鶏肉とカシューナッツの甘酢炒め
「名前ですか?」
雨音を聞きながら夕食を作り終え、リビングでメルヴィッドの帰宅を待っている最中、耳元に薄く伸ばされた気配と聞き慣れた口調の美しい声が咲いた。
喜んで相手をしたい人物ではないが、この至近距離で無視するのは何であるので、タイプライターの前で自動印刷中の文字を映すモニターから顔を上げると、相も変わらずロケットの子が柔らかい笑みを浮かべて隣に佇んでいる。
生気を渡した日以来、毎晩のように私の元に現れる彼であったが、まだ宵の口であるこの時間帯に私の部屋でなくリビングに出現するのは初めての事であった。考えられる理由としては、メルヴィッドの帰宅が予定よりも随分遅れているから、だろうか。
彼は本日、姿現しテストセンターへの登録のついでに、魔法省で開かれるレギュラス・ブラックの裁判に合わせて休暇を取り傍聴に行っている。開廷は午後も早い時間のはずであったが、この時間まで帰って来ないとは何か問題が発生して伸びたのだろうか、又はレギュラス・ブラックと同じ様に色々勘違いしたルシウス・マルフォイ辺りに捕まって食事にでも誘われているのかもしれないが。
前者は兎も角、考えてみると後者は確率的に有り得そうな気がして来た。まさか事件や事故に巻き込まれている事はないと思いたい。
生憎今日は平日であった為に私は付いて行く事が出来なかったが、しかし、彼は10代の子供でもないので帰りが遅いからと危惧する必要もないだろう。用意した夕食にしても、チキンカレーに根菜のピクルスサラダ、カルニータスのタコス、芽キャベツの蒸し煮、マッシュルームの粒マスタード和え、無花果のムースと、温め直したり冷蔵庫から取り出すだけのラインナップなので取り立てて何かを心配しなくても大丈夫だった。
さて、思考が大分逸れたのでそろそろ修正しよう。この子が唐突に振ったのは一体何の話だったか、確か名前の事だったような。
「そう、名前。メルヴィッドもユーリアンも君から名前を貰っているのに、私だけ未だ何もないのは寂しいんだ」
「確かに何時までも貴方とお呼びするのも何ですが、しかし名付けたその2人から私の命名センスは知性の欠片も感じられないと大変な不評を買っているのでお薦めしませんよ?」
「そうかな。私は君の感性が好きなんだけど」
3ヶ月ほど前に彼を摩り替えた時点で一応の候補は既に作ってあったのだが、態々センスのない私が名前を付けなくてもロケットの子にはまだ選択の自由がある。後になって文句を言われるのも嫌なので正直にそれを告げるが、私に気に入られたいのか、彼は執拗に名前を欲した。
羨望と言う単語が脳裏を掠めたが、大元の性格から考えるとメルヴィッドやユーリアンが羨ましいからという理由はあり得そうにない、矢張りただのご機嫌取りなのだろう。
演技であろうと懐いてくれるロケットの子の事も決して嫌いではないのだが、どうにも私の内心がダンブルドアの評価の件を大分引き摺っているようでメルヴィッドやユーリアン程可愛がりたいと思えない。尤も、彼にしてみれば、可愛がるなどどうでもいいから情報を寄越せと思っているに違いないのだが。
「判りました。けれど、もしも嫌だと思ったら改名して下さいね」
「は本当に自己評価が低いね。君は優しく穏やかで、素晴らしい人間だ、自信を持つべきだと思うよ」
「料理の腕だけならば、些か自信がありますが」
「もっと色々な事に胸を張っても、誰も文句は言わないのに」
「誰にとは言いませんが、調子に乗るなと非難されると思いますがね」
「ふうん、貶して欲しいなら好きなだけ言って上げるよ。この発狂老人」
「貶されたい訳ではありませんよ、ユーリアン。こんな時間にどうかしましたか?」
ロケットの子との会話が気になったのか、ソファの背後を陣取って眉を潜めているユーリアンを見上げ質問をすると、意外にも素直に答えは返って来た。但し視線はロケットの子に釘付けで、若々しく綺麗な笑顔を浮かべたまま。
「僕と同じ顔をした輩が不愉快な事をし始めたからね、釘を差しに来ただけだ」
「私としては屑で愚かで馬鹿の上に低能が付く君の存在そのものが酷く不快だけどね」
「ああそれは奇遇だね、僕もこんな糞爺に媚を売っている男が自分と同じ顔をしている事実から来る吐き気を必死で耐えてる所だ」
「死ぬか消滅すればその不快感から解放されるだろうね。私は優しいから本体の場所さえ教えて貰えれば自殺幇助も吝かでないけれど?」
「お前が面白可笑しく死ねよ。マグルの汚れた安い魂で作られて地底湖の腐れ水の中に入れられた挙句、幽霊屋敷の片隅で埃被ってた古臭い小物が」
