林檎と檸檬のカラメル煮
「おや、兄さん。また会ったねえ」
「ああ。貴女は今朝の」
「こんな時間に村行きのバスを待ってるって事は、そうかあれなのかい、辛気臭い顔をしているね。愛しの彼女にでも振られたのかい、折角いい男なのにねえ。まあそんな馬鹿な女に引っかからなくてよかったと思えばいいさね、自信を持つがいいよ、私があと10年も若ければ恋人にしてくれって迫りたいくらいいい男だよ、兄さんは。顔は普通だけどね、笑顔がいいよ笑顔が。性格の良さがこうね、一目で判るくらい滲み出てる。でも良い人って評価で終わっちゃあ駄目だよ、ちょっと強引な方が魅力的なのさ、でも兄さんそういうのは苦手そうな顔だねえ。いっそ年上の姉御肌の女性の方が向いてるかもしれないさね」
今朝バスで隣の席に座った手押し車の老女が近付いて来るなりこのように捲し立て、それまで姿を見せず会話をしていたユーリアンとエイゼルが同時に口を噤む。ユーリアンの居た方向から不穏な空気が流れるが、幸い老女はそれに気付いた様子もなく内容のない話をだらだらと喋り続けた。
私としては別にこのままでも構わないのだが、長時間相槌を打つだけの放置をしているとまたユーリアンに怒られそうである。状況を打開すべくペットボトル入りのジュースを2本持って立ち上がり、誰でもいいのなら彼女でいいかと目標として決めた。
「ご友人と買い物と伺っていましたが、これから帰られるんですか?」
「いやいや。連れを待ってるだけだよ、友人の家でこれから2人でディナーさね。お互い旦那に先立たれて独り暮らしだからねえ、こういうのも偶には悪くないよ」
公衆トイレを視線で指しながら老女は止めどなく自分の事を語り続ける。
私の背後で既にストレスが限界突破しているユーリアンが小さく悪態を吐く気持ちは判らないでもなかったが、何らかの原因で魔法が破れこの老女が声を耳聡く拾い何か不審に思ったら私だけで事態を収めなければならないので内心はこれで結構焦っていた。エイゼルが静止せずに黙っているのは自分の気持ちは既に代弁されている事の他に、多分彼が介入する事でユーリアンがより熱くなってしまうのを避けているに違いない。
もう少し待機してくれればどうにかなるとも言えず、悪態と世間話に挟まれながら私は苦笑の表情を顔面に貼り付けた。
「そうでしたか。ああそうだ、丁度2本ありますから、お礼にこれを受け取っていただけませんか」
「おや、いいのかい」
「ええ。是非、貴女のお陰で元気が出ました」
悪いねえと笑う老女の手に渡ったのは2本のペットボトル。
片方は、つい先程目の前の自動販売機で購入したばかりの冷たいアップルジュース、もう片方は家からずっと鞄の中で眠っていた事で冬場とはいえ多少温くなったレモンジュースである。
失恋したショックで2本も買ってしまったのかと尋ねられたので軽く肩を竦めて答えを躱し、だとしても2本両方を他人に与えるのは少し可怪しいと気付くべきだと内心で呆れ返った。私の内心など知る由もない目の前の老女は、前述した全ての違和感に気付かずペットボトルを鞄に入れて、きっと次があると適当な事を言って返して来る。
「そう信じたい所です。ではバスが来たので私はこれで、よい休日を」
これを逃すと次までまた大分待たなければならない事はこの路線を使用する彼女も知っているのだろう、特に引き止めもせず私を離し、入れ違いにやって来た友人らしい老女と何やら話し込み始めた。甲高い声で話される内容を聞くに、リチャードのような若い男性に貢がれた事を嬉々として報告しているようである。
乗り込んだバスの窓からその2人が手を振るのが見えたので笑顔で返事をし、無事出発したバスに胸を撫で下ろした。これでたとえ、今この瞬間に事件が発生しても初動捜査が始まる前に遠くへ逃げる事が出来るだろう。
「爺、今のは何?」
「丁度いい方が現れたので両手一杯の不幸をプレゼントしただけですよ」
「説明が抽象的過ぎる。具体的には全く判らないけど、取り敢えずあれを飲んだらただ死ぬだけじゃ済まない事だけは判った」
「ねえ、。私も知りたいな、用意していた方のジュースに何を仕掛けたんだい?」
窓際に肘を付き、大きな手で口許を覆い隠しながらユーリアンの問いに答えると、別の方向からエイゼルも話し掛けて来た。
帰りの電車の中では話に入って来てくれなかったが、やっと彼なりに色々と考えを纏める事が出来たらしい、声色が少し明るいのは気の所為ではない。
