挽き割り小麦と赤パプリカのピラフ
確かに彼は安定した職に付いていて、家族とは疎遠で人間関係がやや希薄な事以外は人当たりもそう悪くはない。子供だからと私を甘やかす傾向はあるが、里子だから不憫だとかそのような同情じみた感情も持ち合わせていないようだった。路駐やスピート違反のような軽い犯罪歴すら一切なし、職業上からか虐待を受けた子供を保護出来る資格も持っていた。
何より、ハリーである私の事もきちんと認め、大変可愛がってくれている。
全く、これだけ列挙するとメルヴィッドが居なければ諸手を上げて喜び首を縦に振りたいような人であった。少なくともダーズリー家よりは余程いい。
「いいえ、お断りします」
「ハリー。よく考えなさい、貴方は頭の良い子でしょう?」
更に言うと、施設としてもハリーのような面倒臭い子供を長期間受け入れたくないという思惑も重なっている。
被虐児童だけなら専門の施設があるらしいが、ハリーの場合は周囲で人間が死に過ぎた。不気味に思って話しかけない職員や、その空気を感じ取って近付こうとしない子供ばかりで施設内の雰囲気が非常に重たくなっている。
今、目の前に居る彼女もそうだ。ただ、役職上こうして話さなければならないだけで、内心はさっさと首を縦に振れ糞餓鬼が、くらいは思っているに違いない。
「ハリーはリチャードとあんなに親しくしているじゃない。この間の月曜日も一緒に従兄の子のお墓参りに行ったんですって?」
「一人の人間として好意は持っています。ただ、彼に養って貰おうとは思いません」
「自分が負担になると思っているの? 大丈夫よ、里親は国から色々な支援がされるから、ハリーを引き取りたいと思っているリチャードに負担をかける事はないわ」
「その負担が、死だとしても?」
目の前の笑顔が固まり、余計な知恵ばかりつけてと視線が語る。
「私の周りでは、人が死に過ぎています。従兄、伯父夫婦、それに警察の方が調べて判った事ですが、両親も入院先の病院で去年の秋に死んでいました」
「偶然よ、ハリー。誰の死も貴方の所為ではないわ」
「両親の墓の間に、私の墓もあったそうです。誰が建てたのかも判らない、私の墓が」
「それは……」
「私は、自分自身が気味の悪い存在である事を自覚しています。だから彼には、リックだけには面倒を掛けたくありません」
他と同様に慰霊碑として扱うべきハリーの墓も、事情を全く知らない彼女には不気味さを増幅させるだけの発言であったようで、何とか説き伏せようとしていた舌も流石に止まってしまった。気味の悪い子供という内心が、表情に浮いてみせる。
本心からの言葉なのだろう、ぐずぐずに取り繕われた表情から乾いた声が漏れた。
「それじゃあ、ハリーはずっと。施設に居るつもり……なのかしら?」
「出来る事ならば」
「ちょっと。ごめんなさいね、席を外すわ」
何か用事を思い出したかのように慌てて席を立つ職員の背を見送り、誰も居なくなった事を確認した後でカーテンも引かれず開け放たれた窓に歩み寄る。そこにはいつか見た猫が佇んでいたが、私が近寄ると同時に逃げの態勢へ入った。
以前のように親しげに近寄って来ずに距離を開けてはいるが、果たして反省しているのかしていないのか。ダンブルドアの命令を忠実に守っている所為で、私ことハリーからの評価がだだ下がりになっているミネルバ・マクゴナガルである。幾ら上司の命令だからといっても、そろそろ懲りてくれないだろうか。
「何をしに来たんですか、いい加減にして下さい」
弁明するように鳴く猫を追い払おうとするが、ミネルバ・マクゴナガルはそこから中々動こうとはしない。机下にメルヴィッドがこちら側を盗聴する為のモノリスが隠されているのだが、これでは隠れて会話が出来そうにない。
今頃メルヴィッドは早く追い払えと施設全体と盗撮したモニターを前に苛々しているに違いない、そうでなければ面白がっているか、である。
「貴方達が来たから、皆死んだんだ。化物め」
勿論、これはとんでもない言い掛かりであった。
時系列で考えてみてもダドリー・ダーズリーが死んだのは監視役が私の元に訪れる前であるし、そもそも魔法使い達が殺人を犯すのならばもっとヴォルデモート的な、一切を魔法に頼ったやり方で行う。
上記の殺人で魔法使いの関与が考えられるのは、普通に考えるのならば魔法界で起きたハリーの両親の事件くらいだ。それにしたって死因は未だに不審死なのだから、矢張り普通に考えれば言い掛かりであろう。
ミネルバ・マクゴナガルも必死に否定するように鳴き喚くが、生憎猫語は全く判らないので冷めた目で見下しておく。しかしあくまで視線だけだ、ここで子供が出せないような殺気を少しでも放とうものなら即ハリーが怪しいとダンブルドアから目を付けられる。
あの男は自らの勘だけで動く節があるので物証以外にも色々と気を付けなければならないのが面倒臭い。
「おかしいわね……あら。ハリー、どうしたの?」
「猫が居るので」
