色褪す罪過
他人の匂いのする部屋で指を機械的に動かしながら、文字の羅列を思考とは別領域で稼働している脳が読み取り、羊皮紙に躊躇なくサインや訂正を入れる。ペン先が引っ掻く薄皮の質感が普段と違う所為で、書き慣れた自分の名が掠れて歪んだ。
無くなりかけていたインクを吸入し、余分なインクを拭き取ろうとして、ふと吐いた息が深くなっている事に気付く。今何時だ、何時間こうして机に齧りついていのか。
喉の渇きを今更覚える、唐突に集中力が切れた。座り慣れないオートクチュールの椅子へ背を預け、パラフィン臭を発しながら明かりを供給するオイルランプに反射する自分の顔を眺め更に溜息を重ねる。不快感が腹に溜まる。舌打ちをしたい気分に駆られたが、場所が場所だけに思い留まった。ブラック家の書斎に当たるこの部屋では何処で肖像画が監視し、聞き耳を立てているか判ったものではない。
レギュラス・ブラック、アークタルス・ブラックの双方にはクリーチャーを何時でも使って構わないとの言葉を貰っているが、所詮は他人の所有物で特別気が置けない仲という訳でもない。たかが飲み物程度の呼び出しで感情が過剰に過ぎるハウスエルフの相手をしなければならないのなら渇いたままでいい。たとえばこれがならば、疲労を感じる前に何も彼もを悟って。
「ああ」
漏れ出してしまった息に続いてスラングを吐き出しそうになり、唇を軽く噛んで浮かび上がりかけた言葉を臓腑の底に抑え込んだ。脳天気に笑いながら包装された箱を差し出す記憶や、軽食を持って部屋に入ってくる姿がチラつき、その日常を打ち消すあの瞬間がサブリミナルのように入り込んで来る。
あの時、は笑ったのだ。
自分の身の安全など後回しにして最も優先するべき行動を完遂出来た者と、これから回避出来ない災難に見舞われる覚悟を決め損ねた者が浮かべる笑みを交じり合わせた、複雑なそれ。今でも英雄と称えているリチャード・ロウが殺された時も、似たような笑みを滲ませていた記憶がある。
命を張ると幾度も言葉で示される度に、半ば本気だとは思っていた。けれどもう半分は、冗談めかした戯言だとも考えていた。血の繋がった者同士でも自分の利益の為に醜く裏切り合うのだ、他人の為に命を盾に出来る人間が私の前に、この世界にいるものかと。
それとも、長い間、見て見ぬ振りをして来たあの予想が当たっているのだろうか。腹の中に不愉快さを宿したまま仕掛けた嘘の日に、明らかな独占欲を隠し、思考を狂わせているとまで言わしめ、の心を根刮ぎ奪い尽くした挙句、未だ墓の下へ恋心を捧げさせているあの死人と私が。
「そんな筈はない」
そうだとするには可怪しい。今迄の言動との辻褄が合わなくなる。絶対に、そんな事はありえない。私は協力者であり代理ではない、既に死んだあの男の代替え品である筈がない。人を狂わせると断言させるような感情を平然と繕っていられる程、の演技力は高くない。私の知っている・という狂人は異常思考というだけで、上等な嘘を吐けるような男ではない。その、筈だ。
最後に付け足される言葉に平静を保つ事が出来ない。4年以上の歳月が経過した今になって、何一つ断言が出来ない事に気付いた。私は・という男を知らない。けれども、それでもこの世界では誰よりも知っている。あの時エイゼルには断言出来ただろうと叱咤し、経験からの行動や思考を肯定しようとする端から風化した煉瓦のように崩れ、歪な塊が足元に転がる。
目眩を感じてデスクに肘を付き、熱を持った額に手を当てた。目を閉じるとそのまま眠ってしまいそうになるのに、眠り自体は浅く疲労も回復しない。不調を魔法薬で誤魔化す度、低栄養状態が原因なのだからまずは食事をしろと忠告された日の事が蘇る。
「メルヴィッド」
聞き慣れた声が真横で名を呼び、緩く肩に触れられた。顔を上げた視線の先には私以上に血の気の引いた、青白い顔の若い男が立っている。
「僕の方で処理出来る書類はある?」
「ああ……いや、この辺りは急ぎではないから大丈夫だ。それよりもレギュラス、君も休んだ方がいい、酷い顔をしている」
「まだ大丈夫だよ。お願いだ、僕にも働かせて欲しい、じっとしていられないんだ」
「倒れては元も子もない、眠れないのなら横になるだけでも随分違う。今は、休むんだ」
「でも、僕がやらないと。僕の所為なんだ、僕がもっとちゃんと」
「今回の原因はルビウス・ハグリッドだろう。私でも、君の所為でもない」
