曖昧トルマリン

graytourmaline

ふっこの筒焼き

 日本とは違い、イギリスの6月は湿気っぽさがなく雨も少ない。
 水分を多量に含んだ重い冷気が纏わり付いてくる冬と比較すると過ごしやすい日も多く、それ故のジューン・ブライド、所謂結婚式の季節でもあるのだが、本日は冠婚儀礼ではなく葬祭儀礼の日である。少なくとも、墓地の一画に佇む私にとっては。
 一般人のそれに紛れ、多くの魔法使い達も土の下で眠るゴドリック・ホロウの教会墓地。ポッター家の3人の名が刻まれた墓石から遠く離れた隅の方に新たに建てられた小さな碑の主はリリー・ポッターの息子でありハリー・ポッターの弟であるが、安らかに眠れを意味するR.I.P.と共に刻まれた墓石に名前はない。
 私の姓であるの名を与えてもよかったが、極東の島国で使われる名前を付けて、それでこの子の魂はどうすればいいのだろうか。かといって、ポッターやエバンズの姓を与えるのも、出生理由が理由なだけに憚られる。
 正確な日付も判らないまま、誰からも祝福されずにこの世に生まれ、直後に殺され、名前もないまま10年の時を過ごした嬰児の死体。薄暗い倉庫の中から土の下に埋め直されただけの、酷く哀れな存在だった。たとえ内心であろうと、死後のそれを存分に利用しようと企んでいる私が語るのも、色々と何ではあるが。
 リチャードのように遺灰を手元に置いてもいいのだが、この子の肉体を灰に還すのは時期が早い。少なくとも、それはこの子の遺伝子上の父親が見付かった後だ。
 この子と、現在別室で棺の蓋を開けられているであろうジェームズ・ポッターとリリー・ポッター、そして偽物ではあるがポリジュース薬の影響でバーテミウス・クラウチと成ったまま死んだ女性の肉片。更にアズカバンに収容中のレストレンジ兄弟。採取した6人分の肉体を構成する情報を照らし合わせ、血縁上の父親がはっきりするまでは。
 前者3人のそれは血縁者であるハリーの体を持つ私が手続きすれば、然程難しい問題もなく手に入った。後者3名の生体情報が入手出来たのは、丁度今、隣にやって来たアークタルス・ブラックのおかげである。
 彼にとってレストレンジ家の2人は遠縁も遠縁、息子の妻の姪の旦那、或いは従弟の孫の旦那という第三者から見ればほぼ他人ではないかと言い切ってしまえそうな間柄であった。少なくとも私から見れば他人であるが、違法な手続きを行った場合は証拠能力が失効する可能性もある為に、正面から正規の手続きを経て手に入れたらしいのだが、当たり前のように誰からも咎められなかったらしい。
 全く、このような時の為に手元に堕ちるよう仕向けたとはいえ、ブラック家は本当に恐い家だと常々実感する。ただ、家の力以上に彼の場合は、当主に納まる以前から遠縁であろうと縁者に変わりないという姿勢を、庇護する場合でも断罪する場合でも一貫している人徳も大きいだろうが。
、少し休みなさい。顔色が優れない」
「……はい」
 良き当主であろうと考え、それを今も通し続けている優しい彼の目に映った私は、生き別れた弟の死を受け止め切れずに立ち尽くす兄の姿にでも見えたのだろうか。撫でるように肩を抱かれ、壊れ物のような扱いでベンチにまで連れて来られた。
 背にした1m程の高さの石垣から初夏の花が垂れ下がるベンチには黒いスーツを着込んだレギュラス・ブラックが足を組み、物憂げな表情で座っている。当たり前のように美しく視線も病的ではなくなっているが、後者は繕っているだけで私が背を向けている間はずっと凝視していた事が透視で判明していた。
 堕ちてはいてもお花畑色に染まってはいないアークタルス・ブラックの頭は孫の病状に気付いているのか、壁になるべく間に立ち、ベンチの上にクッション呪文を唱えて座り心地を整えてから手を引き、不慣れな右目を気遣い座らせてくれる。成程、懐かしいエスコートだと、間違いなく彼の教えは孫に受け継がれていると実感した。
「まだ、義眼には慣れないようだね」
「すみません、便利過ぎる機能に振り回されてばかりで」
「何も謝る必要はない。これだけ多機能の義眼だ、比例して扱いも難しくなる」
