青梗菜と干蝦の中華スープ
伸び具合を気に入ったのか暇潰しなのかは判らないが、あれからもう1ヶ月経過しているというのに、彼は未だこういう慣れ合いをして来る。
窓ガラスに映った表情を見ると非常に楽しそうなので強く拒めない。それが彼を調子付かせているのも確かであるが、子供みたいな笑顔を見てしまうと叱る気も失せてしまう。それに子供の頬は柔らかいし肌触りも良好なので、気の向くままに伸ばしてみたい気持ちは私も理解出来た。
「へいえう」
「私はそんな間抜けな名前じゃないよ」
エイゼル、と言おうとしたのだが、唇が横に伸びている所為で言葉通りの間抜けな名前を呼ぶ羽目になってしまった。けれど、そんな間の抜けた名前になってしまった原因は彼自身なので無視してもいいだろう。
変な名前で呼んだお仕置きだとか幼子のような可愛らしい理屈で伸ばしていた頬を今度は逆方向に縮め、唇が縦に潰して、もう一度同じ事を繰り返してからようやく満足したのか手を離してくれた。一通り私を構い終わったエイゼルの黒い瞳が雑多な部屋の中を見渡す。
「今日は荷物や手紙が多くないかい。こっちは今日判った11プラスの試験結果かな、当たり前だけど合格したね、おめでとうとだけ言っておくよ。それで、シェアード・ユニバースの読者からのファンレターと、デイヴィッド・ジョーンズからは新しい原稿の依頼か。スラグホーンは書類の返却とお礼の手紙、それと……この小包は?」
「印璽ですよ、メルヴィッドと私の。エイゼルも作りますか?」
「イメージが固まったらね。4つあるけど、仕事用と個人用かな。ヒュギエイアの杯が彫られているのがこの店用だね」
「ええ、そうです。よく判りましたね」
「と初めて会話らしい会話をした時、似た物があの部屋にあったじゃないか。それにヒュギエイアの杯は薬学のシンボルだ。これだけ要素が揃えば馬鹿にだって判るよ」
ホラス・スラグホーンに貸し出していた書類を棚に詰め込んでいた手を止め、記憶力の良さを発揮させながら勝手に荷物を漁っては開けるエイゼルに苦笑しつつ、スタンプ型や指輪型のそれを目を細めて眺めながら説明する。
もう片方のメルヴィッドの印章はドラゴンと複雑な文様が合わさった物で、これは彼の守護霊がそうであった事に由来すると告げると、メルヴィッドは守護霊を呼び出せるのかと驚かれた。その程度の情報はてっきり共有しているものだと思ったが、よくよく考えてみれば私も知らなかった事であるし、態々時間を取って話すような事でもない。
「じゃあ残り2つの内、子供を膝に乗せて、柘榴と小麦を持った天使の物はメアリー・スペンサーだね。ウロボロスと六角形の組み合わせがそれのはずがないし。君、結構験を担ぐタイプなんだね」
「メルヴィッドやアークタルス・ブラックにも言われましたけれど、爺ですから験ぐらい担ぎますよ。それとメアリーのそれは天使ではなく翼の生えた女神です」
仕事用の物は確かに験を担いでいるが、個人用の物は単に家紋である亀甲と守護霊である蛇を組み合わせて使っただけなのだ。どうにも、私自身の不死性を暗喩する為にウロボロスを用いた辺りから彼らの勘違は始まったらしい。
思い付きのようなものに過ぎないと言っても中々信用してくれず、メルヴィッドは深読みし過ぎて亀甲をシクロヘキサンと思い込みウロボロスからアウグスト・ケクレについて考察を始めたり、アークタルス・ブラックは六角形は調和と安定の象徴だからとこじつけようしていた。面白いから今の所は放置を選択しているが、別に問題らしい問題はないだろう。
メアリー・スペンサー用の物には私の性質とアークタルス・ブラックの思惑が色々と詰め込まれた経緯があるのだが、そちらについては説明をしようと手を上げると、その先に突如としてユーリアンが現れた。何時見ても愛らしい顔に不機嫌の文字を乗せて、何をしているんだと怒ったような口振りで尋ねて来る。
「何って、先程届いた印璽の説明をしているだけですが」
「僕の言ってるのはそういう意味じゃない。エイゼル、メルヴィッドからを呼んで来るように頼まれてたのに、そんな簡単な仕事も出来ない訳?」
「ああ、さして重要な事じゃないから忘れてたよ。次からも覚えないように努力しないと」
