レンズ豆のテリーヌ
裁判官達は、私がこれ程までに敵意を剥き出しにしている理由が判らないのだろう。彼等の耳や机上の資料にはそれらしく偽られた事実しか並んでいない、真実を知ろうと深くに入り込んだのは、今私の隣に座しているレギュラス・ブラックとクリーチャーのみだ。
裁判を有利に進める策は頭の回転や口の巧さよりも、情報をどれだけ収集し自らが得する方向に尤もらしく書き換えるかである。私の特性を活かせる分野であるが、しかし今回はそれは出来ない。良心云々ではなく私があの舞台に立つ事を許されていない、中途半端な関係者であるが故に目を付けられ、外見上の年齢故に証言台に立つ事すら出来ず、表舞台にも裏方にも参加が許さないのだ。ひたすらダンブルドアが用意したシナリオを眺め、肘掛けに八つ当たりをして、臍を噛むしかない。
そのダンブルドアに手を振っていた、一応この場では最高位の裁判官が書類を読み上げる声が室内に反響する。その残滓すら、不愉快だった。
「被告人エメリーン・バンス。被告人は去る9月21日の夜、ロンドンのパブにて、マグルの男性リチャード・ロウを害したとの自供を行った。相違ないか」
「いいえ。当時私は酔っていて誇張した表現をしていました、リチャード・ロウとの面識はありますが殺害した事実はありません。それはマグルの裁判でも無実が確定しています」
巫山戯た言い分に奥歯と肘掛けに力が篭る。
無実なものか、裁判前に保管庫から証拠の一切が消失し不起訴になっただけだ。この女が盗んだのか、騎士団の誰かか、ダンブルドアが直接か、或いは金で雇った全くの第三者なのか、そこまでは判らない。警察も検察も被害者が殺人犯だからか失われた証拠を探すよりも盗まれた事実を忘却される事を望み、そしてその様に世の中と机上の書類は動いていった。しかし、それは決して無実の確定ではない。飽くまでも証拠が足りない故の不起訴処分であり、無実の等号である嫌疑なしとは断定されていないのに。
事実が嘘に塗れ、あの女の口で混ぜ合わされ歪められている。
その歪みが、ダンブルドアの挙手によって是とされた。
「今年の7月に行われたマグルの裁判で彼女が殺害の罪に問われなかった事は、前以て提出した書類に書いてある通りじゃ」
「確かに受け取っている。嫌疑不十分での不起訴処分、宜しい」
小声で、裁判官の1人がマグルは無能だから冤罪に決っていると言ったのが聞こえた。
法廷内で傍聴席の私にまで届いた声量である、他の裁判官に聞こえないはずがない。だというのに、否、当然のように誰もそれを咎めなかった。窘めすらしなかった。
先程の殺意は訂正するしかないだろう。傍聴席外の人間は全員死ぬべきだと。一切の救いすらない状況で惨めに死ねと、地底深くに向けて丁寧に祈っておく。
こうして、祈り呪うしかないのだ、今はまだ。
「だが被告人の述べる誇張した表現とはどういう事なのか。マグルの男、リチャード・ロウとの間に起こった事の仔細を述べよ」
「いいえ、必要に感じません。私はリチャード・ロウを殺害自供の廉で出廷しましたが、被告側証人と書面にて既に間違いであると確定しています」
「被告人の拒否理由を却下する。被告人の出廷理由はリチャード・ロウを害したとの自供であり、傷害か殺害かの是非は問うていない。またマグルの裁決は嫌疑なしではなく嫌疑不十分とされており、ウィゼンガモットの調べによるとマグルの男、リチャード・ロウが害された1987年7月26日に彼の自宅内で魔法が複数回発生している。この事実は被告人がマグルに感知されない魔法を使用して押し入った可能性を示しているのではないか?」
「魔法を使用した事実のみ認め、それ以外は黙秘します」
「では被告側証人、この件について仔細を述べる事は可能か?」
「可能じゃ」
ダンブルドアの軽薄な青い瞳が一瞬だけ私を見る。芝居の上演中に客の反応を見る、三流舞台監督の表情だった。つまりはこれも、ダンブルドアのシナリオ通りという事だ。四流以下の役者であるエメリーン・バンスが裁判官から却下を食らった時に一切慌てた素振りを見せなかったのも、きっとそれだからであろう。