 焦る必要はないと頬を撫でるアークタルス・ブラックの背後でレギュラス・ブラックと視線が合う。サングラス越しでも判ったのだろう、優しい笑みを返された。
 こうして正面から見ると歪んでいるようにはとても見えず、以前の犬っぽさが抜けて一層綺麗な男の子になったと思えるのだが、穴が空く程背中を見つめている辺り、矢張り思考と脳味噌の配置変換が駄目な方向に行っているのだろう。
 そこまで確認し直して、ふと、少しだけ試してみたくなった。知る必要もない唯の好奇心である。それでも、この子を変貌させた歪みは、誰を何処まで許容するのか、そのラインが知りたいと思ってしまった。
 メルヴィッドを兄のように慕い、色々とやらかした所為で気が変になって以降はエイゼルとも微妙な関係ではあるが軽口は言い合っているので、私に近付く誰も彼もを排除するつもりはないのだろう。なので別段積極的に仕掛ける事案ではないのだが、気になってしまったものは仕方がない。
 風に乗り上空を滑るように飛ぶ梟を見上げながら意味もなく感嘆の言葉を吐き出すと、即座にアークタルス・ブラックが反応し何か気になる事でもあるのかと尋ねて来てくれる。
 木の葉のざわめきに音を攫われないようにする為なのか、会話に混ざる為なのか、レギュラス・ブラックもベンチから立ち上がり距離を詰めて来た。流石にこの程度では、アークタルス・ブラックからお咎めの言葉は出ない。
「とても、些細な事ですよ。メルヴィッドとエイゼルには、もう相談した事なので」
「そうなんだ」
 残念、と緩く笑ったその目が苛立ちを孕んでいる事を確認し、全く可愛らしい人だと感じたものをそのまま隠さずに口に出す。仲間外れにされた事に憤慨する子供そのものではないか、とは続けなかったが。
 実の弟のように可愛がっている少年に頼りにされなかった事なのか、仲間内から除け者にされた事なのか、どちらにしてもこんな小さな事でもレギュラス・ブラックは許す事が出来ないらしい。では、こちらはどうだ。
「今朝梟が、差出人不明の両面日記を届けてくれたんです。メッセージ・イン・ア・ダイアリーと書かれた手紙が添えられた」
「差出人不明の両面日記?」
「アークタルス様、そんな怖いお顔をなさらないで下さい。ロマンチックな方法で流行りの物が手元に来て嬉しかったのですが、不審な物でしたからメルヴィッドとエイゼルに相談したんです」
 闇の魔術がかかっているかもしれない、カルト系宗教やマルチ商法の罠かもしれない、どうやっても自分は頭から他人を信じ切れない人間のようだと苦笑すれば、それでいいと肯定される。それが理由もなく他人を訝る事に関してなのか、身内の言葉ならば頭から信ずる事に関してなのか、経験の少ない子供の脳味噌で自己判断せず大人を頼りにする事を覚えたからなのか、この辺りの線引を尋ねるのは流石に野暮というものだろうか。
 怪しい部分はないかと確認して貰ったが、闇の魔術が関わっている可能性は非常に低く、カルトやマルチにしては金がかかり過ぎで手口が雑だと判断されたので、しばらくの間は相手との遣り取りを開示する事を条件に了承を得たのだと続けると4本の眉が顰められた。そんな生温い手段を講じるくらいならいっそ日記を取り上げてしまえばよかったのに、と両者の顔に書いてあったが右手で頬杖を付きながら読み間違いをした演技をする。
「本当に、2人共心配性で過保護ですよね。でも、あんな事があった後ですから、そうなってしまうのも仕方がないんでしょうか」
は」
「はい」
「誰かも判らない人間と、交流するつもりなのかい?」
「ええ、折角の機会ですし。私は魔法学校へ進学しないので、魔法界の方と1人でも多くお友達になれたら、素敵だなって」
「そう」
 誰かも判らない人間、ではなく交流の単語に力を入れ、お友達の単語に反応して再度含まれた苛立ち。成程、この子はこれも駄目らしい。
 犬の十戒に、こんな言葉があった。貴方には仕事や楽しみがあり、友達だっているでしょう。けれど、私には貴方だけしかいないのです。
 レギュラス・ブラックは犬でもなければ私しかいない訳でもないのだが、心情的には恐らくこれで正解だ。この子の独占欲は一般的なものと比較しても強い方だと理解していたつもりだったが、想像以上に心が狭いようである。
