曖昧トルマリン

graytourmaline

白菜の酸辣湯麺

 御機嫌なエイゼルが行方不明だったピーター君を抱えてやって来たのは、顆粒コンソメで作ったスープを作り終え、丁度カフェオレの為に牛乳を温め出した直後の事だった。
「帰宅早々精が出るね」
「メルヴィッド程ではありませんよ。それよりも、留守を預かっていただいてありがとうございました」
 トースターを見ると焼き上がるまでにまだ少しだけ猶予があったので、オムレツでも作ろうかと卵2個を割りほぐしバターを用意しながら返答をすると、気を悪くした様子もなく、どういたしましてと軽い調子で返される。
 冷蔵庫が開閉した音が聞こえたので温まったフライパンに卵液を流し入れながらそちらを横目で確認すると、何時の間にかピーター君をダイニングの私の指定席に座らせたエイゼルがレタスを一口大に千切ってミニトマトと共に冷水に浸している所だった。
 俄には信じられない光景に、一瞬、何か性質の悪い魔法に引っかかり見せられた幻影かと思ったのは内緒である。
「レタスのサラダってこのまま盛り付ければいいのかな」
「その前に水気を切っていただけると有難いです。笊はそこにありますから」
「ああ、これか。ねえ、君がやったように、クルトンとチーズを散らしてみてもいい?」
「どうぞお好きなだけ。でも、レタスが見えないくらいに山盛りにしたらいけませんよ」
「判ってる。私だって不機嫌なメルヴィッドを更に怒らせたくはないよ」
 出来上がったオムレツを乗せた皿の上にレタスとミニトマトも乗り、クルトンやチーズがエイゼルの加減で散らされる。スープを注いでいると丁度トースターが焼き上がりの終了を告げ、時間もいい具合に迫っていた。
 引き伸ばしたとはいえ与えられた制限時間が時間なので緑の物は諦めていたのだが、エイゼルが来てくれて助かった、と礼を言おうとした瞬間、彼がドレッシングとしてかけようとしていた瓶に目が留まり、もしかしてこれが目的だったのかと可愛い悪戯に苦笑する。
 メルヴィッドを怒らせたくないというのは、どうやら嘘らしい。
「エイゼル、駄目ですよ。それはチョコレートシロップですから、パンケーキやワッフルなら兎も角、サラダにはお薦め出来ません」
「知ってる」
 だからこそ選んだのだと黒い瞳が無言で告げるが、ひとまずそれに関しては見なかった仕草、聞かなかった演技をして、オムレツとレタス、そしてミニトマトの乗った彩り鮮やかな皿を食卓へ運ぶ。元々私に見つかる事が前提だったのだろう、相変わらず上機嫌でいるエイゼルはチョコレートシロップを元の場所に戻し、興味深げに即席のランチがテーブルに並べられるのを眺めていた。
 鶏そぼろと金平人参が乗った厚切りチーズトーストが2枚と、ベーコンとマッシュルームのコンソメスープ、それに先程のオムレツとレタスのサラダ。いつもに比べると量も質も下がっているが、調理制限時間が10分では流石にこれが限界である。
、10分待ってやったぞ。出来たか」
「ええ、エイゼルに手伝っていただけたお陰で何とか」
「あいつが?」
 矢張りメルヴィッドも彼が料理に参加するのは違和感を覚えるらしく、一体何をしたのかと食卓の料理を注意深く観察していた。折角手伝ってくれたエイゼルには悪いが、以前もタバスコで色々やってくれたのでメルヴィッドの気持ちは良く判ってしまう。
「大丈夫ですよ。変な事はされていませんから」
 チョコレートシロップの件は言わず、インスタントコーヒーで作ったカフェオレを差し出すと、私の背後からエイゼルがドレッシングは何が良いかと尋ねて来た。かなり貴重な光景だと思うのだが、疲労が蓄積したメルヴィッドにはどうでもいい事らしく、サラダを見た後でシーザードレッシングを所望する。
 言わずもがなシーザードレッシングの色はクリーム色であるがしかし、肩越しにエイゼルから差し出された調味料は透明な液体と沈殿物の2層に別れていて、赤かった。
「おい、エイゼル」
「何?」
「私にはそれがラー油にしか見えない」
「なんだ、残念。バレちゃった」
「死ね」
「はは、舌から腐って君が死ね」
