結び豆腐
役所に提出する為の書類整理を一区切りして真っさらなレポート用紙を捲る傍らで、一人掛けのソファに座っていたメルヴィッドが本から顔を上げ、待ちくたびれたと呟いた。
「さっさと要件を済ませろ」
「態々待ってくれてありがとう、でも君は要らないよ」
「お前にはな。しかしには要る」
ラム酒を落とした紅茶に口を付け、揮発する甘い香りを含んだ湯気の中で赤と黒の瞳が交錯する。メルヴィッドの言葉に反論がないという事は、彼は既にエイゼルのしようとしている事を理解しているのだ。全く、彼は私と正反対で常に思考が速く先を行く。
2人の無言の睨み合いが数秒続いた所で、エイゼルが馬鹿馬鹿しいと言いながら下らない諍いから抜け私の隣の宙に座った。変化してからの彼がこんな事をするのは珍しいが、大方メルヴィッドに対する定期的な嫌がらせの一環なのだろう。
夕食前の一件で不機嫌になっているメルヴィッドはそんな嫌がらせを完全に無視して、再び本へと意識を向けていた。アークタルス・ブラックが所有していた屋敷だけあり書庫には色々と興味深い本が残されているらしい、是非私もじっくりと見てみたい所だが、まずはやる事をやってしまわなければなるまい。
「それで、私は何をすればいいんですか?」
「一晩、乗っ取って欲しい人間がいる」
「乗っ取って……ああ、成程。そういう事ですか、よくそんな方法を思い付きますね」
最近使用していなかったので忘れがちになっていた。
復習になるが、私の姿を視認出来る存在は、肉体と魂の結び付きが弱い事を条件とする。そして、私はそうした存在の肉体を乗っ取る事が出来る性質も持ち合わせているのだ。
要は説得など面倒臭い事は破棄して、そうした人間の体を乗っ取り、私の意志で誰かの生気をエイゼルに渡せという事なのだろう。確かにこちらの方が危険もなく手っ取り早い。何故、私の頭はこんな簡単な事に気付かないのだろうか。
まあ、答えは決っているのだが。
「寧ろ思い付かなかった君の脳味噌に敬意を表するよ」
「おや、ご存知ないのですか。私の筋肉に塗れた脳がどれ程使い物にならないかを」
「筋肉に塗れていなくても使い物にならなそうだけどね」
「正鵠を射た指摘ですね」
「ふうん。ユーリアンの言った通り、自覚してるだけ大分マシみたいだ」
「自覚しているからこそ、貴方達の頭脳を尊んでいるんですよ」
もっと複雑で長ったらしい注文が来ると思い構えていたのだが決してそんな事はなく、爺の私にも判り易く簡潔な言葉で全てが理解出来た。
「となると、メルヴィッドにもこの考えはあったんですか?」
「そうだな。ただ以前と今は状況が違う、私の場合は書類関係を用意させる時間も必要だった。お前にメアリー・ガードナーの演技が出来るのなら考えたが、嘘吐きとは程遠い場所にいる人間だったからな。だからエイゼルは一晩なんだろう」
「そういう事かな」
「借りるという事は、この狂人が私の所有物という認識でいいようだな。ならば対価が必要だ。無一文のお前から、さて、何を要求してやろうか」
「、君の協力者がふざけた事を言ってるから殺してもいいよね?」
喋っている内に機嫌が回復して来たのか、何処か飄々としたメルヴィッドに対してエイゼルは笑顔のまま握り拳を作り、殴殺してもいいかと私に尋ねて来る。
勿論私をダシにして彼を殺すなんて暴挙は駄目に決っているので首を横に振ると、私は本当にメルヴィッドを盲信していると言われた。エイゼルの魔法で宙に浮いたボールペンがレポート用紙に呪いの言葉を綴って行くが無視をする。
「手酷い裏切りに遭って絶望してしまえばいいのに」
「何時だったか言いましたが、私の認識内での裏切りと呼ばれる行為は貴方達の内の誰かがダンブルドアと手を組む以外にありえないんですが」
「ああ、そうだった。それはないね。皆無だ」
「安心しろ。何があってもその可能性だけは存在しない」
反ダンブルドアだけは何が起ころうと一致し続ける事を再確認していると、メルヴィッドが本を閉じながら本格的に話に入って来た。
