レモンのコンポート添えたリコッタチーズケーキ
幸い、メルヴィッドの休暇に合わせて訪問して来た彼の主人、レギュラス・ブラックは今現在リビングで家主相手に魔法界の事を説明している。クリーチャーを溺愛している彼にこの様子が発見された場合、更に面倒な方向に転がって行くような気がするので、どうしてもこのキッチンで止めておきたいのだが、さて私はどうするべきなのか。
ひとまずクリーチャーの分のホットミルクを避難させ、涙腺を破壊した原因である3日前の日刊預言者新聞を処分してから背中を擦ってみたが、咽び泣きが大きくなるばかりで一向に止まる気配を見せなかった。
余りにも変化がないので、ここまで感受性の豊かな存在と触れ合うのは何年か振りであり上手く慰める事が出来なくても仕方ないのではないか、と開き直ってしまいたい衝動に駆られる。否、早々に開き直ってしまっていいだろう。感極まった相手、特にハウスエルフにはどうせ何を言っても無駄なのだから。
そもそもである、私にしてもメルヴィッドにしても特定方向の感受性が乏しいのだ。
内から湧き出た感情に走る事はあるが、逆に他人の境遇に同情したり言動に逐一感動したりする事は稀であるのだし、あったとしても大抵の場合に呼び起こされるのは空虚か軽蔑、それでなければ怒りや恨みや嫌悪で、生憎この感情では慰めに直結しそうにない。
演技の上手いメルヴィッドならば兎も角、今この場にいるのは演技どころか他者とまともな会話の一つも成立しない爺の私である、泣いているクリーチャーを落ち着かせるという技術が皆無なのだから最初から時間に任せるだけにして潔く諦めるべきだったのだろう。
「今の内に、好きなだけ泣いてしまいなさい」
別に、時間の流れが心の傷を癒すだとか、そんな何処かで見聞きしたような気がする都合のいい言葉を真に受けている訳ではない、経験から言うとそれは間違いであったから期待など一切していない。
私の中にある、リドルが付けた傷も、ダンブルドアに受けた傷も、未だに癒やせずにこうして抱え込み腐らせている、半世紀以上もだ。
ただ、時の経過は感情を冷静な状態にまで戻す事が出来る。その後に再び激しい波に襲われる事はままあるが、時化と凪のようなものだと考えればそれ程苦にはならない。他人の感情だろうが自分の感情だろうが、思い通りに出来ないものは世の中には沢山あるのだと諦めて、過ぎ去るのを待つ事が出来る。
そうして慰めを諦め、小さな背を擦りながら待つ事数分。ようやく凪の時間が来たのか、まだ少し喉を震わせながらもクリーチャーは私に礼を言った。
「あ、ありがとうございます。坊ちゃん」
「どうしたしまして。所でクリーチャー、その、坊ちゃんという敬称は非常にむず痒いので呼び捨てがいいのですが。私も貴方の希望で呼び捨てにしている訳ですし、ね?」
「それはなりません。坊ちゃんはレギュラス様の大切なご友人にあらせられます」
「レギュラスも勿論そうですが、クリーチャーとも友達ですよ?」
「ああ! 坊ちゃんはクリーチャーに何とお優しいお言葉を掛けて下さるのか!」
しまった、また地雷を踏み抜いた。
私としてはごく普通に接しているつもりなのだが、どうにも会話の度に行き詰まり上手く運ぶ事が出来ていない。否、メルヴィッドとしては上手く行っているらしいのだが、こう頻繁に感激されてはこちらの間が持たないのだ。
再び涙腺を爆発させ嗚咽を漏らし始めたクリーチャーの頭を撫でて時間を潰しながら、時折合間を見てはオーブンの中で膨らむパン・デ・ローを確認する。今の所は問題なく膨らんでいるようで、甘くて素朴な焼き菓子の香りがしてきた。
しかし今回の諸悪の根源はその菓子といっても差し支えないかもしれない。否、現在、家にあり余っている有精卵をふんだんに使ったこの甘い焼き菓子に罪は全くないのだが、焼き型に使用した新聞紙に罪があった。更に追求して行くと、その焼き型に態々来週行われるレギュラス・ブラックの裁判の件が大きく載っている頁を使ってしまった私にこそ非があるともうえるのだが、矢張りどう考えても一番悪いのは無教養な記者の下品な妄想をさも事実のように扱って記載している日刊預言者新聞である。
一応の真実を知っている者から見れば滑稽としか言い様のない冷笑必至な内容なのだが、曲がりなりにも魔法界で最も購読者を獲得している寡占新聞なので、平然と嘘を吐き続けやがて本当の事にしてしまう可能性が十二分にあり得るから性質が悪い。
何が書いてあったのかは相当端折っても短くなる気配が見当たらないので詳しくは伏せておこう。ただ内容をぼんやりと思い出そうとするだけで担当記者から掲載を許可した編集までを軒並み石抱きの刑に処したくなる程度の記事であった、とだけはいっておく。
