曖昧トルマリン

graytourmaline

■ 時間軸:バスと電車を乗り継いで人殺しに行く最中~数日後

■ 27話『帆立と長芋の山葵醤油和え』に登場した運転手の話

■ うっすらホラー風味にすらなれなかった何か

■ 運転手の三人称視点

うつろわぬ亡霊

 実に、奇妙な男であった。
 凍てついた風が未だ朝日の昇らぬ曇天の下で吹き荒んでいるにも関わらず、年の瀬に相応しいとは到底いえない薄手のスーツ姿で現れた若いその男は、小さな鞄を一つ手に下げ、村に隣接する寂れた停留所から始発のバスに乗り込んだ。
 ビジネスマン風の姿で白い肌に茶色の目と髪。これといった特徴を掴ませない凡庸な顔立ち、しかし何処かで見た覚えがあると、男を一瞥した運転手は考え浮かんだが、それを言葉にするような事はせずバスを走らせた。
 田舎の、日に数本しか走らない路線なので、乗り込んでくる顔触れは自然と覚えてしまっている。その中に男の顔はないが、もしかしたら別の路線で乗せた事があるのだろうか、それならよくある事だと、そう結論付ける事にした。
 しかし、世の中には運転手のように口を噤む事を選ばない人間もいる。たとえば、バスという乗り物の動力が馬から車へと変化する時代を見て来た、この辺りでは一番の老婆。こちらは初めて見る客へ好奇心の向くまま、無遠慮に男に話しかけていた。
 寒さと雪雨、そして年月に晒されたエンジンが喘息じみた排気音を絶え間なく生み出し、2人の会話に不気味なノイズを加える。耳を悪くしている訳でもないのに大声で会話を運ぶのは専ら老婆であり、男は時折虚空へ視線をやりながら相槌を打ち、ひたすら人好きのする笑みを浮かべていた。
 話を聞いているのか、いないのか、バックミラー越しでは何とも判断の付かない曖昧な態度であったが、それでも矢張り、突飛な印象を与えるような男ではなかった。何度見ても薄ら寒さを感じる、季節に不釣合いな夏用のスーツを除けば、であるが。
 いや、そもそも、あの男は一体どこから来たのだろうか。今更になって、運転手の脳裏に疑問が浮かんだ。
 乗降客は皆顔見知りと表現しても決して誇張ではない、辺鄙な地方の小さな路線である。たとえ印象に残らないような平凡な顔立ちの男で、どのような交通手段であの村にやって来ようと、この辺りで見知らぬ客が誰かの目に触れれば翌日には噂話が広まるような、そんな土地柄であった。
 あの村に1件しか存在しないパブを兼ねたB&Bの主人からは、客が来たとの噂は聞いていない。近頃になって流行の兆しを見せ出した自然墓地とやらへ向かう一団が目撃されたとの情報もない。村の者の近親者であるにしても、虚実を差し置けば、まず間違いなく噂の種になる。
 白い手袋の下にうっすらと汗を掻きながらバスを走らせ、1人また1人と客が乗降して行く中で、男は終ぞそこから動く事はなく、やっと終点である駅前へ到着した頃には、運転手の全身は暖房の効きづらい車内だというのにじっとりと濡れていた。
 降りて行く男へ不自然にならない程度の笑みを浮かべ、母国の訛りが取れない英語で良い日であるようにと他の客同様声を掛ければ、感謝の言葉と共に貴方もそうであるようにと綺麗な英語でお決まりの文句を返される。言葉も表情も仕草も、その格好さえ除けばごくごく普通の対応であったにも関わらず、言葉と笑みを向けられた瞬間、運転手の背や額に大量の汗が吹き出た。
 いつの間にか奇妙な男から不気味な男へ印象を変えていたが、しかし、一体どこが不気味であるのかと尋ねられると明確に答えようのない薄気味悪さを纏っていた。死神や悪魔でもなければ狂人でもない、けれど、不吉な存在に感じる。
 その不吉さが一体何から来るものであるのか判断は付かないままであったが、かといって確かめる勇気もない。乗客を入れ替え終わった運転手はその男との別れに胸を撫で下ろし、また午後から休暇を取得していた事もあり、その後は特筆する事もなく1日を終えた。
 それから1週間もしない内だろうか。俄に、運転手の勤め先が騒がしくなった。
 警察が捜査に来たのだと同僚達は告げたが、一体なんの捜査だろうかと首を傾げ、聴取の順番を待ちながら、会社の存続が危ういのなら今の内に逃げるべきだろうかと軽口を叩き皆の輪の中へと入る。大きな事件に関わるような器ではないと、運転手は自分自身の価値と他者の評価を正しく理解していた故の発言であった。
