曖昧トルマリン

graytourmaline

ゆり根のポタージュ

 暖炉の炎が爆ぜる音を聞きながら本のページを捲っていると、右肩に僅かな重みと吐息が掛かった。綺麗に色が落ち抜けた白銀の髪と手漉き紙のように乾いた肌が頬に触れ、男性的な整髪料と服に染みた気品高い香りが鼻孔を擽る。
 隣で転寝を始めてしまったアークタルス・ブラックに苦笑し、彼の膝の上で開かれたままの本を静かに閉じた。表紙に書かれているタイトルは至極真面目なもので、工業化時代の終焉と情報化する現代社会と題されている。他にもテーブルの上に積まれた書籍の背表紙には競争と分割の近代情報革命と発展だとか、パーソナルコンピュータ進化論、80年代情報通信業概略、基本情報倫理学等、彼から見れば最新の、私から見れば未だ駆け出したばかりの懐かしい文字が印刷されていた。勿論全て、非魔法界で出版された本である。
 老いて尚、隣接する世界の知識を貪欲に吸収しようとする姿勢には尊敬の念を抱かざるをえない。美しく歳を重ねた老人とは彼のような存在をいうのであって、私のような者はどう足掻いても括られない次元である事がよく判った。
 しかし、私に相続させた家ならば兎も角、今この場、ブラック家本邸のファミリールームでこんな本を読んでいて大丈夫なのだろうか。レギュラス・ブラック相手ならば一定の理解も得られそうであるが、歴代ブラック家当主の肖像画の誰かに見つかりでもしたら煩そうである。
 尤も、曲がりなりにも当主であった彼がそんな危険を犯すはずもなく、きっとその手の物は最初から取り除かれているのだろうが。
 暖炉の中で薪の大きな山が崩れて行く様子を眺めながら冷めた紅茶に口を付け、一息ついてから読みかけていた本のページをゆっくりと捲る。日用品で作る自衛武器と題された本はガソリンを使った火炎放射器は勿論として、塩素ガスを発生させる装置や圧力鍋を使用した爆弾等の作り方が詳細に書かれていた。自衛の単語を明らかに超越しているので表紙に偽りありなのだが、記述されている内容そのものは間違っている様子もない。
 その中の1ページ、ポリスチレンを再利用したナパーム剤の作り方を見付け、注意事項や必要量を熟読する。別にこんな危険な物を楽しく工作したい訳ではないのだが、例の人形作りの芯材に使用して用済みとなった大量の発泡スチロールをどう処分するかで悩み、ただ捨てるよりはと考えた苦肉の打開策であった。メルヴィッドの為に作成した4体と、現在制作中の3体分を合わせうと結構な量になる。貧乏性の他に、まあ若干、従来の消火魔法関係が単なる火ではないナパームの炎に対抗出来るかどうかは気になるというのもあるが。
 あの魔法類に界面活性剤が含まれているような記述はなかったと思うので、念の為それ専用の消火魔法を開発してから溶剤を作った方がいいだろう。魔法界は然程積極的に最新の知識を取り入れていないので電子機器と魔法の相性は悪いが、古くから存在する物を純化させたり発見したり、それらを混ぜ合わせたりする化学方面とは実はそうでもなかったりするから魔法という技術は面白い。
 そういえばロンドンは1952年に1万人以上を殺害したスモッグ対策として4年後の1956年から暖炉の使用を禁止していたが、それに対して魔法界は無視や誤魔化しをせず、魔法使いの存在秘匿と移動手段確保の為に煙突部分に空気清浄や熱風の目眩まし等の魔法を掛ける法案が迅速に施行された経緯がある。
 隣接する世界の情報をいち早く察知し、この法令を起草から制定までしたのはここで眠るアークタルス・ブラックだったりするので、それだけでもう彼が如何に有能な男か判るだろう。私が知らないだけで、多くの功績を彼は打ち立てて来たはずだ。
 元の世界では、私がイギリスに訪れた時には既に鬼籍の人となっていたのが今となっては非常に惜しい。恐らくあの世界での彼の死因は虐待死だったのだろう、彼さえあと数年生きていれば魔法界で起きた内戦は大きく変わっていたかもしれないのに。
「……?」
「起こしてしまいましたか」
