曖昧トルマリン

graytourmaline

牡蠣の洋風包み焼き

 切符を改札に通し地下鉄の駅舎から地上へ移動すると、いつもと変わり映えしない12月の薄暗い曇天の下で比較的新しいビルや歴史のありそうな建築物が雑然と並んでいる通りに出た。歩行者や車が忙しなく行き交う様子を一頻り眺めてみるも、平日のランチ前という時間が重なり、然程混雑はしていないようである。
 周囲を見渡し空を見上げる御上りさん丸出しの行動はこの辺にして、時計で現在時刻を確認しながら足早に通りを横切り脇道に入る。学校を仮病で欠席して平日の真昼間に通りを彷徨く姿を警官にでも見られたら確実に補導されるに違いない、その場合連絡が行くであろうメルヴィッドの反応は考えたくなかった。
 空気の淀んだ脇道を歩き、小さなオフィスや看板の塗装が剥げたパブがある場所まで来るとおもむろに近くの電話ボックスに入った。道と同じ様に、ここも薄汚れている。否、ここから見える景色といえば今来たばかりの通りと落書きだらけの壁くらいで、電話ボックスも内部のガラスも数枚なくなっており電話機本体も壊れているようにしか見えないので、汚いと断言してもいいだろう。
 盛大に溜息を吐きつつ受話器を取り、コインも入れずに62442とダイヤルを回す。設置場所は大分宜しくないが、番号を度忘れてもMAGICと言う単語さえ覚えていれば自動的にこの数字になる安直さは爺の私には大変有難い。何を言っているのか判らない人はイギリスやアメリカの公衆電話、或いは手元の携帯電話のボタンを見てみるといい。
「魔法省へようこそ。お名前とご用件をおっしゃってください」
と申します。裁判の傍聴に参りました」
 非常にシンプルな受け答えだが、相手不在の自動音声なのでこれで十分だ。非魔法界の裁判ではこの応答すら不必要なのだが、魔法界では行政が司法を囲っているのでそうも行かないのだろう。
 録音された女性の声は、しばらく間を開けて返答をした。同時に、釣り銭の返却口から角張った銀色のバッジが転がり出る。
「ありがとうございます。外来の方はバッジをお取りになり、ローブの胸にお着け下さい。魔法省への外来の方は、杖を登録致しますので、守衛室にてセキュリティ・チェックを受けて下さい。守衛室はアトリウムの一番奥にございます」
 受話器を戻しミリタリージャケットの前を開けてバッジを胸に着け、下降する電話ボックスの中で女性の声を聞き流しながらもう一度時計を確認する。地下鉄は10分程度遅延していたが、それを見越して家を早く出てよかった。日本ではまず考えられない事だが、ストライキに当たって運休にならなかった事が何よりの幸運であろう。
 尤も、運休は兎も角、遅延していたとしても本数はそれなりにあり、加えて私は単なる傍聴者なので開廷時間に間に合わず血の気が引くような事にもならない、本来ならば時間の心配をする方が滑稽と言えば滑稽なのかもしれなかった。
 しかしこの電話ボックス、中々目的地に着いてくれない。私は割と平気なのだが、閉所や狭所恐怖症持ちの人間が発狂するのではないかと思われる程度には薄気味悪かった。
 分速1000mを超えるエレベーターを導入しろとは言わないが、不自由で長い移動時間に不安を煽るような音を出す昇降機に、不気味なBGMを差し入れたらホラー映画のワンシーンに早変わりしそうだなと思い至った所で、ようやく足元から光がやって来た。
「魔法省です。本日はご来省ありがとうございます」
 少し寒いがジャケットを脱ぎ電話ボックスから出ると、何時もと少しだけ違う見慣れた光景が広がっている。明るいアトリウムの光を黄金色に反射する趣味の悪い噴水や雑音となる話し声を引き連れて足早に行き交う沢山の魔法使いや魔女は、深夜に不法侵入をして書類や機密情報を盗み見ては改竄している時には見られない光景だった。