 顔を動かさず右目をアークタルス・ブラックに向けると、こちらも孫の反応に戸惑っているようで、さて何と言えばいいのかと少々困惑していた。関わり合いの薄い人間ならば兎も角、私の事は彼も気に入っているので、下手に刺激して若い当代当主がヤンデレルートまっしぐらでは老いた先代当主としても処理に困るのだろう。何かと心労が耐えない人だと同情したくなったが、大半の原因である私が持つべき感情ではないと思い直した。第一、私程度の人間が同情した所で事態は好転しない。
「レジー、そんな哀しそうな顔をしないで下さい」
「君が僕から離れて、何処か遠くへ行ってしまうのに?」
「行きませんよ」
「そんなの、判らない」
 頬に触れていた右手を取られ、強く握り締められた。乱暴な様子を滲ませ始め流石に看過出来なくなったのか、アークタルス・ブラックが口を開きかけたが、それを笑顔で遮る。
「メルヴィッドやエイゼルには未だ言っていませんが、相手の方とはメアリー・スペンサーとして交流するつもりですから」
「……は、嘘が苦手じゃないか」
「メアリー・スペンサーは間違いなく私です、最初から本名ではなく偽名だと告げれば嘘にもなりません。両面日記の利点はお互いの顔が見えない事です、その点を生かして楽しまないと損になってしまいます」
 貴方が最初の秘密の開示者だと告げ、交流相手には等身大の私を見せない。こうして少し特別扱いしてあげれば、幼い灰色の瞳は揺れ動き、すぐに安堵の色を浮かべる。口調こそ非難めいているが、先程のような張り詰めた空気は既になく、纏っていた毒気もじわりと何処かへ溶けて消えた。
「相手も君の考えを理解してくれる魔法使いだといいね」
「そうですね」
 一際強い風が目には見えないが感じられる濁りの残滓を吹き払い、花や木立が揺れ動く音が人間達の会話を阻む。レギュラス・ブラックの逆鱗の位置を大体把握したこの辺りが潮時でもあるので、メルヴィッドとエイゼルの様子を見て来ると立ち上がるが、直後に両肩を捕まれベンチの上に強制的に座らされた。
 力技で私を元の位置に戻したレギュラス・ブラックは、あちらなら僕が見て来るからと早口に捲し立てて返事を聞く間もなく足早に去って行ってしまう。様子を見に行った結果、血の繋がった親の遺体を子供が見てしまう可能性を出来るだけ省く為だろうか。私の運はあまり良くないので、可能性は大いにあった。
「レギュラスが、礼を欠く行為をしてしまったな。代わりに謝罪をさせてくれ」
「どうか謝らないで下さい、アークタルス様。レジーは私の事を心配し過ぎているだけで、悪気はないんです。レジーも、メルヴィッドも、エイゼルも、アークタルス様も、必要以上に自分を責めているだけで、本当は、此処にいる誰もが、悪くはない筈なのに」
「ああ、そうだね。誰も悪くない。被害者である君が、周囲の環境にこうして心を砕くような事があってはならないんだ。なのに、あの連中は」
 何処まで腐れば気が済むのだと灰色の瞳に嫌悪が滲む。遅かったが、どうやら遂にダンブルドアが仕掛けて来たらしい。
 裁判開始前の現時点でアークタルス・ブラックに感知されているという事は、恐らく権力と人脈に物を言わせた力技だろう。社会的支持率が高い今は未だ、何をしても叩かれない。あれはそのような男で、魔法界はそのような世界だ。
「裁判に持ち込めば有罪は確定だが、ダンブルドアが執行部に圧力をかけて来た。尽力はしているが、このまま行けば裁判そのものが潰されるだろう。司法に介入する力は、ブラック家よりもダンブルドア単独の方が強い」
 命懸けで里親とブラック家の当主を守り切った未就学児に重症を負わせた成人男性に対しての世間の目は未だ厳しい、アークタルス・ブラックが報道各社に干渉して世論を操作し、厳しくするよう誘導している。更に、冤罪ではあるが加害者は人殺しで追放された前科持ちだ。だから、裁判の受理にまで漕ぎ着ければルビウス・ハグリッドに相応しい刑罰を与えられる。ダンブルドアもそう考えているのだろう、受理されてしまえばルビウス・ハグリッドは逃げられない。その凶悪性から情状酌量の余地はなく、最悪ディメンターのキスを受ける可能性も極僅かだが、確実に存在する。
