キドニー・パイ
全ては、彼の締めの言葉で説明が出来た。
今まで暮らしてきた家同様に土足を禁じた屋内は私からすれば非常に快適で、外観に比べ近代的な内装も大変好ましい。素朴な印象を受ける家具類も、流石はブラック家の所有物というべきか、触れれば高級品と判るそれであった。ちらりとしか見ていないが水回りも理想的で、此処で暮らす事が出来たら幸せだろうと爺の私は思う。
が、納得出来ない。色々と。
「何故、私なのですか?」
「君には大きな、とても大きな恩がある。私も、レギュラスも」
「大した事はしていません。ただ、ほんの少しの間、傍に居ただけで。こんな立派な屋敷をいただけるような事は、とても」
「心苦しいかな」
「……非常に」
「素直な子だね。私は、君のそのような所を特に気に入っている」
それに君は見た目よりずっと豪胆だとアークタルス・ブラックは笑い、孫のレギュラス・ブラックに視線を向け、そしてそれをメルヴィッドへと移す。
その後で、また視線は私に戻って来た。
「きっと君は、この家も土地もレギュラスに贈与すればいいと思っているのだろうが、そうも行かない訳がある。この家は、私が住む前までは何世紀もマグルの所有物になっていたからね。隠居した私ならば兎も角、当代当主が持つには些か拙い」
「レギュラスは……ああ、いえ。判りました。周囲が、きっと煩いのでしょうね」
「理解が早くて嬉しいよ」
レギュラス・ブラック本人は気にしないかもしれないが、この家が近年まで非魔法界の人間によって管理されていた事を許さない、純血主義を拗らせた馬鹿が喧しいのだろう。
ごく普通の魔法使いならばそんな事を言われてもどうという事はないが、生憎彼は純血の家系の中では特に力が強く、言ってみれば貴族の中の貴族、王族のようなものだ。飽くまでも、ようなもの、なのだがその辺りを勘違いする輩は兎に角好き勝手喚いて責任も取ろうとしない人間で、目障りなのが最大の特徴だろう。
「洗浄が利く動産ならまだしも、不動産だ。その中でもこの屋敷は特に、ブラック家の当主たるレギュラスにとって不利な材料になり、現時点では託す事がとても出来そうにない。かと言って、私に色々としてくれた妻の一族や娘の嫁いだ先の連中にくれてやるつもりも毛頭ない。レギュラスを助けようとしなかった親族の連中も、同様に」
アークタルス・ブラックの瞳がもう一度メルヴィッドを見て、勿論管理を任せるのは年長の彼の方が適当だがと微笑み、そしてすぐ悲しそうな表情に変化した。
「何よりも、ブラック家の愚か者が、恩人である君に無礼な振る舞いをしてしまった。許し難い程、酷く悍ましい行為を。だからこれは、当主の身であった者のけじめとしても、受け取って欲しい」
ヴァルブルガ・ブラック、の件ではないだろう。
あの程度の事で屋敷を相続してくれと言われても正直困るし、私と彼女が接触した時は、未だ彼等は応接室で口論中だったのだ。時系列的に見てありえない。第一、失礼に値するような事を言われたのはメルヴィッドだ。
応接室、そうだ、応接室に来ていた、客に非ざる客達なのだろう。
「……何があったのか、伺っても宜しいですか?」
「僕から話そう。これは当代当主の責任の方が大きい、それに、お祖父様よりも僕の方が彼女と血が近い」
彼女、と言ったか。ならば私に対して何かやらかしていたのはカシオペア・ブラックという顔も知らない女だろう。正気と狂気の間で揺れているヴァルブルガ・ブラックの言葉が全て真実ならば、ではあるが。
「僕の大叔母にカシオペア・ブラックという女性がいる。彼女はにとっても、大伯母に当たる人だ」
言いながら、判り易くする為なのかレギュラス・ブラックは杖を手に薄く光る文字を宙に並べ始める。彼からは母親のヴァルブルガ・ブラック、その父親のポルックス・ブラックが伸び、ハリーである私からは父親のジェームズ・ポッター、その母親のドレア・ブラックが伸びる。ポルックスとドレアが兄妹である線が引かれ、その間にカシオペア・ブラックの名が入った。
若い灰色の瞳が私を少しの間見て、更に言葉を続ける。
「彼女は、あの女は君の実のご両親が入院された際、君達一家の不動産を管理する名目でブラック家の名前を出し、奪い取った。ジェームズ・ポッターはポッター家最後の子孫で、の父親に最も近い親族は、彼女しかいなかった」
