仮病のウイルスキャリア
厄介な男が死んで、いや、殺されてくれて助かった。
偽名としか思えないような名の平凡なマグルだったが、はその男を何故か気に入り、英雄とまで讃えていたのだから。全く、あんな男の何処が良かったのか。私よりも都合の良い人間が存在するはずがない、それを理解出来る頭は持っているだろうに。
私に気付いていないようなので蔑みの言葉で声を掛けるが、案の定怒りもしないで肯定をされた。反発する気概を持っていない訳ではないのだが、は言葉での詰り合いが苦手なようで、すぐ許容という逃げに走る。懐が深過ぎるのも問題だ。
顔を上がる気力も失われているようなので、正面を陣取り膝を付く。覗き込んだ薄暗い緑の目の奥に宿る瞳孔の淀んだ黒が美しいと思った。
「態々危険を犯してこんな場所に会いに来るなんて」
「危険を犯してでも主人を迎えに来るのは犬の立派な仕事の一つだろう?」
犬、という単語にが不快感を示してみせる。俯いて僅かに眉を顰めるだけでは勿体ないと思った。顔を上げて、正面から私を罵って欲しかった。
しかし、それは言わない。言った所で叶わないのだから無駄だった。
「貴方は立派な人間で、私は貴方の主人ではありません。隣、空いていますから座って下さい。病院の床は不衛生なんです」
「こちらの方が良い。それに、何度も犬は比喩に過ぎないと言っているだろう、人間に拘るのなら下僕でも奴隷でも好きなように呼べばいい。お前は私の主人で、私はお前の所有物なのだからそれに従おう」
「貴方のその、所有物と言いながら不遜な態度を崩さず従う気も見せない様は好きですよ」
「では、私の嫌いな所は? 気に食わない事は何だ?」
消沈しているを詰り、詰られたいが為に会話を誘導したが、それが読まれていたのか、ただの本心なのか、望んだ言葉はまた得られなかった。
「困惑はしていますが、それだけです。私は、貴方を嫌悪している訳でも、貴方に憤怒している訳でもありません」
「私は、そこで死んでいる男を見殺しにした」
「それは当然でしょう。彼は私の関係者で、貴方との関わり合いはありませんから。もしも貴方が彼を救助していたのなら、私の価値観は一変してしまいますよ」
「……助ければよかった。あの男は不愉快だが、それでも。そうすればお前の中の何かが変わっていたんだろう?」
「協力者から保護対象に格下げしますよ。貴方の身が危険に曝される事しか考え付きませんから止めて下さい。今の私にとって一番大切なのはメルヴィッド、貴方なんですから」
「あれは、お前の英雄ではなかったのか」
「英雄ですよ、今でも。私の、私だけの」
の表情で白人の子供が微笑い、視線が私から外された。
先にあったのは安っぽい銀色の扉。あの男の死体が保管されている場所だと判り大きく舌打ちをする、それでもは私を責めず忌々しい慈母のように微笑んでいた。
詰りながら責めて欲しいと、罵りながら犯して欲しいと恥も外聞もなく叫び縋りたい衝動を抑える為に奥歯を噛む。
言われるまでもなく、以外でも試そうとした。最初は単に眠っていた性癖が目覚めたと思ったのだ、でなくても名も知らない誰かで済ませられると。
だが結果は見ての通り、惨敗だった。この男以外に罵られる事を想像しただけで怒りと吐き気がこみ上げ、顔も性別も判らない連中を脳内で八つ裂きにした。
絶望した、性的対象がこの化物ではなければならない事に。
叫んでどうにかなるのなら喉が切れたとしても叫び続けるが、どれだけ叫んで足掻いても無駄なのだ。
は物腰こそ柔らかいが融通が全く効かない、後々自分の利益になる事と興味深く面白いと思う事にしか手を出さない。私が言えば他の事も大抵は完璧にこなして来たが、そこに熱意は全くなかった。
何よりも、どういう訳かは私を詰る事を強く拒む。どれだけ酷い言動をしても、今回だって、私はあの男が殺されるのを看過したというのには私を責めない。
もっと、単純で判り易い性癖ならば良かった。同性愛者のマゾヒスト、それだけで済むならばどんなに楽だったか。それだけならば、繕う事だって容易であったのに。或いは、この男がもっと人間らしい生き物であったのなら。
「メルヴィッド」
呪い殺したくなるような優しい声が頭上から降る。殺気を込めて睨み付けるが、はまだ笑っていた。少し、困惑を含んだ視線が私を見下ろしている。
こんなものが欲しい訳じゃない。私が欲しいのは、これではない。
「仕方がない子ですね」
私を見ていたと思い込んでいた視線は、正確に言えば、私の下半身に固定されている。あの男を見殺しにした事で侮蔑の言葉を得られるかもしれないと期待して僅かに質量を増していた布下の膨らみをは微笑んで眺めていた。