「パラコートという除草剤を入れただけですよ、飲むと治療方法のない絶望と酸素欠乏の苦しみに藻掻いて死にますけど」
「君が変装している男が使用していた毒で、手口も一緒なのかな」
「その通りです」
「ふうん、本当にそういう楽しみを満喫しているんだ」
耳元でエイゼルが薄く笑う気配がした。嘲笑している訳ではなく、何かに愉悦を感じているような笑い方で。
何が楽しいのか私には判らないが、別に判らなくても問題にはならないだろう。3人の中では最も付き合いの長いメルヴィッドでさえ何を考えているのかまでは判らないし、彼も私の思考は判らないとよく言っているので。
腕の時計で時間を確認し、まだ早いが念の為にと鞄から取り出した水筒で薬を飲んでいると、今更だけどとユーリアンが告げる。
「何で態々ポリジュース薬なんて面倒な薬を使ったんだい。多少差異は出るかもしれないけど、変装だけなら杖1本で事足りるよね」
「魔法使い相手ならばそれでもよかったんですが、非魔法界の警察も相手にしなければならないので、より完全な変装が必要だったんですよ」
「ああ、そうか。指紋か」
「勿論それもですが、それ以上の懸念事項があるんです。6年ほど前にレスターシャー州で起こった強姦殺人事件が去年解決したんですが、それに使用されたDNA鑑定という捜査方法がかなり厄介な代物で、慎重にならないと捕まる可能性が出てくるんです」
「何だい、そのDNAって」
「デオキシリボ核酸の略で、人体……というより、地球上に存在するあらゆる生命の設計図を構成する物質、と表現すればいいのでしょうか。まあ、その辺はすっ飛ばして、ABO式の血液型鑑定があるじゃないですか。あれは現場に残された血液を分類して犯人の絞り込みに使用しますよね、DNAも同じで人体の一部、体液や毛髪、皮膚等から摂取出来るのですが、こちらは個人レベルまで絞り込みが可能なんです」
「お前の判り難い言葉を要約すると、細胞が一欠片でもあれば不同性で不変の物質を鑑定出来て、そこから犯人を追跡出来る技術がマグル界にあるって事かい」
「簡潔に纏めていただいてありがとうございます」
「もう少し頭の回転を磨きなよ」
呆れたように、けれど心底恐ろしい技術を目の当たりした事を隠し切れないユーリアンに自宅にある科学系雑誌を薦めるがそちらは鼻で笑われてしまった。しかし逆に、何故かエイゼルがその話題が気になったのか会話を引き継いでくる。
相変わらず、どこか、笑みを含んだような声だった。
「ポリジュース薬がDNAレベルにまで作用すると言い切れた理由を知りたいな。今回の件にはメルヴィッドも噛んでいるのから、明確な証拠があるはずだ」
「この体から採取された血液と元の体から採取した血液を混合させた所、凝固作用が起こりました。故に、絶対に同じ細胞では構成されていないと断言出来るだけです。ただ、この体が彼そのものになったかは、残念ながら資料や技術が不足しているので判りません」
「時間経過による単なる血液凝固の可能性もあるんじゃないかな」
「ありえない事ではありませんが、可能性としては非常に低いです」
この計画の準備期間中に完成したポリジュース薬が成功しているかの確認を行った際、ついでに皮膚紋理、毛髪、歯並び等の変化を細かく記録したが、DNA鑑定の懸念故に血液型の変化もその項目の中に当然存在していた。ハリーは4年前の入院時に治療と共に血液型の検査もされており、リチャードには生前の献血経験があったので双方の書類から血液型を確認した所、幸いにも其々が違う血液型であったので手首から流血しながら変身解除と言う荒業で確認した次第である。
行動が脳筋過ぎて真性の馬鹿以外の何者でもないと評価され、物凄く残念な子を見る目で止血と治療を行う私を観察していたメルヴィッドの呆れた表情は今でも未だ覚えていた。
他にも変身中に脱毛したダークブラウンの毛髪や切り落とした爪は、変身解除後も元の黒い癖毛や子供の爪に戻らなかった事から考えると、一度肉体から切り離された細胞は活動停止と共に内包する情報を固定化し、ポリジュース薬によって作り変えられた姿を真としているらしい。或いは、死んだ細胞には薬が作用せず解除信号を受信出来なかったか、受信は出来たが解除する為の生命力を失っていたか。その辺りまで詳しく調べて突き詰めれば論文の1本も書けそうだが、生憎それに割いている時間が今はない。