「するなよ。店主に首を切られろ糞従業員が。レギュラス・ブラックの相手が終わったら杖を見に行くから準備しておけって伝言も頼まれてたよね。準備しておいた方がいいよ、メルヴィッドにうっかり斬り殺される心の準備をね」
「レギュラス・ブラックが来ているんですか?」
「そう、に用があるらしいからさっさと行きなよ。裏じゃなくて店側」
「そうさせていただきます。ユーリアン、ありがとうございます」
「全く、何で僕がこんな事をしなくちゃいけないんだ」
不満を前面に出しているユーリアンに礼を言い、急いで階段を下りて背の高い飴色の陳列棚が壁一面を覆っている店先に顔を出す。
薬の為に日光を遮った店内は調度品の具合や赤味を帯びた照明も手伝ってか、1世紀程時を遡った場所のようにも思えた。尤も、イギリスは魔法界に限らず、非魔法界でも割合そんな場所が多いのだが。
まだ棚だけが並んでいるだけの店内を見渡し、アンティークのキャッシュレジスターが置かれているカウンターの前に青年達を見付けてその場に駆け寄る。レギュラス・ブラックの視線が私に向いた瞬間、彼の背後のメルヴィッドがやっと来たかと唇の形だけで呟いた。
「ごめんなさい、お待たせしてしまって」
「いや、そんなに待っていないよ。メルヴィッドから聞いたけど、グラマー・スクールに進学が決まったって? おめでとう」
「ありがとうございます。後で詳しいお手紙も出しますね、丁度印璽も届いたので、そのお礼と一緒に」
「楽しみにしてるよ、勿論、僕だけじゃなくお祖父様もね」
難関と呼ばれる進学校に合格したというのに、傍に寄っても身体的接触のない、見方によっては極普通の一般的な挨拶に、意識して悲しげな笑みを微かに浮かべる。1ヶ月前ならば私の姿が見えた瞬間こちらに歩み寄って来たレギュラス・ブラックは、エイゼルとの口論を境に触れ合いに関して臆病になっていた。
論じた内容が内容であるので私だけでなくメルヴィッドに対しても少々遠慮が交じるようになったらしいが、当のメルヴィッドはこの程度が丁度いいと納得していたので離反される可能性はないだろう。第一、事ある毎に戦地から帰還した主人を迎える犬のようなアレをやられては彼の胃が持たない。
ぎこちない関係になっている私達を眺めた後、メルヴィッドは出かける準備をして来ると奥に足を向け、少ししたら戻って来ると言って消えて行った。多分、気を遣ってくれたのだろう、レギュラス・ブラックに対して。
「店の準備に、少し手間取っているみたいだね。その、エイゼルの発表した魔法の所為で」
「でも、フリーズドライ魔法も、ソワナの魔法式も、メルヴィッドには有難い技術でしたから。無理に開店するよりはいいだろうって」
「タイミングが良過ぎるよ。それは本当にエイゼルが作った魔法なのかな」
「レギュラスの仰る通り、確かに胡散臭くはありますが。でも、エイゼルは記憶喪失なので何とも。それに、論文を書き上げて実際にその魔法を使ってみせたのは間違いないので」
「はエイゼルを……いや、何でもないんだ」
仲違いをしているエイゼルに関してのみ、非常に疑い深くなっているレギュラス・ブラックに柔らかく笑いかけ、大丈夫だ、まだ貴方の事はちゃんと好きだと伝えるように少し距離を詰めて彼の心臓辺りに頭が来るよう寄りかかった。
しかし、彼と仲良くしてくれとは流石に言うまい。私だって親しくしたくない連中と目的もないのに手を取り合って仲良しごっこをするのは御免だ。最年長の爺で大抵の事は受け流す私が嫌ならば誰だって嫌だろう、自分の嫌いな存在を好きになれと、友人から強制されるなんて。
レギュラス・ブラックが私に向かってエイゼルを嫌いになれと命令して来た場合はまた話も違ってくるが、今はぎりぎりの場所で留まってくれているらしい。これはこれで我慢の限界が訪れた時の反動が怖くもあるが、まあ、適当な理由を付けて受け止めながら全力で流せば誤魔化されてくれるだろう。
「大丈夫ですよ。私はレギュラスの事が好きですから」
エイゼルのお陰で抜けてしまった毒を声と態度に出して再び注ぎ込み、怖がる必要はない目と耳を塞いだ。やり過ぎると思考回路が可怪しくなるので程々にしなければならないのだが、このあたりの匙加減は難しい。
