曖昧トルマリン

graytourmaline

桑の実の砂糖漬け

 ジェームズ・ポッターと呼ばれた。
 背後から、老いて嗄れた女性の声で、囁くように。
 芝生に土の跡を残しながら埋め戻された2つの棺から視線を逸し、この体の元の名が記された墓の前で振り返ると、私以上に高齢だと思われる正真正銘の老婆が小さな体を震わせながら歩いて来ていた。
 見覚えがあるが、一体何処で見たのか思い出せない。ジェームズ・ポッターの名を呼ぶ人間は大抵が碌でもなかった経験から杖を手に取り、最後に皆でもう一度2人の墓参りをした方がいいのではないかと勧めた教会の牧師を内心で呪う。
 ゆっくりと近付いて来る老婆の腰はほぼ直角に折れ曲がり、おまけに俊敏とは程遠そうな肥満体ではあったが、それでも皆が警戒心を剥き出しにして杖を手に取った。唯一、少し驚いた顔をしたアークタルス・ブラックを除いて。
「杖を下ろしなさい、危険な女性ではない。バチルダ・バグショットだ、驚いたな、まだ生きていたとは」
「あの、魔法史家の?」
 祖父の言葉にいち早く反応した孫はすぐに杖を下ろし、それに倣うかどうかを残る私達はアイコンタクトで確認し合う。
 成程、バチルダ・バグショットか、そういえばポッター家の葬式に出ていた。初冬の濁った空の下でメルヴィッドと共に、遠くから見ていただけのあの葬儀をふと思い出してから、すぐに眼前の状況に思考を合わせる。
 濁った白い目に殺気はない、義眼の透視で所持している物を確認してみても杖以外に危険な物は存在せず、その杖もボタンの留められた上着の内ポケットという簡単には取り出せない場所にしまい込まれていた。小さな籠の中には薄い紅色をした小振りの百合が3輪分入っていて、武器になるような物は何もない。
 余程の事がない限り大丈夫だとは思われるが、念の為、ブレスレットを手の中に滑り込ませ何時でも元の大きさに戻せる状態にしてから杖を下ろす。
”彼女が不審な気配や動きを見せたら、即座に脇に退いて下さい。この距離なら一足飛びで撲殺出来ます”
”きみはあいてがだれでもようしゃしない”
”敵や中立や傍観の立場を取る人間には、今際の老人から生まれたばかりの赤子まで老若男女全てに対して平等なだけですよ?”
”きょうさんしゅぎしゃのことばだ、ぎゃくさつとどくさいするたいぷの”
 義眼側の視界の中に浮かび上がる可愛らしい文字に苦笑しそうになるが、そこはぐっと堪えて真面目な表情を取り繕った。このタイミングで巫山戯た事を声に出したらブラック家からの評価が一気に落ち込む。
「ジェームズ? いや違ったね、別人だ。ああ、そうか。あの子は、この老耄よりも先に死んでしまったんだねえ。リリーも、ハリーも、皆良い子だったのにねえ、可哀想に。坊やもお墓参りに来てくれたのかい、今日は月命日だからね、きっと3人は天国で喜んでいるよ」
 よたよたと歩み寄る老婆を心配するふりをして腕を差し出すと、バチルダ・バグショットはごく自然に腕を掴み、自分の言葉に頷きながら百合の花を1本ずつ供えた。
「本当にねえ、何であんな事になったのか。例のあの人がいなくなって、そりゃあもう皆が浮かれていたんだよ。もう怯える必要はないって。なのにねえ、本当にねえ」
 後半が涙声になっていたのでハンカチを差し出す間に彼女をどうするのかと、宙に浮かぶエイゼルの言葉が問いかけて来たのだが、これはどうする事が正解なのだろうか。
 この老婆を引き剥がすのはブラック家からの信頼率が下がりそうなので却下、私がそのハリー・ポッターだと告げるのも面倒事になりそうなので出来ればやりたくない。さあ涙を拭いてお嬢さんとでも言えばいいだろうか、大分間違っている気がしないでもないが一周回って実は正解だったりする可能性も存在する。
「せめてハリーだけでも生きていたらねえ。私がシリウス・ブラックに余計な事を言わなければ、こんな事には」
「シリウス・ブラック?」
 予想外の名前に声を上げたのは弟のレギュラス・ブラックで、その声に反応した白濁色の瞳が驚きで見開かれた。
「その声、間違いない。忘れるものか、シリウス・ブラック、一体どの面を下げてこんな所に! お前の所為で、ポッター家は!」
 勘違いから握り締められた力ない拳が振り上げられ、それを止める為に2人の間に体を入れようとするがレギュラス・ブラックに視線で遮られた。2人の間に何があったのかを知りたいとアークタルス・ブラックからも告げられ、メルヴィッドの両手が肩を押さえたので致し方なく身を引く。
 立ち上がった老婆に弱々しく叩かれる若い体は全く揺らぐ事なく、本物は死喰い人デス・イーターとしてアズカバンに収容されている事すら覚えていない哀れな生き物を見下ろす灰色の目がゆっくりと伏せられた。
