曖昧トルマリン

graytourmaline

ほやと茗荷の甘酢和え

 必要な材料や道具が全て揃っていても、手順や量を間違えると望む結果から大きく逸れて失敗をするのは料理でも魔法でも一緒なのだろう。空中に浮遊する無数のモニターから目を離し、遠くで這いずる物体を直に観察しているとその意味がよく判った。
 料理の下処理段階で相当な技量を要求されそうなナマコのような形をした、熊程の大きさがある内臓色の塊。異臭を伴いそうな湯気を吐き出し、赤茶色の泡立つ汁を滴らせ、黒ずんだ肉片や融けた黄色い脂肪を剥げ落としながらも真新しい肉を内側から再生し続けている、名前もない生まれたばかりのモンスター。
 肉塊の前方から張り出している大きな瘤の中央部には5つの楕円状の穴が空いており、骨格的に辛うじて首だと察知出来る箇所には羊皮紙が貼り付けてある縄が巻かれていた。最も大きな穴から楽器を吹き損じたような低い音が漏れて聞こえるが、恐らくはあの部分が口に相当する部分なのだろう。耳孔と思われる穴も側頭部に空いていたが、鼓膜はないようなので音を聞き分ける事は出来ない。試しに放った轟音にも閃光にも一切反応を示さなかったので、視覚と聴覚がまともに働いていないのは間違いないだろう。まあ、働いていたら目と耳に該当する部分を抉り潰せば済む話なのだが。
 潰すついでに切り取ってしまいたいような、だらしなく垂れた肉の下には未熟な四肢が付属しており、それを緩慢に動かす事によって肉の塊は広い部屋の中を目的もなく移動している。肉の表面、その所々に紫色のカビが生えているようにも見えるが、あれは多分皮膚であろう。
 人間に何処となく似た骨格に、紫色の皮膚。どうやら、正体不明のままベースに使用したのは川トロールの骨だったらしい。大きさ、そして四足での行動から察するに、恐らくは生まれて間もない子供であろう。
 人の形に似た、意図して作った失敗作。手順の一部を省略した故に生まれた再生と壊死を果てしなく繰り返す肉の塊と、静の監獄から動の地獄へと移された魂。
、訳が判らない。順を追って話せ」
 詩的な事を考えながら一人納得していると、扉をくぐり目の前の光景を認識する前から既にうんざりしているユーリアンが頭痛を堪える仕草で説明を求めた。たとえどんな不合理で理不尽な思い付きから生じた産物であろうと、自分が訊かなければ他に誰も質問しないまま物事が進んでしまう事を理解してしまった故の行動なのだろう。
 では、何から話してあげようか。この子の求め通り順を追うのなら、矢張り最初に行ったグリンゴッツへの侵入からだろう。
 とは言っても、メルヴィッドとエイゼルに丸投げされた日の夜に早速行った窃盗行為、通常の手順を踏めば困難極まりないグリンゴッツへの侵入も、私の場合は設定された性能を使用した事もあり何も彼も呆気なく終わってしまった。
 あまりにも限定的な存在しか認識出来ない体質を利用して丑三つ時のグリンゴッツに侵入し、レストレンジ家の金庫番号を頭の中に控え、金庫番として眠るドラゴンの前で窃視盗聴防止の魔法と探査型の魔法を展開、中の様子を探るまでが一呼吸。
 対策として内部に設置されていたのは双子の呪文と燃焼の呪いのみ、写真と肖像画関係は既に動きを封じた、外部は強固だがお粗末極まりない内部の警備に苦笑しながら扉を擦り抜けて、あらかじめ説明を受けた形のカップを発見し窃盗完了したのが二呼吸目。
 念の為、魔法省に寄り金庫付近で起こった魔法反応記録を消去し、特にこれといった手間もかけず三呼吸でヘルガ・ハッフルパフのカップを手に入れた。
 金庫の内部は定期的に清掃がされているのか、ほとんど埃が積もっていなかったのが幸いである。物的証拠はカップが存在していた場所にほんのうっすら、円形に埃が積もっていない跡が残っている程度だが、あの様子から見ると月に1度は目に見える汚れを魔法で払っているに違いない。ゴブリンは魔法を扱う事が出来、物品には双子の呪文がかけられている。手作業であれこれする筈がないのだ。
