白魚の踊り食い
オーブンでアップルクランブルを焼き上げている最中、ブラック家が経営する漁場に態々頼んで手に入れた鮮魚が到着したので丁度届いた雑誌でも読みながら早速捌こうとキッチンへ向かった所、作り置きの焼き菓子を取り出していたエイゼルと目が合い無言でそれは何だと尋ねられた。
「カスベ、ええと、エイですよ。今夜のおかずになる予定のガンギエイ。フィッシュ・アンド・チップスで食べた事ありませんか? お薦めの調理法は蒸し焼きと煮こごりと唐揚げと煮付け、それにヌタとエイヒレと、他には味噌との相性も良いでね。それともトマト煮にしてみたり、ムニエルやソテーの方が好みですか」
「……エイヒレ?」
「そうです。ああ、そういえば肴として出した事がありましたか」
「あれの元ってこれなんだ。和漢三才図会だっけ、あの本のエイの項目に子供の目に関しての薬効が書いてあった気がするんだけど」
「エイの中で一番美味とされているアカエイの記述ですね。煮食、瀉痢を止め、其の膽、小兒の雀目を治す。身を煮付けにすると下痢に、肝は子供の鳥目を治癒すると」
「ああ、そうだ鳥目だ。じゃあ、君の目には効果がないか。それにしても変な魚だ、マグルの世界にも魔法生物並に奇妙な生き物がいるんだね」
「陸の生き物の感性で見ると、海の生き物は特殊形態持ちが多いですよ。メンダコやピンポンツリースポンジのような可愛い子から、ニュウドウカジカやムラサキカムリクラゲ、コギリウニのウニ殻のような意味不明系まで。ガンギエイも見た目は宇宙人みたいですが、きちんと料理すれば美味しく食べられます」
名前を上げた生き物の画像を空中で展開させ、シンク上に固定したエイの尻尾を針と共に切り落とし、金串を打った後で包丁を入れ血抜きをする。動きが停止した所で食材となって貰うべく、まずは周囲の空気を低温に保ちながら表面を魔法で高速回転させたブラシで擦りぬめりを落とす。海産物のぬめり落としは力仕事だが魔法を使用すれば体力を使う必要がなくなるので、こういった所は魔法使いでよかったと心底感謝した。
魚特有の生臭さは気にしないのか、それとも早々に諦めてくれたのか、エイゼルは取り出したフィナンシェをもそもそと食べながら不思議な深海魚達の写真を眺め、十分に堪能してから顔を上げる。
「きちんとって、そんなに処理が大変な魚なのかい」
「鮮度にさえ気を付ければそうでもありません。エイは体液の浸透圧調整に尿素を用いているので、ウレアーゼに加水分解されなければ大丈夫です」
「アンモニア臭くなるのか。それはちょっとな」
「下処理しないで作ったハギスが好きと仰る方もいますし、アンモニア臭が好きな方もいるようですが、私もあれは苦手ですね。臭いの強い物自体が駄目な訳ではないのですが」
「例えば?」
「ブルーチーズや納豆のような発酵臭は平気です。ウォッシュチーズもアンモニア系の匂いでなければ好みですよ、カマンベールチーズを黒糖焼酎で洗った自家製チーズもどきは吟醸酒とよく合いました」
「なんで君はイギリスでは手に入らない酒類を今挙げるのかな。今度アップル・ブランデーで洗ってみてよ、シードルと一緒に食べるから」
「それも美味しそうですね。普通のブランデーも一緒に作って食べ比べましょうか」
相変わらず非魔法界の本を読み漁っているのだろう、ごく自然に正答を導き出したエイゼルにそう返すと、生臭い手を洗っている最中なので気を使ってくれたのか彼が手ずから口の中にフィナンシェを突っ込んでくれた。次いで、これが最後なので追加分を作るよう告げられる。では、今度はラスクでも作ろうか。
「で、どうしてまた、こんな鮮度が味に関わるような面倒臭い魚を空輸して貰ったのかな。調理法を聞くと、別に鱈でも鮭でも白身の魚なら何でもいいよね」
「生憎、今回欲しいのは身でなく皮でしたので」
「魚の皮なんて生ゴミにしかならないと思うけど」
「普通の魚なら、そうですね」
鮫皮はサメではなくエイから取れるのだ、とだけ言えば一般的な日本人ならば判るのだろうが、彼はイギリス人である。日本刀や梅花皮の云々を説明すると非常に長くなる為、エイの皮の表面はざらついているので杖のグリップの滑り止めになるのだとだけ説明すると、私と杖の特性を思い出したのか素直に納得された。