その姿をエイゼルも捕らえ、釈然としない様子で私と彼を見比べる。
「矢っ張り気に入らない。に借りを返すならまだしも」
「ならば返せばいいだろう」
さらりと告げたメルヴィッドの言葉にエイゼルと私は驚き、彼の方を見つめる。特に他意はないように見えるが、私が読めないだけなのだろうか。
思い切り顔に出している私の考えを見透かしてか、赤い瞳が私達を見つめ返す。
「エイゼル相手に一晩などと中途半端に過ぎる借りを作った所で処理が面倒だ。それに、の担当している雑務は大半が私のものだからな」
「今ので一気にやる気が失せた」
正直に過ぎる両者の告白に苦笑し、ならば私もと正直な告白に便乗する事にした。
「幾つか手詰まりを起こしているので、一晩分でもエイゼルの頭脳をお借り出来るなら私としても有難い限りなんですが」
「……たとえば?」
「フリーズドライの魔法が上手く繋ぎ合わない事や、強力な魔法生物に長期間効く魔法の開発。それとソワナの魔法式も変な具合に干渉し合っている箇所があるみたいなんですが、原因が特定出来ず困っているんです」
「1番目はメルヴィッドで、最後は彼と君自身だよね。2番目は何の為?」
「私もその項目は初耳だな」
紅茶に口を付けようとしていたメルヴィッドも自分が出した指示以外の仕事を処理していた事を知り、手を止めて興味深げに私を眺める。彼等ならばすぐに判りそうなものだが、自分にほとんど関係しない事なので脳内で結び付かないのだろうか。
「ユーリアンに秘密の部屋の管理を任せたでしょう。けれど、あの部屋のバジリスクが手元に来てしまえば彼の手を煩わせる事もなくなって自由時間を確保出来るかなと思いまして」
「判った。じゃあ最初と最後だけ手伝ってあげるよ」
「そうだな、それで大体一晩潰れるだろう」
先程の事があったからなのか、見事に真ん中の項目を却下してくれた2人に対して何か言うべきなのだろうが、まあ、ユーリアンの自業自得という面もあるし、こちらは引き続き私1人でなんとかしてみよう。いざとなれば当事者のユーリアンに助けを求めればいい。本当はこんな事もあろうかと、と格好よく決めてみたいが、多分私には一生無理な願いだ。
エイゼルが書いた呪いの言葉が溢れているページをゴミ箱へ入れ、気を取り直してどんな生贄を所望しているのか尋ねてみる。勿論、老人以外で。
「楽なのは病人かな、でも大した量の生気がないなら一晩で一気に取り込むと足りなくなる可能性もあるか。そうなると、被虐児童も危ういな。何人か渡り歩いてもいいけど、それで運悪くダンブルドアに怪しまれるのも嫌だ」
「その理屈で行くと、ダンブルドアに怪しまれず乗っ取りが一度で済むような大量の生気を所持しているのは精神病患者になりますね」
「まあ、が入るなら問題ないだろうけど。でも彼等は他のグループと違って突然死とはあまり縁がないような気がする」
「突然死が問題にならない精神病患者ですか? 用意出来ますよ」
「いるのかい、そんな都合のいい存在」
「お前は本当に変な方向の知識だけはあるな」
彼等とはたとえ同じ場所に立っていても見ようとしている物が違うのか、それとも興味対象が異なるのか、兎に角重なり合わない事が多い。勿論、それが嫌な訳ではなく寧ろ逆で、今回のような事が起こるので非常に助かっているのだが。
「私を視認出来ないタイプなのでリストには入っていませんが、自殺未遂常習者が入院している病院が幾つか有りました。彼等の願望を幇助しましょう」
「ああ、そうか。今の時代はそういうのも病院に入れられるんだ、豊かな時代だね」
「戦時中はそれどころではありませんからね」
正直言うとジョー・ボーナムでもないのに他人の手を借りる時点で自殺ではないと私なんかは思うのだが。
まあ、それでも、幇助を望むどころか生きる意思のある身内や全く関係ない他人を巻き込んで殺した挙句に自分だけ未遂するタイプよりは遥かにマシで人間的な善人だろう。
「では、その方向で調べ直してみます。参考に伺いますが、どんな方を希望しますか」