 手作業でならば不審な箇所も容易く発見出来るだろうに、魔法に頼り過ぎると偶にこのような目に遭う。使用する道具が高度で便利になればなる程、その後の勝敗に大きく関わるのは些細な人的要素なのだ。無論、人の振り見て我が振り直せ、である。特に間抜けな私は定期的に起こすヒューマンエラーには気を付けなければと自分の心にも刻んだ。
 さて、必要な物を手に入れたからには、次は、当然隠し場所への直行である。
 難易度を上げる為に全く関連のない場所に隠してもいいのだが、その場合両陣営に見付けて貰えない可能性が高い事に気付き自主的に却下した。折角ちょっと面白いギミックをこつこつと設置したのならば体験して欲しいこの心情、果たして理解して貰えるだろうか。
「全く理解出来ないけど必要以上に関係したくないからどうでもいい。でも、選ばれたのがホグワーツの必要の部屋だったのは理解出来た。これ、爺が作り出した空間なんだね。一瞬秘密の部屋に通じたのかと思ったよ」
『サラザール・スリザリンの秘密の部屋はこんな感じなんですか』
「ここまで近代的じゃないけど、雰囲気は近いよ。この空間は何処がモデル?」
『来年日本で着工予定の首都圏外郭放水路がモデルになっています』
 日本の地下神殿、で理解出来る人は出来るだろう。
 100m四方はあるコンクリートの床と20mはあるかと思われる天井、それを支える60本以上の巨大な楕円柱。広い癖に押し潰されそうな空間の中で、背後の出入口だけが頼りない中世風の作りなのが妙に笑いを誘う。
「お前、意外と必要のないデータ溜め込んでるよね。動物の画像とか」
『今展開しているこれも含めて、私だけのデータではありませんから。元の世界で基礎を作る時にどの程度まで溜められるのか検証する必要があって、屋敷の者総出で必要な画像から趣味の動画まで色々詰め込んだ結果です』
 どのようなデータが存在しているのか私も全体を把握していないが、少なくとも私の世界に存在するインターネットよりは使い勝手が悪いのは確かだろう。データベースには黒色火薬の作り方はあったのに日用品で作る自衛武器等の記述は存在していなかったので。尤も、それがなかったのは安全装置のない危険な武器を自作しなくとも、猟銃やら刀やらが多数手元にあったからなのだが。
 対ルビウス・ハグリッドの一件で明確になったが、矢張り打撃系武器だけでは攻守共に限界がある。間合いから考えて短剣と射出系、最低この2種は必要だと強く感じた。
 幸い、銃に関してはアークタルス・ブラックの叔父であるフィニアス・ブラックが蒐集していた品を譲ってくれるらしく、19世紀末のマスケット銃が手に入りそうなのだが、果たして猟銃しか扱った経験のない私に御す事の出来る代物なのだろうか。確かにあれは連射こそ出来ないが、たとえ弾が煙草の吸殻を丸めた物でも詰めてしまえば撃ち出す事の出来る、ある意味強力な銃ではあるのだが。まあ、貰うと言ってしまった以上、何とかするしかないだろう。
 もう片方の短剣に関しては既に幾つかの店を周り、ナックルダスターが付いたブーツナイフに目を付けている。サングラスといい、ナイフといい、矢張り機能性を重視して行くと最後に辿り着くのは軍用の物らしい。
 何処の時代の戦地に行くつもりだと呆れるユーリアンは、溜息を一つ吐くと顎で前方を指し示し、逸れた話を元に戻すよう視線で訴えられた。
「で、あれは?」
『宝物を守護するモンスターです。大きくて、悍しくて、意思の疎通が出来ない3点を押さえた、ちゃんとそれらしい物体でしょう?』
 アレの体内にカップがあるのだと告げると、ユーリアンは嫌な事を聞いたと眉を顰める。そういえば、彼の本体も今は未だギモーヴさんの中にあったのだ。
「動きは鈍いし的もでかい。魔法を使えば即死させる事が出来そうなんだけど?」
『そう言われるだろうと思って、この部屋に面白い仕掛けをしてみました』
 未だ発動していないが、この部屋を出る際に設置する魔法がそれだ。
 発動条件はこの部屋の扉が閉まった後で魔法が使用される事、単純にただそれだけ。すると自動的に部屋全体が密閉され、魔法使用不能領域になると同時に5分間じっくりとマイクロ波が照射されるのだ。
「つまり?」
『ここ全体が巨大な電子レンジになるんですね。早急に対策を立てないと貴方が昔作ろうとした茹で卵みたいに内側から破裂します』