どうしようもない現状に半ば以上匙を投げて、溜息を零しながらさらりとした感触の薄い皮膚の張った頭部から一度手を離し、滂沱の涙を流すハウスエルフの隣、綺麗に磨いてあるキッチンの床に座って温かい濡れタオルを差し出した。冬のキッチンの床に直座りは腰が冷えるので嫌なのだが真摯な態度を演ずる為だと諦めよう。
少し背中を丸めて下から覗き込むように顔を見ると目元が随分腫れている。ここまで来てしまったら彼を愛して止まないレギュラス・ブラックに言い逃れを考えるだけ無駄だろう、既存の知識を再度説明されて心底うんざりしているであろうメルヴィッドには悪いが、世の中を渡って行くには諦めが大切だと腹を括ってもらおうではないか。
面と向かって口に出したら最後、力の限り殴られそうな台詞なので敢えて声帯を震わせ言葉にしようとは思わないが。
「焼き上がったら、皆で食べましょうね」
返事は期待していないので独り言のようにそう言って、卵黄と砂糖がふんわりと焼ける香りに包まれながら天井の模様を視線でなぞった。
それにしても、暇である。
まだ熱さの残るマグカップを両手で包んだまま暖を取り、暇過ぎて眠気に襲われないように冷蔵庫に保存した卵白の使い道を模索する事にしよう。
定番は矢張り菓子類だろうか。シンプルに焼きメレンゲを作ってもいいがシフォンケーキやレモンパイも捨て難い、しかし焼き菓子は今正に作っている最中なのでいっそ海老の下拵えに回すのもありだろう。確か鱈もあったはずだから南瓜やマッシュルーム、パースニップと一緒に天ぷらにしてもいい。後でメルヴィッドに何が食べたいか聞いてみようと、そこまで頭の中にメモした所で横から来る視線に気付いた。意味もなく見上げていた天井から視線を戻して、安心させるように微笑を浮かべておいた。
「落ち着きましたか?」
「は、はい。坊ちゃん。見苦しい姿をお見せしました」
避難させておいたホットミルクを差し出して頭を撫でるとまたクリーチャーの目が涙ぐむが、流すべき涙の貯蓄量が減少した為か先程までのように激しい嗚咽がようやく停止する。まだ微かに唇が震えていたが、こうして他愛なく喋る分には問題ないらしい。
「何も、恥ずべき事はありません。貴方も彼も、胸を張って下さい」
レギュラス・ブラックの裁判は来週で新聞の社説はアレである。クリーチャーにしても、今リビングでメルヴィッドとじゃれ合っているレギュラス・ブラックにしても、色々と抱え込んで心理的にどうしようもなく行き詰まっているに違いない。
この家が彼等の癒しや息抜きの場になるのならば何よりである。それが彼等の将来を懸念し、駒として利用している者の心情であった。
「……坊ちゃんは、聡明でお優しい方です」
「そう、でしょうか。どちらかというと私は無神経で、魯鈍ですよ」
「そのような事は決して御座いません」
本心からの言葉なのだろう。鋭い視線を投げ付けながらクリーチャーは私の自己評価を一蹴した。優しいのも聡明なのも私ではなくメルヴィッドだと言うが、彼は2人共がそうだと言って耳を貸そうとしない。
「メルヴィッド様と坊ちゃんは、あのような愚かな記事に惑わされず、こうしてレギュラス様とクリーチャーに優しく接して下さいます」
「参りましたね。こう言うのは何ですが、特別優しくした覚えはありませんよ。私も、メルヴィッドも、友人として普通にしているだけです。大体、貴方達に直接触れ合えば誰だってあんな記事は虚構だと判るでしょう」
「判らないのです。誰かも理解が得られないのです! レギュラス様はあんなにも」
言いかけて、クリーチャーの目が見開かれた。
恐らく自らの主人が行った英雄的行為を勢いに任せて暴露してしまいそうになった事に気付いたのだろう。
これ以上の負傷は御免願いたい。彼が戒めを始める前に片手で枯れ枝のような両手を塞ぎ、真っ青な顔色をしたクリーチャーに大丈夫だとゆっくり喋りかけた。
「大丈夫ですよ、クリーチャー。私はまだ、何も聞いていません」
「ですが、坊ちゃん。クリーチャーは」
「クリーチャー。貴方の主人、レギュラス・ブラックが尊い人だという事は、付き合いの短い私も知っているつもりです」
主人の秘密を喋ってしまいそうになった事で慌て、自傷行為に走る気配が薄らいだ事を確認して手を離し、どうにかしてそれらしい考えを纏め言葉を続ける。
「これは推論、というよりも勘と仮定の領域なので聞き流して下さって結構ですが、きっと彼は大切な人を守る為に敢えて真実を伏せていると、私やメルヴィッドは考えています」
既に知っている事をあくまで推測した独り言のように、クリーチャーに視線を合わせないようにしながら目を伏せた。一応閉心術は相手が誰であろうと常に行なっているし、ハウスエルフは開心術に属する魔法は不得手なので大丈夫であろうが、万が一という事もある、用心に越した事はない。