確証は得られないが、この作用は血液にも当て嵌まるだろうとメルヴィッドと私、双方の意見は一致した。前述した血液凝固の事も併せて考えると、DNAレベルで同じになったとは決して言えないが、少なくとも変身後の体はハリーの体とは全く異なった細胞で構成されている可能性が非常に高い。
以上のような経緯があったのだと答えると、問いかけて来たエイゼルより早くユーリアンが呆れを大いに含んだ声で反応する。
「爺の癖に体を張り過ぎだろう。以前から思ってたけど肉体的にはマゾの素質があるよね、精神的にはサドとかマゾとかの範疇外で狂ってるけど」
「精神的に狂っているかどうかは判りませんが、肉体的な苦痛を快楽に変化させる事が出来るような悟りを開いた覚えはありませんよ。ある程度の痛みまでは我慢出来ますし、私は死なないので心配する必要がないと言うだけです」
「ああ、等身大の馬鹿の言葉って感じだよね」
うっかり流しそうになったが、ユーリアンが言いそうなこの台詞はしかし、楽しそうな声色を持ったエイゼルから発せられたものであった。
今迄の取り繕われた彼とは似ても似つかぬ声の調子から考えるに、メルヴィッドの目論見である躾は、成功したのだろう。多分。
「おや、エイゼル。好青年を繕う期間は終了したんですか」
「見た目だけでも好青年だから私には必要ないかなと思ってね。今日一日君の行動を見ていたけれど、これ以上の胡麻を擂るのも馬鹿らしい」
「は、だから言っただろう。この男に媚びなんか売っても」
「ユーリアン。私は、後悔していないし失敗したとも思っていない」
ユーリアンの言葉を遮りながら、エイゼルは言葉を続けた。
「悔しいけど今なら何故メルヴィッドがああなったのか理解出来るよ。寧ろ、現状からの変化を選ぼうとしない君の方が、どうかしている」
「何だって?」
「ユーリアン、君は適切に思考出来ているのかな? 私の目的は、魔法界を、魔法使いの為に、魔法使いの手によって統治する事だ。多分、メルヴィッドもね。まさかと思うけど、君はマグルと手を取り合って仲良く歩んで行こうとでも? それともマグルの根絶を今も目論んでいるのかな、出自に目を背けて、自殺も出来ず、混血を仲間内にすら隠している惨めな臆病者の癖に」
「お前は、何が言いたい」
「エイブラハム・リンカーンの真似事でないのは確かだよ、そもそもあれはイギリスの聖書学者の引用だから神の下での統治が前提だ。超常的な存在に縋らなければ成り立たない政治なんて御免だね」
ゲティスバーグ演説の締めを鼻で笑い、エイゼルは続けた。
「道中で確認したカレンダーの日付は見た? どれも家のリビングと同じ1990年12月15日だったよ。バンスの様子を見る限り、魔法界は未だ本体殿に掌握されている様子はない。これだけ時間を掛けても魔法界を支配出来ていないという事は、あれは牢獄の中か敗走して身を潜めているかの2択だ」
簡単な推理を披露した後で一呼吸置いて、私もメルヴィッドも今迄敢えて避けていた言葉を、エイゼルは厳しい口調で放った。
「で、未熟で進歩のない思考のまま魔法界に立ち向かったらどうなるか。二番煎じの間抜けが徒死する。それ以外の結末を考え付くのなら、是非知りたいものだね」
「それは」
「私と君が外に出されなかった理由はこれだ……そうか、そういう事か。メルヴィッドの目的は、これか。この思考の変化が目的だったのか」
君は知っていたのかとエイゼルに問われ、嘘を吐く訳にも行かないので肯定を意味する苦笑を返す。
目を細めて笑ったダークブラウンの瞳がバスの窓硝子に映っていた。
「全く性質が悪いな、下手をしたら価値観が崩壊して精神に打撃を受けそうな干渉の方法を敢えて選んで来たのか。流石悪魔と手を結び渡り合う私の未来だと褒めておくよ」
「もしかして、悪魔とは私の事ですか?」
「私を唆して道を外させた、正に悪魔だろう。君のお陰で、私の世界は変わってしまった」
非難している訳では、ないのだろう。
口調は責めているようだが声自体は明るく、私の所為ではなく私のお陰と敢えて言葉を選んでいる事からも、怒っている様子は見受けられない。
だからといって、感謝をされている訳でもなさそうだが。
「お前まで変わって、お前達は一体何処に行こうと言うんだ」
「それは今言ったばかりだ。おかしいな、過去の私ってこんなに話が通じなかったかな」
吐き捨てるように言い放ったユーリアンに対し、エイゼルはやや冷たく対応する。