「奪い取るなんて……そんな事が、可能なんですか?」
「君が思っているよりもずっと、魔法界でのブラック家の名は強いんだ。時には法すら捻じ曲げる。特にここ10年くらいは無法状態だったらしいからね。僕と父上は死んでいて、お祖父様はマクミラン家に監禁されていたから、分家の連中はやりたい放題だ」
連中のお陰でブラック家の力は随分衰えたとアークタルス・ブラックは苦く笑い、力の使い所を知らない輩は手に負えないとメルヴィッドに同意を求めた。矢張り、その辺りは私なんかよりもメルヴィッドの方がずっと上手い事を理解しているのだ。
彼は先程私の事を素直で豪胆と評したので、笑顔で握手を交わしながらもう片方の手で相手の腹の中を探り合う心理戦や駆け引きの類は苦手だと判っているに違いない。
「抑えが存在しない中で、あの女は恥ずべき下賎な行為を続けていた。よりにもよって盗んだその家を許可もなく改装し、マグルに安く貸して金儲けをしていた」
「安く、とはいってもマグルの価格でだ。魔法界の物価からすれば割高で、普通に働くのが馬鹿らしく思えてくるような値段だった。あの女は老いて尚、強欲に過ぎる。だから貰い受ける男が現れなかったというのに、それすら理解出来ない」
あんな愚か者が声高く純血主義の単語だけを唱えるから私達まで迷惑するのだとアークタルス・ブラックは穏やかに笑い孫を見る、彼の言葉をレギュラス・ブラックが引き継いだ。
「魔法使いが建てた家をマグル式に改造し、金儲けの道具にしていたカシオペア・ブラックはブラック家の名に泥を塗った。僕等は歴代当主として彼女にそれ相応の償いをさせて、君に謝罪しなければならない」
「……成程、納得が行きました。私が心尽くしの謝礼を受け取らなければ、悪しき前例が生まれ、周囲への示しもつかないのですね」
「端的に言ってしまえば、そうなるかな」
イレギュラーの処理がどれ程面倒かは、私も判るつもりである。動産にする為に売り捌くにしても家名が邪魔をし、買い手を慎重に選別しなければ後々面倒な事になる屋敷ならば、いっそ息のかかった子供に譲渡した方が操りやすい。
全く、旧家の当主も楽ではない、そんな事を考えながら羽ペンを手に署名を完了させるとレギュラス・ブラックが安堵の息を吐いた。全く会話に参加しなかったメルヴィッドに妙な事になったと膝上の指で話し掛けるが、丁度良かったではないかと肘掛けの上の指先が軽やかに跳ねる。
「後は、詐取されていた君の家なんだけど。取り返したらは、どうしたい?」
「こんな事を言うのは、薄情だと思われるかもしれませんが」
「うん」
「その家には……関わり合いたくありません」
大体、ポッター家のあるゴドリック・ホロウは此処と比較すると住み辛い事この上ない。一応魔法族と非魔法族が混在する村という事になっているが、ホグワーツの創設者たるゴドリック・グリフィンドールの名を冠しているだけあって、あそこで暮らす魔法族は大体がグリフィンドール寮の出身者、或いはその傾向の強い魔法使い達だ。
全てを当たり障りなく雰囲気重視で済ませる私ならまだしも、メルヴィッドにとってその環境はストレスフルだろう。何よりも、そんな場所に居を構えてしまったら、スリザリン寮の出身者であるレギュラス・ブラックやアークタルス・ブラックは顔を出し辛くなるのではないか。暖炉経由で会う事が可能とはいえ、彼等との心理的な距離が少しでも開くのはいただけない。
ただ、これ等の理由を馬鹿正直に告げる事は不可能なので、耳障りの良い、尤もらしい別の言い訳を舌で綴る。
「我儘を言って申し訳ないとは思っています。けれど、顔も知らない両親の家でメルヴィッドと暮らしていられる程、私の心は打たれ強くありません。たとえ書類上は里親と里子の関係でも、私の本当の家族はメルヴィッドなんです」
「」
またそんな大嘘を平然と吐いてと、切なそうな表情の下でメルヴィッドが言ったような気がするが、別に大嘘ではない。少なくとも後半部分は大体真実である。
その若干曲解された真実に胸を打たれたのか、血族関係が大概碌でもなかったアークタルス・ブラックがゆるりと頷いて、これが真の家族と言うものだと目尻に浮かんだ涙を拭っていた。この世界のハリーを取り巻く環境もアレであったが、彼の周囲も非常にアレだったので色々と共感してしまうらしい。
