筍と木の芽のご飯
全くお兄ちゃんは大変だと完全に他人事の頭で考えるが、多分この思考を知られたらその辺にある物で手当たり次第殴打されるだろう。
「で、メルヴィッドはどんな事を書くつもりなのかな」
「エイゼル、貴方この流れでメルヴィッドに振るんですか」
「君は最後に回さないと突っ込み疲れてメルヴィッドまで体力が保たない」
これで一応真面目に考えているのだが、私が物事を真面目に考えると絶対碌な結論に達しないとエイゼルから酷評を受け、エイゼルの説をすんなり受け入れた頭が弾き出した説明を連続で受けるのは拷問に近いとメルヴィッドからも却下を食らう。
どうせ原稿を送ってしまえばいずれ雑誌に載るので言わない選択肢もあるのだが、自分もネタばらしをしたのだから私達も情報を出せとエイゼルが圧力をかけて来た。
それに屈した形ではないが、メルヴィッドも仕方がないと溜息を吐いて大した説ではないとまた新しい説を立ち上げる。
「私も遺伝派だが、突然変異は推さない。いや、突然変異ではあるが、それは人類が猿人になる以前、それこそ生物の原型が誕生した時分に一定数発生したものだと思っている」
「ああ、植物から既に動植物的、魔法界的なものがありますからねえ」
ブボチューバーにアビシニア無花果、マンドレイクにスナーガラフ。頭に浮かんだほんの一例を挙げたが、どれも魔法界で囲っている不思議で不気味な植物だ。
植物の場合で既にこれであるので動物も勿論そうで、魔法使いや巨人やトロール、馬とユニコーンと天馬、猫とニーズル、鳥と不死鳥とディリコールとオーグリー、蜘蛛とアクロマンチュラ、ハリネズミとナール、遡れば恐竜、或いは爬虫類とドラゴンのような対になる存在が多く発見されている。ただ、クラップだけはジャック・ラッセル・テリアに似ているものの、魔法使いが人為的に発生させた説もあるので置いておこう。
地球上に存在する動植物全てが同方向に変異した可能性も捨て切れないが、億年以上前の先祖の段階で既に何らかの共通遺伝子を持っており、生殖による遺伝を繰り返した結果、今日のように落ち着いたのではないかとメルヴィッドは言う。
「ついでに、魔法を司る遺伝子は1種類ではない可能性もある」
「それはつまり、魔力を貯める遺伝子、魔法として外部に排出する遺伝子、みたいなのが存在するかもしれないって事でしょうか」
「魔法を電力に置き換えて、それに対する電流や電圧のような遺伝子、と表現した方が簡単で判り易くないかい?」
「成程。エイゼルの言う通り、それもそうですね」
「一般人並にはマグルの知識があるなら兎も角、態々そうした所で魔法使い達には全く理解出来ないだろうけどね」
「あれ、もしかして手の平返されました?」
「それ以外の何だと思ったのかな?」
頭の悪い私ではこのような比喩が思い浮かばないと納得した直後に、これである。
相変わらず両手を合わせて例のポーズを取っているエイゼルは、意地は悪いが大変可愛らしい笑みを浮かべて首を傾げた。自分の顔と仕草が可愛いと絶対的な自信を持って取っているポーズだが、事実大層可愛らしいのだから文句は言えない。
彼とは逆にメルヴィッドは物凄く嫌そうな顔をしていたが、その表情も別の意味で可愛らしい事に彼は気付いているのだろうか。
兎も角、メルヴィッドの説は理解した。
これなら魔法と全く縁のなかった家系から、ある日突然魔法使いが現れても可怪しくない。例えば母方が電流遺伝子のみを先祖代々引き継ぎ、父親が電圧遺伝子のみを代々引き継いでいれば、その子に双方の遺伝子が伝わった場合魔法が使用出来るようになる。無論、子供は全て魔法使いになる訳ではなく、リリー・エバンズとペチュニア・エバンズのような事も十分に起こり得た。逆にどちらかの遺伝子が欠けてしまえば魔法が使えなくなるので、レギュラス・ブラックの大叔父であり、ハリーの大伯父でもあるマリウス・ブラックのような存在も出て来る。
メルヴィッドのこれは、今の所、最も普通の感性で出された説だ。ユーリアン程凝り固まっていなければ、エイゼル程突飛でもない。
しかしそうなると純血の定義が色々とアレなのだが、メルヴィッドの目的は純血の保護よりも魔法を使えない人間を内部から排除する傾向が強いのでぎりぎりの所で引っ掛かっていないのだろう。