 故に、裁判そのものが無効になるよう動いた。
 大袈裟に笑い出したくなるような力技だが、効果は高い。ダンブルドアが圧を掛けたと真実を口にした所で、こちらが陰謀論者とレッテルを貼られ蔑まれるだろう。そうして世間はいずれこの事件を忘れる、人間の記憶とはそういう風に出来ていた。だから公的な書類が長期間保管されるのだが、裁判さえ行わなければ処罰は下されず書面にすら残らない、社会的責任は初めから存在しない事になってしまう。刑罰の有無が初めから問われないのならば、ルビウス・ハグリッドは犯罪事実があるが無罪だ。
 アークタルス・ブラックの言う通り、一体魔法界の司法は何処まで腐れば気が済むのだろうか。まあ今後の事を考えると、ぐずぐずに腐り切っていた方がメルヴィッドは改革と称して色々やりやすいし、エメリーン・バンスのように不当に軽い刑罰で済んだ挙句一事不再理となるよりは遥かにマシなので、嫌な事ばかりではないのも確かである。
「本当に、すまない。こんな事も出来ずに、何がブラック家だと」
「アークタルス様、気になさらないで下さい」
「しかし」
「構いません。必ず、変えてみせますから」
 無言で、一体何をと告げてくるアークタルス・ブラックに、子供のような笑みを浮かべながら法学部を目指すのだと告げた。
「エメリーン・バンスの裁判があって、今回の事があって、それで、決心が付きました。魔法界には法整備が必要です、今のような中世の村役場で行われるお遊びの裁判で使用される法ではなく、強者弱者の区別無く、あらゆる身分に属する何者にも左右されない、それ一つが完全に独立した現代の法が必要です」
 当たり前だが、耳障りのいい出任せである。
 私がホグワーツに行く事は既に身内での決定事項であるし、この萎びて枯れていくばかりの脳味噌に今更法学の知識を詰め込める隙間はない。そもそも能力以前に根本的な性質面で私は法の世界に全く向いていないのだが、全てを隠して言葉を続けた。
「私は一度、魔法界を出て行きます。そして、必要な知識を修めて、また戻って来ます」
「学を修めたとしても魔法界全体の、特に教育の水準を上げない限りは持て余す知識だと、言わなくても君達の事だ。全て判っているからこそ、個々に動いているのだろうな」
「ええ、メルヴィッドを主軸として。まだスタートラインにも立てない準備段階ですが」
「それで良い。功を焦らない事は大切だ、走り出してから足りないものに気付いても遅い。Uターンのロスも痛いが、最悪手に入らないかもしれないからね」
 私のような追い風なんかは特にね、と微笑むアークタルス・ブラックに苦さと申し訳無さを混ぜ合わせた表情をして、軽く唇を噛んだ後で言葉を綴る。
「応援、して下さるんですね。私の行動は、将来的にブラック家や他の有力者の障害となる可能性が高い。それが判らないアークタルス様ではないのに、それでも」
「年季の入った老人の意志と、我々の矜持を過小に評価しないでくれ。私はと、を守護するものを決して見捨てないよ。たとえ、君の理想とする法が権力者や純血貴族、逆に社会的身分の低い者の介入や特権を廃するものだとしても、それが魔法界全体の為になるのならばブラック家として協力しない訳には行かない」
「何故貴方は、そのように、生きていられるんですか」
「本来の純血一族という存在はね、自分の利益だけを追求して肥え太るものではなく、自分の属する世界の為ならば所持するあらゆるものを使い捧げるもので、家や個人の繁栄や衰退はその延長に過ぎないと考える生き物なんだ。マグルで言う所の、ノブレス・オブリージュだね」
「高貴な人間の責務、ですか。私には、受け取る側でしか縁のない言葉です」
「まさか、本気でそれを言っているのか。君にはブラック家やポッター家、それ以前の血が確実に継がれている。損得の計算は出来るのに頑なに自らの利益を求めない、世界の為ならば命や人生すら捧げるそれが、誰に教えられる事もなく体得したのそれこそが何よりも純粋な、上に立つ者の魂だ」