レギュラス・ブラックも、私ならきっとそう言うと思ったとはにかみ、ポッター家所有の物件は私が成人するまで彼が責任を持って管理してくれる事となった。無論、私が望めば何時でも譲渡出来るようにしておくとの事であるが、当面使用する予定はない。その事を告げると、貸家として処理しておくので心配は要らないと返される。
身内の不始末を詫びる為とはいえ、何から何まで至れり尽くせりであった。勿論、彼等と親密な間柄であればこその対応なのだろうが。
それにしても、まさかポッター家が所有していた不動産をブラック家が掠め取っていたとは思いもよらなかった。4年程前にハリーの財産を確認した際、不動産関係が綺麗に消滅していた事には気付いていたが、てっきりダーズリー一家が小金欲しさに売却したとばかり。矢張り思い込みはよくない事だと再確認しつつ、今サインしたばかりの書類に目を向ける。そこで、ある事に気付いた。
「けれど、私がこの家を相続してしまったら、アークタルス様は一体何処に」
「心配しなくても、レギュラスの好意で本邸に居を移す事にしたよ。私も、もう90になる老人だ、魔法があるとはいえ、ハウスエルフなしの生活は不安が残る」
「それでは、今後はブラック家に遊びに行けばアークタルス様にもお会い出来るんですね」
アークタルス・ブラックを利用する際にレギュラス・ブラックを経由する手間が省けて助かるという本心を口に出さないようにして喜ぶと、言葉を表面でだけ受け取ってくれた老人が遠慮もせず好きな時に遊びに来なさいと孫の来訪を心待ちにする祖父の顔で笑う。
当然、以前魔法省内でレギュラス・ブラックに言ったように親しき仲にも礼儀は必要なので事前連絡は行う旨を告げると、これだから私が好きなのだと矢鱈と褒め称えてくれた。
普段からの私の習慣がこれであるし、何より連絡のない突然の訪問を私自身が嫌うので別段褒められるような事でもないのだが、どうやら当主時代の彼には急用でもないのに突撃をして来るような非常識な輩が数多く居たらしい。そういえばルシウス・マルフォイもレギュラス・ブラックに対してアポ無し訪問をしていた。本当に、旧家の当主様は大変である。
「しばらくは、ロンドンの喧騒から離れてここで静養するといい。西の沿岸部から距離があるとはいえ土地柄どうしても霧の発生が多いが、それに目を瞑ればいい土地だ。マグル避けは当然として、魔法使いも簡単には近寄れないようになっているから安心しなさい」
「イングランド有数の保養地はいい土地どころか、私には勿体ないくらいですよ。本当に何から何まで、お心遣いいただきまして痛み入ります」
人当たりのいい笑みを浮かべて少し固い謝辞を述べると、アークタルス・ブラックは一瞬きょとんとした後に何故か酷く上機嫌になり、流石だと手放しに褒め称え始めた。一体、今度は何を言ってしまったのだろうか。
「成程、その表情を見るに無意識なのか、君の観察眼は流石だな。レギュラス、メルヴィッドも勿論だが、も大切にしなければいけないよ」
「判っています。彼等2人はかけがえのない友人ですから」
観察眼とは一体何の事だろうかと考え込む前に、私の疑問を見抜いたメルヴィッドが口を開きブラック家当主達が興奮する理由を教えてくれた。要は、誰からも説明されていないのに、この屋敷の建つ土地の場所が判ったような事を言ったかららしい。
「それは、大層な事なのでしょうか。だって、メルヴィッドも判ったでしょう?」
「私は考える前にレギュラスにネタバレされてしまったからね。でも、そうだね、ほぼ答えに繋がるヒントもあったから何も言われなくても判ったと思うよ」
「凄いな2人共。僕は初めて来た時、ここが何処なのか見当も付かなかったのに」
何故判ったのだと烟った真珠に似た瞳が私を見つめ、答え合わせをして上げるとリチウムと炎が交差した色の瞳も私を映し出した。同じ真珠色の瞳を持つアークタルス・ブラックも何故判ったのか是非知りたいと申し出たが、彼はメルヴィッドと同じで何故私が解答を導き出せたのか知っている雰囲気を醸している。
これで間違っていたら目も当てられないが、メルヴィッドの言葉通りほぼ答えに繋がるヒントがあるので、恐らく州レベルの大雑把な位置ならば間違っている事はない。細かい位置までは、流石に判らないが。