「……人間が?」
『人間も、です。硝子や紙や氷なんかには全く効果ありませんし、物により発火したり消し炭になったりと様々なので一概にこうなるとは言えませんが。あ、葡萄とCD-Rは危険ですが一見の価値有りですよ、後で動画見ますか?』
「いらない。それよりさ、人間が破裂するならあの化物も死ぬと思うんだけど」
『ええ、死にますね。そうしたらまた繰り返せばいいんです。魂は加熱されませんし、分霊箱ホークラックスがマイクロ波如きに負けるとも思えませんから』
 無論、私も鬼ではないので無傷でモンスターを倒し、この部屋を無事脱出出来る手段をきちんと残してある。
 1つは、この部屋の扉を開けたまま行動する事。
 現実的で、最も回避の可能性が高いのがこれだ。設置した罠そのものを発動させないようにする以外に、退路の確保にも繋がる。そもそも、未知の部屋に突入する際、態々扉を閉めるのが愚の骨頂なのだ。普通に訓練された人間ならばまずこの魔法自体が発動する事なく終わり、気付かれる事すらない手段なのだが、まあ、その場合は真っ当な思考をする魔法使いが存在していた事を素直に喜ぶべきだろう。
 1つは、魔法を使用する前に仕掛けに気付く事。
 先程よりも多少高度な能力や経験が要求されるが、これもまだ現実寄りの手段だ。私程度の魔法使いが設置した罠だ、気付く事が出来ればどのようにでも対処が出来る。この広い部屋にモンスターが1体のみという違和感に気付く事の出来る人間や、敵地に侵入する際に警戒を怠らない者ならば一瞬で見破る筈だ。この場合もまた、それをやってのけた人物へは拍手を贈るべきだろう。
 1つは、死ぬ前に外側から誰かに扉を開けて貰う事。
 これは発動させた愚か者の仲間が外に居た場合有効な手段だが、現実味があまりない。内部では魔法を使用出来ない為、救助を呼ぶのも容易ではないのだ。余程強運の持ち主でもない限り、この方法で助かる事はない。
 1つは、私以上の力で強引にこの部屋に設定された魔法を解除する事。
 単純な力技に過ぎるが、ダンブルドアやヴォルデモートのような上位の魔法使いならば可能とする手段である。この方法で破られた場合は才能の差を認め諦めるしかない。
 1つは、部屋の扉を物理力で破壊する事。
 最後は先程と反対方向の力技で、脳筋の私が真っ先に考え付きそうな手段である。出入口となる扉は頑丈そうだが、鍵や蝶番を持ち得る手段の全てを使い破壊して蹴りでも加えれば脱出くらいは可能に違いない。
 そして、モンスターはこのいずれかの方法を執った後で殺せばいい。
『……ああ、いいえ。もう1つ、全く現実的ではない手段がありました。あのモンスターを説得して、圧倒的な物理力で扉を破壊して貰う方法です』
「物理力っていうのは変わらないんだね。それと説得も何も、意思の疎通が出来ないと言ったのはお前だろう。非現実的と言うよりも不可能と表現した方が的確じゃないか」
『ちょっと私の選んだ言葉に問題があったようですね。より正確に言うと目と耳と口が使えないだけで、それさえ補えばコミュニケーションが成り立つんですよ。あれは、人間の魂を利用して動いていますから』
 当然、それは誰だとユーリアンは尋ねて来てくれるので、前方で蠢いているモンスターを指し、中身はハリー・ポッターの従兄であると正体を告げる。途端に、血の気の引いた顔で距離を置かれた。別にそんなに恐い事を言った覚えはないのだが。
「それって確か、お前が嵌めてゴーストにした」
『ええ、そうですよ』
 カップと部屋を確保し、では最後にモンスターだと嬉々として持って来たのがあの、白骨化した謎の生物の死骸であった。
 この世界に放り込まれた日に、この必要の部屋でメルヴィッドの本体を探す途中で発見した、あの死骸。先程判明したようにあれは川トロールの幼児であったが、取り敢えず何でもいいから復活させてみようと絶食等を端折った反魂の術を用いたのが1ヶ月以上前の事。当たり前だが、失敗した。
 否、失敗して良かったのだ。私の目的は、レギュラス・ブラックを蘇らせたあれを正式な手順を踏まずに行った場合はどのような姿になるかの確認、であったのだから。