 確かに自分や他人の命や人生を混ぜ込んだ損得勘定程度は出来るが、私のそれは復讐と私欲に塗れているので納得出来ない。その感情が素直に顔に出ていたらしく、アークタルス・ブラックは相変わらずの表情で頬をつついて来た。
「今は判らなくてもいいだろう。真っ当な人間が集うマグルの学校へ通い、君の世界がもう少し広がれば、自ずと判る事だ」
「私が通うのはパブリック・スクールではありませんが、それでも理解出来るでしょうか」
「君が君である限り、大丈夫だよ。そう、大丈夫だけれど……本音を言えば、心底不愉快なんだ。君を手元に置いて成長を見守る為ならば、この教会の老牧師のように適当なスクイブを見繕って学校に入れさせる程度は強行したい。それに、学費や職を保証してやれば、新たに制定される法も純血に対して厳しく出来ないだろうからね」
「けれど、アークタルス様はやらない。やる筈がない」
「現行法と何等変わらない結果となるのに、1人分の人生を丸ごと援助をするなんて馬鹿げているからね。それに、にも嫌われたくない」
「一応反論しますが、私は別にその程度の事をされても嫌いませんよ。私自身は革新派なので、保守派のライバルがいると議論も活発になりますし」
 そして手元に置かれるのも気にしないが、何があってもホグワーツには行きたくないと告げれば、そちらは当然だろうと頷かれた。
 ダンブルドア、ミネルバ・マクゴナガル、セブルス・スネイプ、そして今回の件でルビウス・ハグリッドが追加され、ホグワーツは既に私にとって死亡フラグ満載な場所となってしまっている。あんな命が幾らあっても足りない場所にやるくらいならばダームストラングに行かせると力強く説かれた。
「大陸方面に伝手があるからね。マグルの学校へ行く気は変わらないとは思うが、近い内に色々な国の魔法使い達も紹介してあげよう。勿論、メルヴィッドやエイゼルにもね」
「アークタルス様、私は彼等と違ってドイツ語くらいしかまともに話せないんですが」
 他には料理の表現に偏った穴だらけにも程がある幼児程度のロマンス語諸派と、うろ覚えなゲルマン語諸派の読み書きが少々、スラヴ語諸派に関しては壊滅的だと正直に告白する。後は、少し漢字が判ると暈しておいた。
 ドイツ語だけでも出来れば十分だ、とは流石に甘い判定をしてくれるアークタルス・ブラックでも言わない。他に2カ国か3カ国、フランス語とラテン語、出来ればロシア語辺りは習得しておいた方が無難だろうと当然のように告げられた。
「ヨーロッパには三大魔法学校というものがあってね、1校はホグワーツで、残りの2校はフランス語圏とロシア語圏の地域にある。私はダームストラングに知人が多いから、ロシア語から習った方がいいかな」
「ロシア語って、格変化が死ぬ程難しいと聞いた事がありますが」
「確かに最大の山場はそこだが、既に2か国語は習得しているから然程苦ではないだろう。君は優秀で、何より若い。家庭教師も付けて上げるから、自信を持ちなさい」
「……が、頑張ります」
 完璧に習得させる気でいるアークタルス・ブラックを前に実年齢を公表したい衝動に駆られながらも何とか頷いてみせると、満足気に頷かれ、そして何を思ったのか他にも家庭教師を付けるべきかと声に出して悩み始める。
「マグルの学校との兼ね合いもあるから多くは無理だが、呪文学と防衛術、変身術、魔法史、薬草学に魔法薬学の知識は必要だろう。いずれ戻ってくるにしても、文化的差異に頭を抱えて肝心の法整備に支障が出るのはよくない」
「その辺りは一度、授業内容を検討してメルヴィッドと相談してみないと何とも」
「そうだな、量にばかり気を配り質を疎かにしては元も子もない。その辺りの調整は君の言う通り、メルヴィッドの方が上手いだろう。私とした事が先走り過ぎてしまった」
 私は未成年で保護者はメルヴィッドであり、その特殊な経歴を思い出したのか、灰色の瞳が細められ髪を撫で付ける。穏やかな表情をすると目元や口元に寄る皺が、老人である彼をより美しく際立たせていた。
「しかし、本当に君のような子に出会えた事は幸運だよ。君達の作る未来が楽しみだ」
「はい。アークタルス様も、楽しみにして下さい」