「それでは、。此処は一体何処か、訊ねてもいいかな?」
「イングランド北西部、湖水地方ですよね」
「正解だ。是非君がそう判断した理由を、出来れば全て聞きたいね」
「全て、ですか?」
メルヴィッドと出会った当初の言動からも判るように、爺の私はこの手の事を纏めて要領よく話すのは苦手なのだが仕方がない。アークタルス・ブラックが望んでいるのならばやらない訳にも行かないだろう。そう思いながら霧深い窓の外を見つめ、白の底にあるはずの湖を頭の中でだけ眺めた。
「判りました、では細かい所から説明して行きます」
まず、私が真っ先に確認したのは自然現象で、肌に纏わり付くような湿気と変化の乏しい気温、帰宅時と然程変化のない太陽の位置からこの場をイギリス国内だと定め、次いで景色からの推測を始めた。周囲の山はイギリスにしては標高が高く、しかも雪の積もった形跡はうっすらとしか見られない、また土壌が粘土質ではあるが肥沃ではない事からイングランド北部からスコットランド南部だと更に選択肢を絞る。
此処で時間を少し跳躍させ、先程告げられたアークタルス・ブラックの言葉から更に絞り込みを行う事にしよう。彼曰く、この土地は西部に海がある、となると西側が海に面した土地となる。これでイングランド北西部からスコットランド南西部にまで場所を絞り込めた。
さて、ここまで推理をして何であるが、実は、こんな事を検証する必要は全くなかったのである。次の2点、否、実は最後の1点のみでこの土地が何処であるか判るのだから。
「1点目は、この屋敷の外壁に使用されていたスレートストーンと呼ばれる薄い堆積石。湖水地方はこの石の産地で、家屋に使用される事が多いようです。ただ、多いと言うだけで勿論スコットランドやウェールズ、アイルランド等でもスレートの産地は存在しますが」
こちらの点では全く絞り込めないがしかし、手元に残った最後にして最大の点。はっきり言って、これ1つで全てが解決してしまう巨大なヒントがある。
「羊です」
「羊?」
「ええ、湖の対岸で牧草を食べていた、あの羊にして尻尾が長くて目と目の間がちょっと離れた変わった毛色の可愛らしい生き物。あれは山岳地帯にも強いハードウィック・シープという珍しい種で、一時絶滅寸前まで行った湖水地方特有の羊なんです」
子羊の頃は毛色が黒く、歳を追う毎に茶、白と色が変化して行く毛を持ったなんとも珍しい羊。この羊が、私と、そしてメルヴィッドの謎解きに一役買ったのだ。
「よくそんな事を知っていたね」
「実は、ハードウィック・シープとは少々縁がありまして、昔調べた事があったので」
ハードウィック・シープは、今はもうヴォーパルバニーになってしまったピーター君の生みの親、ピーター・ラビットの作者であるビアトリクス・ポターが晩年に保護、飼育に力を入れた経緯がある。
因みに約100年前、彼女が生前発表したものの女性である事を理由に学会が締め出した菌学に関する論文は1991年現在も認められておらず、記憶が確かなら後6年程の時を待たなければ正式な謝罪すらなかったりする。彼女の生まれた国がドイツやフランスであったならば話は最初から変わってくるかもしれないが、まあ、イギリスとはつまり、そういう土地柄であったし、そういう土地柄であるのだ。
随分昔に暇潰しとして得た知識がこんな所で役に立つとは思わなかったが、よく考えると要らぬ知識をひけらかしただけで別に役立っていないような気がしないでもない。
アークタルス・ブラックはというと、予想通り羊で目処を付けたのかと感心し、どうやってか周囲に私を純血と認めさせて孫の嫁に出来ないかと小声で呟いた。幸いその孫の耳には入らなかったようだが、彼の隣接していた私の耳の中の鼓膜はしっかりと拾ってしまったようである。彼から一番遠い場所に座っているメルヴィッドにも今の呟きは聞こえなかったようだったが、まあ、彼に聞かれたからといって私がどうなる訳でもない。精々面白半分に揶揄われる程度だろう。
私が呟きを拾ったのを理解しているのかしていないのか、アークタルス・ブラックは穏やかとしか表現出来ない顔で窓の外を見つめ、お茶を飲み終えたら屋敷内を案内しようと言いながらゆるりと目を細めた。
窓硝子に反射して見えたのは、先の短い将来に暖かな光が灯った事を確信し安堵した、優しい老人の笑みだった。