「違う! 僕が悪いんだ、に死ねと言った僕が。ちゃんと否定してあげればあの子はあんな酷い目に遭わずに済んだんだ。メルヴィッドだって知っているだろう、あの時、僕だけがあの子に死んでくれと言ったんだ」
「あの時の事をどれだけ深く考えて反省しているかは、痛い程理解しているよ。それはも十分判ってくれる筈だ。いや、少し違うかな、元々あの子は謝罪も懺悔も求めていない。悲しい事に、あの子にとって命を懸けて家族や友人を守る事は、当たり前の行動だったんだ。それを正せなかったのは保護者としての私の責任だ」
「僕は死ねと言った。笑いながら死んでしまえと言ったんだ。エイゼルは正しかった、僕が間違っていたんだ。間違っていると指摘されたのに、認めなかったんだ」
「大丈夫だ、レギュラス。まだやり直せる」
「やり直したくない。僕は、やり直してはいけないんだ」
空虚な言葉の羅列に表情が死にそうになる。こんな意味のない堂々巡りの会話を一体何度繰り返しただろうか。救いを求めているのか、罰を望んでいるのか、どちらにしても面倒臭い。誰も彼もが自分自身との事だけで手一杯なのに、この男は更に自分にまで構えと言っているのだ。
吐きそうになった溜息を飲み込み、代替として大丈夫だ心配ない君は悪くないと甘いだけの上滑りする言葉を吐き出しながら精神の均衡を保たせる。あくまで対症療法に過ぎず、根本的な治療は不可能だ。エイゼルの言葉に呪われた今のレギュラスを解放出来るのはだけだろう。
現状に対しただ嘆くだけの子供の肩を抱き、さも自分は心配していると言いたげな装いでソファに座らせてから、意味もなく大丈夫だと繰り返す。シャツから覗く生白い首を力の限り締め付けて今感じている精神的苦痛を和らげろと本能が告げるが、それは育成を始めたばかりの私の駒だと理性が反論し沈黙させた。
私の思考を妨げるな、お前の嗚咽など聞きたくない、早く眠ってしまえと呪いを込めながらも可能な限り優しく感じられるよう背中を擦っていると、ひたすら紡がれる謝罪という名の呪詛が耳に入る。溜息も舌打ちも表に出せない代わりに強く抱き締め、昏く冷たい感情が積もった胸の鼓動を聞かせてやった。本当に、この男の存在は面倒だ。
まだ多方面に向かって働きかけを行っているアークタルス・ブラックの方が面倒事も少ないだろうか。いや、あの男は深入りすると孫以上に処遇に困る男だ。旨味の多い提案をしてくるが、それ以上の対価を求められるのは御免だ。あれと相性が良いは、懐に入れた人間に対して損益を勘定しなくなる性質を持っただ。
だから、早く目覚めて戻って来いと、言いたい。下準備の為だけにこれだけの年数を耐えて、私との双方がいて、やっと揃えた手持ちのカードで何とか回せるようになって来たばかりだというのに。始める前に終わらせるなど、許さない。
そうだとも。許してなるものか。いざとなったら、あの体を。
「ああ、そうか」
「……メルヴィッド?」
「何でもないよ。ただ、忘れそうになっていた大切な事に、気付いただけだから」
肩に伸し掛かっていた重みも、脳味噌に居座っていた頭痛も、全身に張り付いていた疲労感も、精神的な作用を受け全て溶けて消えた。
何も知らない子供のように私が本心から浮かべた笑みに安堵したのか、レギュラスは赤くなった鼻を擦りながらも少しは落ち着いたからと体を離し立ち上がる。クリーチャーに鎮静効果のあるカモミールティーを淹れて貰ってから眠ると告げて部屋を去る、その背中を演技も含んだ穏やかな目で見送りながら、もう一度呟いた。
「ああ、そうだな」
いざとなったら、頸動脈を掻き切ってあの体を壊してしまえばいい。何故こんな簡単な答えに今迄辿りつけなかったのだろう。
この世界とあの意識とを隔てている門である肉の器が脈打たなくなればは私の隣へ容易く戻ってくるではないか、はこの世界で生きている存在ではないのだから、どれだけ殺そうとも死なない。風穴を空けてやれば当然のように存在し続ける。
ブラック家に気に入られている、あの都合の良い器を壊した事に文句を垂れるくらいはするだろうから、気は進まないが私が直々に反魂の術を使って戻してやろう。その程度の気遣いで私を許すような男だ。妙な作用が働いてハリー・ポッターの魂が戻って来ようがどうでもいい、そんなもの、また殺し直せば済む事だ。
ならば、適当な時期を見てあの体を引き取らなければ。ブラック家が手を出す前に、不自然と思われないタイミングで。