「あら本当。可愛いわね」
本心からかは判らないが、取り敢えず動物に対しては何でも可愛いと言っておけば取り繕えるという好例だろう。私も猫は好きだが、どう見てもミネルバ・マクゴナガルが変身する猫は愛らしさの欠片もない。
腑に落ちない事があるのか、職員はもう一度首を傾げてから何処かに逃げた猫もどきに手を振り、私に向き直ってある事を尋ねて来た。
「ハリーはリチャードの電話番号、知っていたわよね? この番号で合っているかしら」
「はい。間違いありません」
紙に書かれた数字を確認して、何故そんな事を尋ねるのかと首を傾げて問うが、問いながら嫌な予感が頭を掠める。
「今日、本当は彼も同席するはずだったんだけど、約束の時間に30分も遅ているの。番号は合ってるのに電話にも出ないし……ハリー!?」
以前から考えていた最悪のシナリオが脳裏に浮かび、部屋を飛び出して廊下を駆けた。背後から職員の声が、進行方向からは施設内の子供の驚いたような視線が掠めたが相手をしている暇はない。
リチャードは几帳面とは言い難いが、それでも、大幅な遅刻をするような男性ではなかった。するとしても、相手は私個人ではなく施設である。時間に遅れるのならば必ず一報は入れるような性格で、放置して家を出るなんて事は考えられない。
有り得るとすれば。有り得ては欲しくないが、魔法界が何らかのアクションを起こした可能性が高い。勿論風邪を引いて動けないだとか、何処かで人助けをしたら思ったよりも時間を食ってしまったとか、リチャードの事だからそれも考えられる。
しかし、それならそれでいいのだ。心配を掛けないで欲しいと言って、今こうして勝手をしている私が施設の関係者に謝ればいいだけであるのだから。
ただ、嫌な予感に拍車を掛けるのが、先程まで施設内に居たミネルバ・マクゴナガル。あれは、一体何の為に居たのだ。単なる監視ではなく、魔法使いである私とリチャードが接触しないように見張っていたのではないか。
誰かその子を止めてと遠くから声が掛かり、意味も理解出来たが敢えて無視をして玄関まで走り抜ける。ここから先は別の足が必要だ、施設からリチャードの家までは子供の足では遠過ぎた。
目に入ったのは古ぼけた子供用の自転車。かなり前に何処かの誰かから寄付されたと聞いた、施設の皆で大切に使っているというそれを一時的に借りよう。場合によっては、返せないかもしれないが。
本来ならば姿くらましでもしたい所だが、先の失態から恐らくミネルバ・マクゴナガル以外にも遠方に監視が居るに違いない。幼い魔法使いの子供は時として無意識に魔法を使う事があるが、流石に正確無比なそれを使っては不審がられる。勿論リチャードの事は大切だ、しかし私が失態を犯してメルヴィッドに迷惑が掛かってしまえば、半年間積み上げてきた全てが水の泡になってしまう。
知らずの内に優先順位を決めていてしまい、ペダルを漕ぎながら苦笑してしまった。恐らくは、それ所ではないだろうに。
もう何処からもハリーと呼び止める声は聞こえない。ここの町並みは、いつも通りの平和な暮らしを満喫していた。全力でペダルを漕ぎ、息を乱して焦っているのは私1人である。
信号の少ない裏通りを疾走し、時折ガラの悪そうな人間を轢きかけながらリチャードの家までひたすら足を動かす。肺が締め付けられるように苦しいが死にはしないと体を動かし続けた、ここまで長時間全力を出したのは一体何時ぶりくらいだろうか。
ふと、視界の端に見慣れてしまった光を見つけた。
野次馬の向こうに回転する、人工色の光。それも複数。
人集りに突入する寸前に自転車を投げ出し、勢いのまま脚の間を抜けて行く。時折怒号が上から降ってくるが無視を決め込み前進すると、急に場が開け思わず躓きそうになった。
目の前には1度だけ見た、リチャードの家。その玄関口から出てくる、血を流しながら担架に乗せられた家の主人を脳が認識して、再び駆け出した。驚いた顔をした救命士が私を止めようとしたが、もう1人がそれを更に止める。行かせてやれと、そんな声が聞こえたような気がした。
「リチャード! リック!」
叫んだつもりの声は、掠れて音にならなかった。
頭部から血を流したリチャードが乗せられる救急車の隊員が私を見て一瞬動作を止め、乗りなさいと担ぎ上げる。
頭上で救命士達が放つ医療用語の怒号が飛び交い、後部のドアが閉まった。動き出した救急車の中でリチャードの手を取り、必死に名前を呼ぶ。今の私には、それしか出来ない。
「リック」
何度目かの呼びかけの後、リチャードは特徴のないブラウンの瞳を私に向けた。頭部からの出血が止まらないと、誰かが叫ぶ。絶対に殺すなと仲間の死を食い止めようと救命士達が出来る限りの事をしていた。
「リック」
もう一度名前を呼び、手が握り返される。ほんの少しの安堵が広がった矢先、あの深い絶望が待ち構えていた。
「君は、誰だ?」
それが私達が聞いた、彼の最期の言葉だった。