「プライド高くて他人とのコミュニケーションが苦手なタイプ。年齢は老人でなければ幾つでも、性別は出来れば男、女はすぐつけ上がるし調子に乗ると口が軽くなる」
「エイゼル、年齢性別は兎も角、そのコミュニケーションが苦手な人間をこの会話を見誤りがちな私に説得しろと仰るのですか……?」
「今回、は調べるだけでいいよ。私なら大体落とせるから」
「安心しました。そういう事なら」
必要事項を書き留めたレポート用紙を他とは別の場所にしまっていると、何かを所望するようにエイゼルが右手を出して来た。一体何を望んでいるのだろうか。
何時かメルヴィッドにやったように首を傾げながら差し出された手に手を重ねる仕草をすると、当然のように見当は外れクッションが顔面へ飛んで来た。前回は肉体を持っていなかった事もあり新聞紙が眉間を通過しただけで済んだが、今回はモロに受けてしまった所為で若干首が変な方向に曲がりかける。
「どうせ暇だから今の内にフリーズドライの魔法を見せて欲しかったんだけど?」
「流石にそれは言われなければ判りませんよ」
クッションを背中に退けてレポート用紙の束をエイゼルに差し出すと、すぐに真面目な顔で文字を頭の中に入れ始め、数秒してから私ではなくメルヴィッドに向かって話しかけた。
「見易いノートで助かるけど、って見た目に反してというか、性格通り、かなり癖のある魔法の組み立て方するんだね」
「ああ、そういえばソワナの魔法式も構築に癖があったな。あれでは衝突が起こるのも当然だ、多分認識していないだけで他にもバグはあるぞ」
「バグ取りの覚悟はしてる。というか、は言語中枢と常識が欠如しているだけで、純粋な勉強は基礎から応用まで割と優秀だった事に正直驚きを隠せない。上手く簡略化もしてるし、かなりいい線まで行ってるよ、この魔法式。これだけ出来るなら、多少性質がアレでも教える側は結構楽しかっただろうね……ああ、そうか。そういう事か」
黒い目がレポート用紙から私に移り、納得したと瞬く。
「君が頭が悪いだとかよく言うのは、比較対象が育ての親だからなんだ。確かに私には劣るけれど、優秀な頭脳の持ち主だよ君は。勉強に関してだけ」
最後を特に強調したエイゼルはレポート用紙全体をざっと眺めると、興味深い物を発見した子供のような可愛らしい笑みで一晩で急ぎ繕うのは勿体ないと告げた。
私より遥かに優秀な頭脳を持ち、また元々勉強好きな面もあったのだろう。手にした魔法式を徹底的に改良したいらしいエイゼルに二つ返事で差し出した。
「けれど一晩を超過すると不等価になってしまいますね。どうでしょうメルヴィッド、完成した魔法式をエイゼルの名で世間に発表してみませんか。名が売れるとは思いませんが、小銭稼ぎにはなりますから」
「好きにしろ。私は資料を貸してやったくらいで発案も制作もお前がやったんだろう、完成したものを誰にくれてやるのもお前の自由だ」
「でも、いいのかい?」
「子供の姿をした私の名では世間に発表出来ませんから、処遇に困っていたんですよ。最初はメルヴィッドに押し付けるつもりでしたが、エイゼルの方が丁度いいので、貰っていただけませんか」
それに肉体を手に入れて我が家に来ても手元に何もないと、しばらくメルヴィッドに金銭を借りる事になると告げると有難く受け取って貰えた。説得の効く部分がメルヴィッドとよく似ていると思ったが、口に出さない方が懸命だろう。
それにしてもエイゼルは、メルヴィッドに借りを作るのがどうしても嫌らしい。
「さて、纏まるものも纏まりましたし、私はこの体を寝かし付けて雑務に戻りますね」
「私も寝る」
「はい、おやすみなさい。エイゼルも」
「生贄の件、忘れないでね」
「承知していますよ」
レポート用紙と共に消えてしまったエイゼルと、眠る前の1杯を飲み終わったメルヴィッドを見送り、私もまた、この幼い体を休ませる為に階上の寝室へと足を向けた。
踊り場の窓、霧の掛かった湖の向こうに青白い炎の塊が見えた気がしたが、きっと魔法生物か何かだろう。少なくとも害はない、そう言い切れる程度には、私はアークタルス・ブラックの事も信用しているのだ。