帆立と長芋の山葵醤油和え
「然様ですか」
バスの窓際に肘を付き、考え事をするかのように口許を手で隠しながら応えると、私にしか聞こえない大声でユーリアンが叫んだ。
「狂人のお前が態々変装して人を殺しに行くだって!? もうそれだけで嫌な想像しか出来ないに決まってるじゃないか!」
「大丈夫ですよ。メルヴィッドと相談して事前に計画を立ててから行動していますから、予定外の事が起こってもある程度は対処出来ます」
「そういう意味じゃない!」
「ユーリアン、煩いよ。もう少し声や命を落とすとか出来ないのかな」
「お前が頭を落として死ねエイゼル。狂人に媚びる変態が」
「感情的になって喚き散らす君に言われたくはないね。不愉快な姿が見えないだけいつもより大分マシだけど、出来ればそのまま全て消えてくれると嬉しいけど」
「不愉快なのはお前の言動だ。口を開く度に耳が腐敗しそうになる言葉を吐き散らす罪で絞首刑にされろ、醜く飛び出た舌を切り取って豚の餌に混ぜる新手の葬儀に出してやるよ」
ああ、これは両者が長い長い口喧嘩に入るパターンである。私も大分学習して、そのくらいは予想出来るようになった、それが良いのかどうかは別として。
案の定私を放置して言い合いを始めた2人は、大分汚らしい言葉を使いながらお互いを罵り始めた。一応過去と未来の自分なのだが、それ故になのか容赦が全くない。
綺麗な声で吐き出される乱雑な言葉をBGMに停留所を1つ2つと通過し、乗客も増えないままのんびりとバスに揺られていると、霧の向こうに広がる東の空が徐々に色を薄くさせていた。この時期のイギリスは8時前後にならないと日の出が拝めないので、今は大体それくらいの時刻なのだろう。態々時計で確認する必要もないので、まだ暗く濃霧に覆われた西の空を眺めながら窓際から肘を下ろす。
バスの中の空調は効いていないが、それでも外気とは随分差があった。余り長い事肘を乗せているとスーツが結露で濡れてしまう、それでなくてもこの真冬にコートも羽織らずスーツ一丁でいるのだ、魔法で暖を取ってはいるが、見た目だけで非常に寒い。バスの運転手も真冬の対策が不十分な私を不審がっているのか、偶にバックミラーで確認して来た。
流石に私の魔法が杜撰で彼等の声が漏れているとは考えたくないが、怪奇現象に遭遇している風でもないから多分大丈夫だろう。今し方止まった停留所から乗って来た厚着の男性は乗り込んだ瞬間から明らかな異常を感じたという行動は起こさなかったので。
自分の着ている防寒具と私を見比べ不思議そうに首を傾げている彼に、貴方は可怪しくないから大丈夫だと心の中でだけ声を掛けておく。
「で、爺は何を呑気に構えているんだ」
「君が私に喧嘩を吹っ掛けて来る時は、彼は大体いつもこうしているよ」
「おや、やっと休戦しましたか」
再び口許を隠して声を掛けると、エイゼルが不毛だし何時でも出来る事だからと呆れた口調で答えた。多分肩を竦める様な仕草もしているのだろう。
「吹っ掛けて来たのはお前だろう」
「君が煩いからだよ、ユーリアン」
「煩くさせたのはこの爺だ」
「都合が悪くなったら他人の所為かい? そうやって自分の非を認めずに彼の優しさに甘える事を続けると、何時か酷い目に遭うよ」
「ええと、喧嘩がまだ続くようでしたらどうぞ満足するまでやって下さいね」
何やらまた不穏な空気になって来たので2人を無視して今の内に鞄から水筒を取り出し、薬を一口飲み込む。相変わらず苦い麦茶のような味がした。
飲み口を指で拭い水筒を再び鞄に仕舞い肘を付くと、喧嘩を続けるのは止めたのか先程よりも大分耳の近くでエイゼルの声がする。
「それは、メルヴィッドに渡した物と同じポリジュース薬なのかな。もしかして私が会いに行った時に煎じていたのもこれ?」