普通の魔法使いは余程の事がない限り杖で殴りかかったりはしないので滑り止めは不要なのだが、あの杖、そして私の思考は魔法も使える便利な打撃武器程度の認識である。対ルビウス・ハグリッドの時こそすっぽ抜ける事はなかったが、今後はどうなるか判らない。
尤も、皮を剥いだ後は職人でも何でもない私が加工や研磨を繰り返し、うろ覚えの知識で鹿革を巻く予定なので、持ち手が完成するのはまだ先の事になりそうだ。
「杖で殴り合いをする予定が皆無のエイゼルには関係のない話でしたね。取り敢えず、エイ尽くしになる今夜の夕食を楽しみにして下さい」
「まだメニューは決まってないんだよね。じゃあ、天ぷらも食べたいな」
「天ぷらですか。作った経験はありませんが白身魚ですし、フライが可能なら出来そうですね。他に揚げて欲しい具材はありますか」
「エビと鶏と豚とマッシュルームとキクラゲ、あと半熟卵とカマンベールチーズとアイスクリームも食べたい」
野菜の存在を一切無視する食べ盛りの青年に苦笑しながら、では夕食は久々に和風で纏めてみようと勝手に決定する。天ぷら以外の調理法はヌタと煮付けでいいだろう、余るようなら蒸し焼きを追加してもいいし、干して自家製のエイヒレを作るのも楽しい。肝はボイルしてポン酢で食べよう。
臭み抜きには塩とウォッカを代用するとして、一緒に呑むための日本酒が手に入らないのが残念だと思いながら、まだしばらくはぬめりが落ちそうにないエイを眺めると、やや難しい顔付きで開封された手紙を手にしたメルヴィッドがユーリアンを連れてキッチンまでやって来た。
こんな表情をさせているという事は、また私は無意識の内に何かやらかしたのだろう。去年の11月頃に予約注文したマンドレイクは極早生の物が近い内に届く予定であったが、迎え入れる下準備に穴でも見付かったのだろうか。
「どうしました、メルヴィッド」
「大した事じゃないが、例の下品な報道女が1ヶ月程前から行方不明らしい」
「リータ・スキーターが、ですか?」
「そうだ。三本の箒で起こった事件の取材中に消えて、明日から公開捜査されるとブラック家から情報が漏れて来た。、お前何かやらかしたか?」
「いえ、知りません。やらかしていたらとっくの昔に報告していますよ」
「ならばあの半巨人の為にダンブルドア側が動いたのか、しかし手口が妙に雑だな。別の事件に巻き込まれたと見た方が賢明か」
「一応こちらも確認してみます」
やらかすつもりでは居たが、今の所は引っ掛かった様子もない。と続けようとして、念の為展開したモニターに踊る文字を確認、一体何時の間にと間抜けな声を上げた瞬間、赤い瞳が一体何をやったと責めて来た。
表示されたのは発動完了の文字列、罠が発動したのは今年のホワイトデー、時刻は昼頃。未だ私が入院している最中の出来事なのだが記憶が全く、否、もしかしてアレか。
急いで別モニターに当日の監視動画の時刻を設定、丁度私が帽子を持って洗面所に消えた直後から再生すると、程なくして入り口から1匹の虫が病室に入り込んで来た。
握り潰せる程小さなコガネムシが、ベッド近くのサイドボードで羽根を休める。同時に、静電気が走るような小さな音がして、頭部のみがリータ・スキーターの物に変容した。私の半径10m以内に近付いたので設置しておいた魔法が自動発動したのだ。見事なまでの、紛う事なき人面虫であるが、人面系妖怪の宿命らしく可愛らしさは欠片もない。
鏡でも見ないと把握出来ないだろうと思っていたが実際はそうでなく、自身の変容にすぐ気付いたのか、拾えないくらいに小さく高音の声を上げながらリータ・スキーターは一時退散とばかりにその場から離れようとする。このまま雲隠れして行方不明扱いになったのだろうかと思った、次の瞬間であった。
「あ」
果たして、その声を上げたのは私達の内の誰だったのだろうか。
人面虫となった女の背後に忍び寄る丸い影、ギモーヴさん。普段は緩慢な動作どころか、下手をしたら全く動かない彼女が目にも留まらぬ速さで舌を出し、半分は人間で半分は虫で全体が羽織ゴロの物体を捕食した。