 浅い眠りの中で私の気配の変化を悟ったのだろうか、うっすらを開かれた瞼の下でぼんやりとしていた灰色の瞳に笑い掛けると自身が転寝をしていた事実に気付いたのか少し恥ずかしそうに体を起こした。
「すまない、重かっただろう」
「いいえ、まさか」
 ゆっくりと体を起こそうとするアークタルス・ブラックに腕を添え、皺だらけの手の平を緩く握る。1世紀を走り抜けようとしている固く乾いた男の手だった。
 本来ならば私もこんな手をしていたのだろうなと思ったが、とても口に出せるような台詞ではない。そもそも、私には彼のような威厳だとか風格だとか、大人の男性として必要な要素が欠落している。
「色々な事が一段落ついて疲れが出たのでしょう。気分転換に、中国茶でも如何ですか」
「確かに、紅茶はもう冷め切っているようだ。クリーチャーも使いに出してしまったな。では、その魅力的な申し出を受けても?」
「光栄です」
 耐熱ガラスのポットで湯を沸かし、その間に四次元バッグから手の平サイズのガラス瓶を幾つも取り出した。緑茶が彼の口に合うか判らないので今回は紅茶をベースにしようか。
「祁門でも出て来るかと思ったが、ハーブティーなのか。そちらの知識は疎くてね、中々興味深いな」
「八宝茶といって、薬効のあるデザートティーになります。元々は暑い日に飲む物なんですが、組み合わせ次第で寒い日に飲む物も出来ますよ。メルヴィッドが恩師の方に初心者用の物をいただいたのですが、私の方が嵌ってしまって」
「成程、とても君らしい理由だ。1つ1つの薬効を聞いてもいいかな」
 学者気質なのか頑固そうな見た目に反して様々な事を知りたがるアークタルス・ブラックに、漢字と英語が混ざった紙ベースに書かれた性味や薬効を見せて微笑みかける。
「ここに書いてある性味は各薬物の基本属性で、寒・熱・温・涼の四気と辛・甘・酸・苦・鹹の五味からなります。今回は美味しく飲みたいので甘味中心で配合しますね。甘というのは、この1番単純な漢字になります」
「ふむ、そうなると合歓の木の花蕾やナツメが良いのかな」
「そうですね。共にリラックス効果がありますし、紅棗は更に強い薬性の緩和もしてくれますから……あ、因みにアークタルス様、お薬を処方されていたりは」
「ああ、日に何度か飲まなければならない薬が。そうか、薬効があるから他の薬を服用している時は飲めないのか」
 真っ先に確認しなければならない事を今更気付き、やってしまったと内心青褪める。私に矢鱈と甘いアークタルス・ブラックがこの件を執拗に責める事はないだろうが、それでもこの手の失態は痛い。上手く転んだからいいものの、彼の虐待をレギュラス・ブラックに報告したりと迷惑な親切を既に行っているので偽善には気を付けるつもりだったのだが、本当に私の頭の悪さはどうしようもない。
 このような時は、即謝罪するに限る。今回は確実に私が悪いのだから。
「申し訳ありません。先に聞かなければならない事なのに」
「いや、君は薬効があると最初から言っていたのだから、それに気付かない私に問題があった。だから、そんな眉尻を下げて可愛らしい顔をしなくても大丈夫だよ」
「か、可愛い顔はしていません」
「そうかな。君の表情の変化や挙動は1つ1つがとても愛らしいよ。それに、もメルヴィッドの事を、子供っぽくて可愛らしいと思っているそうじゃないか」
 今正に、悩みも謝罪の言葉も吹っ飛んだ。
 矢張り喋ったのか、オリオン・ブラック。あの音速の二枚舌め。
 否、情報の伝達先はアークタルス・ブラックだ。レギュラス・ブラックに伝わっていないのなら嘘は吐いていない事になるのだろうか。しかしこのまま行くとどの道、何時か誰かから伝わる可能性が大きい。
「はは、相変わらず君は面白い子だ。大丈夫、本人とレギュラスには告げていないよ」
「……クリーチャーには」
「うん? 言ってしまったかな?」
 ああ、近い内にもう1度か2度、メルヴィッドに死んだ笑顔で殴られる未来が見える。