言うべき事は全て言ったのに何故判らないのかとという苛立ちはとうに過ぎ去ってしまったのか、そもそも苛立ちなど抱えない性分に変化してしまったのか。否、表面上は多大に変化をしたが、目的は先程の通りだ。同一ではなく近似ではあるが、根本までは変わってはいない、以前よりも上手く隠せるようになっただけで前者だろう。
「失敗した本体と同じ道は滅びの道だ。私達は、トム・マールヴォロ・リドルでもなければヴォルデモートでもない新たな存在に成らなければ、遅かれ早かれ誰かに消滅させられる。この数ヶ月、私達が私達のままで死に直面しなかったのは偶然でも奇跡でも、況して能力のお陰でもない。メルヴィッドとが安全な領域で匿っていたからだ。同じ事を言わせないで欲しいな、君は本当に私なのかい?」
「その問いは僕が投げかけたいくらいだよ。僕は本体が敗走した原因も理由も経緯も知っている、あれは年老いて判断力の鈍った間抜けだ。僕ならば、もっと上手くやれる」
自分の歩む道は自分で決める、そうでなければ気が済まない。誰かの影響で変わりたくない、変わってなるものかと言外に叫ぶユーリアンに、エイゼルは聞き分けのない子供を相手にした大人のような溜息を吐き、ならば勝手にするがいいと一切を放り出した。
メルヴィッドならば彼の身を案じ揶揄混じりではあるが軌道修正を行うに違いない、矢張り彼等は単に顔が同じだけの、全く違う存在となっている。
問い掛けているが、彼等は優秀だ。恐らく双方共に理解はしているのだろう。最早目の前にいる自分の過去や未来が自分自身と決して繋がらぬ存在になっている事は。
ただ違う事は、ユーリアンは未だその事実を納得出来ずにいるが、メルヴィッドとエイゼルはそれを納得し、受け入れ、環境に自分自身の価値観を適応させたという事だ。
「忠告はしたよ。死ぬ直前にでも私の有難い言葉を思い出してくれれば幸いだ」
「一番最初に死ぬ奴が言いそうな台詞だ。そうだ、どうせ死ぬのなら精々面白く死んで僕を楽しませなよ。今のお前にはその程度の価値しかないんだし」
「価値が皆無どころか対価を渡さなければ相手にすらされない、そんなつまらない男が何を吠えているんだか。もう少し私の興味を惹くような利口な事を言って欲しいな、君の話は毎回毎回退屈過ぎて眠たくなるんだ」
「それは良かったついでにそのまま永眠しろ。何ならお前のサイズに合わせて六角形のベッドを特別に作ってやる、ああ本体はロケットだから土葬よりも火葬して遺灰を海中投下式かゴミ箱式の方が好みかな? 僕としては一番最後を推すよ、お前には相応しい死に方だ」
「もっと上手いプレゼン方法を思い付く事から始めようか、どの良さも私には伝わって来ないからせめて君のお勧めの方法で実践してくれないかな。後の心配はしなくてもやメルヴィッドに聞いて、不燃ゴミの回収日に出してあげるから。遺灰の処分方法なんて下らない未練で、君の魂が永遠にこの地を彷徨うのは笑える程悲し過ぎるからね」
心底どうでもよさそうなエイゼルの声と、悪意を剥き出したユーリアンの声に挟まれていたものの、火にガソリンを投下するような言動しか出来ない私は仲裁を端から諦めて薄暗くなってきた外の景色を何をするでもなくぼんやりと眺めた。
ちらちらと雪が舞っているので外は相当寒いに違いないが、もうしばらくはこの格好のままでいなければならない。服は兎も角、この手に持っている鞄や財布はリチャードの棺の中から失敬した物なのだ、借りたのならば元の場所に返すのが道理というものだろう。
それに、現場の証拠から死人であるリチャードに辿り着いた場合、余計な人間達が誰の了承も得ずに彼の遺体に手を出す可能性もあった。その場合の対抗策も今の内に施しておきたい。エメリーン・バンスを殺す前にやっておけばよかったのではないかと指摘されそうだが世の中何が起こるか判らない、何かが悪く噛み合って矛盾が露呈しダンブルドアにでも勘付かれてしまっては折角ここまで面白い手順を踏んだのに全てが台無しになってしまう。
メルヴィッドはこの決まった手順を楽しむ感性は持ち合わせていないので、私の事を効率の悪い男だと詰るが、事実ではあるので否定はしまい。尤も、今回の件は直接彼に関わり合いがないのでそう強くあれこれは言われてはいないが。
長い長い2人の険悪な可愛らしいをBGMに東の空を眺めながら雪の舞う銀世界を眺める、終点となる村の明かりはまだ見えない。
バスを降りたらスーツ一丁で夜の単独雪中行軍に就くのだが、彼等と共にならば単独ではないし寂しくもないなと思い至り、自然と口許が緩んだ。