子持ち鰈の煮付け
ブラック家で起こった事を報告し謝罪した瞬間、調合中で丁度使用していた乳棒でまず頬を殴られた。ごめんきみがなにいってるのかわからないそこへなおれ、と何時もと大分違う口調をした真顔のメルヴィッドに床に正座させられ、詳細を報告する毎に色々な物に上から横から下から殴られ、最後に頭に垂直で降って来たのが件の牛乳ボトルであった。
水よりも若干ではあるが比重の重い牛乳で殴打されてよく死ななかったものだと、自分でも思う。多分顎を引き全身の筋肉を緊張させていた事の他に、メルヴィッドが彼なりの手加減をしてくれたのだろう。
その事を思い出して無意識に首を撫でていたらしく、半透明の白い手が伸びて来て私の項に触れて来た。視界の先でメルヴィッドとユーリアンが同時に嫌悪感を剥き出しにした顔をする瞬間を目撃したが、何度見てもこれは中々に面白い。当人達は全く面白くなさそうなので、うっかり口に出してしまったら2人がかりで殴られそうだが。
「暴力に訴えるなんて全く酷い男だね。、あんなのと組むのは止めて私にしなよ。君の望む儘に優しくしてあげられるから」
「ねえ、だからさ。この枯れた発狂爺にそういう事するの本当に止めてくれないかな。ほぼ毎日言っている僕の言葉が理解出来ないくらいに本体が錆びて魂が腐ってる訳?」
「君の脳と言葉と判断力が放置され過ぎて融解してるだけじゃないかな。そもそも彼から膨大な生気を貰っている分際で感謝の意を欠片も示さない下品で劣悪な存在が私の過去であるという事実をまず認めたくないんだけれど?」
「矜持と羞恥心が炭化するまで焼き切れて煙で頭がイカれた奴の発言としか思えないな。ねえ、ちょっとそこで頭カチ割ってみなよ。お前の脳の中に蛆虫の死骸がぎっしり詰まってたら今迄の発言も全部なかった事にしてあげられるような気がするからさ」
「君が見世物として愉快な自殺を披露すればいいじゃないか、本体の方を叩き割って。砕けた欠片は親切な私がその辺の由緒ある溝川に纏めて捨ててあげるよ。運が良ければヘドロに沈む前に烏が全部拾い集めて巣の中で大切に扱ってくれるんじゃないかな、他のガラクタやゴミクズと一緒にね」
「端金で売り飛ばされたロケット如きが偉そうに。大体お前は」
「頭の悪い口喧嘩は一旦止めろ、聞かされていて虚しくなる」
「煩いな、存在感のない髪飾りは黙ってなよ。私の聴覚が狂いそうだ」
「随分威勢の良い口だな。尤も、口だけだが」
「お前達が未来の僕だってどうしようもない事実に絶望しそうだ」
「どうしようもないのは君と未来の私だ。私まで巻き込まないで欲しいな」
口喧嘩から発展して3者が仲悪く睨み合い、殺気を含んだ不気味な沈黙が早朝のダイニングに降りる。
これは、私が収拾を付けなければいけないのだろうか。他方向からの助けは入るだろうかと視線を逸らすが、リビングで仲良く座っているピーター君とスノーウィ君はそもそも無機物なので無理だろうし、生物であるギモーヴさんも何時も通り不動の構えで我関せずを貫いていた。
どう考えても、私しかいないようである。
「取り敢えず朝食にしましょうか」
「黙れ、私を餌で釣ろうとするな」
「っていうか完全に逃げの手だよね、爺の今の発言」
「飲み物はカフェオレで宜しいですか。シナモン入れます?」
しかし仲裁が可能な立ち位置の生物が私しかいないからといって、別に私が止めなければなけない理由もない。メルヴィッドとユーリアンの言葉を無視して牛乳を温めようと回れ右をすると、何故かエイゼルが不愉快そうな視線を送って来た。
彼が常時私の言動を不快に思っているのは承知であったが、ここまで感情を露わにしているのも珍しい。今日は雨が降るのだろうか、イギリスは大体年中雨が降っているような気もするが、ならば逆に快晴が続くとか。
心底どうでもいい天気の事を気にしていると、ようやくエイゼルが口を開いた。
「君はさ」
「はい」
「自分の事は何を言われても、何をされても笑って流す癖に、メルヴィッドが貶されるとどんな形であれフォローはするよね。そんなに彼が大事なの?」
「大切な人ですよ。この世界で一番の」
頑張って私を褒めようとしたのが随所に見え隠れするが、それを指摘するよりは簡潔な言葉で質問に答えた方がいいだろうと判断しての返答である。のだが、何故か今度はユーリアンが噛み付いて来た。
「お前達何なの! 寧ろ爺の頭の中が何な訳!?」