 結果はご覧の通りであるが、あまりに手順を無視し過ぎた所為であの肉塊は生きてはいたが魂と呼べるような物は一切入っていなかった。ただ、この程度の事は想定の範囲内、寧ろ想像通りですらある。撰集抄に書かれてた失敗作も大体そのような感じであったので、容易く予想が出来ていたのだ。
 この失敗が想定の範囲内だとして、ではどうするのか。そこで登場するのが、ダドリー・ダーズリーである。
 あの金髪子豚野郎のゴーストに魔法省が手を焼いている事は新聞で知っていた。政府の腰が重いのは判り切っているので未だ対処されていないだろうと高を括り、懐かしくも何ともないあの家の物置へ行ってみると、当然のようにあの子供はあの場所で発狂していた。
 これも、私も、何も変わっていないと苦笑しながら、メルヴィッドから習った魔法でまともに話の通じないゴーストの五感を塞ぎ、一時的に別の物体に閉じ込め、そしてその物体からあのモンスターへと移す。作業としてはそれだけだ。それだけで、あの肉塊は動物に満たない這い回る物体へと成り、同時に、体内に保持した分霊箱ホークラックス目掛けて襲ってくる魔法使い達から命懸けで逃げなければならない存在となる。
 今の所、自殺願望はないようだが、別にそれが意識として現れても問題はない。お涙頂戴話に興味は沸かない、私は面白ければそれでいいのだ。
「じゃあ、あの肉体が滅んだら魂はゴーストに戻らないのかな」
『さあ、知りません。私の姿は見られていませんからどう転んでも大丈夫でしょう』
「お前は何でそんなにリスク管理が甘いのかな。消滅せずにゴーストに戻って、ホグワーツに居着いたらどうするつもりだい」
『ジョン・スミスを通して理事会からホグワーツに圧力を掛けて貰いますよ。私が対ダンブルドアの旗頭になると承認しましたから、あれの評判を落とす為ならば全力で巻き込まれてくれるでしょう』
 権力者様万歳と軽く両手を挙げれば、また大きな溜息を吐かれる。
「強引だけど確実な手段だ、精々その時まで見限られないようにだけしておきなよ。大丈夫そうではあるけどね」
 今展開しているモニターのそれだってそうなのだろうとユーリアンから指摘され、さもありなんと笑った。
 浮遊するモニターに映されているのはオーダーメイドの魔法界製義眼設計図。アークタルス・ブラックが職人を紹介をしてくれた挙句、おいそれと頷く事が出来ないような代金を全て持ってくれた特製の義眼である。諸々の裁判だけでもとてつもない負担の筈なのに、彼は何も心配しなくていいから傷を癒やせと抱き締めてくれるだけだ。孫のレギュラス・ブラックも相当アレだが、祖父の溺愛振りも、一体何処まで行けば気が済むのだろうか。
 しかも、義眼に詰まっているのは旧家に信頼される職人の技術とアークタルス・ブラックの激しい情だけではない。メルヴィッドとエイゼルも、また別々に動いてくれた。
 メルヴィッドは今現在屋敷に設置している魔法と同じ種の物を義眼に搭載するよう先方と交渉し、エイゼルは義眼と脳を繋ぐインターフェースにあたる部分の権限を私が弄っていると知ると色々と乗って来てくれた。本人曰く愉快で便利な事を行う予定であるらしい。両面日記の時同様、詳細は秘密との事だが、メルヴィッドはその行動内容を把握、許可しているので大事には至らないだろう。
 ならば私は、私のすべき事をすればいい。
「まあ、僕よりもこの爺の方が危険だって判らない人間なんて要らないけどね。どうせ首にぶら下がったあの羊皮紙もえげつないトラップなんだろう?」
『罠ではありますが、えげつなくはありませんよ。嫌がらせ程度の物です』
「お前のそれは嫌がらせのレベルを超えてる。全力で否定してあげるから、一体何を起こす気か洗い浚い吐いてみなよ」
『本当にちょっとだけ、神経を弄って物の感じ方を変えるだけなんですが』
 モンスターの首と思われる部位に垂れ下がった羊皮紙には、ヘブライ語で真理の3文字が綴られている。先頭である右の1文字を削ればただの粘土に戻る泥人形、ゴーレムの特徴であるが、それは天使には自由に動かせる両手足と翼があり、ドラゴンにも自由に動かせる両手足と翼があるので、以上の事から天使はドラゴンである、程度には短絡的な発想だ。