「、レギュラスと何しているんだい」
「お話をしてるだけです」
「ならいいけど、顔が近いからてっきり疚しい事でもしているのかと思ったよ。そろそろオリバンダーに杖を見に行くだろうから、用意した方がいいんじゃないかな」
ユーリアンとの喧嘩が一段落したはいいが、未だ好戦的になっている精神状態なのか、階上から下りて来た途端、至近距離でうちの子と長話をするなと遠回しに釘を刺しに来たエイゼルに、レギュラス・ブラックは敵意の含有率が高い笑みを浮かべて私の前に立った。丁度、エイゼルと私の視線が交わる直線上に。
「へえ、奇遇だね。僕も手入れ用の油を買いにオリバンダーの店へ行くんだ、どうせなら一緒に行ってもいいかな」
「君はブラック家の当主で忙しい身だろう、それくらい梟で済ませればいいのに」
「僕が使っている油はカスタムメイド品だからね。まず杖の状態を確認して、それから油を調合して貰うから梟で済ませる訳には行かないよ。もそう思うよね?」
「杖職人くらい自宅に呼べばいいと思うけど。ねえ、?」
是が非でも私に賛同して欲しいらしいレギュラス・ブラックと、その子供を煽る為だけに私の名前を出したエイゼルを見比べ、男の子同士のどうでもいい意地の張り合いに巻き込んでくれるなと内心頭を抱えた。
心情的には即断でエイゼル派だが、それを口に出せば間違いなくレギュラス・ブラックの機嫌を損ねる。かといって自分に嘘を吐いてレギュラス・ブラック派だと言っても上手く隠し通せる気がしない。この世界に来る前から言っているように、私は嘘が苦手なのだ。
この発言がメルヴィッドならば本心を告げても平穏に済むのだが、エイゼルに同意となると高確率でその後揉める。どっち付かずの答えでは双方納得しない事は目に見えていた。双方を立てようとする風見鶏は嫌われるし、私自身も八方美人の性ではない。
仕方がないと腹を括ると、そのタイミングを待っていたかのようにメルヴィッドが防寒具を片手に奥から戻って来て、また喧嘩をしているのかと呆れた顔で私の名を呼んだ。先程エイゼル派だと即断した意見を変更しよう、私はメルヴィッド派であると。
「君達の問題だから仲良くしろとも喧嘩するなとも言わないけど、この子を巻き込むのは止めて欲しいな。、仲の良い2人は放っておいて、先に行ってしまおうか」
私に防寒具を渡して表口の鍵を閉めたメルヴィッドは、文句や謝罪を言う2人を無視して私の手を取る。閉店した事で警備モードへ移行し、浮遊しながら店内を巡回する幼い女の子の姿をした人形達とすれ違いながら裏口へ向かうが、ふとある事に気付いて保護者面をしている青年を見上げた。
「あの子達って、メルヴィッドがお店からいなくなるとモードが変更されますよね」
「そうだね」
「私はメルヴィッドがいなくても排除対象に含まない設定をしましたが」
エイゼルとレギュラス・ブラックは、と尋ねようとして、人の悪い笑みを薄っすら浮かべたメルヴィッドに全てを悟る。
彼女達は侵入者威嚇の為に爆竹を共通武器として装備させ、更に其々にはスリングショット、ネイルハンマー、灰かき棒、改造エアガンを装備させているが、まあ、それ以外にも私基準でプログラムした威嚇なので少しばかり相手に対しての思いやりや優しさが欠如した行動もあったりした。
相手の攻撃力を削ぐ為に急所を狙って攻撃したり、誰がが囮になっている間に他の子が死角から襲う連携を使って来たり、武装解除されて身一つになった場合は本体や部品の損傷を一切考慮しない神風的な肉弾戦モードに突入したり、平たく言うと犯罪者は大人しく捕まっておいた方が遥かに賢明な設定を施してある。
私も大きな男の子なので、特殊戦隊モノみたく全員の武器を組み合わせると必殺技を発射するバズーカみたいな武器が出来て、それで侵入者を一掃出来れば面白いのにとまで考えたのだが、技術が追いつけず諦めたのは内緒の話だ。
「大丈夫ですかね」
必ず殺すと書けるような技は搭載されていないとはいえ、自由人ではあるが肉体派ではないエイゼルと、典型的後方支援型魔法使いのレギュラス・ブラックが白兵戦と肉弾戦を基本にした前衛の彼女達相手に無傷で済むとは思えない。どちらかが壁となって時間を稼ぎ、もう片方が彼女達を無力化する魔法でも唱えれば話は別だが、彼等の仲では連携そのものがまず無理だろう。そもそも頭数で負けているのだ。