 フォークをオムレツに突き刺しながらいつもの如くメルヴィッドは言い放ち、私は無言で彼の傍らにシーザードレッシングを置いてキッチンへと帰る。
 今作った食事は飽くまでメルヴィッドの胃袋を落ち着かせる為の間に合わせに過ぎないのだ、私にとっての本番はここからであった。幸い、メルヴィッドはエイゼルと仲良く会話しているから私がこうして抜けた所で問題はない、ということにしておこう。
 丁度冷蔵庫を大掃除している最中なので今日も思い切って色々と使ってしまおうと適当に解凍していると、一体何時の間に現れたのか、電子レンジの前に突っ立った私の左隣から不機嫌で可愛らしい声がした。
「忌々しい虫ケラめ。車なんて移動手段は滅びればいいのに!」
「おや、貴方はご機嫌斜めですね。どうかしましたか、ユーリアン」
 郊外まで往復運転したメルヴィッドなら兎も角、ユーリアンが言うには少々可笑しな台詞なので尋ねてみると、現在エイゼルと口喧嘩中の彼に劣らない視線が向けられる。余程気に食わない事があったのか、黒い瞳は殺気立っていた。
「あの虫の事だよ。マグルの車に飛び乗って逃走した!」
「虫ですか。玄関で弾かれた例の?」
 それは、帰宅時に外敵侵入防止用の魔法が作動して聞こえた破裂音の件だろうか。魔法界の虫かもしれないとは思ったが、本当に虫だとは少々驚いた。
「そうだよ! こっちの事をずっと監視してた例の虫!」
「ああ、監視もだったんですか。てっきり騎士団員かと思ってました」
 ひとまず電子レンジ前からシンクに移動して、ニンニクを刻み輪切りの冷凍イカを流水で解凍する傍らで該当しそうな録画部分を再生させると、ユーリアンが虫の分際で、と追い詰められた悪役のような台詞を放つ。
 場所とタイミングを間違えると大きなフラグになると言っても理解出来ないと思うので、馬鹿な考えは心の中に戻し、再生したモニターの一部を拡大して一時停止をかけた。
「カナブン、ではありませんね。頭が丸いのできっとコガネムシでしょう」
「コガネムシだろうがカナブンだろうがどうでもいい。それよりも虫にこんな知能があって堪るか、戻してみろ」
 みじん切りしたニンニクを圧力鍋で炒めながら、ユーリアンの言葉通りに停止を解除して逆再生をかけると、成程、言っている意味がよく判った。
「警察車両の中から這い出て来て、玄関が開いた隙を見計らって一直線に飛んで来るとは。どうぞ怪しんで下さいと言っているようなものですね」
 明らかに野生に棲息する虫の行動ではない。魔法界には冬眠しない種もいるだろうが、世界が違えど妖怪でもなければ所詮、虫は虫なので知能は並みの虫とあまり変わらない。これは、この虫は明らかに意思を持って行動している。
 更に映像を進めると、家の窓に寄ろうとしては魔法で弾かれており、ここまで見るともう確固たる目的を持っているとしか思えない。
「玄関で弾かれた後も懲りずにリビングの窓にしつこく張り付こうとしていたけどさ、特にここ、さっきの2人組が帰る時の映像。また、一緒に車に乗り込んでる」
「という事は、標的はメルヴィッドや私ではなく、警察関係者ですか」
「1ブロック先までは追ったけど、車から出た形跡は全くない。以降の追跡は距離が離れ過ぎて不可能。じゃあここで爺に問題、この虫の目的は?」
 解凍したイカをガーリックオイルで炒める作業を魔法に任せ、隣のコンロでエビピラフを作り始めながら既に導いていた答えを提出する。
 はっきり言って、目的はこれしか考え付かない。
「エメリーン・バンス事件のネタ、或いは証拠集め。メディア側か、政府側か迄は判りませんが。でもきっと、こんな手を使うのならば前者でしょうね」
「馬鹿だね。政府もメディアも名前が違うだけで、魔法界ではどっちも同じものだよ」
 私の意見を鼻で笑ってからすぐに表情を正して、矢張りそう考えるのが妥当だと頷いた。恐らく彼と、そしてエイゼルも同意見なのだろう。
 魔法界発行の新聞を見る限り、このような非魔法界式殺人は魔法界では持て余し気味で進捗も芳しくない。物理的要因を特定する技術や経験が少ないのだろう。杖も魔法薬も使われていないこの手の犯罪に魔法使いが巻き込まれる事を基本的に考慮していないので、一体何からどう捜査すべきなのか根本的に判っていないのだ。