寧ろこれが大衆に支持された場合、困るのはアークタルス・ブラックだ。彼は魔法を使えない人間から生まれた魔法使いを始祖と見ていると告白していた記憶がある。因みにユーリアンはこの事について全く触れなかったが、恐らくそこまで考えたくなかったのだろう。
尤もどの道、私に関係ないと言えば全く関係がないと言ってしまえる、何も彼も心底どうでもいい説ではあるのだが。
「それで、お前はどうなんだ」
「さっきの反応を見る限り、私以上に奇妙な説なんだろう?」
「奇妙……まあ、そちらのものと比較すると変化球と言えますかね。個人的にはこれでしか上手い具合に説明出来ない、と思うんですが」
赤い瞳と黒い瞳に先を促され、溜息を吐いてから前を見る。これはどうやっても現段階の技術や論理では証明できない説なのだが、実際存在そのものは出来てしまっているから仕方がない系であった。事象に合わせて理論をでっち上げるしか方法がない。
「あのですね、血とか遺伝子とかそういう、肉体的要素はほとんど関係ないと思います。魔法は、精神と魂の世界から此方側にはみ出して来た存在ではないでしょうか」
「……は?」
メルヴィッドのちょっと間の抜けた顔も可愛いなと思いながら先の3人の意見に真っ向から対立どころか、別次元の論理を展開する。
「長々と語っても仕方ないので纏めますね。貴方達と私とゴースト、要は物質に依存しない存在が魔法を展開しているこの事象、どう思います?」
分割された魂の一欠片と、詳細説明不可能な意識体と、連続性を持った死者の思考を保ち続けるゴースト。さてこの非物質的なラインナップをどう説明してくれようかと尋ねると、キッチンが一気に静まり返った。
この家に越して来てからというものこの手の沈黙が多くなった気がするが、それだけ様々な会話が成されているのだと良い方向へ持って行くべきだろうか。でないと私の精神が削られる、ちょっと場の空気が居た堪れない。
ぶっ飛んだ説であるが、別に肉体的なあれこれを否定したい訳ではないので、その辺りは勘違いをしないよう留意して欲しかったが、今の彼等には何を言い訳しても無駄だろう。
魔法云々を除外した肉体的な意味でも、これで一応、純血は大切に、程度の思想は持っているのだ。
ただ、私の言う純血保護は、力を持った魔法族同士が姻戚関係になれば頂点に位置するブラック家から見た場合、非常に使い勝手が良くなるのでそのまま栄えて欲しいという、とてつもなく自分勝手で欲に塗れた理由なのだが。ブラック家が全体を守護し、法関係はクラウチ家やボーンズ家と言われるように、魔法界は様々な箇所で純血の一族が重要な役割に就いている、だから、横の繋がりとして純血が大事なのだ。
どうでもいい言い訳を心の中でだけ考えて時間を潰したが、メルヴィッドもエイゼルも反論してくれないまま立ち竦んでいるので更なる暇潰しを行う。
ブラシを再度停止させ、エイ本体共々もう一度綺麗にしてから塩を振り、親の敵のようにしつこくぬめりを取り始めた。特徴的な皮にブラシが擦った音が聞こえて来たが、粘液が取れ摩擦が激しくなってきた事もあり、とても生き物を洗っている音には聞こえない。そもそもエイの皮は山葵を摩り下ろす道具にも用いられるのだから、恐らく使用し終えたブラシは二度と使う事が出来ないだろう。
ぬめり取りのついでに湯引きの準備として水を張った鍋も火にかけてから元の位置に戻るが、相変わらず2人共固まったまま何も言ってくれない。この説は未来から来たとはいえ頭の中身が残念な私の手にも負えない次元に達しているので、是非、そうじゃないだろうこれはこうでないと可怪しいと突っ込んで欲しいのだが。
しかし、実際出来てしまっている以上、難しいのは確かだ。
私も、メルヴィッドも、エイゼルも、ユーリアンも、皆肉体を獲得していない頃から何かしら魔法を使用している上に、ホグワーツに昔から棲んでいるゴーストも、程度は雑だが魔法それ自体は間違いなく使用している。更に言えば、魂を内包していない亡者は元が何であろうが魔法を使用出来ず物理的な攻撃しか繰り出してこないのに、そこから魂ごと蘇ったレギュラス・ブラックは難なく魔法を使用していた。