鳩を丸呑みしたペリカンのように口の中を激しく振動させながら、のしり、のしり、と元の場所に帰還し、何事もなかったかのように目を閉じ、不動の鎮座を開始する。時折硬そうな脚が口からはみ出て口内から逃げようとするが、ギモーヴさんはその度に呑み込み直し決して逃そうとはしなかった。
そうして、暖炉から緑色の炎が上がった所で動画を停止させる。ブラック家の3名が見舞いに来たのだ、これ以上は見る必要もない。
「……ギモーヴさん、あんなの食べてお腹壊さなかったでしょうか」
「爺的に突っ込む箇所はそこな訳?」
「ああ、そうだ。つい最近これに似たVHSを見たよ。シザーハンズの発明家役の彼が出て来るSF映画。相当古い映画だったから、かなり若かったかな」
「エイゼルは何を言っているんだ」
「警部役ならヴィンセント・プライスだ。恐らくジョルジュ・ランジュラン原作のハエ男の恐怖だろう。私も書籍と映画を以前見たな、この女を嵌めた罠の元ネタだ」
「ちょっと黙れそこの馬鹿3匹」
全く焦っていない私達3人に対し、現状から最も関わり合いが薄いユーリアンが青筋を浮かべながら場を仕切る。
このぐだぐだになって空気をどんな風に仕切ってくれるのか興味が湧いたので言う通りに黙ってみると、暇潰しなのか面白半分なのかメルヴィッドとエイゼルもそれに乗って来た。ユーリアンをからかいたい、まるで駄目な大人思考の3人がお行儀良く沈黙したので、背後で未だ生臭いぬめり落としを行っているブラシのシュールな音だけがキッチンに響く。
まだしばらく時間がかかりそうだが、黒い粘液が取れたら次は塩を振りもう一度綺麗にしたブラシで徹底的にぬめりを落としその後で湯通ししてから皮を剥ごう、ぬめりが残っていると皮剥ぎが上手く行かないらしいから。
そう予定を立てていると、素直過ぎる私達の態度に腹を立てたのか何故黙るのかと可愛らしい事を叫びながらユーリアンが感情を爆発させた。
「お前達、本当に何な訳!? 特に爺、感情論で騎士団創立メンバー以外の魔法使いを殺すのはルール違反って言ってたじゃないか!」
「だってこの展開はちょっと予想出来ません。はっきり言って事故ですよ、私の感知しない場所で起こった交通事故みたいなものです」
「こんな生理的に嫌悪を催す交通事故があってたまるか!」
振り下ろされた手の平がシンクの縁を叩こうとするが、唯一肉体を持たないこの子は物理的な抑制を受けないので半透明な腕は宙を切る。
怒髪天を衝いているユーリアンには悪いが、本当に、心の底から、私は彼女を殺す気なんて毛の先程も考えていなかったのだ。違法アニメーガスという自分の罪を公的機関に告白すれば魔法は解ける、社会的な制裁さえ受けてしまえば改心しようと反省しようと後はどうでもよかったのに。
勿論、ギモーヴさんは悪くない。もしかしたら私の為に殺してくれたのかもしれないが、彼女の行動を見るに殺意は感じられなかった。尤も、常時無表情の彼女が殺意を撒き散らしていたら、それはそれで大変興味深い現象なのだが。
まあ、何にしても、殺してしまったものは仕方がない。
特別な方法を用いない限り、死んだ人間は生き返らないし、その方法を知っている私達は己の身を削ってまで彼女を助ける程お人好しではなかった。そもそも丸呑みされて骨がないのでどうしようも出来ない。死体もないので7年程経過すれば行方不明からの死亡扱いになるだろう。
「では、一寸の虫にも五分の魂、運に恵まれなかった彼女の為に冥福くらいは祈っておきましょう。それにしても、蛙の人間踊り食い。言葉に出すと悲惨さが増しますねえ」
「悲惨かな、C級映画のタイトルみたいに聞こえるけど。死霊の盆踊りみたいな」
「お前そんな下らない物にまで目を通していたのか、どれだけ暇人なんだ」
「そんな程度の物だと判るという事はメルヴィッドも見たんですね、あの映画」
どうやら其々の反応を見る限り、メルヴィッドとエイゼルは過失とはいえリータ・スキーターをうっかり殺してしまった事を怒っていないらしい。未登録のアニメーガスが蛙に食い殺されたのでは私達にまで捜査の手が伸びないと考え至ったのだろうか。