「唯の協力者という関係だ。それと、この男の頭の中がどうなっているかは何があっても覗きたくないし、知りたくもない」
「そんな事はどうでもいいので。メルヴィッド、シナモンどうしますか? 入れるならパウダーもスティックも両方ありますが」
「どうでもいい!?」
「ユーリアン、喧しい。入れろ、スティックの方」
「判りました。それで、エイゼルは私の言葉で理解して下さいましたか」
焼きトマトとマッシュポテトを添えたクロックマダムとグレープフルーツのサラダをテーブルに置きながらエイゼルへ話しかけ表情を伺うと、私の言葉は判ったが到底納得行かないような渋い面をしていた。彼が夜な夜な部屋を訪問する度にメルヴィッドに対して私がどう思っているのかを語っているのだが、中々腑に落ちないらしい。
言葉では伝え切れないものがある、とは言うまい。単に私の語彙が不足している事が悪いのだ。悪いのだがしかし、メルヴィッドも特にこれといったアクションを起こせと言わないので今日まで放置して来た。
「そいつに理解される事がそんなに重要か? エイゼル、お前の事は心底気に食わないが私も悪魔ではないから親切な忠告をくれてやる。こいつの狂った本性を見てから媚びるかどうかを考えろ、私はそれで失敗した」
「メルヴィッドは確か、1週間くらいしてから後悔してましたよね」
「今も後悔している。妥協と諦めを覚えただけだ」
「諦め、だって?」
蕪のポタージュをよそっていながら観察していると、エイゼルの口許が悪態を象る。象るだけで、空気を振動させたりはしなかったが。
多分、現状を諦観するというメルヴィッドの選択が彼の矜持を傷付けたのだろう。私のような人間すらあしらえないとは、と憤っているのだ。ユーリアンも奥の方で私に対して妥協はしたくないと口を尖らせている。
「お前達はこれが煮ても焼いても食えない男だと未だ判らないのか。丁度良い機会だ。今日一日に着いて回れ、それで多少は意見を変えるだろう」
「この子達も一緒に行動するんですか?」
「反対意見は認めない」
シナモンスティックを添えたカフェオレをテーブルに置き指名された2人を見ると、案の定不満を全面に出してメルヴィッドに文句を垂れていた。不平不満を隠そうともせず始終悪口を言い合っているこの2人を引率するのが嫌な訳ではないのだが、目を離した隙にとんでもない事をしでかさないかと若干不安になる。
ただメルヴィッドなりに心配してくれているのか、魔法の使用は禁止され、無断で魔法を使用した場合や予定時刻に私が家に帰らない場合は両者の本体を破壊すると宣言してくれたので、道中背後から襲われて肉体が死ぬ心配はなくなった。
因みに一方が本体破壊を覚悟で約束を反故にした場合、連帯責任でもう一方の本体も破壊されるらしい。連帯責任なんて制度は滅べとユーリアンとエイゼルが口を揃えて言うと、どうせお前達には関係ないだろうとメルヴィッドが皮肉げに口許を歪めた。
「自己犠牲という馬鹿げた事を仕出かすのはこの中ではくらいだ」
「貴方達の才能は代替えが効かないので仕出かさないのは当然の行動でしょう、寧ろ感情に任せて誰かの為に命を張るなんて呆けた事を抜かしたらその場で殴り倒しますよ」
「もう嫌だこの夫婦共!」
「何が夫婦だ早とちりの間抜けが。こいつの言葉を取り零すな」
カフェオレをシナモンスティックでかき混ぜながらメルヴィッドが愚弟を見る目でユーリアンを眺めた。ただ、先に気付いたのはエイゼルであったが。
「達、って事は私の事も守ってくれるのかな? どちらかと言うと君に守られるよりは、君を守ってあげたいんだけど」
「エイゼルは私に殴られたいんですか。随分、奇特な趣味をお持ちのようで」
「それは御免だ」
触れる事は叶わないが、演技の笑顔で握り拳を作ると両手を軽く上げて降参のポーズをして来た。ようやく言葉の僅かな違いに気付いたらしいユーリアンは、怒りなのか羞恥なのか顔を赤くして馬鹿じゃないかと罵って来る。本当にこの子は思い出したように凄く可愛らしい反応をするので爺心全開で甘やかしたいのだが、そんな事をしては大人ぶりたい彼の逆鱗に触れそうなので我慢した。
さて、そろそろ時間である。私も用意をして出かけなければ。