曇った眼鏡の先には温かいマグカップ、中は相変わらず蜂蜜の香りを放つ乳白色の液体が揺らめいている。
「レギュラスに聞きました。闇の陣営から寝返ったのは、事実だそうですね。けれど、思うに寝返ったからには何かそれらしい手土産があったはずです。それが情報か、物質かまでは判りませんが、どちらにしろその存在と認めて公にしてしまえば未だ生き残っている死喰い人に目を付けられ、レギュラス本人は勿論、貴方を始め周囲にまで害が及ぶ事になります。彼は、優しく気高い。とてもそれを良しとするような人ではありません。ならばたとえ臆病者と罵られても沈黙で耐え忍び、手土産は秘密裏に受け渡しか処分をして別の手で挑むに違いありません。その手が、被告側証人として選出されたマルフォイ氏なんでしょう。魔法界で発行された過去の新聞を調べてみましたが、彼はレギュラス同様、標準以上の権力を持っているようですし、何より10年前の大きな裁判で無罪判決を勝ち取っているので、相当弁が立つ方なは間違いありません」
「坊ちゃん、そこまで」
「クリーチャー。私の長ったらしい言葉は証拠も裏付けも何もない、レギュラスを擁護する為の単なる妄想と戯言で出来ています。先程言ったように適当に聞き流して下さいね」
「ですが」
「……正直に打ち明けますとね、何でもいいんですよ、私は。所属も、家柄も、経歴も、思想も、年齢も、性別も、種族も、住んでいる世界も、そのような面倒臭い事からは全部目を逸らして、都合のいい事だけをこの目に映します。私はレギュラスの立場を好きになった訳ではありません、彼自身を好きなだけなんです。私の命の恩人や、クリーチャーを好きな事と同じように。ね、教育を受けたとは思えない、酷く頭の悪い子供でしょう?」
顔を上げて微笑むとクリーチャーは泣きそうな顔をして首を横に振った。堪え切れずに溢れた涙をボロ布のような袖で拭い、唇を噛み締めている。
またしばらく止みそうもないので新しいタオルを用意しようと言い立ち上がろうとしたが、マッチ棒のような細い指が私のシャツを軽く引いてそれを制した。必要ないと首が横に振られる。
「ぼ、坊ちゃんは、とても聡明な方にあらせられます」
「……買い被り過ぎですよ」
「いいえ、それは」
「聡明である訳がない。単に同じ様な目に遭った故の、想像に過ぎません」
私の言葉を否定しようとしていた舌が止まり、どういう事なのかと潤んだ目が問いかけて来た。言葉通りだと、私は幼いハリーの顔で嗤う。
「昔、私も碌でもない連中に散々書かれましたから。だから、紙面の評価は信用しません。私が信じる存在は私が判断し、決めます」
「それは一体」
不穏な事を仄めかす言葉を受けて生じたクリーチャーの質問を遮るように、オーブンから終了音が発せられる。丁度良く途切れた言葉を再開させない為に素早く扉を開け、ふっかりと焼き上がったパン・デ・ローの話題へと強引に変更させた。
放置しておけばその内に萎んで完成するので今の内に紅茶の準備をしようかと誘えば、私の発言が気になったのか困ったような顔をして、それでも緩く曖昧に頷かれる。
4年前、ハリーの身に起こった事を一から十まで告げる必要もない。クリーチャーは優秀なハウスエルフだ、こうして匂わせておけばそれで十二分だろう。
折角レギュラス・ブラックがメルヴィッドに懐いて来たのだから、ダンブルドアという横槍が入る前に反発の種火を燻らせ、出来るだけこちら側に引っ張っておきたいと考えてこの手を打ってみたが、さてどうなる事やら。
幸いな事に当時の一連の動きは非常に雑で、取り立てて挙げられるような隠蔽工作も行われてはいない。少しばかり知識と技術と伝手さえあれば、騎士団の連中が被虐児童に対してどのような言動をしたかも簡単に露見するだろう。
情け深く勇敢で高潔な彼等が、あの男が主導した事態を快く思わない事を祈るばかりである。運が良ければエメリーン・バンスの件でも何らかの力添えを期待出来るかもしれないという打算も、勿論あった。彼女の裁判は来月の頭で、足掻けばまだ間に合う。
「さて、湿っぽい話はここまでにして、皆でお茶にしましょう」
とは言ってみたものの、きっと湿っぽい話は続いてしまうに違いない。隣で手際良く紅茶の用意をするクリーチャーの瞼はまだ腫れぼったいままで、喉も多少痛めたのか声も掠れていた。一体キッチンで何があったとレギュラス・ブラックに詰め寄られ、そこから発展する彼の身の上話を辛抱強く聞く程度の覚悟はしなければならないだろう。
せめてメルヴィッドの目が退屈で死ぬ前に話が終わりますようにと淡い期待をしながら綺麗に萎んだパン・デ・ローに包丁を入れた。湯気を放ちながらとろりと溢れた飾り気のない甘味が、彼のご機嫌を最低限のラインに留めてくれる事を願ってみる。