甘鯛のブレゼ
ようやく案件を全て消化し、荷物を預かって貰っているブラック家へ一時帰宅をしながら本日の夕飯のメニューを考えていたが、何故かこのタイミングで、私の脳は昨夜の謎の解答に行き着き随分間の抜けた声を車内で上げた。
「爺、何か忘れ物でもした? 生憎お前の脳味噌と良心と常識と人間性は随分前に家出して新しい家庭を築いたみたいだから今更何を言っても帰って来ないと思うよ」
「相変わらず呼吸をするように罵倒してくれますね、まあそれはいいとして」
「いいんだ? 君も偶には言い返したらどうなのかな、狂った言葉を少しかければすぐに謝罪して口を噤むよ」
「話が逸れるからお前達は黙っていろ。で、、どうした」
「いえ、物凄く下らない事なんですが。つい今し方、昨夜の疑問が解決したので」
エイゼルが夜逃げの計画を知っていた理由がやっと判ったのだと言うと、3人が口を揃えて本当にどうでもいい事だと詰って来る。声色から察するに、エイゼルは秒単位で手の平を返して気の向くままに私を詰り、メルヴィッドは既に理解していた故の罵倒、ユーリアンはどうでもいい事なので考えてすらいなかったといった感じであった。
私の低能さを嘲笑しながらも答え合わせの為に解答を聞いてくれると言ったエイゼルに、冷蔵庫と単語を告げると、やっと判ったんだ馬鹿だねと正答である事を示してくれる。
当初はブラック家に身を寄せる予定ではなかったが、それを外せばこの計画は、エメリーン・バンスを殺害する時点で立てていたのだ。家具類は杖一つでどうにか出来てしまうのだが、冷蔵庫や冷凍庫の中身となると腐敗という名の損傷がちょっと心配になってしまう。
普段冷蔵庫の中になど欠片の興味も抱いていないユーリアンと違い、エイゼルはここ最近キッチンに顔を出し頻繁に冷蔵庫の中を見ている。食材が買い足される事なく減って行く一方の状態に、かなり早い段階で気付いたのではないだろうか。
矢張り水漏れの原因は私だったと判明したので、もっと気を付けて行動をしなければならないだろう。勿論、エイゼルやユーリアンに対してではなく、これから接触が爆発的に増えて行くだろうブラック家に対してだ。
そのブラック家本邸も大分近付き決意も新たにしていると、メルヴィッドが運転する車は昼間なのに人気が全くない裏通りに入り、人払いの呪文を車体周辺に撒きながら何かを待つように建物の影で駐車する。しばらくすると、お目当ての報道関係者達が次々と現れては辺りを見回し、ひっそりと佇むこの車には目もくれず何処かへと消えて行った。メルヴィッドの職場の後に私の通う学校へ行ったのだが、そこで張っていた人間達だ。
車内で展開したモニターで周辺に私達を観察している人間がいないことを確認後車外へ出て、車を魔法で何処かへ消したメルヴィッドの後に続いて道を逆走し、昨夜と全く同じ手順でブラック家へと一時帰宅をした。が、何か妙だ。メルヴィッドもそれに気付いたらしい。
「聞こえる?」
「ええ」
昨夜は静かだった応接室の方が妙に騒がしい。否、昨日も別に静かではなかったが、それとは騒がしさの種類が違う。
一体何事だろうかと顔を見合わせるが、表情を見るにメルヴィッドにも見当が付かないらしい。ならば私のような人間では最早お手上げである。
他人の家の玄関ホールで相談というのもいただけないので訳も判らないまま先へ進もうとすると、背後に飾られた絵画の1枚が私達を呼び止めた。オリオン・ブラックではない。高く鋭利な、女性の声だ。
「高い所から失礼します。貴方達が、レギュラスの言っていた友人かしら。私はヴァルブルガ。ヴァルブルガ・ブラック。レギュラスの、ブラック家当主の母です」
ヴァルブルガ・ブラック、私の世界では絵画の中で正気を失ったまま遂に回復しなかった女性、レギュラス・ブラックの母親。しかし目の前の彼女は、確かに窶れては見えたが、息子が戻った事で本来の姿を思い出し通常の会話は可能な相手となっていた。
