カマンベールチーズのコロッケ
洗い物の音に混じるようにしてリビングの会話が漏れて聞こえるが、音として聞こえるだけで内容までは判らない。とはいっても、あの3人は無駄話ばかりする私とは違い無意味な会話をしないだろうから話自体はスムーズに進んでいるだろう。
但し、私が予想するに進んでいる方向が若干宜しくない。
メルヴィッドが幾ら人好きのする魅力に満ちた会話を持ちかけたとしても、レギュラス・ブラックとクリーチャーの警戒心はどうにも越えられそうにない。このままではピーター君の受け渡しと多少の情報交換だけで用件が終わってしまい、肝心のロケット破壊まで漕ぎ着けることが出来ない可能性が出て来た。
「だからこそ、私にも会話に加われと言ったんでしょうねえ」
私に何かが出来るとは到底思えないが、先程よりも1つ多い4人分のお茶とお茶菓子を用意し終わりリビングに顔を出すと、常に周囲を警戒していたらしいクリーチャーと真っ先に視線が合う。10年振りに生きて返った主人が余程大切なのだろう、これ程の忠臣を私は紙や電子媒体でしか見たことがない。
老いたハウスエルフの睨め付けるような視線に笑顔を返すと、メルヴィッドが暖かい労いの言葉と共に召し上がって下さいと声をかける。勿論私に対しての労いは本心からではなく演技なのだが、それにしてもどうして彼は一挙一投足がこれ程美しいのだろうか。
そしてレギュラス・ブラックはというと従者の非礼を表向き窘めようとしたようだが、言葉を発する以前にその視線が停止している。何か礼を欠くような事でもしてしまったのかと尋ねようとしたがその前に、彼の向かいに座っているメルヴィッドが声を発した。
「申し訳ありません。何か失礼でも……」
「いえ、そのような事はありません。決して」
レギュラス・ブラックの視線はメルヴィッドから離れ、クリーチャーの前に置かれた紅茶とフランに固定されている。礼は欠いていないと彼は言ったが、私が知らないだけで、もしかしてハウスエルフにも何か特定の物質が摂取出来ないという事があるのだろうか。
確かこの種族はアルコールに対しての抵抗が非常に弱いはずだったが、今回は紅茶にもフランにもアルコールは使用していない。そうなると小麦粉、卵、乳製品辺りが妥当だろうか、否、バラ科の洋梨が原因かもしれない。
戸惑いの色を含んだクリーチャーの瞳が正面に向かうと、彼と同じくらい当惑している私の姿が映り込んだ。斜向かいのレギュラス・ブラックが安堵したように微笑んでいるのが私の疑問に拍車をかける。一体何がどう咬み合って動いているのか、全く理解が出来ない。
「クリーチャー、いただきなさい」
ややしてからレギュラス・ブラックが柔らかい声でそう言うと、クリーチャーはまず主人を、次にメルヴィッドと私を見て警戒心を緩め、恭しく頭まで下げた。どうやら感謝されているようなのだが、理由の見当が付かない。彼の好物なのだろうか、否、今までの事を振り返るにそんな態度では無かった。
訳が判らないと表情や空気で伝える私とメルヴィッドに対し、レギュラス・ブラックは優しく微笑んだまま言葉を続ける。
「貴方もこの子も、マグル界で生きて来られたのですね」
「あの、ごめんなさい。マグル界とは一体……」
何も知らないという設定を遠回しに告げる為に話に無理矢理割って入ると、メルヴィッドが困ったように笑いながら先程同じ質問をしたばかりだと面白そうな声で告げる。
「ミスター・ブラックが言うには、マグルの世界の略語だそうだよ。マグルというのは魔法を使う事が出来ない人間の事。対して、魔法使いが居る世界は魔法界と呼ぶそうだ」
「そうなんですか、覚えておきます。申し訳ありません、話の腰を折ってしまって」
「いや、私は構いませんよ。寧ろ私の発言の中で判らない言葉があるのならその都度質問して欲しいと言いたいくらいです、勿論ミスター・ガードナーも」
「お心遣い、感謝します」
玄関で発生した険悪とも付かない空気は既に消え去り、リビングの緊張も大分と緩んだ。原因は1杯の紅茶と1切れのケーキなのだが、理由が相変わらず判らない。
まあ、事態が好転したので深く考える必要もないだろう。どうしても気になるのならばもう少し彼等と良好な関係になり、距離を縮めてから尋ねればいい。
「さ、折角淹れ直してくれた紅茶が冷めてしまう、もお上がりなさい」
メルヴィッドと目が合い、ではいただきますと告げながら空いた左手を膝上に乗せて、指文字で先程の事態を報告する。勿論、正面に座る彼等の死角から。
『ツーマンセルからスリーマンセルへ変更。闇祓い1名追加、応援者名プラウドフット。騎士団員には非ず。車で張り込み、防衛専門』
