ミントとオリーブのマリネ
気を紛らわす為だと言って誰かが置いて行ってくれたラジオから流れてくるニュースキャスターの声を聞きながら霊安室をちらりと顧みた。
先程までは彼の同僚やら上司やらが入れ替わり立ち代り来ていたような気がするが、数時間前にニュースでこの件が出回り始めてからはぱたりと来なくなった。機械から伝わる声が未だ意識が回復と言っているので、彼の死はまだ嗅ぎ付けられていないのだろう。
そう考えると何故だか、この僅かな凪のような時間だけは彼の死がとても神聖なものに思えてしまった。
施設の職員は何人かが連れ立って既に来たが、私が頑なに帰ろうとしないので早々に諦めて帰って行った。厄介事を引き取ってくれたはずの人間が死んでしまったので、彼等にとってのリチャードはもうどうでもいい物と化してしまったようだ。
君とはつくづく縁があるねと言っていたのは、昨年から世話になっている警察関係者だった。全くだと笑いたくなったが、不思議と笑えなかった。顔の筋肉が疲労で動かなかったのだろう。余り無理はしないようにと優しい言葉をかけてくれたが、リチャードの犯罪が露見した今、また同じ言葉を掛けてくれるとは限らない。流石に私と彼が共犯だと突飛な冤罪を思い付くような人間は居ないと思いたいが。
彼の職場の同僚も、随分と私に優しくしてくれた。彼から私の事を聞いた人間もいるだろうし、彼と同じく、私を保護した現場に立ち会った人間もいるからだろう。尤も、これもリチャードの犯罪がニュースで取り上げられる前なのだが。
しかし、一番有益な情報をくれたのは、今の所、彼等だった。
リチャードの自宅は荒らされた形跡があったが、物取りとは違いどうも争い合った時のものだと言っていた。そもそも救急車が呼ばれた経緯が喧嘩が余りにも煩いと感じた隣人が文句を言いに行った所、血を流して倒れているリチャードを発見したという事なのだからこれ程事実と一致する証言もない。恐らく揉み合っている最中に足を滑らせて机の角で後頭部を強打したのだろう、傷口も一致したと彼等は言っていた。
その他にも当日の事件が起こる前に不審人物も目撃されていて、緑色のショールを羽織った線の細い女性がノックも無しに彼の家へ入って行った事を教えられた。
彼を知る人物達は、その女性に心当たりはないと真っ赤に目を腫らして悔やんでいたが、幸いというか不幸というか、私はその特徴らしい特徴を消さないまま犯行に及ぶ馬鹿な女に心当たりがあった。
エメリーン・バンスという、ダンブルドアの部下の一人だ。今年の3月にミネルバ・マクゴナガルと共にダーズリー家へ来たあれだ。
尤も、符合するのは服装と性別の2点だけなのだが。無理矢理に見付けた証拠があるとすればもう一つ。リチャードが私の記憶を失って死んだ事だった。
勿論死因は頭部強打による失血死なのだから、それに因って記憶が混濁し私が忘却されたとも考えられるが、それにしては余りにもタイミングが最悪過ぎる。ミネルバ・マクゴナガルの行動も何時にも増して不審だった。
しかし、もしも犯人がそうだった場合、彼が死んだ原因は間違いなく私である。
私が、もっと早くに彼との縁を切ればこんな事にならずに済んだ。
たとえ、今以上に無差別毒殺事件が拡大しようとも、それでもいいと思っているのだ。私は、今でも。
「愚か者が」
「ええ。本当に」
何時の間に現れたのか、メルヴィッドの冷えた赤い瞳が私を見下ろしていた。時刻はもう夜も遅い、いつも通りの時間が訪れたようで、何故か少し笑えた。
隣に座るメルヴィッドの手には杖、人払いの防御呪文が展開している。
「態々危険を犯してこんな場所に会いに来るなんて」
「お前の名前を持つ誰かの所為にしてやろう」
騒音を垂れ流すラジオの電源を切り、一息ついてからメルヴィッドが口を開いた。
「色々言いたい事はあったが、そんな気も失せた」
「そんなに酷いですかね、私」
「私が揶揄を止めようと思う程度にはな」
「ああ、それは本当に酷い」
いつも通りに笑おうとして失敗したのか、唇は乾いた笑みしか浮かべることが出来ない。成程これは思っていたよりも重症だった、先程まではちゃんと思考出来ていたのだが、もしかしたら思考しか出来ていなかったのかもしれない。
会話を続けようとしても次の言葉が思い付かず、思考すら出来ていないではないかと気付いた間際、膝上に色鮮やかな小さい粒が数個降って来た。視線を上げて確認すると、粒の出現地点は生白い綺麗な、メルヴィッドの手。
「何か口にしろ。そのままだと倒れるぞ」
真新しい、個包装されたチョコレートが膝上を転がり、蛍光灯の光を反射して信号色に輝く。なんだかハリーの体を乗っ取った翌朝の事を思い出してしまった。
メルヴィッドの優しさに感謝しながら1粒手に持つが、どうしても、食べる気が起こらない。甘ったるそうなパイナップルのフレーバーが視界に入るが食欲が湧かず、結局綺羅びやかな黄色の個体は膝上に転がったままだった。