「殺人事件に関連していた」
「上役が先週十五日の勤務状況を提出している」
「犯人とされる男が利用していたらしい」
「一連の騒動は全土で大きく報じられている」
「奥方が惨殺された件の騒動との事」
「事に及ぶ直前に商店と酒場に寄ったとの噂も」
「狂いの仕業である」
「全くそうでなければ斯様な方法を選ばぬ」
「果たしてそうであろうか」
「手順が明確で狙い定められている」
「狂いであるよりも怨恨の可能性が高いかと」
「だとすれば余程深く怨んでいたのであろう」
「殺しの遣口は常軌を逸していると伝え聞いた」
「死者の頭に袋を被せ赤子をあやす言葉を書き殴られていたと」
「生きたまま頭に螺子を差し込まれたらしい」
「両目を抉り出されてたと聞いたが」
「椅子に縛り付けられ釘で両腕を固定されていたとも」
「全てである」
「何かの儀式の如く束ねられた薬草も添えられてたらしい」
 口々に放たれる同僚達の言葉は錆びついた臭気を帯びており、運転手は最初の軽口を後悔し、目眩を覚えた。それはグロテスクな死体を想像してしまったからであり、また。
「ときに、お前達ではなかったか。奇妙な男を見たというのは」
 あの、不気味な客を思い出してしまったからであった。
「雪の中でも薄着でいた男だとか」
「駅へと運行した彼はそれだけだが」
「村へと運行した方が大層不思議そうにしていた」
「降車後迷わず村と別方向へ歩いて行く姿を見たと」
「草地か墓地しかないというのに何故か」
「草地は兎も角墓地とは」
「自然墓地と看板を下げた森がある」
「知らなんだ」
「以前から前触れなく乗客が増えていた事があろう」
「墓参りならばよく見る乗客がいる」
「年端も行かぬ眼鏡の坊主であろう」
「十も行かぬくらいの童子か」
「常に一人で乗る子供の事であろうか」
「飴を渡した事があるが礼の告げ方が大人びていた」
「立ち振る舞いが静かに過ぎる子供で少々気味が悪い」
「そう言うな命の恩人の墓参りをしているのだ」
「殺人鬼の墓参りであると耳にしたが」
「こちらも大変な人殺しであると墓掘りに聞いた」
「しかし本人から恩人だと聞いたのだ」
「さてどちらが正しいのやら」
「これだけでは判断付くまい」
「確かあの子を初めて見たのは三年と少し前であるか」
「村の噂によると必ず月に一度来ているらしい」
「その月の二十六日であろう」
「出処はあの噂好きの老婆か」
「彼女も先日逝去された」
「そちらは年齢であろう」
 殺人事件から話は逸れ、右から左へと抜けて行く言葉の洪水に思考が追い付かず、午後に例の客を乗せたという件の同僚と入れ違いで名前を呼ばれた後も、運転手はどこか上の空で警察の質問に淡々と答えた。
 何となく、不気味に感じたような、そんな気がする、と正直に言えないでいた。
 それは運転手が主観に過ぎない。客観的な視点から実際どうであったかとなると、本当にあの客は、薄手のスーツ以外は印象に残らない男であった。主観混じりの余計な事をこの殺気立った捜査官達に告げたら怒鳴られると、そう思ったのだ。
 年齢、人種、性別、髪と目の色。身長や体格を含む外見は一致すると捜査員達は呟き、そして目撃したのはこの男かと、殺気立ちながらも何処となく顔色の悪い刑事達が1枚の写真を差し出す。そこには、あの日見た男が真面目極まりない表情で写っていた。同時に、矢張り何処かで見た顔だと感じながら肯定しかけ、そして、気付く。
 何処からか突如現れ、雪降る闇夜に村外れへと消えた男。3年前にこちらに来た。外には出られなかった。縁のある女性の家へ行く途中。贈り物は女性の家の近辺で手に入れる。添えられた薬草の束。命の恩人。人殺し。報道で見た被害者の名前と、時折バスに乗る、例の男の子。季節感の合わない、薄手のスーツ。
 浅黒い顔から血の気が引き、縺れた舌が縋るかの如く神の名を呼ぶ。
 運転手の見た男の名は、リチャード・ロウ。無差別連続毒殺犯。
 イギリス全土を震撼させたその男はしかし、3年と半年前にエメリーン・バンス、今回の事件の被害者に殺された人間であった。