 ハウスエルフのクリーチャーの口から漏れる事はないだろうが、アークタルス・ブラックの口から絶対に誰かの、例えば例のセイウチ髭のアレとかの耳に入るに決まっていた。頭の緩い女と同じくらいに口の軽いあの男の耳に入ってしまえば最後だ、物凄い勢いで拡散してしまう。最悪、イギリス全土に瞬く間に広まってしまうだろう。
 メルヴィッドがメルヴィッドとして見られる為の苦肉の策だとはいえ少しばかり後悔していると、苦悩する私の姿を存分に楽しんだのか、アークタルス・ブラックは軽やかに笑いながら優しく頭を撫でて来た。
「心配しなくても、はメルヴィッドの事が本当に好きだと言っただけだよ」
「本当ですか?」
「本当だ、私の中に流れる血に誓おう」
 それに誓われてしまっては疑う事が出来なくなる。本当にそうだと信じるしかない。
 安心させた所に嘘の2段落としがない事を祈りながら徐々に体の緊張を解いていくと、可愛い可愛いと連呼されながら頬を揉まれた。何か彼だけズルい気がする、私もメルヴィッドやレギュラス・ブラックの頬を心ゆくまで頬をもにもにして癒されたい。メルヴィッドにやらかした場合は心が癒える前に心臓の機能が停止するんじゃないかと思うが。
 頬を膨らませて抵抗しても面白がって潰されるだけだと未来予想出来る程度に懸命な私は、仕返しとばかりに両腕を伸ばしてアークタルス・ブラックの頬を揉んでみる。冷静な目で見ると互いに100年近く生きている爺同士が乳繰り合っている図に他ならないのだが、その辺りからは一時的に視線と思考を逸らしておいて欲しい。
 真実に辿る道を放棄して揉める程柔らかくない肌や肉の感触を両手の平に感じていると、唐突に、灰色の目から大粒の涙が溢れて零れた。
「すまない、何でも……何でもない」
 私から手を離し、顔を俯かせて嗚咽を漏らすアークタルス・ブラックの頭をそっと抱き込みながら撫でると、萎んだ老人の肩が僅かに跳ねる。冷たくて、小さな背中だった。
 そう、先程考えていたばかりなのにもう忘れていたのだ。彼は虐待から保護されたばかりの老人である事を。
 敵意の存在しない他者との接触は久方振りだったのだろう。誰かと優しく触れ合って笑いながら下らない会話をするなど、少し前までは夢の中でしかありえない光景だったのだ。
 服の隙間から覗く肌には消えない虐待の跡が未だに残っている。彼の細胞は老い、治療の開始も遅過ぎた。恐らくは一生、消えない傷になるだろう。
 貸すには狭く薄い胸と背中だったが、それでも心の弱った人間1人を受け止められる程度には鍛えてあった。何も告げずにひたすら背中を撫でていると、何時の間にか帰宅したらしいクリーチャーと彼の肩越しに目が合う。幸いクリーチャーは優秀なハウスエルフなので全力で空気を読み、私が微笑んだだけで大体の事を理解したのかテーブルの上に水薬の入った小さなゴブレットを無音で置いた後、恭しく頭を下げて何処かに消えてしまった。
 時計の秒針音を聞きながらか弱い老人を抱き締めていると、何時しか嗚咽は止まり、震える唇がゆっくりと呼吸する音だけになる。
 感情が昂っても見苦しく取り乱さないのは流石であるが、彼はもう少し己の感情を外に出した方が楽になるのではとお節介な事を考えてしまった。そうしないからこその、ブラック家なのだというのに。
 顔を上げ、指先で涙を拭おうをするアークタルス・ブラックにガーゼのハンカチを差し出しながら困ったように微笑む。レースで縁取られ、野イチゴをあしらったフルネームの刺繍が可愛らしいハンカチは今この場には不釣り合いであったが、無地であろうとチェック柄であろうと涙を拭う事が出来るという点では同じであった。第一、私に対して矢鱈と甘いアークタルス・ブラックは、この少女じみた柄を見た所で咎めたりはしないだろう。
 差し出す仕草、かける言葉や使い分けるべき声色、この辺りはメルヴィッドならばもっと上手くやれるのだろうが、対人スキルの低い私の脳では何と声を掛けるのが正解なのか導き出す事が出来なかった。以前の家のキッチンで、優しいクリーチャーに泣かれた時から全く成長していないのである。
「浅ましい姿を見せてしまったね」
「さて、何の事だか判りません」