エイゼルのように同居しているだけの赤の他人ならばともかく、書類上では里親と里子の関係で互いの立場を利用し合うために必要以上に仲の良い家族ごっこを演じていたのだ。理屈など不要だ、説得するには情の一辺倒で十分だろう。
器さえ戻って来れば後はどうにでもなる。アークタルス・ブラックが証明したようにあの家は監禁に向いている、肉体の蘇生する場を探す必要はない。ああ、けれど、その前に適当なマグルを攫って魂を掻き消さなければ。肉の器を蘇生させている最中にブラック家の連中が見舞いに来る筈だ、容姿を似せた紛い物を用意しなければ。
手に入れる場所は何処でもいいが、ダンブルドアに目を付けられるのは困る。は目を付けなかったが、人攫いならばロンドンかバーミンガム、マンチェスター辺りのスラム街で事足りるだろう。消えた所で誰も気にかけず、誰かが気付いた所で公的権力に届ける事も出来ず、メディアに取り上げられる事もない不法移民や滞在者など掃いて捨てる程いる。用が終わった後の死体も悪霊の火で灰になるまで焼いてしまえばそれで済む。
蘇生した器に例の札を使って目を治癒してやればそれで、全てが元通りになる。いつも通りの生温い日常が戻り、家族ごっこが再開され、それぞれが抱く欲望を実現させる為の毎日がまた始まる。
いや、駄目だ。元通りでは何にもならない。
それでは、また何時が死にかけるか判ったものではない。エイゼルが気紛れに与えていた守護魔法の存在すら知らずにあんな事をしでかしたのだ、今度は私やレギュラスではなく誰かも判らない人間を身を挺して庇い、同じように肉の器に閉じ込められるかもしれない。その度に、こんな気分にさせられては堪ったものではない。
誰も庇うなと呪文で服従させるか。駄目だ、現実的ではない。服従とは名ばかりの、ほんの気休めにもならないだろう。
解毒剤が必要不可欠になる魔法薬とは違い、あの呪文は確固たる意思という自発的な精神論で破る事が出来る。狂人の感性と常識破りの価値観で動くを幾ら服従させても、自分の意思がそれまでと反対方向に作用した瞬間に勘付き、他愛もなく打ち破るだろう。それを確信させる程度には、の意思は強固で揺るぎがない。
かといって、忘却術や記憶の改竄はリスクが高い。露見さえしなければこれ以上なく安全な策だが、私の存在と立ち位置を快く思っていないエイゼルやユーリアンが黙認するとは到底思えない。万が一私達の間で協定を結んだとしても本人が違和感に気付いた場合、恐らく3人共がダーズリー夫妻やバンス以上の凄惨な死体となって発見されるだろう。
いや、死体ならばまだ救いがある。本体が破壊されない限り死なない分霊箱の性質を利用して、死んで生き返ってを繰り返しながら自分が何であるのか判らなくなるまで拷問される未来の方が可能性として高い。記憶を消すくらいならば殺した方が心理的に楽だとユーリアンへ向かって言ったあの物騒な言葉は、恐らく真実だ。
ああ、もういっそ、壊してやろうか。
が翻訳した書籍の中に、生きている者へ死を上書きする記述があった。亡者の呪文を強化すれば再現可能な技術だから作ってみたものの、勝手に動き回る屍者など何の役にも立たないからとその後は放置していた。いや、実際何の役にも立たない。ただ、特殊な状態で存在しているにならば施してもいいだろう。肉の器に封じ込めて人間としての意識が崩壊するまで拷問するよりは遥かに人道的で能率的な手段だ。しかし、その場合はブラック家が目障りになるから。
だから、違う。思考の飛躍が目に余る、あの老害のようにその場の欲望を優先させるな。は対ダンブルドア用として必要な手札だ、あの器と思考との、両方が必要なのだ。
私を庇った時に何を考えていたかなど、目を覚ました後で問えばいい。今必要なのは目覚めの手段だ。魔法界の診断では原因が判らないらしいが、意識が戻らないならまず疑うのは脳だろう。
そこを治癒して、それでも戻って来ないのならば、ありとあらゆる箇所を1つずつ、徹底的に調べればいい。多少荒療治をしても治す事は造作もない。だからまず、手に入れなければならないのは、あの紙切れだ。あれさえあれば、死以外を治療出来る。それでも目覚めなければ、その時は一度、この手で殺してしまえばいい。
そうしてが目覚めて何も彼もが元に戻ったら、その時に考えよう。もう二度と、命を懸けるなどと軽々しく言えなくなるような方法を。