普通の裁判でも、ある程度の流れはあらかじめ決められている事だ。
この場合は当然、落とし所も。
「宜しい、では述べよ」
ダンブルドアの用意した長く白々しいシナリオは、こうであった。
今から4年前の1986年11月から翌年7月にかけて、魔法使いの両親を持つ孤児、ハリー・ジェームズ・ポッターという名の少年の周辺で5人の非連続殺人事件が起こった。
1人目と2人目の被害者は魔法使い、1986年11月9日に起こった聖マンゴ隔離患者集団不審死事件の犠牲者。両親のジェームズ・ポッターとリリー・ポッター。
3人目はマグル、同年12月20日に死亡したパラコート連続毒殺事件の第1犠牲者、従兄のダドリー・ダーズリー。
4人目と5人目もマグル、翌1987年7月3日に起こった虐待夫殺害事件で伯父のバーノン・ダーズリー、直後に伯母のペチュニア・ダーズリーが相次いで死亡した。
ダンブルドアは3人目のダドリー・ダーズリーの事件が起きた時点で不審な動きがあると察知し、ハリー・ポッターや彼を保護しているダーズリー夫妻に危険が及ばないよう信用の置ける魔法使いや魔女を派遣して警告を行い、密かに監視していたという。
しかし、それでは遅かった。マグルのリチャード・ロウという男がダドリー・ダーズリーの死亡以前、12月14日の時点で既に全員と僅かながらも接触していた。
リチャード・ロウは外見は名前の通り平凡を極めた男であったが、内面はそれに沿わず、理解力や想像力が乏しく自らの価値観を理解出来ない愚かな人間は死んでも仕方がないという危険な思想を持ち、そしてそれを実行してしまうような過激な人間だった。
彼は、ダドリー・ダーズリーが犠牲となったパラコート連続毒殺事件の犯人であり、動機は単に、それだけであったのだ。
しかしダンブルドアもこの時点ではそれを結び付けられなかった、彼がそうだと気付いたのはもっとずっと後だ。誰にも見破られずモラルや危機感の欠如した人間を次々と標的にして行く中で、遂にリチャード・ロウは殺して行った人間と正反対の性質を持った、心に適う子供を見付けた。
それがハリー・ポッター、この一連の流れの鍵となった少年である。
彼は同年代の子供に比べて随分と頭のいい、精神が成熟した子供だった。とある危機をリチャード・ロウの手により救出されたハリー・ポッターは命の恩人である彼を英雄と呼び慕い、彼も少年に讃えられる英雄であろうとしていた。その彼の間違った正しさが、悲しい事に事件に拍車をかけて行った。
7月26日の朝、ようやくダンブルドアは気付く。
全くの偶然だった、偶々読んでいた非魔法界の新聞にパラコート連続毒殺事件の犯人の写真が掲載されており、その姿がリチャード・ロウと同一であったのだ。
本来であれば非魔法界の警察に連絡するべきであったが、それでは遅過ぎた。その日の午後、両親と伯母夫婦を亡くし孤児となったハリー・ポッターがリチャード・ロウの里子に出される事を知ったダンブルドアはすぐに動く事が出来たエメリーン・バンスに連絡し、彼女1人を今回の事件現場に向かわせてしまったのだ。
エメリーン・バンスが受けた指示は2つ、リチャード・ロウをハリー・ポッターと接触させない事、そして、彼がマグル界を騒がせている毒殺犯だという確固たる証拠を見付ける事であった。
リチャード・ロウの家に辿り着いた彼女は解錠呪文を使用して玄関から侵入し、リビングにあったハリー・ポッターへの誕生日プレゼントを見付けた所で部屋に入って来たリチャード・ロウに発見され、暫し乱闘となる。そうして揉み合っている際に杖の魔法が暴発し、強力な忘却呪文が彼に向かって放たれた。勿論この場合に適切であったのは失神呪文や麻痺呪文だったが、マグルとはいえ成人男性に殴られそうになっている女性がそこまで冷静な対応が出来るのかを考慮して欲しいとの事であった。
通常より強力な忘却呪文を浴びたリチャード・ロウはその衝撃で背面へ飛ぶように倒れ込み、テーブルの角で後頭部を強打した。ほぼ同時に、乱闘の物音に腹を立てた隣人が侵入して来たので治療を断念し、エメリーン・バンスはリチャード・ロウ宅を去った。