この世には目に見えない精神的遺伝子でも存在しているのだろうか、まあ、お偉い学者先生共に発見されていないだけでそういった要素は太古から存在していそうではあるが。
「例えば、私が内臓や脊髄を綺麗に残したまま死んだとして、どこかの誰かに丸ごと移植されたとしてもその方に魔法の能力は発現しないと思うんです。頭だけ生かされたり、誰かの脳味噌がこの体に移植された場合は、まあ、想像が付きませんが、それでも恐らく」
血肉のみで受け継がれる限定的なものではない。矢張りどこかしら精神的な作用がある筈だ、と続ける。
或いは、魔法とは精神そのものから生じる存在ではなく、精神と外界と肉体の隙間から摩擦熱のように湧いて起こるものかもしれないし、実は精神ですら魔法を生む能力はなく外界に浮遊する魔法を集約し指向性を持って放つだけの装置なのかもしれない。人間が呼吸する度に消費し生成される酸素と二酸化炭素のように、取り込んだそれと排出した魔法が同一のものとは限らない可能性だって十分に考えられるし、他にも、人間には認識出来ない非物性体が良い具合の精神に寄り付き、より都合の良い物体となるよう共生と生殖を繰り返しながらそうした能力を積極的に使わせているのかもしれない。
明確にどうとは言えないが、取り敢えず魔法は精神に依存するとしておこう。では、肉体は何の為にあるのかと言えば、ただ、生物として子孫を残す為であろうか。
この穴だらけの仮説から行くと魔法、つまりソフトウェアはソフトウェアのまま存在を維持する事が出来るので、ハードウェアはほぼ関係ない。
他に考えられる事としては、精神を形作る鋳型としての要素であろうか。自己と他者の区別を明確にする為に境は必要だ。皆が一様に不定形では自分が判らなくなってしまう、大多数は自己を認識出来なければ意志は生まれず、指向性を持った魔法も生まれない。無論、自然発生した指向性魔法が後に意思を獲得する現象も見受けられるので、一概にどうとは断言出来ないのだが。
「魔法という要素は物質に然程依存しないものなのでは、と私は考えています。発生時から現時点まで顕在し続けながらも質量を持たないでいる、純粋な魔法集合体と考えられる非実体の存在も確認出来ますし」
「居るのか? そんなものが」
「ホグワーツにも居着いているじゃありませんか、ポルターガイストの」
「ピーブズ、か」
魔法要素を含有した現象が集結したか、密度が上がったかして、意志と形まで獲得したそれを挙げればメルヴィッドが難しい顔をして考え込んだ。
但し、ポルターガイストは意志を持っているものの分類としては魔法と呼ばれる現象そのものであり、決して魔法使いではない。彼等が時折気にしている純血とは、とてもではないが言い難い。どちらがより魔法的に純粋かと言えば間違いなく前者であろうが、それは浮遊呪文や武装解除の呪文が魔法使いよりも純粋である、と言っているようなものなので言葉として不合理であるのは確かだ。
「まあ、ポルターガイストと魔法使いは同列に語れないのでどちらがより優れているとか、そういった話は不可能ですがね」
私達はあくまでも魔法使い、なのだ。魔法そのものではない、筈だ。
「私の説を突き詰めていくと、この思考が本当に私自身から生じたものかどうかも判らなくなりますが。まあ、別に気にする程の事でもないでしょう」
「平然と、怖い言葉で結ぶな」
「メルヴィッド、爺の妄言に惑わされず、現実を直視して舵取りして下さい。別に怖くありませんし、判らないまま放置しても問題ないでしょう。貴方達とこうして会話して、思い付きの論説を垂れて、好き勝手料理している私は、別世界のソフトウェアから生まれていようが、脳味噌の一欠片から生まれていようが、臓腑や血の管や組み上がった骨組織から生まれていようが、と自己認識出来る発狂老爺の私である事に変わりはないのですから」
「ああ、うん。君ってそういう人間だよね、かなり以前から知ってたけど」
「光栄です、エイゼル。私の低能加減を覚えていただいているようで。さてメルヴィッド、以前も告白しましたが、私は愛だとか心だとか、そんなものを哲学的にあれこれ弄くり回せる優秀な頭脳は持ち合わせていないんです。どうにもならない事に思考を費やして現実の処理に失敗した、なんて馬鹿げた事態に陥りかねませんし」