私が入院していた特別室入り口の監視機能はそこそこ強固なものだ、たとえ彼女が最後に残した言葉が私に突撃取材をする類のものであっても、二度目の脱走は流石に許してくれなかった聖マンゴ側が否定してくれる。そんな女性は来なかった、必要ならば入退室記録を提出する、そう言って貰えれば済む話だ。もし私が事情聴取を受けたとしてもそんな女性は入院中来なかったと告げればいい、事実、私は今日まで彼女が病室に侵入した事すら気付かなかった。
真っ当な手段で対抗出来るのならばそれに越した事はないだろう。ありとあらゆる可能性を考え、相手の道を潰しながら裏から糸を引いて、成功したとしても自分が何時ボロを出したのか判らないまま怯えて過ごすのは心と体の健康に良くない。
何にしてもユーリアンにちょっと怒られるだけで済んだのは幸いだろう、日頃の行いが祟らなかった事に感謝をしながら杖を振って汚れたブラシから粘液を取り除き、塩を惜しみなく大量投下した後で再びブラシを高速回転、しつこいくらい落としにかかる。
また阿呆な事をやっているとメルヴィッドは呆れたような視線を寄越したが、これが今日の夕食だとエイゼルが告げ口すると、また変な物を作るのだろうという視線に変化した。彼もエイヒレを食べた経験がちゃんとあるのだが、そういえば切り身ばかりで加工前の状態を見せた記憶がない。
「取り敢えず夕飯のメニューの相談は後回しにして、本題に入りましょうか」
「何だ、判っていたのか。今日は察しが良いな」
「大した事じゃないと言ったのは貴方じゃありませんか、そもそもリータ・スキーター程度の事で態々ユーリアンを連れて来ないでしょう。アークタルス・ブラック辺りから何か無茶振りでもされましたか?」
それに対しての返答は手の中の手紙を差し出されるに留まった。書かれた内容を流し読むに、どうやらシェアード・ユニバース誌で魔法使いの出自やその理由について特集を組むらしく、それを執筆して欲しいとの依頼であるらしいのだが、今迄と違う所が1つあった。
「メルヴィッドとエイゼルにも寄稿の打診、ですか」
「他に原稿書ける人間がいないって、魔法界はどれだけ人材不足なのかな」
「父親と共に第二次世界大戦の混乱をを潜り抜けたアークタルス・ブラックが半ば腐り落ちていると評価する程度、或いは私のような人間が気に入られるくらいには、と言えば理解出来るでしょう」
「全くいない訳か」
「ほぼ、ですよ。貴方やメルヴィッド、ユーリアンがいるじゃありませんか」
「何でそこにユーリアンも含むのかな」
「だって彼にも書かせるんでしょう、メルヴィッド?」
でなければ、この子をこの場に連れて来たりなんかしない。誌面でも寄稿の募集をするらしいので、そちらから潜り込ませればいいだろう。
顔を顰めて嫌がるユーリアンに対し、メルヴィッドは現時点で既に存在している証拠を残しておけと釘を刺した。
確かに、破れぬ誓いが果たされた場合、ユーリアンは非常に胡散臭いタイミングでこの世に存在してしまう羽目になる。一応書類等は完成し、実体のない彼の名前だけならば既にこの世界に存在しているのだが、それだけでは弱い。ダンブルドアの勘の良さを考えると、他方面からの時系列偽装は必要だ。
「マグルから魔法使いが生まれるのも、魔法使いからスクイブが生まれるのも、突然変異で片付けられるだろう。遺伝の可能性もあるけど」
「おや、アークタルス・ブラックと同じ説ですね。因みに私は賛同出来ません」
「あの男もこれなのか、私も全面的には支持出来ない説だな」
「私もこの説はちょっとな。第一、面白くないし」
「エイゼルの説は面白いんですか?」
「馬鹿じゃないか。面白いかそうじゃないか、なんて何の意味もない」
「頭が硬いばかりの文字列は誰の興味も引く事が出来ないよ。妄言じみた下らない戯言でも目を通して貰う事が大切だ、話題になるとんでも理論が1つくらいあった方が手に取って貰えるだろう?」
「ああ、思い出した。お前は自己犠牲型馬鹿だったね」
確かにこの説は堅苦いだけで面白味に掛ける。平凡で普通過ぎるし、第一彼にも関わりがある部分が全くフォローされていない。恐らくは、彼にとってみれば私の説は突拍子もないものだろうが、そうでなければ彼等を説明出来ないのだ。
もしかしてエイゼルは私と同じ考えなのかと期待の眼差しで見上げると、指先を合わせるあの仕草をしながらふと笑い返される。ただの勘だが、私と彼の説は違うと直感した。
「全ての人間は遥か昔、魔法使いだった、という説も面白いよね」