 辺りを一度、ぐるりと見渡して守衛室の看板を見つける。同時に、最近よく見る2人組を発見して早足で近付いた。
「レギュラス、クリーチャー。こんにちは」
「こんにちは、。元気だった?」
「はい、お陰様で。そちらも色々あったみたいですが、お元気そうで何よりです」
「やっと一息吐けたからね。は例の、バンスの裁判の傍聴に来たんだね」
「……はい、そうです。あの、クリーチャーは何か」
 挨拶したと言うのに礼を返すだけで何時もと違って全く会話に入って来ないクリーチャーに不安を覚え尋ねるが、レギュラス・ブラックは少し悲しそうな表情を返しただけで何も言わなかった。表情を読むに、言えなかった、と言った方が正しいのかもしれない。
「クリーチャーから色々聞いて私も今回の経緯を調べたんだけど、興味が湧いてね。いや、まだ時間はあるから詳しい事は傍聴席で話そうか、どうせ、私達以外は誰も来ないだろうから。クリーチャー、私は彼を案内するから先に傍聴席に行ってくれ。四号法廷だ」
「畏まりました、旦那様」
 貴族に仕える執事ように振る舞い、ようやく口を開いたクリーチャーは恭しく頭を下げて大きな音を立てて姿を消した。成程、つまりそういう事らしい。
「メルヴィッドから伝え聞きましたが、本当に、この魔法使いの世界でハウスエルフと親しくする事は異端なんですね」
「ああ、悲しい事にね」
 主従らしくはあるが彼等らしくない言動は、周囲の目を気にしての事だった。目の前にあんな悪趣味な色と姿形をした噴水を作っているが、よく見なくても彼等が人間以外を見下しているのがよく判る。人間以外の像がハウスエルフと小鬼、ケンタウルスしかいないのは他の種族に尽く怒られたか嫌がられたか壊されたからかしたに違いないと邪推した。
、おいで。法廷へ案内する前に杖を登録しないと、聞いた話だと、確かもう持っているんだよね?」
「はい。一応、護身用にと渡された物が」
 レギュラス・ブラックに付き添われ守衛室の扉を潜ると、地味な外見に派手な色のローブを来た守衛が面倒臭そうな顔をして出迎えた。公共機関の勤め人にまで過剰なサービスは期待していないが、せめて勤務中は真面目な顔くらいはしろと言いたい。
 そんな警備も見張りもする気が感じられない不真面目な守衛の目は、私ではなくレギュラス・ブラックに向いていた。
「御用はお済みですか、ブラック様」
「いや、彼の付き添いだ。魔法省に来るのは初めての子でね」
「然様で御座いますか。では、こちらへ」
 見本市に出せるお手本のような慇懃無礼な態度を取り、守衛は探知機で体の前後を確認し危険物を所持していないかを調べ上げる。杖、と一言だけ告げられたので手渡したが、たとえ正規の杖を手に入れるまでの間に合わせであろうと、私の杖があの男の手の中にあるのは何となく不愉快であった。これが杖ではなく長巻であったら、拒絶していただろう。
 真鍮製の秤に杖が掛けられると、台座から吐き出された紙に目を通しながら守衛が義務的な口調で内容を読み上げる。5年程前に必要の部屋から拝借した物なので当然その内容が真実かどうかは判らないが取り敢えず頷いておくと、守衛は役目は終わったという表情で紙を所定の場所に保管して杖を返した。
「用件は済んだよ。行こうか、
 声に優しさを滲ませながら差し出されたレギュラス・ブラックの手を握り、地下へ降りる為にエレベーターの列に並ぶ。件の裁判からそれ程時間が経っていないので周囲の魔法使い達は声を潜める仕草をしながら全く隠さず彼の事を詰った、それはもうクリーチャーがこの場にいなくてよかったと思える程に平然と詰っていた。