「同意するよ。大体さ、哲学なんて高尚なものは時間を持て余した人間が手を出す分野だろう。今現在、暇を持て余して退屈で死にそうな人間はこの屋根の下にいない筈だけど?」
「それも、そうだな」
納得よりはひとまず諦めたような溜息を吐いたメルヴィッドを見てエイゼルは例のポーズを解き、肩を竦めた後で私を見下ろす。不出来な兄を持つ弟は大変だと言いたげな視線だったが、私の目には阿呆な年寄りと奔放な弟に振り回されるのも面倒になりつつある兄の図にしか映らなかった。
「それにしても、のそれは純粋と言うよりは寧ろ、野生化って表現した方が適切なような……ああ、そうか。これも上辺だけ真似た、不完全な模倣か」
「何がだ」
「イドの蓋をとれ。この世に食えないものはない」
「KS888CC+。ニワトリ、ニワトリ! ですね」
「頭と思考が醗酵した正しい意味での変質者共、今すぐその腐った口を閉じろ。これ以上中身もない話を喋り続けたら逆さ吊りにして首を掻き切って犬の餌にしてやる、それとも生きたままシュレッダーにかけてミンチの方が好みか?」
成長した雌鶏のように絞められるのが好みか、生まれたばかりの雄鶏のように廃棄処分される方が好みかと問われ、メルヴィッドの口に入らないのならばどちらも遠慮願いたいと性質の悪い冗談を返そうと思ったが今は止めておいた方が懸命だろう。大した中身もない私の声に振り回された赤い瞳には疲労が滲んでいた。
エイゼルは嫌がらせの一環なのか、メルヴィッドの表情とは真逆で、御機嫌な子猫のようにレンズの奥の黒い瞳を輝かせている。大変愛らしくはあるのだが、弱った獲物を嬲り殺す子猫の表情はいただけない。その獲物がメルヴィッドでなければ更に愛らしい姿を見る為に全力で煽っていくのだが。
「……もういい、私は疲れた」
「食欲もないみたいだし、今日のおやつは私の独り占めでいいよね」
「いい訳があるか。毟り取るぞ、この自由人が」
「疲れたなら疲れたなりの食欲に落とし込めばいいのに」
「疲れた体や心には甘い物、ですよ。メルヴィッド、お疲れなら出来上がったおやつをお持ちしますよ。疲労の9割くらいは私の所為でしょうから」
「中途半端に私に責任を押し付けるなら、もう10割って言っちゃいなよ」
空いた手で私の両頬を伸ばしにかかったエイゼルに、メルヴィッドは溜息を一つだけ吐いて出来上がったら呼ぶようにだけ告げ、背を向けて何処かに行ってしまった。相変わらずシンクからはエイが洗われている音が聞こえ、シュールな雰囲気を作り出している。
先程は候補に挙げなかったがエイの洗いもいいなと考え始めた所で両頬から手を離され、私を構う事に飽きた黒い視線がテーブルの上に向かった。そういえば、暇潰しにしようとしていたこの雑誌を放置していた。
「ザ・クィブラー5月号? 君、まだこれ購読してたんだ」
「ええ、エイゼルも後で読みますか。確か目を通していましたよね」
「話の種に流し読んだだけだよ。真面目な顔をして読むには、流石にね」
「全ページにユーモアが溢れていて息抜きには丁度良いじゃありませんか」
「納得したよ、君のそれが崩壊している理由の一端がこれだ」
窃視盗聴防止用の魔法をかけているので写真は動かないが、写真が動かない程度で魅力が大幅に減るような雑誌を定期購読したりはしない。
ザ・クィブラー。これは不真面目で信じ難い事を至って真面目な風に書いているのが大変面白い雑誌である。ただ、エイゼルはその雑誌がお気に召さなかったのか下らないと一蹴してページを閉じようと視線を上げ、そして再度下げた。どうやら何か気になる物を発見したようで、手を止めて思案し始める。
珍しい事もあるものだ。彼の興味を引く記事でもあったのだろうかと覗き込んだが、そこに印刷されていたのは論説ではなく、最近よく目にする雑誌広告であった。
「両面日記でしょう、両面鏡の日記版ですね」
広告の言葉通りに受け取るのなら若者の間で人気を博しているらしいが、要はリアルタイムで遣り取り出来る交換日記みたいなものである。使用頻度にも依るが、大抵は半年程度魔法が持つ商品らしい。