ただ、長い間孤独でいた事を完全に払拭出来るはずもなく、メルヴィッドや私の挨拶を遮りあれはブラック家の恥だと矢継ぎ早に捲し立て始める。
「まさかこんなに早く帰って来てしまうなんて、いいえ、これは予定されていなかった事。決して貴方達の所為ではないわ。決してね、本当よ。ああ、あんな恥知らず達がブラックの家名を名乗っているなんて。シグナスも、カシオペア叔母様も、レギュラスが一番大変な時には何もしてくれなかったのに今になって。それに、他家に嫁いだとはいえルクレティアは何をしているのかしら、手紙の一通も寄越さないなんて」
立て続けに私の知らない名が幾つか出て来たが、彼女の独白を聞く限り応接室にいるのはどうやらブラック家に属するシグナスとカシオペアの2人らしい。彼女とシグナスの関係は判らないが、もう一方のカシオペアが彼女から見て叔母だという事はアークタルス・ブラックに近しい年齢なのだろう。
思い出したように取って付けられたルクレティアの名は、恐らくアークタルス・ブラックの娘、オリオン・ブラックの姉だ。クリスマスパーティで会話をした際、彼がふと口に出した名前の、一番始めの人物がその名だったはずである。そして、彼女の口振りからするとオリオン・ブラックと実姉の仲は良好ではなかったらしい。
ヴァルブルガ・ブラックを起点にしてブラック家の関係図を整理し直していると、ふと、彼女の嘆きが一時停止した事に気付く。静かになった絵画を見上げると、彼女は私を見下ろして冷たく微笑んだように見えた。しかし、先に話を切り出されたのはメルヴィッドだったので、もしかしたら気の所為なのかもしれない。
「何故、レギュラスを殺したの?」
「……え?」
氷雨のような声が振り、メルヴィッドが目を瞠る、演技をする。
「私は、私達は、ブラック家は貴方を信じていた。なのにどうしてこんな結果になっているの? 貴方があの子を、レギュラスを、ブラック家最後の子を殺したのに、何故のうのうとこの屋敷に出入りして生きていられるの? 結局貴方は何も出来ずに死んで、魔法界は腐っていったわ。こんな世界では、あの子が帰って来ても不幸になるだけなのに」
「待って下さい、貴女が何を仰っているのか判りません。私が、レギュラスを殺した?」
「貴方の事も知ってるわ、純血を穢したポッター家最後の子。貴方のお祖母様はブラック家の血を継いでいたのだから」
上の額縁から静かに消えたヴァルブルガ・ブラックは、最下の小さな額縁まで移動して来て正面から私を眺める。彼女の息子や義父、そして夫と同じ灰色の瞳だった。
「名前はドレア。ドレア・ブラック、5つ違いの、私の叔母よ。家風に合わない、役立たずの、自分に甘い、最低の女」
間近でその笑みを見ながら言葉を聞いて、矢張り彼女は私に対していい感情を持っていないのだと判断する。
まあ、栄えある旧家の一族が本家分家皆一丸となって仲良しこよしをやっているというのも想像し難いので、寧ろ毒を含ませた笑みや言葉は十分納得が行った。
詰られながらもハリーの祖母がどのような女性だったかを語ろうとするヴァルブルガ・ブラックの声を遮る為、良識ある保護者としてのメルヴィッドが私を庇う為に前に出て口を開く。それに一拍遅れて、彼女の真横から腕が伸びて来たかと思うと、絵の中の彼女を何処かへと連れ去ってしまった。
代わりに現れたのは彼女の夫君、オリオン・ブラックその人。
「見苦しいものを見せてしまったね、申し訳ない」
「オリオン、様?」
「久し振りだね、。そちらの男性は、初めてお目にかかります。妻が大変失礼な事を申し上げてしまいました」
「いえ、私達は大丈夫です。こちらこそ初めまして、メルヴィッド・ラトロム=ガードナーです。レギュラスの父上ですね。から伺っております、昨夜の訪問からご挨拶が遅れてしまいました」