 しかし、だからといって警察関係者の資料や考えを盗もうと考える辺りは、彼等の魔法を使えない人間に対するモラルが腐っている事を物語っているような気がするが、まあ、魔法界とはそういう所なのだ。この件に関しては、メルヴィッドが魔法界を掌握した暁には少しはマシになるだろうから、それまで待とうかと思う。
 それにしても、エメリーン・バンスを殺す計画を立てた時からマスメディアが群がって来るとは思ったが、予想よりも魔法界側の行動が少し早い。
 当初の予定では丁度この後、リチャードの墓を警察関係者が掘り返した時に双方を纏めてそれとなく潰すつもりだったのだが、仕方がない。机上の計画に障害はつきものなので、あらかじめ用意してある別の手に切り替えなければならないだろう。
 他人の不幸に嬉々として群がり、更なる不幸の底に叩き込もうとする虫共が私の周囲に湧いて喚こうが全く構いはしないのだが、その対象がメルヴィッドに移るのは大変困るのだ。唯でさえ彼の容姿と偽りの経歴は他人の好奇心を刺激するのだから、その情報が全国レベルにまで広がっては流石に手に負えない。
「まあ、及第点だ。それで、どうする。あの様子だとまた来るよ」
「ひとまずあのコガネムシの正体が判らない事にはどうしようもありませんからね、駆除するにしてもまずはそこから始めないと」
「随分悠長な意見じゃないか。手当たり次第殺虫剤をバラ撒いて殺し回ればいいのに、その方がらしい」
「確かにその方が手っ取り早いんですが、現実問題そうも行きませんよ」
 嫌いだから殺す、ではいけないのだ。良心の呵責ではなく、もっと即物的な理由がある。
「虫食い林檎の為に綺麗な林檎まで叩き割るのはいただけません、唯でさえ魔法使いは数が少ないんです。それに、芯から腐敗しているならまだしも、虫食い程度なら除去するに留めて、巣食った部分を削り取れば十分でしょう。ヴォルデモートの様に気に食わない相手は純血でも拷問にかけて殺す方法は自殺に近い絶滅の他、言いようがありません」
「……そういえば、エメリーン・バンスを殺す前にもそんな事を言ってたね」
「価値が全く見出だせないから殺すならまだしも、感情論で無尽蔵に殺す極論では、たとえ勝ち続けたって結局最後には自分しか残らないでしょう」
「それは確かに、そうかもしれないけど。でもエメリーン・バンスはどうなるんだい?」
「ああ、言い忘れていましたか。どれだけ優秀な人格者であっても騎士団所属者、特にダンブルドアと長い間懇意にしている創立メンバーは芯から腐った林檎なので私の中では拷問抹殺対象なんです。彼等が苦しんで理不尽に死ねば死ぬ程、残された騎士団員はダンブルドアに対する不信を募らせますから。それに、ちゃんとこれを見せてメルヴィッドには許可を取りましたよ、うっかり手が滑って殺してしまうかもしれないリスト」
「知っておくべき情報かもしれないけど、あまり知りたくなかったな」
 この辺りの件に関しては思い出したくない出来事なのか、視線を手元のリストに落とし私と合わせないようにしながらユーリアンが呟いた。そんな怯えなくても取って食ったりはしないと言っても、信じては貰えなさそうな雰囲気である。
 さてどうしようかと思案していると、メルヴィッドとの口論に飽きたのか、それとも終えたのかしたエイゼルがやって来て一言。
「足りないってさ」
「ですよね」
 誰の何が足りないのか、など訊かなくても理解出来る。
 横目でダイニングテーブルを確認すると、既に食器とトマトのヘタ以外見当たらない。メルヴィッドの胃袋が満足はしてくれなくとも食欲は少し収まるかと思いきや、逆に少量の料理が呼び水になってしまっているようであった。
 このまま放置しておく訳にも行かないのでピラフの調理も魔法に任せ、ティーポットに食欲抑制効果があるはずのフェンネルのハーブティーをぶち込んだ後で、もう然程残っていないブール・ド・カンパーニュに包丁を入れる。ニンニクをみじん切りにした包丁で今度は玉ねぎを薄くスライスし、片方にクリームチーズとスモークサーモン、もう片方に野菜とチキンのマリネを挟み、玉ねぎスライスを等分に分けて入れた。常備菜が次から次へと壊滅に追いやられているが、丁度良い機会なのだと自分に言い聞かせておく。