この包装紙毎に違うフレーバーを持った可愛らしいチョコレートは、しかしあの家で見た覚えはないし、買った覚えもない。
メルヴィッドが態々買った、のだろうか。普段の私ならば、そんな余計な事ばかり口に出せたのだが、声すら出せない。こうやって見ると矢張り今は少しばかり異常だ。まともに言葉が出てこない。
「エメリーン・バンスだ」
「……そうですか」
「どうする?」
前後のない言葉だったが、彼の言いたい事は判った。
しばらく頭の中を空にして考え、そして首を横に振ると何故か驚かれる。復讐をすると思ったのだろうか、否、出来る事ならばしたいのだが。
「ひとまず、警察に任せます」
「被害者が被害者だ、まともに動くのか?」
「さあ?」
しかし、幾ら被害者が殺人犯だからという理由だけで、まともに動かなくなるのは困る。量刑を決めるのはあくまで司法の仕事だ、警察は被害者が極悪人だからだとか、加害者が訳有りだとか、そういったもので手を緩めていい組織ではない。本来は、だが。
彼等が動かなかったら、その時はその時で考えたい。メルヴィッドに心配されている精神状態の今はまだ、それを考えるべきではない。
「そういえば、何故エメリーン・バンスだと?」
「今日のは何時にも増して思考停止しているな。日を改めるか?」
赤い包装紙、アップルフレーバーのチョコレートをポケットの中に避けながらながら苦笑をしてみる。多分、先程よりはよく出来たと思う。メルヴィッドが私の態度を鼻で笑ってくれるくらいには。
「監視モニターの録画方法を一通り説明したのはお前だろう。まさか魔法界介入を心配していた当人があの男の家を監視していなかったとは驚きだ」
「ああ、本当ですね。どうにも、抜けていました」
「お前が抜けているのは今に始まった事ではない。で、本当にいいのか? 相手は魔法界の人間だ、マグルの警察相手ならば逃げ切るぞ」
「魔法を使って逃げたら、あの女は人間とも呼べない屑ですね」
しかし、エメリーン・バンスは逃げるだろう。
現に、今も逃げ続けている。あの女は血塗れで倒れたリチャードを放置し、救急車も呼ばずその場から立ち去った。もしも非魔法界側の司法で裁かれれば重い刑が課せられるだろうが、罪を償うつもりはないと行動が既に宣言している。
「それでも、お前は動かないのか」
「だって、今私が動いてしまったら、はハリー・ポッターと同一人物だと宣言しているようなものじゃないですか。ですから、今は正式な組織に頼みます」
「……お前は本当に、リチャード・ロウと言う男を慕っていたのか?」
どうにも、忍耐を放置や軽薄と判断されてしまったらしい。
こうのような事を口に出すのは些か恥ずかしいが、今の私は精神の均衡が崩れているからと適当に内心へ言い訳をして、思っていたままの事を言葉にした。
「既に死んでしまった人の為に動いて、今を生きている貴方まで失ってしまったら、死なない私ですが死に切れませんよ。これで一応、今一番大切な人は判っているつもりなんです」
出来が悪い所か、最悪のプロポーズのようだと嗤ったが、何故かメルヴィッドは嘲笑わなかった。彼と私の感性は、相も変わらず重なり合わない。
「あれは、お前の英雄ではなかったのか」
「英雄ですよ、今でも」
今ではもう、世間一般の認識での彼は冷徹で残虐な無差別殺人鬼なのだろう。
けれど、ハリーと私にとっては、彼は英雄に他ならなかった。彼こそが、自らの利害の範疇外で唯一英雄的行為をした人間だったのだ。
誰が何と言おうと、リチャード・ロウは私の英雄である。今までも、これからも。
「……多くの人間は、お前のように好き勝手人間を苦しめ、痛め付け、殺してきた化物が同じような殺人鬼相手に悲しんだ所で同情しない。もっと苦しめと嘲笑するだけだ」
メルヴィッドの手が伸び、膝上から最後のチョコレートを持って行く。蛍光灯の光を反射する緑色の包装紙、ミントフレーバーのチョコレートだった。
「お前の行為は、確実な悪だ。が、しかし、私は時代に流される曖昧な善悪で文句を垂れる愚かな有象無象でもなければ、心も狭くない。日頃からお前の邪悪さには多少なりとも感謝している、今この瞬間でもだ」
包み紙を開いて、何を思ったのかメルヴィッドはチョコレートを差し出してきた。
一体どういう思惑があっての事なのか見当も付かないでいると、赤い視線が食べろと強要してくる。
きっと酷い事はされない、とメルヴィッドの言葉の内容から推測して口を開けると、すかさずチョコレートを放り込まれる。ジュレ状になったミントが強く香る、甘ったるい味に何故か泣きそうになった。
「じき、マグル共が来る。私が居られるのも、あと僅かだ」
どうやってこの情けない姿を取り繕うと考える私の頭部を、唐突にメルヴィッドが抱き締める。次いで、馬鹿がと、酷く温かい声で罵倒された。頬に触れる服からは、揮発した薬品の苦い香りが味覚に混ざり、涙が出て来る。
「それまで精々泣いておけ。化物」
耳元で囁かれた言葉は、唯々優しかった。