エイゼルが冷静にフィニート・インカンターテムを唱えれば彼女達は止まるかもしれないが、それ以外にもメルヴィッドが独自に設定した対侵入者用の魔法がこの店には多数仕掛けられている。杖1本程度の、生半可どころかこの店を舐め切った自殺志願系装備で反撃しようものなら、彼程の腕の立つ魔法使いでも軽く死ぬのではないだろうか。
「心配しなくてもいいよ」
流石に死ぬのはちょっと拙い、と思っていると裏口の扉に手をかけた所でメルヴィッドが顎を使って背後を指した。防寒具片手にやや血の気を引かせたエイゼルと、家族にお留守番を頼まれて打ちひしがれている犬の顔をしたレギュラス・ブラックがいた。
「どうやらお灸を据え損ねたみたいだ」
「灸じゃなくて焚刑としか思えない事をやってくれるね」
「下らない諍いにを巻き込むからだよ、それに運が良ければ死なない。ほら、鍵かけるから2人共出て」
言外に運が悪ければ死ぬと言いながら邪魔者を扱うように手の甲で2人を外に追い払ったメルヴィッドは、何事か言いたそうにしているエイゼルとレギュラス・ブラックを無視して再び私の手を取り、オリバンダーの店がある方角へと歩き出した。
非常に目立つ美形集団なので一定の割合で通行人が振り返ったり、中には無遠慮に観察して来る人間も居たが、メルヴィッドは特に気にした様子もなく好青年の顔で私の隣を歩いている。エイゼルも他人の目がある場所でブラック家の当主様にちょっかいを出すつもりはないらしく大人しい、レギュラス・ブラックは静か過ぎて心配になるが、本当に拙い場合はメルヴィッドが動くので大丈夫だと思い込んでおいた。
ブラック家当代当主の面倒を丸投げされている事を知ってか知らずか、メルヴィッドは人好きする外面用の笑みを浮かべ、さっき焚刑の話が出たけど、と話しかけて来る。
「実は火刑で死ぬ人間の多くは焼死ではなく、一酸化炭素や気道の火傷による呼吸困難、所謂窒息死や、火傷の激痛によるショック死が大半を占めるんだ」
「本で読んだ事あります。だから放火犯の処罰や魔女狩りで行われた中世の焚刑は、慈悲を与える名目で先に絞首刑や磔刑にしてから死体を焼くんですよね」
「うん。じゃあ、ここでちょっと質問しようか、自ら進んで47回も火炙りを経験した変わり者のウェンデリンが生きて残れた理由は何だと思う?」
「そうですね。奇跡的に運が良かったか、魔法使いの能力を自慢する為に捏造した作り話。後は一切の慈悲のない場所をリサーチして安全を確保した慎重派。この中だと安全確保説が最有力かもしれませんが、個人的には2番目の創作話説を推します」
「私もその説を推すよ。火炙りの前には自白を得る為の拷問が行われていたし、当時、火刑と言えば一度に複数人が焼かれていたからね。尤も、常に1人ずつしか焼かれず、慈悲もない地域を探し出して足を伸ばした可能性もあるけど」
単体で焼いて来たように思われているのはオルレアンの少女ことジャンヌ・ダルクの受けた処刑イメージが強い所為かもしれないと、今思い浮かんだ適当な理由を並べていると、メルヴィッドもメルヴィッドで、中世の絵画では複数人が焼かれている方が圧倒的に多いのにねと、噛み合っているのか噛み合っていないのかよく判らない適当な事を返して来た。
それを受けて、更に私が理論ではなく感情から生んだ意見を投げ付ける。
「けれど、どの道、存在していても吐き気を催す救いようのない下衆ですよ。冤罪で殺される人達を横目に自分は平気だからと死刑場で巫山戯た事をして、あまつさえその所業を後世に残すなんて。人間の持つ感覚ではありません」
「私はそう思いたくないからこその、創作推しなんだけどね」
「現実にいた慎重派だったとして、その冤罪で殺された方々が彼を散々迫害していて、その復讐として現場に行ったならば情状酌量の余地もありますが……どちらにしても、知り合いにはいて欲しくない方ですね」
「魔法使いには変わり者を自称した救いようのない気違いが相当数存在するからね。知人や友人を作る際には気を付けないと」