「あとはカントリーケーキがホールでありますけれど、それも出しますか?」
「中身は何だ」
「ちょっとだけ余っていた栗きんとんと、林檎とレーズン、それにナッツ類です」
「出せ」
 チキンマリネのサンドイッチに齧り付くメルヴィッドの前に放置されていた空の皿をまずシンクへ移動させ、こざっぱりとしたダイニングテーブル上に、本当は今日の夕食のデザートとなる筈だったカントリーケーキを登場させた。勿論切り分けられてもいなければ取り皿もない、あるのはテーブルフォーク1本のみである。
 きっとこれも瞬殺されるのだろうなと考えながらダイニングに背を向けると、未だサンドイッチを消費中のメルヴィッドが、これ等を全て食べ終わったら老教授に電話を掛けて仮眠する旨を告げて来た。
「何時頃起こしましょうか」
「作っている物が出来上がったら起こせ」
「判りました」
 間食は頻繁にある事だが仮眠はあまり取らないので珍しいと思っていると、キッチンで待ち構えていたエイゼルが、また一言だけ告げる。
「寝不足らしいよ」
「メルヴィッドがですか?」
「さっきそう言ってた。君が提出した店の書類関係を確認してたって」
 黒い瞳が4つ、馬鹿みたいだと言いたげにメルヴィッドを眺めているような気がしたが、そこには敢えて触れずに今知ったばかりの真実に納得する。
 今迄の経験からメルヴィッドが苛々している時は馬鹿の一つ覚えのように食事を提供していたが、どうやら今回は悪環境や空腹に加え睡眠不足があったらしい。その状態で理不尽な理由で出さざるを得なくなった車を運転し、予定のない訪問客相手に猫を被るのは肉体的にも精神的にもさぞ負担だっただろう。
 確かに提出したのは昨日の夕方だったので、そこから食事やら入浴やら色々な事を済ませた後に確認となると深夜を大幅に超えてしまうに違いない。もう少しタイミングを見計らうべきだっただろうか、それより半日でも早く提出を、否、それは記入や確認ミスが発生する可能性が大きいので止めたのだ。校正をする彼の身になって、もっと考えるべきだった。
 何が最良であったのか今頃になって考えていると、どうやらその思考を見透かしたらしいエイゼルに心配事をバッサリと断ち切られる。
「今日出かける予定はあらかじめ決まっていたんだろう。自業自得だよ、君が同情したり反省するのは間違ってる。それよりさ、に返しておきたい物があるんだ」
 メルヴィッドの耳にもエイゼルの辛口コメントが届いている筈なのだが、本当に寝不足なのか僅かな反応すら見せず食事を続けていた。カフェオレ程度では彼に取り憑く睡魔は祓えないレベルにまで落ち込んでいるらしい。
 触らぬ神に何とやら。面倒事には目を瞑る方法が最良だろうと判断し、エイゼルが椅子から飛ばしたピーター君を空中で受け取る。外見上は特に何かされた形跡は見当たらないが、魔法をかけられた形跡がある、ような気がした。非常に上手く繕ってあるのだが、上手過ぎて逆に不自然さが際立ってしまっているような、そのような残痕がある。
 中身を引き摺り出して解析してもいいのだが、悪意が全く感じられないのでどうしようかと悩んでいると、この間の礼だと告げられた。礼とは一体何だろう。お礼参り的な意味だろうか。私は彼に対して、何時の間にか要らぬ不興を買ったのだろうか。
「その顔は判ってないね。君の脳は4日前の記憶も保持出来ないのかな」
「4日前……誕生日プレゼント?」
 そこまでヒントを出されてやっと辿り着いた答えで、頬が自然と紅潮し口元が緩んだ。
 恐らくお礼というのはメルヴィッドやユーリアンに対しての照れ隠しで、本当はただの、私への誕生日プレゼントなのだろう。嬉しがる私を見て時限式で不幸になる魔法でもかけたのかと問うユーリアンを馬鹿にしたように鼻で笑い、私にはやっと気付いたのかと言いた気な呆れたような視線を送った。