以上が、事の顛末である。
これが、ダンブルドア側の言い分であった。言いたい放題、死人に口無し系統の表現がこれ程当て嵌まる場合も珍しい。
重箱の隅を突く必要も感じない酷い話であった。あの男が口を開くまで飽和し切っていた怒りは臨界点を超えて、既に呆れの域に突入している。
ゲラート・グリンデルバルドを捕らえた功績を持つ魔法界の有名人であっても、非魔法界で発生した事件はそちらの警察に任せるか、又は1人のイギリス国民として情報提供をするに留まるべきであるだとか。ダドリー・ダーズリーが犠牲になった事件だけはリチャードのアリバイが成立し犯人が特定されず未だ未解決なままだとか。説得に応じず凶器を捨てる事を拒み最終的に警察に射殺されたペチュニア・ダーズリーをどさくさに紛れて犠牲者に計上するなとか。私はリチャード・ロウの元へ行くつもりは初めから毛頭なく、それで孤児院側と揉めていただとか。エメリーン・バンスの一連の行動は押し込み強盗殺人と一体何が違うのか等、他にも徹底的に問いたい事は沢山あった。
あったのだが、最早言葉も出ない。
茶番にしたって巫山戯過ぎだ、出来も悪ければ内容も最悪だった。極悪なのは、事前の打ち合わせ通りに碌な追求もせず私以上の痴呆老人の妄言を全面肯定した裁判員共である。
それでも一応は冷静な感情とは裏腹に、脳筋直下の指揮系統に属している肉体と、それに引き摺られた魔法の力は既に我慢の限界を突破してしまったらしい。右手の下にあった木製の手摺が軋んだ音を立てながら静かに破壊され、突き出した木片に傷付けられたのか手の平から血が流れる。レギュラス・ブラックの手が慌てて重ねられたようだが無視をして傍聴を続ける事を選んだ。ここで彼を目を合わせてしまえば、手の傷を理由に退廷させられる。
廷内に、老いた男の発言が続けられた。
「以上の事から、エメリーン・バンスがリチャード・ロウを害したのは事実と言えるが、しかし彼女には殺意が全く存在しておらず、彼女が裁かれるのならば2人が出会うように指示した儂もそれ相応の裁きを受けるべきじゃろう。何より、彼女が害したのはここ10年の内に現れた中で最悪の殺人鬼とマグル界で言わておる男じゃ、それを十分ご留意頂きたい」
「勿論、殺意の有無と被害者の立場は評決の重要な要因として扱われる」
一見まともな事を言っているように思えるが、被害者の立場がそれとなく偽証されつつある事には誰も触れようとしない。
ダンブルドアがリチャードが殺人犯だと気付いた時点、或いはエメリーン・バンスが殺した時点では、未だ彼は善良な一般市民であった事は今の発言からでも判る筈だった。殺意の有無に関しても完全にお門違いで、エメリーン・バンスは家宅侵入の現行犯でリチャードは正当防衛を行使したに過ぎない。
考え様によってはどちらとも取れる裁判官の発言だったが、ダンブルドアの圧力が掛かっている以上この事まで考えている筈がなかった。
「被告人、他に述べる事はありますか?」
「ありません」
「結構。ではこれにて弁論を終了し、評決に移る」
考えているのならば、ここで弁論が終わる訳がない。幾ら司法制度が緩い魔法界でも殺人事件の裁判が即日結審して判決が下って堪るかと悪態を吐きたかった。
「被告人を禁錮刑に賛成の者」
台本に書かれていた事を裁判官が読み上げ、過半数に満たない人間が挙手で応じる。エメリーン・バンスが覚悟を決めたように息を吐き、ダンブルドアが思惑通りに事が進んだ事を証明するように晴れやかに笑った。
その横面を殴る事すら叶わない今の私の情けなさに、手の平の力が更に込もる。
「宜しい。被告人エメリーン・バンスに対する事件について、判決を言い渡す。主文、当法廷は被告人エメリーン・バンスを宣告猶予2年に処す。以上、閉廷」
人を1人殺して宣告猶予2年。以後2年間、犯罪と関わらなければ刑すら言い渡されない判決。余りにも、呆気ない終わりであった。
ダンブルドアが関与している以上無罪か、或いはその程度の刑罰だとは覚悟していたが、全てが軽薄に過ぎた茶番に苛立ちを抑え切れず肘掛けを握り潰す。音に反応した何人かの視線を感じたが表情を見る気にはなれなかった。