 判らないなりにそう嘯いてアークタルス・ブラックの左肩に寄りかかると、ふと彼が微笑んだような吐息が吐き出された。自分達以外に目撃者のいない嫌な思い出は、早々になかった事にしてしまうに限る。
 幸いにも彼は、私の雑な提案に半分程度乗ってくれた。
「絵画関係を移動させておいてよかったよ。でなければ恐ろしい事になっていた」
「ああ、魔法界の肖像画は絵の間を移動出来るんですよね。同じ建物内の絵画とか、自分の肖像画同士とか、色々あると先日知りました」
「そうだったのか。てっきり、以前から知っているとばかり思っていたよ」
「私は未だ魔法界の常識には疎くて。初めてオリオン様にお会いした時は、てっきりテレビ電話みたいなものだと思い込んでいましたし」
「サンダーバード、だったかな?」
「オリオン様全部喋ってるじゃないですか……!」
 確かに誰にも言わないと約束はしていないが、それにしたって色々と告げ過ぎである。この分では1から10まで何も彼も筒抜けに違いない。
 あまりの情報漏洩振りに力が抜け、アークタルス・ブラックの肩に寄りかかりながら項垂れると、楽しそうに喉で笑われる。ちらりと見上げた灰色の瞳は、先程まで露わにしていた悲しみを私の見えない場所に隠してしまっていた。細められた目には老人特有の、優しく色褪せた過去を振り返る懐かしさが滲んでいる。
「いや、君のお陰で肖像画とはいえ、久し振りに息子と会話する事が出来たよ。家督を継がせてからは、あの子が早世した後もずっと疎遠になってしまっていたからね」
「そんなに、長い間?」
「もう、半世紀になるかな。譲ったのではなく奪われたのだろうと何も知らない人間は嘲笑うが、あの相続は間違いなく私の意志で行われたものだ。オリオンは自分の力で当主の椅子を手に入れたのだと言うだろうが、そちらは正しい言い分だろうな」
 全ては家の、脈々と受け継げれる古い血の為だ、とアークタルス・ブラックは続けた。
「ブラック家を治める当主は私よりもオリオンが相応しい、実際は私に見る目がなく結果は酷いものになってしまったが、当時はそう思って譲ったのだ。あの子は私や妻よりも、激動の19世紀末に辣腕を振るった私の父を尊敬し、あの人を越えようと常に努力していた。私は家風に忠実な父よりも学者肌の母に似ていてね、父の事は勿論尊敬していたが残念な事にブラック家の苛烈な気質は持ち合わせていない。レギュラスもそうだな、あの子の穏やかさは私に似ている」
「俄には信じられませんが、ブラック家には苛烈な方が多いんですか?」
「幼い頃から帝王学を叩き込まれるからね、家系外の者に対して容赦がない。本来は最低限の礼節も同じ様に指導される筈なのだが、最近はそれすらないようだ。カシオペアがいただろう、君の不動産を奪った醜い女の事だ。嘆かわしいが、今のブラック家は品性を欠いた輩の方が多い。私やレギュラスが例外なのだ」
 丁度いいと言いながらアークタルス・ブラックは立ち上がり、汚れた私のハンカチを自分のポケットにしまいながら別室に案内しようと部屋を出ようとする。洗って返すと言いながら歩き始めようとしたその背中を、私は呼び止めた。
 何故そんな事をしたのか。決っている、中国茶を振る舞えなかった原因がテーブルの上に鎮座しているのだ。呼び止めない訳がない。
「お薬を飲んでいませんよ」
「今日は体調がいいから大丈夫だろう。何、1度くらい飲まなくても」
「もう一度繰り返しますね。アークタルス様。お薬を、飲んでいませんよ?」
 今迄にない見苦しい言い訳をして逃げようとするアークタルス・ブラックに向かって威圧感を含めた笑みを浮かべると、逃亡を断念したのか渋々私の隣に戻って来た。
 灰色の目が粘液のような薬を眺め、それでも諦めきれないのか深く長い溜息を吐く。
 嫌いな食べ物を前にした子供のような顔をしているが、生憎彼の目の前にあるのは食べ物ではなく薬であった。不味い物は食べる必要を感じない派の私ではあるが、薬だけは、嫌いだから避けましょうと言う訳にはいかない。
「お薬、苦手なんですか?」
「味が好かないのだ」
「まあ、薬ですからねえ」
「しかも粘液質だ。ずっと口の中に苦味が残る」