「言葉に気を付けなよ、同じ様に放置されていた古臭い小物の癖に。大体由緒ある品に魂の品性が全く釣り合っていない存在が何を言うんだか。私の感性まで薄汚れそうだからその不潔な言葉遣いを直すか口を閉じるか永眠してくれないかな」
非常に微笑ましく、とても仲良しな喧嘩を始めた2人は、私を挟んだまま互いに美しい笑顔を張り付かせたまま舌戦を繰り広げる。私は雑務の処理中なので出来れば他所でやって貰いたいのだが、流れるような遣り取りに口を挟めるタイミングを見付けられない。
仕方がないので全てを無視する事に決めて薄手の手袋を嵌め、印刷したばかりの紙、暗号化したレギュラス・ブラックへの手紙を手に文章の校正を行う事にする。
メルヴィッド曰く、どうせダンブルドアにはとっくに解析されているに違いないのでこちらも時間短縮の為だといって作成してくれた自動暗号変換魔法は、モニター上で指示だけすれば後は勝手にタイプライターで印刷までやってくれるという優れ物なので助かっているのだが、矢張り最後は人の目を通さないと若干の不安が残った。大体の場合に於いて私の入力ミスが原因なのだが、と考えている間にも問題点が発見される。
赤ペンで修正後に再びモニターを展開すると、何故か名前を呼ばれたような気がして顔を上げた。思っていたよりも大分近くにロケットの子が居て驚くが、腰に腕を回されているのを見ると意識してそうしているらしい。この美しい青年が相手ならば年齢関係なく女性ならば誰でも喜ぶ体勢だろうなと、印刷指示を出しながらどうでもいい事を考えた。まだ現実逃避までは行っていないはずだ、多分。
「、私と一緒にこの家を出よう」
「ちょっと目を離した隙に随分飛躍しましたね」
駆け落ちとはかなりアクティブな発想である、爺の私は若者の話に付いて行けないので冬の所為にしてそろそろ冬眠の準備を本格的にしてもいいだろうか。
「私なら君を、今よりも幸せに出来るから」
「だからさ、僕と同じ顔で猫撫で声出しながらその老耄を口説かないでくれるかな?」
「煩い塵芥は黙って死ね。頼みがあるんだけれど、静かな場所で君と2人きりで話がしたいんだ。少しの間だけでいいからユーリアンの生気を奪って欲しいんだ」
背後でユーリアンがふざけるなと叫びながら掴みかかるが、ロケットの子はそれを予期していたようで難なく躱す。僅かな不安を抱えながらも怒りに燃えた黒い瞳が勢いのままに私を見据える様は、気の立った子猫そのものだった。非常に可愛らしい。
「そんな顔しなくても大丈夫ですよ、メルヴィッドの指示がない限り生気は奪いません」
口喧嘩ならまだしも男の子同士の殴り合いともなればリビングに被害が及ぶので放っていく訳にも行かず、出力された紙の束を綺麗に整えながら答えると、何故かロケットの子が意見をして来た。瞳には至極真面目な疑問の色が浮かんでいる。
「メルヴィッドメルヴィッドと君は繰り返し言うけれど、それ程までに慕いたい男だとは到底思えないな。偶にだけど、君は服従の呪文で支配されているのかと疑いたくなる」
「ああ、それについてだけは僕も同意。お前達は互いに協力者だと言い合っているけれど、それにしては奇妙で気持ち悪い関係だ。があの男に操られているのならその関係も少しは納得が行く」
「おやまあ」
そんな事を考えていたのかという小さな驚きと、今の今まで口喧嘩していた者同士が急に手を組んだ様子を見て感嘆した途端、でも操られてるならこんな精神異常の馬鹿にはならないかとユーリアンが呟いた。メルヴィッドに操られているならば彼に対しての賛美が少ないような気がする、気も短くなるはずだとロケットの子も答える。
「という事は、結論はいつも通り、私の脳味噌が腐り湧いていると」
「まあ、そうだね」
自覚しているのならどうにかしろとユーリアンは言うが、それは無理な話だときっぱりと断っておく。1世紀かかっても治らなかったどころか、自らの異常性を朧気に自覚したのさえつい数年前の事なのだ。しかも発言後にそれは可怪しいと今も指摘されないと判らないとあっては、改善はほぼ不可能に近い。
ユーリアンもそれは判っているのだろう。惚けた爺には何も期待していないと告げてからロケットの子を一度ちらりと見ると、興醒めだと肩を竦めて何処かに消えてしまった。恐らく本体の中で眠りについたに違いない。
「……何なんだ、あれは」
「ユーリアンは気分屋さんなんですよ」
会話が気に入らないからと唐突に現れ自分の言いたい事だけ言い捨てて去って行った過去のいた場所にロケットの子は視線を投げ、私の返答に何とも微妙な顔をして何故そこまで懐が深いのかと尋ねて来た。
「私だったら毎日あんな暴言を吐く男なんてすぐ消したくなるけれど」