「大体は正解ですが、メルヴィッドに渡した物とは違いますよ。あちらは私の姿、正確にはあの少年の姿になるポリジュース薬です」
「一体何の為に?」
「唯のアリバイ工作ですよ。犯罪が露見した時の為の」
「相変わらず小狡い事ばかり考えるよね、お前は」
「そうだろうとも。君は正面から行って問題を拗らせるタイプだからね」
「喧嘩なら買うよ、性悪ロケットが」
「事実を指摘しただけじゃないか、間抜けな指輪の癖に」
第2ラウンドに突入するのか、男の子は元気だなと考えていたが、予想に反して怒鳴り声や揶揄は聞こえて来なかった。一応ぎりぎりの所で停戦ラインを超えてはいないらしい。
「話を脱線させて済まない。気を悪くしていないのなら、今日の予定を大まかでいいから教えて欲しいんだけれど」
「仔細を省くと、本当にバスと電車を乗り継いで人を1人殺しに行くだけなんですけれど。それじゃあ流石にざっくり過ぎますかね」
「目的地は判っているんだろう。殺すだけなら面倒な事をせずに姿現しで行けばいいじゃないか、時間と金の無駄だよ、無駄」
「正論ですねえ」
ユーリアンの呆れたような言葉に緩く苦笑し、ブラウンの瞳を窓の外に向ける。西の空も随分明るくなって来て、霧は未だ深いが先の停留所に人影が見えた。今度は老人らしい。
「でも、出来る限り魔法を使いたくないんですよ。今回は」
「姿現しにポリジュース薬、それ以外にも防寒や防音魔法を既に使っている癖に?」
「そう指摘されると痛いですね」
バスが停車し、乗客が入ってくる。手押し車の老女が通路を挟んで隣に座った。厚着の男性と挨拶をしていたので2人は顔見知りらしい。
「兄さん。この辺りじゃあ、見ない顔だね」
「ええ。3年程前にこっちに来たのですが、あまり、外にも出なかったので」
「私はねえ、このバスが通るようになってから毎日のように乗っとるよ。今日は土曜だからね、あと2つ先の停留所で子供を連れた若い女が乗るよ、旦那はいないらしいから、どうだいあんた」
突然の乱入者にちょっと訳が判らない展開になりつつも、笑顔のままやんわりと断りを入れる。ユーリアンが暴言を吐き捨て、エイゼルが物騒な事を呟いているが、幸い彼女には何も聞こえていないので安心して応対出来た。
「魅力的なお誘いですが、実はこれから縁のある女性の家まで行くので、またの機会に」
「そうなのかい、いい男が早く売れていくのは何時の時代も一緒さねえ。クリスマスも近いし上手く行くよきっと、プレゼントは用意出来ているのかい」
「ええ、全て向こうで手に入れる事が出来るよう整えましたから」
「花束は薔薇がいいよ、大きな薔薇の花束は女の夢みたいなもんさ」
「花束、ですか」
「綺麗に包んでリボンを掛けて、まあ今じゃあ花屋に頼めばやってくれるさね。彼女に告白するんだってちゃんと言うんだよ」
「心に留めておきます」
私しか聞こえない暴言を両側から吐かれるがどうにも出来ないのでひたすら流し、出掛ける前にメルヴィッドが魔法を使わないよう釘を刺してくれた事に感謝をする。バスの中で老女の遺体が作成され警察に足止めを食らうなんて事にならずに済んで本当によかった。
結局終点まで彼女の相手をせざるを得なくなり、機嫌が最悪になっているユーリアンとエイゼルが私に再び口を開いてくれたのは日も大分高くなった時刻の、乗り継いだ先の閑散とした電車の中であった。勿論、そこに至るまで何度も謝り倒したのは言うまでもない。
「あんな婆の何処がいいのか判らないな。爺だからああいうのが好みな訳?」
「私達やブラック家の人間に好んで関わるからは面食いだと思ってたんだけどな」
「ああ、その考えは概ね正しいと思うよ、確かにこれは面食いだろうからね。僕の冗談は置いておくとしてもさ、は他人のあしらい方が下手過ぎ。もう見てて聞いてて苛々するくらいになってない、あんなの数秒で片付けなよ」