今の所、これによる犯罪報告は成されていないが、使用している年齢層が年齢層なだけに表面化していないだけで時間の問題かもしれない。魔法界版SNS、とすれば少しは近代らしくなるだろうか。ソーシャルではあるが、ネットワークでもサービスでもないので、削ってしまえばただのSと突っ込まれればそこで終わるが大丈夫だ、どうせ私しか判らない。
両面日記に関して妙に詳しいと突っ込まれるかもしれないので先に言い訳しておくが、別に犯罪に使おうと考えて調べた訳ではない。ただこれは手紙よりも圧倒的に速い通信手段なのだ、ホグワーツに入学した場合はダンブルドアに目を付けられると厄介な為、空中起動出来るモニターはおいそれと展開出来なくなりリアルタイムでの情報交換が困難になるが、市販されている物品を使用すればその限りではないので頭に入れておいただけだ。まあ、結局は犯罪行為に結びついてしまう可能性の方が非常に高いのだが。
「買おうかな、これ」
「メルヴィッドとの連絡手段用に、ですか?」
「ん、いや。そうじゃなくて」
私とユーリアンは同じくホグワーツに行くので、そうなると残りはアークタルス・ブラックだろうか。今迄の仲を考えると、レギュラス・ブラックではないだろう。
そうは思ったが、口には出さない。エイゼルにしては珍しく妙に解答を濁すのが気になるが、言いたくないのなら詮索は無用だ。彼にだって、自分だけで考えたい事は沢山ある。
「ねえ、これ2人用しかないの?」
「最近出たばかりの商品ですからね、残念ながら。ただ売れ行きは好調のようなので、もうしばらくすれば多人数用も発売されるかもしれません」
「そうか。時間がない訳じゃないけど……うん、そうだなあ。不安要素も多いけど、2人の方が勝手は良いか」
因みに先程考えた通り、彼が何をするのか私には全く判らないが、多分碌な事ではないのだろう。だって、とても楽しそうな笑みを浮かべているのだ。
「余り酷い事をしたら駄目ですよ?」
「酷い事なんてしないよ、私が楽しいと思う事をするだけ。上手く行けば便利で面白くもなる、とても楽しい事をしようかなって。楽しい事は好きだよね、気になるならも最前線に巻き込んであげるよ」
「最前線、心躍る言葉です。素敵な予感はしますが是非、お一人でどうぞ」
「今迄散々私を巻き込んだじゃないか、素敵な予感がするなら偶には巻き込まれなよ」
「そう言われると断れませんね」
目の前に居るのは20代前半の青年なのだが、いいから付いて来てと口にしながら乱暴に手を取る愛らしい幼子の幻覚が見えるのは片目を失っている所為にしておこう。エイゼルの子供のような言い訳に顔が綻び、何をすればいいのかと尋ねれば、今は秘密だと言葉に出され、とても綺麗な笑みで隠された。
今は、という事はいずれ話してくれるのだろう。別に、ずっと秘密のままでも、それはそれで愉快な事が起こりそうなのでどちらでも構いはしない。私は秘密とラベルの張られた事象を探らない、彼はそれを理解している故の関係だ。
「用意が出来たら君を引き摺り込んであげる。ああ、名目上は協力者だから、メルヴィッドには断りを入れる方がいいのかな」
「そうですね。あの人には秘密でないのなら、そうして貰えると助かります」
「じゃあ、後で言っておこう」
「後で、ですか」
「だってそろそろオーブンのタイマーが切れるじゃないか」
丁度その言葉が言い終わると同時に本日の3時のおやつが焼き上がるが、生魚の臭いと混じりお世辞にもいい匂いとは言えない状態になる。
「今日はダイニングに運びましょうか」
「そうだね。これ以上生臭い空気の中で甘い物は食べたくない、それで、今日は何?」
アップルクランブルのウイスキーアイスクリーム添えだと告げれば、エイゼルは隠す事なく上機嫌に目を細め、紅茶を淹れる為に杖を振った。彼もメルヴィッドも甘い菓子が好物のようだが、だだ漏らしながらもあからさまには喜ばないメルヴィッドに対し、エイゼルは感情に逆らわずとても幸せそうに笑う。
彼等がほんの些細な事で浮かべるこの表情が、私は好きだ。作る側としてどちらが良いという事はなく、2人共が其々可愛らしい。
だから早く、出来るだけ早く、棚の中のフィナンシェの代わりに、ラスクを作ってあげよう。それが彼等と、何よりも私の為だ。