「不満を吐き散らかすだけなんて可愛いものじゃありませんか。どんなに怒っていても暴力を振るわれた経験はありません、彼もちゃんと線引しているんですよ」
尤も、私とメルヴィッドを同時に怒らせた場合、拷問からの虐殺ルートへ突入するので、単にそれが嫌なだけなのかもしれないが。今度こそ本当に蛙の中に突っ込まれて雄と交尾させられた後の強制産卵やら孵化したばかりのオタマジャクシの生食をやらされると本気で怯えている可能性もなくはない。
まあ、冗談で済ますつもりは毛頭なく、こちらも本気なのだが。
しかし思えば目の前の彼はその類の、所謂私が含有する狂気らしき空気や発言には未だ触れていないのだと気付いた。けれども、メルヴィッドはユーリアンの時のように特にこれといった行動を起こせと言って来ないので、勝手に動けば間違いなく怒られるであろう。
「それで、確か、名前の件でしたよね」
「そうだった。横槍が入って話が逸れてしまったね」
今度こそちゃんと出力し終えた紙束を揃えて袋の中にしまい、展開していたモニターを終了させた。使い捨ての手袋もゴミ箱へ入れてから新しい紙を1枚取り出し、ただのタイプライターになった物質にセットする。
キーボードに手を置いてAzel Arstarly Nishと打ち込むと、黒い瞳が僅かに不愉快そうに細められた。視線は文字の羅列の中央に向けられていたので、恐らく完全造語のミドルネームがまず気に入らないのだろう。センスがない事を知っているのに何故アナグラム縛りをするのか意味不明だと眼の奥の光が語っているような気がした。
「エイゼル・アルスタリー・ニッシュ。サラザール・スリザリンのアナグラムなんだね」
細い整った指先が宙で振られ、少しインクの滲んだ文字の隣にSalazar Slytherinと焼付けられる。不満を持っている事は明らかなのにそれ以上何も言わないのは私に取り入る為に耐えているのだろうか、考えると可哀想になってきた。これではプレイ人数1人推奨の強制罰ゲーム以外の何物でもないではないか。
「あの、妙な気を遣わなくても嫌ならばそう言っていいんですよ? 私も自分の命名センスがない事は自覚していますから」
「いや、気に入ったよ。ありがとう、君から貰った名前を大切にする」
タイプライターに挟まっていた紙を取り出し人好きする笑みでロケットの子、否、エイゼルが宣誓をするが、どうにも彼が心の底で思っている事が透けて見えてしまうので手放しで喜ぶ事が出来なかった。
それを勘付かれたのだろう、悲しげに眉尻を下げられ何か気になる事でもあるのかと尋ねられる。まさか演技の裏側が全て透けて見えていると馬鹿正直に指摘する訳にも行かず、さてどう誤魔化そうかと思考を逸らした瞬間、玄関の扉が開く音がした。家の主、メルヴィッドのご帰還である。
大分雨に振られたであろう彼の為にタオルを持ってリビングから立ち去る直前、エイゼルの口からあまり品の宜しくない言葉が聞こえたような気がしたので振り返ると、まるで何でもないと言った表情でいつもお疲れ様と労りの言葉を掛けられた。こちらも何も知らない演技をしてにこりと笑い再び玄関へ小走りで向かうと、背後で再び何事か小さく呟かれる。
マグル気触れの従僕め、だったろうか。従僕ではなく協力者だと訂正したい所であるが、玄関では冬の雨に降られて手を悴ませ白い息を吐いているメルヴィッドが居るのだ、当然こちらを優先するべきだろう。
「今帰った」
「はい。お帰りなさい」
タオルを差し出し、濡れた鞄や防寒具を受け取りながらリビングに視線を遣ると、しかしエイゼルは既に姿を消して本体の中に戻っていた。
「どうかしたのか?」
「いいえ、それより今夜は冷えたでしょう。バスタブにお湯が張ってありますので先にバスルームへどうぞ、着替えと食事の用意はこちらでやっておきますから」
「ああ、では後は頼む」
足早にバスルームへと向かうメルヴィッドを見送り、確かにエイゼルから見れば一見彼に尽くしているような行動を取る私は従僕にも見えるかもしれないと苦笑する。腕の中の小物を魔法で乾かして、それを終えたらキッチンへ向かいホーロー鍋でご飯を炊き始め、カレーや蒸し煮を温め直し、ピッチャーや食器類を準備した。
「従僕という誤解は解くべき、なんでしょうかねえ」
バスタオルや着替えを2階へ持って行きながら呟くが、当然誰にも聞こえておらず言葉は虚しく階段の上に落ちて何処かへと転がって行ってしまった。態々拾い上げてくれるような人間は、生憎この家の中には居ない。
全く、私は可愛いものを甘やかしたり、世話やお節介を焼いたりするのが好きな単なる爺だというのに。言葉ではその意味を正しく伝えられないのは、何時の時代、誰が相手でも同じらしい。