 ユーリアンが告げたように、あれは露骨な罠である。大体、あのモンスターはどう考えても大地属性要素が見当たらない。異様な姿で腐ってはいるが、数秒観察すれば四肢の生えた肉である事は明白だ。
『観察眼が皆無な上に不正確で中途半端な知識を持った人間があの紙を破壊したら、目が認識した全ての有機物があの肉塊に、鼓膜が捉える全ての空気振動があの呼吸音に聞こえるように、脳へ繋がる神経が変化する。単にそれだけの魔法ですよ』
 元は対リータ・スキーター用に設置しようと作成した罠なのだが、復活編はやり過ぎだとメルヴィッドから却下を食らい、対象人物もギモーヴさんの胃袋に送られてしまった為、こうして再利用している訳である。
 優先順位としては部屋に設置した魔法の方が高いので、この空間内で発動した場合は破壊した人物の神経は何の作用も受けない。また使い捨て魔法である為、呪いを受ける人物は最初に羊皮紙を破壊した魔法使いに限定される。複数人で行動していた場合は解呪が容易な作業なのだ。付き添いの誰かが素直に助けて欲しいと診て貰えばそれで済む。
 呪文の発動条件は厳しく、解呪条件は単純。なのでこれは、モンスターをこの空間から離脱させた時に初めて価値が出る、そう大した事のない嫌がらせだ。
「どこが大した事ないんだよ、十分発狂ものだ」
『私の雑な罠を回避出来るような人間が、首縄に貼り付けているだけの胡散臭い羊皮紙を破壊するなんて考えられませんよ』
「別の頭の悪い第三者が破壊する可能性はあるけど?」
『その場合はご愁傷様です、としか』
「酷い男だな」
『時間は無制限ですし、どれもこれも、じっくり腰を据えて可怪しな箇所を潰していけば子供でも解けるような問題ですよ』
 無責任極まりない返答の後、この部屋に施した仕掛けは以上だと笑い、酷いついでにと話題を転換させる。出発前に言い渡された、メルヴィッドからの伝言だ。
『明日の朝までにペンネームを決めないと私に決めさせるぞ、との事です』
 先日ちょっとした意見交換をした例の魔法使いの発祥についてだが、原稿は上がっているのにペンネームが決まらないだとかで提出が遅れているユーリアンにメルヴィッドは頭を悩ませ、考え過ぎた所為で逆にどうでもよくなったのか、脅迫と言う手段を用いると宣言したのがこれである。
 因みにメルヴィッドは実名、エイゼルはアーサー・ウィリアムズと名乗りとっくに原稿を送っていた。無論、私もメアリー・スペンサーの名で同様に、である。
「アーサー・ウィリアムズ?」
『ウィリアムのアーサー、ですよ。24人の1人、22歳のイギリス人』
 エイゼルのように両手の指先を合わせ口元に持って行きながら笑ってみるが、ユーリアンは元ネタを知らないらしく怪訝な表情を浮かべるに留まった。言葉遊びに必要な共通知識がないのではこれ以上話題を広げられない。この子が然程興味を持っているとも思えないので本題へ戻そう。
『まあ、兎に角、メルヴィッドが指定したタイムリミットは明日の朝なので早急に決めて下さいね。でないとトーマス・ハングルトンとでも名乗らせて、勝手に原稿送り付けますよ』
「絶対に止めろ!」
 世に出た瞬間からダンブルドアに目を付けられそうな名前を敢えて選択し言葉にしてみると、思った以上にユーリアンが嫌がった。あからさま過ぎて嫌がるとは予想していたが、想像以上である。
「お前は普段の空気は読み間違える癖に、何で嫌がらせとなると的確になるんだ!?」
 喜ぶ事よりも嫌がる行為の方が想像し易いからだ、と正直に告げた場合、体に戻った後で酷い事をされそうなので笑って誤魔化す。自分の身に危険が迫る場合には、私だって多少の空気ならば読めるようにはなるのだ。
 期限は今夜中だなと再確認するユーリアンに黙って頷き、口を引き結びながら表情を観察する。正体を見破られる事以上に、心理的に拒否したい名前の組み合わせであるトーマス・ハングルトンが相当に嫌らしく早速違う名前を脳内で検討を開始していた。
 これ以上は変に突っつかない方が賢い選択だろう。この子は出会った当初からずっと変わりなく、ふわふわとした気分屋さんで些細な事に腹を立てやすい性質を抱え込んでいた。年長者からちょっかいを掛けられると無視出来ない、私達側からしてみれば大変可愛らしく癒される気質なので是非このままの関係を続けたいが、今回はこの辺りが引き際だろう。