物に八つ当たる事で怒りを発散させ、それによって力尽きたように項垂れる私をレギュラス・ブラックとクリーチャーが覗き込む。破壊された肘掛けからそっと退かされた両手から流れ出た血が、彼の白い肌を汚らしく濡らしていた。
「レギュラス、汚れてしまいますよ」
「そんな事はどうでもいいよ。少し痛むけれど、我慢して」
杖が振られると針のように細い木片が手の平から飛び出て床に落ちる。飛び散った僅かな血液がレギュラス・ブラックの服に染み込んだのを見て、ふと、過去を思い出した。
「リックも、そう言ってくれました。私を助けてくれた、あの日の夜に」
「……すまない」
果たして何に対しての謝罪だったのかは判らないが、こうして同席してくれただけでも十分だと笑い、深く息を吐く。憤怒を失った心が妙に重く思えた。
精神的な疲労が肉体にまで大きな影響を与えている。散々言って言われてを繰り返してきたので自覚はしていたつもりだが足りなかったらしい、私も老人なのだと実感させられた。
気力を取り戻せずぼんやりしている間に皮膚や肉の間から木片を全て取り除き、必要以上に丁寧な治療をして包帯まで巻いてくれたレギュラス・ブラックに礼を言うと頭を撫でられる。怒りに任せて私が破壊した肘掛けの汚れを落として修復までしてくれたクリーチャーを抱き締めながらそちらにも礼を言うと、2人に安堵したような表情をされた。本当に、彼等はどうしようもなく優しい。
「今日は、もう帰るのかい?」
「いいえ。リックの墓前に報告をしないと……どんな理不尽な結果でも」
クリーチャーを膝の上から降ろして席を立ち膝掛けを畳もうとした所を引ったくられていると、レギュラス・ブラックが私さえ嫌でなければ同行させて欲しいと頼み込んで来た。全く、彼はどこまで気高いのだろうか。
「それに僕なら姿現しも出来るから、長時間かけてマグルの道を行くよりは安全だと思う。が何か物騒な事に巻き込まれる可能性も捨て切れない」
「レギュラスは、紳士的な方ですね。普通ならお断りするんですが、貴方ならば是非、お願いして宜しいですか」
彼をメルヴィッドではなく私の側へ巻き込むのはあまり得策ではないのだが、裁判直後という事も相まって周囲にはダンブルドアの部下が潜んでいる可能性もある。何かの拍子に、うっかり騎士団員の本性を目撃させる事が出来れば、唯でさえ低迷しているダンブルドアへの評価を更に下落させる事も可能かもしれない。
理不尽な判決に憤り疲れ果てていたはずなのに、こんな事を考えてしまう思考に呆れ、自嘲してしまう。どれだけ他の者を気にかけても優先事項は変わらず、所詮私の頭の中はダンブルドアへの復讐で染まっているのだ。
午後の仕事をしなければならないというクリーチャーに別れを告げてジャケットを受け取ろうとすると、治癒魔法で治療したにも関わらず手の平に負担がかかるからとレギュラス・ブラックが横から手を出して受け取り、とても丁寧な仕草で羽織らせてくれる。退廷する時も常に歩幅を私に合わせ、扉を当たり前の動作として開けてくれた。
だからだろう、自然とこんな事が口に出てしまったのは。
「レギュラスの恋人になる方は幸せですね」
「どうしてかな?」
「隣を歩くだけで、どれだけ大切にされているか実感出来ます」
「ありがとう。でも、どうだろう。学生時代に付き合った女性は皆、面白くない男だと言って他の男に走ったよ。ああ、でも……」
彼が複数の恋人に捨てられたとは意外な過去であったが、それに続く言葉は告げられず、彼の目が真っすぐ前を向いて敵意を滲ませたまま固定された。さり気なく私を庇うように立ち位置を変え、右手がローブの中へ入り込んで杖を取り出す。
レギュラス・ブラックを見上げていた私は、出来る事なら何も気付かない演技をして視線をそのままに廊下を突っ切って行きたかったのだが、彼が立ち止まってしまったのだから仕方がない。私も足を止めて廊下の先を確認する。
冬の空気に曝された冷たい壁に寄り添うように、薄汚く老いた白が佇んでいた。