 詰られている本人はというと、少なくとも表面上は何処吹く風といった様子で悪い噂を聞き流している。ただ矢張り若いのか、視線に怒りが透けて見えたので、将来の事を考えるともう少し繕った方がいいと告げる為に繋いでいた手を少しだけ握り込んだ。
 視線の先の黒い目が見開かれ、私を確認すると安心したように微笑まれる。握り込んだ手が離され、何度か頭を撫でられた後に肩を抱かれた。周囲の人間が驚いているが、レギュラス・ブラックが気にしていないのならば私も気にする事はないだろう、きっと。
 最近気付いたのだが、次男で末っ子の彼は外見上年下の私の事を子供扱いしたいらしい。もしくはメルヴィッドや私と交わる事でクリーチャー以外の家族がいない寂しさを埋めたいだけなのかもしれないが、要はハリーの顔をした私に甘いのだ。
 私もメルヴィッドやユーリアンを甘やかしたいので気持ちは判らないでもないが、何分中身はこんな爺なので申し訳なくも思う。思うだけで、当然正体を告げる気は更々ないが。
 進まない行列と悪意に満ちた周囲の言葉にも飽きてきたので、この辺りで別の話題でも切り出そう。どれだけ背筋を伸ばし大人の男として振舞っていても、この子はまだ10代半ばの少年だ。
「そういえば、この魔法省みたいに、魔法界には公共の図書館も存在するんですか?」
「いや、そのような施設は存在しないよ。ホグワーツ、ええと、魔法使いの学校にはかなり蔵書数を持った巨大な図書室があるけれど、多分あそこがイギリス最大じゃないかな」
「そう、ですか」
 大学も併設していない私立学校の図書室が国内最大の蔵書数を誇っているのはよく考えるとおかしい気がするが、彼等の社会構造を考えると仕方がないのだろうと諦める。
 例のフリーズドライが中々理想通りに作れず、初歩的な魔法薬学の本の記述を幾つか見比べて上手く行く方法を模索しようと思ったが、覚悟していたようにホグワーツの図書室に侵入して読み比べるしかないらしい。流石に同じような事が書いてある本を、たとえ古本であろうと何冊も買うと言うのは金銭が勿体ないような気がする。第一、既にメルヴィッドが紙媒体の資料を色々と揃えているので置き場もなかった。
が何を読みたいかにもよるけれど、大抵の本なら私の屋敷の書庫にも揃っているよ。多少時代は古いけれど、それで構わないのなら好きな時に家に来て欲しい。必要なら判らない箇所も教えてあげられるから」
「それは……でも、宜しいんですか。ご迷惑では」
「君なら心から歓迎出来るよ。メルヴィッドにも同じ様に伝えてくれ、多分、彼の知らないような魔法薬が載った本も何冊かあるはずだ」
「そう、言っていただけるならば、喜んでお言葉に甘えさせていただきます。ただ、お伺いする日は前もってふくろう便でお伝えしますね。親しき仲にも礼儀ありと言いますから」
 私の言葉にレギュラス・ブラックは一度きょとんとした顔をして、君は真面目な子だなあと言いながら破顔する。
 しかし私からしてみればレギュラス・ブラックは余り親しくないし、親しい者と感じているメルヴィッドには一切礼儀を払っていないので、この言葉を放つのは間違っているのだ。ただ、幸いここには勘違いを修正してくれるメルヴィッドもユーリアンもいないのでこのまま黙って押し通してしまおう。
 丁度、下に向かうエレベーターに乗る事の出来る位置に来た。アトリウムより下には神秘部と法廷しかないので同乗者も同席者もいない、レギュラス・ブラックの心も少しは落ち着くであろう。それに、四号法廷の傍聴席にはクリーチャーもいる、彼の真の家族ならばきっと少しは傷を癒せるに違いない。
 たとえ、エメリーン・バンスに下される判決がどれだけ不当で、それが彼自身に重なり合うものであろうとも。