「確かにもう少し飲み易い形状がいいですね。糖衣とかカプセルとか、咳止めシロップのように甘味を付けるとか」
もそう思ってくれるのか」
「ええ。しかし、処方されたお薬はきちんと飲むべきです」
 最後の最後できっちり手の平を返すと、クリスマスパーティの出席を断ろうとした時のレギュラス・ブラックそっくりの表情で悲しみを伝えて来た。そんなアークタルス・ブラックには残念なお知らせだが、今の私に飲まずに部屋を出るという選択肢は存在しない。
 ただし、譲歩の選択肢は存在するので、この辺りで妥協して貰おう。
「運悪く、このバッグの中にフィルム状のオブラートが入っています」
「何故君は、このタイミングで、そんな都合のいい物を持ち歩いているのかな」
「少し前に作った生キャラメルのコーティング用に買った物のあまりです」
「まさか君の料理好きを呪いたくなるような日が来ようとは」
 及び腰になっているアークタルス・ブラックの肩を掴み、これで苦味は問題なくなったのだから逃げるなと眼力で語りかける。しかし、味以外にも元来からの薬嫌いなのか、中々首を縦に振ろうとしない。
「フィルム状のオブラートは口の中に貼り付いて破れてしまうではないか」
「アークタルス様、それ、使い方が間違っています」
「そうだったのか?」
「薬を包んで、そのまま口の中に入れているのでしょう?」
 なまじ知識を得てしまった故に起きた不幸の典型、なのだろう。彼の周囲には訂正出来るような存在もいなかっただろうから、仕方がないのかも知れないが。
 私の断定系の問いに何も知らない幼子のようにこっくりと頷く老人に母性を刺激されながら、正しく使えばそんな事にはならないと説得をし、丁度いい具合にお茶菓子を持って来たクリーチャーに小皿とぬるま湯、そしてスプーンを所望すると、それはもう嬉々とした様子で持って来てくれた。多分、私に頼まれ事をされたからではなく、薬嫌いのアークタルス・ブラックを服薬させる人間が遂に現れた期待からなのだろう。クリーチャーは勿論、レギュラス・ブラックも彼にはあまり強く出られないようなので。
 クリーチャーから必要な物を受け取り、早速作業に取り掛かる。でないと矢っ張り嫌だと隣の90歳児が駄々をこねかねない。
 皿にぬるま湯を張りオブラートを浮かべ、その上に固く練った例の薬を乗せて包んだ。他にも先に包んで後で水に付ける等、色々な飲み方はあるが、要は水分をある程度吸収させてゼリー状にしてから飲めと、そういう事である。
「はい、アークタルス様。あーんして下さい」
 男同士で、ぱっと見ただけでは爺と曾孫にしか見えないような年齢差にも関わらず、何故か恥ずかしがるアークタルス・ブラックの微かに開いた口の中にオブラートの乗ったスプーンを突っ込む。
 もうあと1世代も時代が進めば、こんな面倒な手順を踏まなくても始めからゼリー状のオブラートが日本から販売されるが残念な事に今この時代にはないので輸入も不可能だ。否、これは幸運で、そして最低の事でもある。それを裏返せばつまり、未だこの時代では誰もゼリー状のオブラートを開発していないのだ。
 あれの開発経緯や売上高を知っている身からすると努力と尊厳を踏み躙る最悪のアイデアの盗用なのだが、私の発案ではない事と、外には出さず何とか魔法界内で留める事で見逃して貰おう。
 帰宅したら早速メルヴィッドに提案してみよう、多分、作るのは私だろうが。
 しかし、私がまだハリーの頃にミネルバ・マクゴナガルに餌をやっていた時も思った事だが、老人同士の食べさせ合いなどという現象は言葉にすると本当に酷い絵面であった。ここは老老介護と銘打っておいた方が、多くの人にとって精神的な安定になるかもしれない。
 いたく感激しているクリーチャーの様子を眺めているとあることに気付き、ふと彼の手元に視線を移す。甘い香りを放つサヴァランが3皿、照明を受けて飴色に輝いていた。
 他家に対して誇れる事ではないかもしれないが、それでもハウスエルフを家族の一員として迎え入れるこの家の優しさが、私はどうしようもなく好きであった。