「バチルダ。私が、何をしたと言うんだ」
「よくも、よくもそんな事を。私はねえ、覚えているんだよ。きっと死ぬまで忘れない、あの日の事を忘れられるものか」
「あの日、とは?」
「お前がハリーを引き取った日の事だよ!」
 最初から話の腰を折って申し訳ないが、一旦整理させて欲しい。
 ハリーがシリウス・ブラックに引き取られていた経歴があるなど初耳だ。
 慌ててその場にいる全員の表情を確認するが、全員が全員今知りましたという表情をしていたので表に全く出てこなかった情報なのだろう。そもそもこの情報が少しでも流れていたらブラック家のご当主様達が私に対して色々と駄目な方向で黙っていない。
 まあ、この瞬間を以て、ブラック家の財力と権力を駆使した謝罪と貢物のフルコースに突入するのは目に見えているので、実質それが早いか遅いかの違いでしかないのだが。
 後で襲われるプレゼント等の攻撃に胃を痛くしながら続きの言葉を脳が解読する。出来れば今すぐ家に帰って夕食の下準備にでも取り掛かりながら現実逃避を試みたいが、無理な事は理性でも本能でも承知していたので諦めた。
「あんた、言ったね。ハリーは絶対に幸せにするって、自分が愛してやるって、裏切り者は判ってる、両親の敵も取ってやるって。なのになんだい、私の、私の話を聞いた途端……」
「貴女の話とは?」
「まだ恍ける気かい? 近所の子供が見た影の事さ、ローブを被った4つの影。ああ、今でも鮮明に思い出せるよ、でかい男に神経質な男、女が1人、それにチビが1人、そう言った途端あんたはハリーを私に押し付けて、2度と戻って来なかったじゃないか!」
「その、貴女に押し付けたハリーは」
「ミルクもない、オムツもない、赤子を寝かせてやる場所だってなかったのに。もう何十年も目がほとんど見えない私にはどうする事も出来ないに決っているじゃないか、何でそんな簡単な事に気付いてくれなかったんだい!」
 悲鳴に近い、老いてはいても、それでも女性である事に間違いない言葉に子育てとは縁のなかった私達は息を飲むしかない。この場にいる誰かが悪い訳ではないのに浮かんだ謝罪の言葉は余りに軽過ぎた。
 全ての思いを呑み込んで、レギュラス・ブラックは兄の演技を続ける。
「バチルダ、ハリーをどうしたんだ」
「アルバスに助けて貰ったんだよ。ダンブルドア家とは、深い付き合いだったからねえ」
「アルバス・ダンブルドアに預けた? 貴女が、あの男にハリーを」
「心配しなくていいと言ってくれたよ、リリーの姉に預けるから大丈夫だとね。でも、大丈夫じゃあなかったんだ。いいや、アルバスは何も悪くない、悪いのはその姉と、あんただろう、シリウス・ブラック。あんたは間違えたんだ、取り返しの付かない事をしたんだよ」
 私の体を見てみろ、ダンブルドアの何処が悪くないのだとレギュラス・ブラックは青筋を浮かべ、取り返しの付かない事をしたのはお前も同じだとメルヴィッドが呟いた。エイゼルはダンブルドアの周囲には碌な人間がいないと蛆虫でも見る目でバチルダ・バグショットを見下ろし、アークタルス・ブラックが全員が最悪の選択をしたと囁く。
 私としてはそんな事よりも、ポッター家襲撃犯とされているバーテミウス・クラウチがほぼ確実に冤罪であり、真犯人はピーター・ペティグリューと受け取れるような目撃証言の重要性を説きたいのだが、とてもそんな雰囲気ではない。
 仕方がない、これは後日、アークタルス・ブラックにそれとなく主張して再捜査の糸口にして貰おう。大々的に行うとあのネズミ野郎がウィーズリー家から逃亡する恐れがあるので水面下で行う事も強調しなければならないが、情況証拠に過ぎないので多分大丈夫だろう。
 幸い今は、物凄く近い身内の失態が明るみに出て弟と祖父が私に全力で謝罪したい期間が開始された為、お願いすれば煩わしい条件付きでも簡単に通る筈だ。本当にこれでいいのかブラック家と、何十度目かの問いかけは一応心の中でしておいた。
 何故こんな事になったのかと、とうとう泣き崩れるバチルダ・バグショットを黙って見つめる私の肩を強い力が引いた。
「メルヴィッド?」
「帰ろう、。私達の家に。ここにはもう、用はない」
「……そう、ですね」
 泣き崩れる老女を放置し、先頭をレギュラス・ブラックが歩き、アークタルス・ブラックがそれに続く。エイゼルが私の手を引き、メルヴィッドが背中を押した。
 聞こえる嗚咽が小さくなる中で、風に乗って甘酸っぱい匂いがする事に気付いて顔を上げると、赤黒い実を枝いっぱいに付けたマルベリーの木が葉を擦り合わせながら揺れている。
 また、夏が始まる気配がした。