もしかしなくてもその筆頭は私の事かとも問えず、一体誰の事だろうかと首を傾げる演技をすると、メルヴィッドも私の周囲には色々な屑がいただろうと可愛らしい仕草で首を傾げ返して来る。
その後で、ふいに背後を歩いているレギュラス・ブラックの名前を呼んだ。
「それで君は、本来の目的を達成しているのかな」
「……え、あ。そうだった、んだけど」
「どうかしましたか、レギュラス」
やや慌てた様子で鞄の口を開けて落胆し、呼び寄せ呪文を行っても手元に何も来ない状況に、元々血の気があまり良好でなかったレギュラス・ブラックの顔色が更に白っぽくなる。流石にこれは可怪しいと思いメルヴィッドの隣から彼の隣へと移動すると、何とかぎりぎり繕っている当主様の表情で何故か謝罪をされた。
「ごめん。君から借りていたハンカチを、落としたみたいだ」
「私、レギュラスにハンカチなんて貸していましたっけ」
「お祖父様から返すように頼まれて」
「アークタルス様から。ああ、あの時の物ですか。別に気にしなくていいですよ、大した物でもありませんし」
1月半ばにブラック家を訪問した際に、ちょっと精神的に不安定になったアークタルスに差し出して、そういえば返して貰った記憶がない事に今気付いた。
縁に手編みのレース飾りの付いた、私の名前が刺繍してある手作り感溢れるガーゼのハンカチは、爺の癖に幼女趣味との理由でユーリアンに鼻で笑われた品でもある。
他にも似たような物を幾つも作っているので気にしなくてもいいと告げるが、先程喧嘩に巻き込んでしまった事も含めて絶賛後悔中なのか、ダイアゴン横丁のど真ん中だというのに彼の顔からは今にも当主様の仮面が剥がれ落ちそうであった。
人目の多いこの往来であの可愛らしい顔をされるのは流石に拙いが、この程度の問題はメルヴィッドが口を出すような事でもない、私がフォローする方が自然だろう。
「レギュラス、オリバンダーさんのお店に行った後は、何か予定はありますか?」
「……いや、何もないけど」
「なら、後で私に時間を下さい。2人で新しいハンカチを選びに行きましょう。メルヴィッド、レギュラスが一緒ならダイアゴン横丁を歩いてもいいですよね」
エイゼルの表情を見た瞬間、皆で一緒に、と言おうとした口が反射的に2人と言い変えていた。どうにも私の脳は、今日はこれ以上レギュラス・ブラックをエイゼルの好きに弄らせるのは止した方がいいと理性以外の部分で判断したようである。
本能的な判断であったが、メルヴィッドも同意見のようで、勿体振って保護者面を少し歪めてから仕方がないと言いたげな様子で渋々頷いた。
「君達2人がそれでいいなら、私は口を出さないよ」
「ありがとうございます。ねえ、一緒に行きましょう。私、この横丁の事はよく知らないんです、魔法界に詳しいレギュラスが案内して下さると頼もしいのですが」
「が、そう言ってくれるなら。一緒に行こうか」
「本当ですか、嬉しい」
氷のように冷たくなっていたレギュラス・ブラックの手を握って笑いかけると、少しだけ指先が温かくなる。泣きそうだった表情にも僅かな笑みが差していた。そんな空気を壊す発言をするのが、今の所のエイゼルの仕事である。彼は本当に期待を裏切らない。
「はレギュラスに甘いね」
「おや、エイゼル。私は、私に優しくしてくれる方限定で、とても甘いんですよ? 何もレギュラスにだけ甘い訳ではありません」
背後を振り返り、爺なので気に入った子は無制限に甘やかすのだと目で語りかけると、それは知ってると声に出して返される。それに被さるように、メルヴィッドも私を呼んだ。
「ここがオリバンダーの店だ。ほら、入りなさい」
紀元前382年創業と書かれた俄には信じがたい看板が目に入るが、元いた世界の経験から腕だけは確かな職人だと知っているので、ドアボーイよろしく扉を開けてくれたメルヴィッドに感謝しながら入店し、店の奥でベルの鳴る音を聞く。
今の杖の使い心地が悪い訳ではないが、それでもやっと、この世界でも私だけの正式な杖を手に入れる事が出来る喜びから、自然と笑みが零れた。
多分それは、私の後に入って来たメルヴィッドやエイゼルも同様なのだろう。