「どんな魔法か気になるなら解析してもいいけど、その瞬間効果は消えるからそれだけは忠告しておくよ。信じるか信じないかは君次第だけど」
「信じますよ。エイゼルからのプレゼントなら、信用出来ます」
 どのような魔法を仕込まれたのかは判らないが、エイゼルの事だからちょっとした可愛らしい悪戯でも仕込んだのだろう。ある日突然私の悪口を言い出したり、呪文の唱え方がなっていないと説教を始めたり、砂糖と塩を入れ替えたり、多分そんな程度のちょっと笑えるような魔法に違いない。
 継ぎ接ぎだらけのピーター君を抱き締めて、リビングテーブルに置きっ放しだったスノーウィ君と共に定位置へ戻すと、置いてけ堀を食らった様子のユーリアンが不満そうな顔で唇を尖らせた。
「爺って変な所でお人好しだよね。どうするんだい、エイゼルが肉体を手に入れたら蛙に変身する呪いでも掛かっていたらさ」
「そうですね、指差して大笑いでもしておいて下さい」
「なら遠慮無く、底抜けの愚か者だって笑ってやるよ。精々そうやって緩んだ覚悟をしておけばいいさ、コレは道を違えても未来の僕だ。何時か絶対に、お前を裏切る」
 それだけ言い捨てると、ユーリアンはその場から消えてしまう。口調こそ乱雑だが、騙されるなと態々忠告をしてくれる辺りが相変わらず可愛らしい。
 私の思考が漏れたのか単に顔に出ていたのか、ユーリアンが居た場所を眺める私を見下ろして、エイゼルの黒い瞳が嘲笑の形に歪む。
「ああ、今のユーリアンはいい事を言ったね。時と場合によっては裏切る事もあるかもしれない、でも別にいいだろう? は私を信用しているって言ったんだから」
「勿論です。信用や信頼は常に一方的でなければならない、以前貴方に告げた言葉は今も全く変わっていませんよ」
「……自分が言った事を覚えているなら、それでいいよ」
 安心と猜疑心が複雑に入り混じったような表情をしたエイゼルは、キッチンで私と2人きりだと暇だとか何とか言ってユーリアンの後を追うように消えてしまった。
 ふとダイニングへ視線をやると、何時の間にかサンドイッチとカントリーケーキを食べ終えていたらしいメルヴィッドの姿も見当たらない。廊下に設置してある電話の方からも会話が漏れ聞こえたりしないので、予告通り仮眠を取りに行ったのだろう。
 人の気配のなくなったキッチンに、食材が炒められる音だけが香ばしい匂いと共に残された。1人で料理するのは普段からの事なので寂しいだとかその手の感情は特にない、今みたいに賑やかな場所で料理出来ればそれに越した事はないのだが、私の時間に彼等を付き合わせるのはいただけない。
「さて、他所事はこれくらいにしておきましょう」
 これ以上放置しておくと折角の料理が焦げるので、ソテーもピラフもそろそろ次の段階へ移行しなければならない。
 イカのソテーは缶詰のトマトやオリーブ、白ワイン、ドライハーブと一緒に圧力鍋で煮てしまおう。ちょっと多めに作ったので、もしも余ったらカレー粉を入れて夕飯はシーフードカレーにしよう。買い置きのパンは使い切ってしまった今から無発酵パン作りに取り掛からなければ。
 エビピラフはベシャメルソースを掛けてオーブンに入れ、ピラフなのかドリアなのか判らない物に変身して貰う。それとは別にもう2、3品も作ればメルヴィッドが満足する量の昼食になると、安心しようとした所である事を思い出した。
 デザートは、どうしようか。
 チョコレートバーとカントリーケーキは既に彼の胃袋の中、現在オーブンを使用中の為、電子レンジの兼用は危険だろう。
「パンと一緒に、フライパンでオムレットでも作りますか」
 幸い生クリームもフルーツの缶詰もある。然程凝った菓子を作る訳でもないので、それ程手間もかからない。
 缶詰や常備菜、冷凍食品を加工してどうにか食べられる物を作ると、どうしても彼の為に初めてキッチンへ立った日の事を思い出してしまう。あの時は、この家がここまで賑やかになるとは思わなかった。
「その内、4人で食卓を囲いたいですね」
 きっと食事時は戦争になるだろうなと、笑みと共に溢れてしまった独り言は、誰にも聞かれる事なくキッチンの隅の方へ転がっていった。