 愛らしい顔のまま、奥歯を噛みながら眉間に皺を寄せて、きっとその優秀な頭脳で中二病極まりない名前を考え出しているのだろうが、どうにも場所が悪いように思える。必要事項の説明も全て終えたので、そろそろ帰ろうかと浮遊していたモニターを全て閉じた。
 視界の端でそれを捕らえてくれたのだろう、顔を上げて私を睨んで来る幼い子猫に微笑みかけると大きな舌打ちで威嚇される。互いに肉体のない身なので不可能だが、抱き寄せて頭を撫でたら引っ掻かれて噛み付かれるだろうか。けれど、この子の顎はひ弱そうで、力を入れて固くなった筋肉を食い千切るような芸当は出来そうにない。爪を立てて引っ掻くくらいは、流石に出来そうであるが。
「何、その視線」
『ユーリアンが肉体を手に入れたら、何を作って歓迎会をしようかなと』
 料理関係での誤魔化しは私が頻繁に使う嘘であるが、メルヴィッドなら兎も角、ユーリアンにならバレないだろうと吹いてみる。どの道大した隠し事ではないので見破られても、そうでなくても、どちらでも良かったのだが、返って来たのは予想範囲外の表情だった。
 まずあからさまに驚いて、すぐに繕い、私の表情を観察、そうしてからの安堵。
 歓迎会云々で今更驚くような子ではない。となると、肉体を手に入れたらという言葉なのだろうが、恐らく、私がこの部屋でダドリー・ダーズリーのモンスターを拵えている間に姿を消していた理由に繋がるのだろう。ただ、出発前にメルヴィッドからユーリアンの動向を探るなと釘を刺されているので、深く考えるのは止めた。
『さて、帰りましょうか』
「訊かないんだね、何かをやった事には気付いたんだろう」
『訊きませんよ。それはきっと、間抜けな私が共有してはいけない情報でしょうから』
 メルヴィッド、エイゼル、ユーリアン、この3人だけで管理する情報があっても構いはしない。寧ろ、今迄なかったのが不思議なくらいだ。私も協力者として知る権利はあるが、知らなければならない義務はない。何も彼も知った所でそれが何になるのだろう、演技と嘘が苦手な私の枷にしかならないではないか。
 適材適所、適さない人物は排除するべきである。それを告げる前に、ユーリアンは溜息を吐いた後で姿を消し、部屋の扉を開け、外の様子を確認した後で学生でも使えるような簡単な人払いと盗聴防止の呪文を唱えた。小細工の一環だ、複雑で大げさ過ぎると逆にダンブルドアに見付かる可能性がある。
 扉を閉める直前に部屋への魔法を展開、これで以後、ハッフルパフのカップを求めて必要の部屋に入った魔法使いは迂闊に魔法を使えなくなった。誰が引っ掛かって、或いは攻略してくれるのか楽しみである。
「知らされてない上に興味も持たないんだ、校内で僕が何をしていたかって」
『貴方達を信頼していますから』
「一方的に?」
『ええ、勿論。一方的に』
「何時か騙して後悔させてやるよ、クソ爺」
 それはとても愉しみだ、期待していると笑ってみせると、再度大きな舌打ちをされた。
 受け流されたと思ったのだろう、決してそんな事はないのに。
 メルヴィッドとエイゼルは大層良い子なのだが、三本の箒で起きた事件でとどめを刺してしまったらしく、最早私を切り捨て可能な協力者や駒と思えなくなって来ている。こんな私にさえ情に厚過ぎるのだ、あの子達は。
 幼くて、青くて、気分屋で、時流を読む能力も2人と比較すると劣ってはいるが、それでもユーリアンは私に絆されず思考の強制変化も拒絶した。私の存在が自分達の立場を危うくさせたら、それ以上は助けようとせずに殺してくれるだろう。必要ならば、あの2人の制止すら振り切って口を封じに来てくれる。
『ああ、本当に愉しみですねえ』
 開幕前の仕掛けが上々とは言い難いが、現時点で動かせるユニットの大まかな配置もほぼ終わった。この先は、実際に杖を交わらせる直前迄に細々と詰めて行く作業に移る。
 人の気配はなく、雲に覆われて月も見えない廊下の真ん中で、私は静かに嗤った。凪の時間が、もうすぐ終わる。