忍冬の結実
レギュラス様、クリーチャーは、未だロケットを破壊する手立てを思い付きません。
未だ果たせない己の不甲斐なさに、何度この命を断ち切りお詫び申し上げようかと考えておりました。けれど、数多くおいでになったご主人様の中で、誰よりもクリーチャーを想ってくださったお方から最後の、命を懸けてのご下命です、自死は最悪の逃げであり、レギュラス様からの信頼を裏切る最も恥ずべき行為だと言い聞かせました。
先代の当主であらせられるヴァルブルガ奥様が逝去されてから5年の月日が経過し、屋敷が伽藍堂になろうとも、仕えるべき一族から残された最後の命令を成し遂げる迄は、クリーチャーは投げ出す真似は致しません、決して。
クリーチャーの知り得る限りの魔法で効かないのならばと、近頃では親交のあるハウスエルフから多様な魔法を学んでおります。
中にはマルフォイ家に仕えている未熟者のような、クリーチャーの行動に否定的なハウスエルフもおりますが、レギュラス様の為と一言告げれば大半の者は詮索せず快く知識を伝授してくれました。それもこれも、学生の時分より我等のような存在を常に気に掛けて下さった美徳に拠る所が大きいのでしょう。レギュラス様はこの老いぼれたクリーチャーだけでなく、多くのハウスエルフにとって望ましい主人なのです。
弱音と感傷は、只今を以て終えましょう。
涙を流す暇も、嘆く資格もありません。数週間かけてロケットの内部を開こうとした魔法が今朝失敗し、自らを罰する行為は終えました。だから、次は。次こそはきっと。
レギュラス様の為と決意も新たにしたその時、本当に、突然の事でした。
屋敷の扉が。表の扉が、開く音を聞いたのです。
ブラック家の屋敷には、薄汚い侵入者を排除する為に数え切れぬ程の魔法が施されております。当主と、当主に認められた方のみが、この屋敷の扉を潜る事を許されているのです。
今、この時、それが認められているのはお一人だけに御座いました。
現当主であらせられるアークタルス大旦那様が屋敷に姿を現さず、口を噤んでいる以上、ヴァルブルガ奥様が遺された言葉、即ち『私の息子』だけがブラック家の屋敷を縛っております。
勘当しても、家系図から排除しても、血を分けた息子は息子なのです。誰が、どれだけ異を唱えようとも。
「薄汚い、無法者の、血を穢す悪党め」
何故レギュラス様が死没して、あの男が生きているのだろうと、世界を、自分自身を呪わずにはいられませんでした。レギュラス様は、死の直前迄、家族の身を案じておりました。どこまでも気高いお方でした。レギュラス様の言葉にはあの男も含まれておりました。
にも関わらずあの男は、レギュラス様を臆病者だと、逃亡者だと、大馬鹿者だと罵ったのです。死者に鞭打ったのです。レギュラス様の死は無駄であると声高く断言したのです。
全くの冒涜でした、これ程の不敬が他に御座いましょうか。レギュラス様は、死に逝く時ですらヴァルブルガ様とオリオン様の身を案じておりましたが、反面あの男は、シリウス・ブラックという男は。
クリーチャーはあの男が嫌いです、憎いです。忌むべき存在だと思っております。あの男を主人と呼ばなければならぬのなら、自身の目を潰し舌を切ってしまった方が幸福だと思えるくらいに嫌っております。
しかし、レギュラス様が、レギュラス様との約束を果たす迄は、クリーチャーはどれだけ自傷を行っても死ぬ事だけはあってはならないのです。ご主人様が、レギュラス様が命を落としてまで手に入れたロケットを破壊する日が来る迄は。
怒りに全身を震わせたままロケットを投げ付けても、床板の傷が増えるだけでした。その音を聞き付けたのか足音が近付いて来ましたが、現実への失望が過ぎて、動く気力も、顔を上げる気力も残されておりました。
足音は一直線にクリーチャーの元へやって来て、背後に立ちました。
そうして、そうして。
「ただいま、クリーチャー」
クリーチャーの名を、呼んだのです。懐かしい声で呼んだのです。
それはレギュラス様の御声でした。ご幼少のみぎりから、何時だってクリーチャーの名前を優しく呼んで下さる、美しい声でした。
死者の声であろうと、構わないと思ってしまいました。どれだけ気が狂れようとロケットさえ破壊出来ればいいのです。クリーチャーの名を呼んだのは間違いなくレギュラス様の声であったのならば、それ以外の事はどうでもいいのです。
「……レギュラス様?」
「うん、僕だよ。クリーチャー」
恐る恐る振り返るとそこには、湖に消えてしまわれた日のままの姿のレギュラス様がおいでになりました。
服装は質素な品となり、怪我もしておられましたが、あの日、クリーチャーが最後に見たレギュラス様でした。
レギュラス様の姿に扮した他者では御座いません。ハウスエルフには仕えるべき主人を見分ける能力が生まれつき備わっているのです。主人の元へならばすぐに馳せ参じる事が出来る力がハウスエルフにはあるのです。鳥が飛ぶように、魚が泳ぐように、ハウスエルフは正確に主人を見分ける事が出来るのです。たとえどれだけ優秀な魔法使いが変装しようとも、どれだけ沢山の薬を用いて外見を偽っても、ハウスエルフが主人を間違える事は万に一つもありません。
だから、この御方は、レギュラス・ブラック様なのです。
奇跡が起きたのでしょう。それとも別の、いいえ、理由付けなど必要としていません。クリーチャーの目の前に現れ、今こうして抱き締めて下さるこの御方は、間違いなくレギュラス・ブラック様なのですから。それ以外の事は何も重要ではないのです。
「レギュラス様」
「うん」
「ああ、レギュラス様!」
「うん、ただいま。クリーチャー」
生きていてよかったと、そして、最後の命令を未だ果たせず申し訳ないと、2つの感情が入り乱れ涙となって溢れました。何度もレギュラス様の名を呼び、縋りました。
声を上げて涙が枯れるまで泣き続け、熱を持ち始めた頭と喉でようやく、返すべき言葉を見付けました。
「お帰りなさいませ、レギュラス様」
クリーチャーはもう、何時死んでも構いません。