「メルヴィッド、何時この馬鹿に変な薬を盛った」
「これはかなり前からこんなだろう」
「え、私は面白いと思いますよ。本はうるさくなくていい、でしょう?」
柔らかい笑顔のまま軽く肩を竦めるエイゼルに対し、メルヴィッドとユーリアンは元ネタを知らないらしく訳が判らないと首を傾げる。未来に書かれる本からの引用なので、どうやら共通知識を持っているのは元の世界で暇を持て余していた私と、どんな書籍や映画でも目を通すエイゼルだけのようだ。
「魔法は私にとって尊いものだけど、人類という種に必要不可欠な能力じゃないよ。必要なら進化の過程で誰でも持つようにならなければ可怪しい、でも、現実はこうだ。魔法のみを基盤にした世界は、より多くの人間を生産し、増殖させる社会に向いていない」
確かに、そうである。個人の才能のみで生活環境が大幅に左右される世界は、社会的弱者が生きていけない。
水を飲む、火をおこす、明かりを灯す、遠方に助けを求める。中世なら兎も角、科学に支配された現代の環境ならば、子供や老人にも然程難しい事ではない。
蛇口を捻り、ライターを点け、スイッチを押し、受話器を取れば、全く異なる言語形態、生活習慣を持つ国の人間同士でもイラストや身振り手振りで簡単に教える事が出来る。言葉をある程度喋る事が出来る年齢ならば、文字が全く書けなくても電話という手段で助けを求める事だって可能だ。
上から下まで全て満遍なく行き渡らせる事が可能な一定の能力、たとえ使用者がその原理がを一切理解出来なくても使用可能な能力が科学、対して魔法は使用者の生まれついた能力に加え得手不得手の見極めと理解を求められ、行き渡らせる事も難しい個の能力である。
個人の力の有無が生活に直結する環境は、ある一定の水準という定規がない。
集団生活を難しく、最悪の場合は破壊する。力の強い者の下に集った所で、その人間が支えられる集団は全体からしてみれば、ほんの一握りだ。そしてその才ある者が死ねば平穏な生活は強制的に終わりを告げる。
ありったけの子供を教育しても大きな成果にはならない。魔法は勉学ではなくスポーツの区分だと考えれば判り易いだろう、以前メルヴィッドに言ったが、私は繊細で緻密な魔法を操る事は得意だが火力はない、力技にも滅法弱いと。教育や指導は才能を伸ばす事は出来るが、そもそも才能がない人間は伸びようがない。そして、毎回毎回、それこそ何千年も都合良く後任が見つかるとも思えない。
現在の魔法界だって、自分達の想造力と創造力の欠如から目を逸して、非魔法界からあらゆるものを盗んでは改造し、恰も自分達が発明したのだとふんぞり返っている事が多い。
勿論多いのであって全てではないし、逆の現象も存在する。
例示が中世まで遡ってしまうが、欧州の洋食器の歴史を変えたザクセン王国のフリードリヒ・ベッドガーのような、非魔法界に莫大な利益を齎した魔法使いもいるのは留意して欲しい所だ。まあ彼は、脅されながら必死に新技術を開発をしたにも関わらず、技術流出を恐れたアウグスト強王に18年もの間幽閉され37歳の若さで早逝した上、弟子の身売りやらヘッドハンティングやらで陶磁器を作り出す秘法はあっという間に流出するという、運というものに恵まれない魔法使いなのだが。
話が大分逸れた気がする。まあつまりは、万人に魔法は必要ないのだ。あった所で処理に困るから捨てた、そんなものはなくても生きていけるのだから。
エイゼルが私と全く同じ事を考えているかは不明だが、少なくともユーリアンは納得出来なかったらしい。彼の立ち位置を考えると仕方のない事ではある。
「エイゼル。それは逆に、万年以上の歳月をかけて、人類は魔法使いへ進化しているとは考えられないのか」
「思うに進化という現象は、何かを捨てる事なんじゃないかな。毛皮、筋力、歯の数、骨の数、それに尻尾、皆万年前に人類の先祖が捨てて来たものだ」
「それに魔法も含まれる、と?」
「だったら面白いなってだけだよ、メルヴィッド。物的、魔法的証拠は何もないし、私だって本気で言ってる訳じゃない。まあ、でも」
確固たる証拠がないのは4人全員一緒だと嗤うエイゼルに対して、メルヴィッドとユーリアンは押し黙るしか手段がないようだった。