「名指しとは、は時々無茶を言うね」
「言いますよ、何度だって。私が帰るまで、待っていて下さいと」
 私が戻るその時まで死ぬなと、90歳の老人に随分と酷な願いを押し付けて、しかも返品を許さないのは確かに無茶苦茶である。けれど彼には生きて貰わなければ困る、未だ10代の少年であるレギュラス・ブラックがもう少しだけ大人になるまで、どうか待って欲しい。あと10年、せめて、5年。
 私達老人にとって5年、10年という歳月は然程の長さを感じない、と思う人間もきっといるだろう。それは、半分だけ合っていた。
 過去の5年、10年は短い。人生の1割に満たないそれは詳しく思い出せない程、平凡で短い歳月だ。だが、未来は長い。90年生きた人間にとって、先の5年はあまりにも長過ぎる。10年など、途方もなく遠い。
「全く、君は偶に手に負えない頑固者になる。判った、努力はしよう。約束は出来ないが」
「本当に、努力して下さいね。あまり無茶をしないで、体を労って下さいね」
「ああ、判ったよ」
「休日には一緒にお茶をして、昔のお話も沢山聞かせて下さいね」
「勿論だ」
「処方されたお薬も、毎日ちゃんと飲んで下さいね」
「……善処しよう」
「アークタルス様、何故そこだけ即答せず律儀に暈すんですか」
 相変わらず薬が苦手な90歳児に苦笑すると、今は私が作ったオブラートがあるから平気だと渋い顔をされた。
 未来の技術と発想を盗んだゼリー状オブラートの開発は知識の面でメルヴィッドの、原材料入手の面でジョン・スミスの力を借りた結果、質の悪い紛い物が完成して、今ではイチゴとブドウとチョコレートの3種類がラトロム=ガードナー調剤店のレジ横に並んでいる。魔法薬は大抵が粘度の低い水薬なので、エイゼルが発表したフリーズドライ魔法も説明書と共に記載したが、現時点の売上は芳しいと言えない。
 私の腕が駄目な事は当然だが、それ以外にも、魔法界の薬が非魔法界のそれよりも繊細な事が挙げられる。医薬品をフルーツジュースで飲んではいけないレベルの注意では済まず、アガーや天然甘味料や天然物由来の着色料といった原材料が魔法薬の効果を完全に変えてしまう事が多々あるのだ。現状、使用には調剤師の確認が絶対に必要となっている。
 現場を確認してみた所、薬の味を誤魔化せるからだとか、嚥下が楽になるからだとか、オブラート本来の能力を買われた訳ではなく、店主や従業員の顔と話術に買って行った場合が大半である。
 このままではいずれレジ横から消える運命だろうが、まあ、アークタルス・ブラックの心象さえ良くなれば他の魔法使いがどう思おうと構いはしないので、特に売上げアップの為にあれこれ頭を捻る必要もない。
「ちゃんと飲んでいるよ、あのオブラートは良い物だ。ああ、そうだ、今度はその原稿を依頼しようか。魔法使いについて特集した前の号は反応が芳しくなかったからね、雑誌の趣旨とも少し違っていたとデイヴも反省していた」
「オブラートも雑誌の趣旨から逸れているような。それは兎も角、以前の号を読みましたけれど、私は楽しかったですよ。メアリーとアーサーが特に、悪い方向で目立っていて。アークタルス様は矢張り、ジュリアン・コレット様でしたか、あの方の説を推しますか? 以前伺ったものと同じ考えでしたし」
「それなんだが、実はメルヴィッドの説が魅力的に思えてしまってね」
「おや、そうなんですか。アークタルス様を魅了するとは、流石メルヴィッドです」
「君は本当に彼の事が大好きだね」
「アークタルス様の事も大好きです」
「君はいつもそうやって、嬉しい事を言ってくれるね」
 お気楽脳が詰まった頭を、皺の寄った手の平が優しく撫でる。匂い立つ花の咲く初夏の陽だまりの中でもうすぐ遠くへ行ってしまう子供を慈しむ老人の暖かさに触れながら、サングラスで隠した左目をゆっくりと閉じた。
 作り物の右目には土中に眠る夥しい数の腐乱死体や白骨が透けて見え、窪んだ眼窩が物欲しそうに私達を見据えている。その、老いた魂を手招きする死者達を平然と踏み付けながらやって来た若者達の迷いのない歩みを見て、ゆるりと吐息を漏らしながら義眼の機能を停止させた。