「一応私達の中では年長者のはずなんだろう。何故彼はこうなのか知っているのかい」
「何故って、メルヴィッドと会う前まで山の中に引き篭って暮らしてたって本人から……ああ、そうか、エイゼルには何も話してないんだ?」
「ユーリアンとメルヴィッドは知っているのか」
「除け者にされて怒ってる訳? これに怒りをぶつけても無駄だよ、大方メルヴィッドから伝えないよう命令されているに決まってる。因みに僕からも詳しく言う気はない、爺だから長いくて面倒な人生歩んでるから。まあ、頭の中がイカれたのも納得出来る半生だよ」
「ユーリアンがそう言うなら壮絶なんだろうな」
「掻い摘むのも面倒だけど、ダンブルドアの手で頭の中を弄り回されながら生きて来た男だよ、こいつは。あの男と記憶操作系の呪文を異様に嫌ってるのもその所為」
「私が知っている風に言っている所悪いが、全て初耳だ」
殺気のような物を浴びせられるが、ユーリアンが連帯責任でメルヴィッドに殺されるのは御免だとエイゼルを抑える。何時もと大分違う2人の会話や立ち位置に少し驚いていると、私を蔑むような声色でユーリアンが笑った。
「他人から見たら嗤える人生、とも言えるけどね。馬鹿な男だ、ただ自分が馬鹿だって知ってるから最悪の愚者でもない。お前はこの男の自己評価が低いとか言ってたみたいだけど、かなり正確だよ、その評価は。その程度の判断が出来る頭はある」
ふいにそこで沈黙が降り、車内は一層静かになる。相変わらず行儀悪く窓枠に肘を掛けていた私は、許されているかどうかは判らないが口を開いた。
「メルヴィッドから、エイゼルに私の過去を告げるなとは確かに言われていますが、命令はされていませんよ。言わないのは、私の判断です」
「本当にお前はさ、腹が立つくらいあの男だけを庇うよね。本体さえ人質に取られなければ僕がすぐにでも仲良く殺し……」
言いかけて、ユーリアンの纏う雰囲気が変化した。
多分、笑ったのだろう。
「愚鈍な。お前の頭で気付けない事を、親切な僕が教えてやるよ」
「私のやっている事がダンブルドアのやっている事と酷似している、といった所ですか?」
先回りの発言をすると図星だったのか、ユーリアンが大きな舌打ちをして黙った。今出来る最高の嫌がらせだと思ったのだろうか。
何かを人質に取り行動に制限をかける手段は、実際私の世界でダンブルドアにやられた手の1つであった。普通に考えて、私の行動はダンブルドアに似ているか、もしくはそれ以下のものだと、その程度は生憎、随分前から自覚している。
恐らくあの男と敵対していた若い頃の私であれば同じ手を使う事を嫌悪し、それだけは絶対に使わないと拒んだであろうが、もう私はそこまで若くも清くもないのだ。メルヴィッドはそこまで判って私を使っているに違いないのだが、ユーリアンはまだ考えが若く純粋らしい、そこが駄目だという訳ではない。寧ろ、若く真っすぐだからこそ好ましく、眩しい。
エイゼルはメルヴィッドと同じ考えを持っているのか、もう少し考えてから発言するべきだったねとユーリアンを鼻で笑い、すぐに口を噤んだ。何時もならここから媚びに入るのだが、彼も色々考える事が出来たらしい。
私も腕時計を確認して目を離し、そろそろ時間だと水筒から薬を一口分飲む。中身はまだ沢山あるのでこの分ならアクシデントでも起きない限り十分持つに違いない。
水筒を鞄に戻し、景色を眺める演技を再開させた。目的地はもう大分近い。
「お前は化物だ」
唐突に、ユーリアンが指摘する。続く言葉に、口端が緩く吊り上がった。
「お前は僕の理解の範疇の外にいる、化物だ」
「ああ。やっと、貴方も化物の正しい意味に辿り付きましたか」