「いや、気になさらないでください。貴方にも都合があるのですから。クリスマスパーティの時も結局、それどころではなくなってしまいましたから」
仕方がないとオリオン・ブラックが肩を竦めると、ホールの向こうに設置されたカーテンの隙間から強制的に音量を下げられたような叫び声が漏れて聞こえた。誰が叫んでいるかなど、考えなくても判る。
「玄関ホールでは少々趣に欠ける事も含めて、中々親交を深める機会に恵まれないようですね。お話はまた、次の機会にさせていただきましょう」
「その方が互いの為のようですね」
「では、失礼させて……いや、それでも一言だけ耳を傾けてください。メルヴィッド、妻の妄言を真に受けてはいけない、貴方はレギュラスを殺していない。それだけは、確かだ。それでは、失礼致します」
小さな額縁の外へ消えるオリオン・ブラックを視線で追い、さて次はどうしようかと顔を上げると、何故か酷く切なそうな顔をしたメルヴィッドの表情が飛び込んで来た。当たり前だが、この表情それ自体は完全に演技である。
ここでの問題は、何故彼がここまで大袈裟な演技を今しているかという事だ。
「メルヴィッド」
何故そんな顔をするのかと抱き付くと躊躇いがちな仕草で長い腕が背中に回され、腰の辺りに触れた指先がオリオン・ブラックが監視している事を告げる。てっきり半狂乱の奥方を抑えに行ったかと思ったが、どうやらそうではなかったらしい。
確かによく聞き分けてみれば、応接室の喧騒に混じり、未だ甲高い叫び声が聞こえる。それにつられてなのか他の肖像画も蝉か蛙のように合唱を始めたようだった。大凡相応しくないBGMの中、玄関ホールで抱き合う私達は傍から見たら滑稽な人間に思えなくもないが、これも必要な行為なので仕方ないと割り切ろう。
「メルヴィッド、私は」
「大丈夫。言わなくても、判ってる」
まだ見られていると服の上で指が踊り、息子と違ってあれは疑い深いと続けられた。
「すまない、不安がらせてしまったね。は私の、たった一人の大切な家族だ。誰と血が繋がっていても、君は君だ」
「はい。でも、そうじゃなくて」
「……私も嘘が下手だね。ああ、実はあまり、大丈夫じゃない」
ここで切り上げず演技がまだ続くという事は、オリオン・ブラックは何処かの絵から監視を続けているのだろう。確かに当代当主と先々代当主は紆余曲折があるとはいえ少々私達に傾き過ぎているので心配になる気持ちは判らないでもないが。
「、君は、私が記憶を取り戻して、自分自身が何者か知る日が来ても、それでも家族でいてくれるかい?」
その言葉が真実、或いは真実と嘘の間で揺れ動いているものならば、私の胸は酷く抉られていただろう。そうやって、私自身は生きてきたのだから。
全てが架空の話である事に感謝しながら、私は更に強くメルヴィッドを抱き締めた。
「当たり前じゃないですか。何があっても、貴方の家族を止めるつもりはありません。それに、メルヴィッドは私が英雄と呼んでいる恩人が何をしたのか知っているでしょう?」
「リチャード・ロウ。ああ、勿論、何も彼も」
「その彼に私は救われて、今もこうして慕っているのに、貴方を嫌うなんて考えはどうかしています。記憶を失う前の貴方が誰で、何をしていようと、私がメルヴィッドに救われた事実は決して変わりませんから」
「……ありがとう。もう、大丈夫だ」
その言葉が話の流れとしてのものではなく、オリオン・ブラックの事だと気付き腕の力を緩める。場にそぐわない三文芝居もようやく終わるのかと思ったが、よく考えてみると此処では未だ演技を続けなくてはならない事に気付いた。
煩わしい接客を終えたらしいレギュラス・ブラックが応接室から現れ、一つ伸びをした所で私達を発見する。途端に疲れ切っていた表情に笑顔が戻ったが、逆に、メルヴィッドの笑顔が若干引き攣ったのも私からは確認出来た。
「メルヴィッド、。帰って来ていたんだ。すまない、気付かなくて」
「いや、ついさっき帰って来たばかりだから、気にする程の事じゃないよ」