そうじゃないのだと告げようと口を開いた瞬間、それを待っていたかのように黒を宿した緑の視線に蔑みの色が加えられる。ただそれだけで、背筋に快楽が走った。
「本当に、仕方がない子」
伸びて来た白い手が前髪を鷲掴み、ゆっくりと後方へ押して行く。僅かな痛みと共に数本の頭髪が抜けたが、私にはそれが自分自身の理性のように思えた。あの日からとうに理性の螺子など全部外れているというのに、我ながら馬鹿で下手な比喩である。
喉が逸れて呼吸が喘ぎに変化し始め、本当に犬のようだと自嘲した。勿論、興奮も。このまま床に叩き付けて欲しいと願ったが、口から出たのは生憎と別の言葉だった。
「不愉快だ、誰の許可を得て私にこんな事をしているんだ?」
「以前貴方に合わせようと努力した時に同じような事を言われて手を離したら、何だか物凄く怒ったじゃないですか。全く、困った天邪鬼さんなんですから」
「ならば嫌えばいい。嫌って、私を詰ればいい」
「ですから、私は困っているだけで貴方のそういう所も好きなんですよ」
好きだ、と言いながらは乱暴に髪を引いて私に視線を合わせさせる。蔑みを含んでいた笑みは消えて、ただの慈母の笑みとなっていた。
「しかし未だ協力者としてつるんでいる訳ですし、好意を持っているからこそ、相応の責任を負うべきなんでしょうね。あの時言われたように、貴方を狂わせた責任を」
「は、これの何処が責任を取っていると……っ!」
「耳障りだ。犬の分際で主人と同じ言葉を喋るな」
殺気と侮蔑を織り交ぜた言葉が突如として頭上から齎され聞き間違いかと一瞬思考が停止する、ずっと見ていた筈なのに何時の間にか慈母の笑みは消え、苛立ちを含んだ軽蔑の視線がそこにあった。
全身が粟立ち、意識せず喉が鳴る。もっと罵って欲しいと、舌を出して喘ぎながら物欲しそうな自分の顔が歪んだ緑の双眸に映り込んでいた。
次の言葉が放たれる前に、ふ、との表情が和らぐ。また、あの忌々しい笑みだ。
「と、いった辺りで宜しいんでしょうか」
「お前……そこまでやったのならやり通せ」
頭皮から痛みが失われ、乱れて癖の付いた前髪を同じ手が撫でるようにして整え始める。試しにその手を取って掌に口付けてみるが目の前の表情に変化は一切存在しない、居ても居なくても同じだと告げられたようで酷く苛立った。
不足しているのだと、は告げる。
「だってメルヴィッド、貴方私に向かって罵れ嫌え詰れと言うだけで自分がどんな性癖なのか全く説明しなかったじゃないですか。私は他人の思考を汲むのは苦手なんです、1つずつ言って聞かせて下さい」
「言って聞かせて、それでお前は私の思うように動くのか」
「確約は出来ませんが、それでも努力して自分を騙すくらいは出来ると思いますよ」
見下して詰れば興奮するんでしょうと、何度目かの冷たい笑みを浮かべ、すぐに内へと潜めた。またあの笑みが浮かぶと思ったが次に出て来たのは自嘲の表情で、視線も私から外されてあの銀色の扉へと向かっていた。
こちらを向け、私を見ろと念じたのが功を成した訳ではないが、深く沈んだ緑の瞳はそこから少しもしない内に逸らされて真っすぐに私を見つめる。
「私に出来る事ならば、尽力させていただきます。たとえ、それが何であろうと。だから」
言葉の、過ぎた望みの続きが告げられず、震えるの唇に指の背で触れると、涙と共に懇願が零れ落ちた。
化物でも泣くのかと思うと同時に、そういえばこの男が泣く姿を見るのは初めてだなと考える。理解出来ない面も多いがしかし、思っていたよりも普通の男だったようだ、これは。
「だから、何だ?」
「何を犠牲にしても、貴方だけは、どうか。生き延びて下さい」
「当たり前だ。お前を見殺しにしてでも、生き残ってやる」
勿論、嘘だ。
この男は私に必要なのだから。だけが私の歪んだ薄汚い欲望を満たす事の出来る唯一の存在なのだから、たとえこの男本人に懇願されたって殺してやるものか。
私を飼わせ、調教させ、価値観を崩壊させて今以上に狂わせてやる。常に私を詰り罵らなければ生きていけないような心と体に作り変えてやる。元の世界になど帰らせるものか、私がの物になるのだから、は私の者となるべきだ。
「そんな下らない事を気に掛けるとは、お前は本当に馬鹿だな」
「今更、知ったんですか。私は大馬鹿者ですよ」
涙声になりながらもは私にそう告げ、唇に触れていた指先を退かし、顔を近付けて鼻梁に口吻を落とす。
「けれど、貴方も負けず劣らず、馬鹿者のようですね」
ゆっくりと離れていく顔。涙を溜めている所為なのかやけに黒く澄んでいるように見えた2つの瞳孔が、全ての嘘を見透かしているように、私は思えてならなかった。