「何だって?」
「今告げた言葉そのままの意味ですよ」
恐らくこの子はメルヴィッドの言葉にだけ引き摺られ、私の発言が多少奇妙な事と不死性故に化物や狂人と揶揄していたのだろう。
本来の意味は今言ったように、彼等が理解出来ない薄気味悪い物、という意味であったのだ。理解の境界は其々違うが、意味合いとしてはそれで正しいので訂正する必要もないだろう。あまりに久しいので私まで本来の意味を忘れていたのだが、それは格好悪いので内緒にしておこうか。
朝の会話を思い出すと、メルヴィッドの予定ではユーリアンではなくエイゼルが気付くべき事だったのかもしれないが、更に以前の会話を思い出して懐かしさに目を細める。
あれは夏の終わりの、レギュラス・ブラックを甦らせる準備をしている最中であったか。メルヴィッドは溜息混じりに躾は一度にやった方が効率的だと言っていたような記憶があった。多分それが、これなのだろう。
あの時は私とユーリアンかと勘違いしていたが、考えて見ればあの時点で既にロケットの分霊箱であるエイゼルを引き入れる事は確定済みだったので、普通に考えれば躾の対象は彼等だったのだ。
他にも今になって腑に落ちる点がある。メルヴィッドがエメリーン・バンスに関しての情報を匿名で流し、魔法界で裁かれるよう切っ掛けを作ったあの行動だ。
当時は私を意図的に暴走させたがっているのかと考えたが、これも今になって考えると見当違いの推理である。あれによって得た結果はレギュラス・ブラックの心がダンブルドアから完全に離れた事と、私がこうして見学者を引き連れて殺人ツアーを行う事だった。
遡ってみれば他にも出て来そうであるが、私の冴えない頭ではこの程度が限界である。しかし構いはしないだろう、出会った当初は私が彼を振り回して来たのだ。何時だったか考えたように、今回は彼の用意した舞台で私が馬鹿みたいに踊り狂うのも一興である。
手綱は今の所メルヴィッドが握っていてくれる。失敗しても、精々肉体が死ぬだけだ。
「今後の展開が楽しみですねえ」
「黙れ。僕は何時までも僕のままでいる、あの男のようになって堪るか!」
「おや」
恐怖に引き攣った叫びを聞いて、私は苦笑する。周囲の空気だけが嫌に緊張していた。
こちらとしてはメルヴィッドが用意した脚本がどうなっているのか楽しみだと言ったつもりだったのだが、ユーリアンには別の意味に取られてしまったらしい。この子は確か、実の父親を殺した直後の記憶であったか。
ならば自らの歩む道を決めたばかりの若々しい子だ、その子にメルヴィッドのような思考の変化は恐怖に近い感情を呼ぶのかもしれない。自分の決めた全てが、他人の手で引っ繰り返ってしまうかもしれないのだ。
このくらいの年齢の子は外部からの刺激に敏感だろうから、より辛いだろう。しかし、だからといって、私がこの子に気を使って何かをするつもりは一切ないのだが。
所詮私は、そのような生き物なのである。
「、君は一体何だ」
「彼等曰く化物らしいですよ、私自身は辛うじて人間のつもりなのですが。でもきっと、どちらも名前が違うだけで同じ生き物でしょう」
こちらも精神的打撃を受けたのか、長い沈黙の末に疲れたような声で話しかけて来たエイゼルに苦笑の表情を保ったまま返答をする。
「ああ、駅の影が見えて来ましたね。もうすぐ目的の場所ですよ」
お喋りは終わりにしようと言い、窓枠から肘を外した。結局スーツは結露に濡れてしまったが諦めよう、どうせ外は未だうっすらと霧とも小雨とも付かない水分が漂っている。歩いている内に濡れてしまうだろうから。
「私は、君が判らなくなった」
誰もいない座席の上に溢れた可哀想なエイゼルの言葉は私に見捨てられ、減速する電車の騒音に掻き消されてしまった。