知識のみの行動を打ち棄て、老獪なまでに安全網を張り巡らせるこれこそスリザリンに属する者の、本来の特性であった。
 どのような事態に陥っても機能する逃げ道を用意し、そこで始めて行動を開始する。私の中でも圧倒的に不足しているこの狡猾さが、金銭や人脈、権力に義理堅さと共に織り合わせて作り上げられているアークタルス・ブラックの魅力である。
 だからこそ、彼はレギュラス・ブラックに、メルヴィッドを慕うレギュラス・ブラックの近くに寄せたい。私では彼の持つ能力を最大限に発揮出来ないのだ。
「ミスター・スミス。あの男の気に食わない点は、そこだ。他人に向かって信じてやれなどと声に出して善人ぶる輩は、総じて自らが引き起こした事に責任を持たない。特にあの男の本職は賭博屋だ、間違いなくその気質を持っている」
 決まりだ。迷っていたが、この件はアークタルス・ブラックに任せる方が得策である。私の裁判関係で手を組んでいるので2人同時行使でもよかったが、この反応を見るにその願いをした瞬間に私への好感度が一気に下がるのが目に見えた。
 断っておくが、私は別にアークタルス・ブラックの好感度を下げたい訳ではない。下げるだけならば悩む必要もない、失言を繰り返せばあっと言う間である。私はただ、彼の孫であるレギュラス・ブラックの好感度を私よりも上位に配置したいだけなのだ。
 決まったからには行動を開始しよう。既にハリーの弟の事はメルヴィッドに報告済みで、好きなようにしていいと許可も下りていた。
 少し躊躇いがちに手を伸ばし、迷子になった幼子のような仕草で彼の袖を引けば、酷く優しい笑顔で首を傾げられる。背中を撫でていた腕がゆっくりと離れ、乾燥した彼の右手が頬を包むように触れた。
「兄達には、メルヴィッドとエイゼルには、言います。私の過去と、リックを受け入れてくれたあの人達にこそ、言わなければならない事なのかもしれません。弟と、バーテミウス・クラウチ・ジュニアの事を。だから、あの人達に受け入れられても拒絶されても、どうか私に力を貸して下さい。私の望みを叶えて下さい」
「ああ、勿論だよ。私のスピカ」
 遠回しにプロポーズされたような気がするがそこは敢えて触れず、脳内で焼却処分を行いなかった事にする。
 全く彼はなんて事を言うのだ。つい先程後妻を連れて来いとは考えたが、私は決して、私を後妻にしろとは考えていない。何処かに彼に相応しい真珠星のような女性は転がっていないものだろうか、全力でくっつけ、祝福するのに。
「……冗談だよ、君は大切な友人だ」
 私が理解からの無視を選択した事には気付かれたらしいが、特に咎められなかったのは幸いだ。年齢にそぐわない爽やか過ぎる笑みが本当に冗談で済ませていいものかと疑惑を呼ぶが、その疑問も処分する。藪をつついて蛇を出す必要もない。
「そして、レギュラスのね」
 名残惜しげに私を解放したアークタルス・ブラックは隣室へ行くよう無言で促し、私の手がドアノブに触れるまでそれを貫き通した。
「それでは、また後で」

「はい?」
 一体何だろうか、アークタルス・ブラックが他人の言葉を遮るのは非常に珍しい現象だ。しかも今は、性急に何かを伝えなければならない場面でもない。
「君はあのように言ったが、私は二度と、君と孫を天秤に掛ける気はないよ」
「それは、常にレギュラスを取ってくださる、という意味ではないようですが」
「そうだ。より正確に言うと、天秤に掛けなければならない騒動を起こさせる気はない。君と初めて会った場で言ったように、レギュラスも君も、メルヴィッドもエイゼルも、半ば腐り落ちている事に気付かない人間で構成された今の魔法界には必要な人材だ」
 ソファの背に体重を預け、彼の父であるシリウス・ブラックの面影を映し出す鋭い笑みを浮かべたアークタルス・ブラックに、彼がブラック家の当主に成り得た理由を確信する。
「だからこそ、騒動が萌芽する前に、殲滅する」
 近頃になって急にダンブルドアと魔法省の癒着がきな臭くなって来たので、まずはそこからかと呟いたアークタルス・ブラックは、冷めてしまった紅茶を手に取り口を付けた。
「その時には、ダンブルドア側の人間に虐げられた私の立場も存分に使って下さい。それでは、アークタルス様。また後でお会い致しましょう」
「ああ、また後で。レギュラスを頼んだよ」
 握ったままだったドアノブを捻り部屋を出ると、入れ替わりにクリーチャーが姿を現した音が背後で聞こえる。姿見を持って参りましたと聞こえたような気もしたが、それは気の所為にして、そろそろ体が冷え切っているであろうレギュラス・ブラックの為に薄暗闇の中で一歩を踏み出した。