歴代ブラック家の肖像画が飾られている玄関ホールだからなのか、昨夜のような熱烈な挨拶はせず握手に留められた事に安堵し、普段の綺麗な作り笑いに戻ったメルヴィッドが、手続きを終えたので帰宅早々だが再度出て行く事に対して何か言おうとする。それを、レギュラス・ブラックが遮った。
何やら興奮した様子で兎に角応接室に来てくれと言うので、互いに首を傾げながら仕方なくそちらへ向かうが、その応接室にもコートを着たアークタルス・ブラックがいるだけで特に大きな変化はない。
「にメルヴィッド、丁度よかった。必要な手続きは終えたんだね?」
「はい、お陰様で滞りなく。とは言っても、全部メルヴィッドがやってくれたんですが」
「後日必ずお礼をしたいのですが……それよりも今、一体何が」
「それじゃあ、クリーチャー。留守を頼んだよ」
「承りました。どうぞお気をつけて」
4人分のティーカップと紅茶のポットを片付けようとしていたクリーチャーが顔を上げ、姿勢を正して私達4人に恭しく頭を下げる。私達4人、つまりこれは、メルヴィッドと私が彼等に拉致されると見ていいのだろうか。
何が起きようとしているのか理解出来ないのはメルヴィッドも一緒のようで、荷物を手にしたレギュラス・ブラックに肩を抱かれて困惑していた。多分、アークタルス・ブラックと手を繋いでいる私も似たような表情をしているだろう。彼に手渡されたバスケットの中のギモーヴさんだけが、普段と一切変化の見られない表情のまま細かい事は気にするなとばかりにどっしりと構えていて、それが少しだけ頼もしい。
不動のギモーヴさんを観察している途中、合図もなく唐突に姿くらましをされ思わず目を瞑ると、次の瞬間には浅く霧のかかった見慣れない湖畔に佇んでいた。大きな音がしてそちらを振り返ると、少し離れた木々の間にメルヴィッドとレギュラス・ブラックが姿現ししている。体の一部を置いて来るという失敗も特になさそうだった。
さて、ここは何処だろうと空を見上げると、太陽の位置は帰宅前と変わらない場所にある事に気付く。という事はここはイギリス国内らしい。
視線を下げて辺りを見回すが周囲に住宅は見当たらず、薄緑の牧草地が一面に広がり、然程広くない湖の対岸の丘に牧草を食む羊が見えた。大人の羊は白や茶の毛色をしていたが、子羊は漆黒と表現するのが適当な位に色が黒い。だというのに、顔だけはどの羊もチョークの粉を被ったように白かった。
足元から遠くまで続く重そうな粘土質の土壌に雪が降った跡は確認出来ず、その向こうにはひたすら芝ばかりが生え、岩肌を晒した山が僅かに雪化粧してそびえている、イギリスにしては標高が高い気がするが、故郷の山を見慣れている所為でよく判らない。
「お祖父様、こちらは終わりました」
「ありがとう。では、これに手を乗せてくれ」
私達の元に歩いてやって来たレギュラス・ブラックから薄い布張りの本を受け取ったアークタルス・ブラックは、始終笑顔のまま表紙を差し出して来た。どこをどう見ても魔法が掛かっている、非常に胡散臭い本である。
正体不明の物に触れるのは正直躊躇うが、ブラック家男子2名の奥でメルヴィッドが頷いているので大丈夫だろうと腹を括り、獰猛そうな黒い犬が印刷された表紙に右手を乗せた。すると、それをきっかけとして視界の端の風景が歪み、薄いスレートを積み重ねて外壁に使用した3階建てのコテージと広い庭園、そして足元には砂利を敷いた道が現れる。
「ようこそ、私の家へ」
成程、ここはアークタルス・ブラックの住居らしい。それは判った。しかし、これは一体何事だろうか。私とメルヴィッドはこの後ダイアゴン横丁まで行って今後、特に例の虫の為に色々な準備をしなければならないのだが。
私達の予定など知る由もないアークタルス・ブラックは上機嫌のまま私の肩を抱き、そして、耳を疑うような言葉を続けてくれた。
「そして今日からは、君の物だ」