少しタイミングは早いが今の内に人参と南瓜のパウンドケーキを出しておき、デザートとしてテーブルに置いてからダイニングを後にする。背後でユーリアンがメルヴィッドに揶揄われているのを無視してバスルームへ向かった。暇だからか、媚びを売るのに余念がないのか、ダイニングの2人と関わり合いたくないのか、エイゼルが偽の笑顔を貼り付けたまま付いて来るが別に困る事はないので大丈夫だろう。
あらかじめ必要な物を揃えてあったバスルームへ入ると、準備してあった物に対してエイゼルが首を傾げるような仕草をして疑問の態度を表した。確かにスーツやネクタイ、鞄、成人男性用の靴や下着類等は到底今の私に必要なものとは思えない。普通なら、であるが。
「これで一体何をする気なのかな?」
「念入りに変装をするだけですよ」
言いながら服を脱いでいくと、上半身が顕になった時点でエイゼルが顔を顰めた。普段は温厚なレギュラス・ブラックやクリーチャーが激怒したような傷跡が体の至る場所に残っているのを見て、彼もまた何かを感じたのだろう。
全裸になり脇に置いてあった水筒を手に取ると、脱衣の間に一通りの傷を確認し終えたのかエイゼルが一言、古い傷だと口にした。
「メルヴィッドでもユーリアンでもないね、マグル共が付けた傷かな」
「ええ。そもそもあの2人なら磔の呪文を使用するでしょう。こんな判り易い虐待の証拠を残すような頭の悪い真似はしませんよ」
「確かに、それもそうだ。所でそのマグル共は」
「死にましたよ」
「君が殺したのかい?」
「私がけしかけて殺し合いをさせた、と表現するのが一番適当でしょうか」
驚いたような顔をしているエイゼルを横目に眼鏡を取り、水筒の中身を一口飲み込む。焙煎し過ぎた麦茶のような味がしたが、別に飲めない程ではない。不味い訳ではないのだがしかし、好みが分かれるような味でもあった。
味の感想に意識を集中させて内臓が捩れたり骨が軋む感覚に数秒耐え、痛みが治まった後の姿を鏡で確認する。ダークブラウンの髪と瞳の白人、年齢は20代前半程度で目付きが多少鋭い事以外は特にこれといった特徴もない平凡な成人男性。
アラスカン・マラミュートを思わせるような、あの人。
「殺し合いをさせた?」
「詳しくお答えするには時間が足りませんね、それは道中にでも追々」
男性の声で返答する違和感を覚えながら用意しておいた服に手早く着替えて水筒を鞄に入れる。久々に腕時計やネクタイをするので手首や首元が締まって落ち着かないが、こればかりは仕方がない。
護身用の杖を鞄の中に入れ、準備は完了。靴を指に引っ掛けて階段を降りて行き、未だ騒がしいダイニングに顔を出す。ユーリアンは反応が一々可愛いので苛めたくなる気持ちは判らないでもないが、それにしたってメルヴィッドは楽しみ過ぎだろうと思った。
「メルヴィッド、私はそろそろ行きますので後の事は宜しくお願いします。ポリジュース薬はマグに入れて冷蔵庫の中に入っていますので」
「え、誰?」
「馬鹿かい君は、に決っているだろう」
「知ってるよ。そうじゃなくてその外見の男は誰かって」
「もうそんな時間か。薬を途中で切らすようなヘマをするなよ」
「判りました。では行って参ります」
「人の質問に答えなよ馬鹿夫婦!」
「誰が馬鹿で夫婦だ糞餓鬼が」
「こんな夫も子供もには相応しくないと思うな」
「僕を息子として計上しないでくれるかな!?」
「そろそろバスの到着時間なので行きますね」
混沌とした会話が生まれたダイニングから顔を引っ込めて玄関に向かい、靴を履きながらモニターを起動させる。
映像は、この姿の彼が埋まっている場所から数キロ離れた最寄りの村。暗闇の中にバス停の街灯が薄ぼんやり輝いているだけで人気はない、幸いな事に今日は霧が出ているので姿現し中に偶々誰かが窓の外を見た所で気付かれる心配もないだろう。
念の為に感熱用のモニターでも確認するが当然監視の魔法使いもいない。人影どころか猫や鳥すらも存在していないので問題らしい問題はない。臆病者めとユーリアンから蔑みの言葉をいただくが、そのくらいが丁度いいのだと返しておいた。
「朝から急な外出で質問したい事は色々あると思いますが、ひとまず姿を隠して付いて来て下さいね。防音魔法を張った後で答えられる範囲は答えますから」
「爺、1ついいかな、本体と距離が開くと不安なんだけど」
「メルヴィッドの時は大丈夫だったので、心配ないでしょう」
「私も1つ。取り敢えず、外出の目的だけ先に聞いても?」
「人を殺しに行くだけですよ」
途端に絶句するユーリアンとエイゼルを前に、私はリチャード・ロウの顔で微笑んだ。