『足止めは?』
『車のマフラーに仕掛け、1ブロック分』
『判った。ひとまずそれで行け、必要になったら追って指示を出す』
『了解』
指文字と挙動の制御に精一杯の私が黙ってフランを突いているのに対し、メルヴィッドはレギュラス・ブラックと和やかな会話をしながら返事をこなした。相変わらず彼の脳は一体どのような構造をしているのか気になるが、解説された所で理解出来そうもないので余計な思考はそろそろ省こう。メルヴィッドが話しかけて来た。
「が来るまでは私が出会った彼等、君ではない・の事を色々と話していたんだ。色々と言っても、私達がこうして暮らしている切っ掛けを作ってくれたとか、大した内容ではないけどね」
「いえ、ミスター・ガードナーの記憶喪失の事を含めて、私も考えさせられました」
里親の仲介と記憶喪失、どうやらその設定までは相手に話したらしい。
確かに、の事を話すのならばそれもセットにしなければならないだろう。自分が誰かも判らず見知らぬ人間に養子縁組を唆されて平和に暮らして来ただとか、引き取った里子が訳ありの魔法使いなどという話は都合が良過ぎて俄には信じ難い。しかし、その辺りはメルヴィッドの腕、否、舌の見せ所という奴だろう。
問題は、だ。次に回ってくる私が、取り返しの付かない大きなミスをしでかさないかという事だ。
「も、ミスター・ブラックに話してくれないかな、彼等の事を」
辛い思い出かもしれないけど、と心配するような声を出して白い腕が私の頭を優しい手付きで撫でる。メルヴィッドのその様子からレギュラス・ブラックは私の過去に薄暗い闇がある事を悟ったのか、無理に話す必要はないと言ってくれた。
クリーチャーも私の事を気にかけているのか、大きな瞳を真っすぐ向けてくる。
ミスをしないかという緊張を和らげる為にゆっくりと呼吸して頷くと、フォークから手を離し膝の上で両拳を強く握った。メルヴィッドの腕が名残惜しげに離れたのを見届けた後、重要な事を省いた話をもったいぶるようにして切り出す。
「私が彼女、に出会ったのは4年程前の事です」
「君の会ったは、女性なのか?」
「はい。あ、いいえ……多分、そうだとしか。真夜中の、とても暗い部屋でお会いしましたし、その当時の私は眼鏡を掛けていなかったのではっきりとは判らなかったんですが。声や雰囲気が女性のようで、お姉さんと呼んでも否定されなかったので」
「そう、か。では其々皆、違うに会ったんだな……ごめんね、話を続けて」
メルヴィッドが老爺、私が若い女性、そしてレギュラス・ブラックが青年。目撃談だけ纏めると確かにの名を持った者が3人存在する事になるが、勿論そんなものはまやかしだ。
レギュラス・ブラックが、メルヴィッドかダンブルドアかヴォルデモートか、誰に転ぶかは今の所判らないが、この情報を保持したままならば誰に転んでもメルヴィッドが不利にならないだろう。
しかし監視やら尋問する輩やらがきっとそこら中に湧いて出るので、その事を考えると彼にはメルヴィッドに転んで欲しいところである。
「彼女は、命を救ってくれた恩人です。当時、伯父夫婦に虐待されていた私に食事を与え、怪我を治して下さいました」
虐待という、彼等の日常からは乖離した単語にクリーチャーは目を剥き、レギュラス・ブラックは眉を顰めて何か言葉を探そうとしているのか口許に手を当てた。
クリーチャーの忠義や仁義にしても、レギュラス・ブラックもその死ぬ間際に取った行動から見ても、心根が美しい存在なのは確かである。その彼等にとって、虐待という事実は酷く心を痛める言葉だったようだ。そういえば、当時のメルヴィッドもまた、杖を握りしめ一家惨殺を即断するくらいに怒っていた事を思い出す。
スリザリン寮の出身者やそこに所属する存在が冷酷だとか狡猾だとか陰口を叩く人間は、一度彼等を見てみるといいのかもしれない。グリフィンドールの特徴だと言われている勇気も行動力も、そして傲慢で盲目的な正義すらも、一度こうだと決めた彼等には遠く及ばないと知ることが出来るのに。
「今はもう大丈夫です。メルヴィッドが、一緒に居てくれますから」
幸せなのだと笑うと、緊張していた場の空気も緩む。メルヴィッドの左手がよく回る口だと告げたが、少なくとも今の言葉に嘘はない。かといって、相変わらず本心からの言葉ではないのも確かではあるが。
私自身もよく判っていないのだが、これは幸せと呼ぶよりは、楽しい、心が踊る、という類の感情が妥当なのだろうか。最終的に勝つにしても負けるにしても、ゲームは何よりも途中経過を楽しんでこそなのだから、多分その感情が限りなく正解に近いように思えた。
爺の私が年齢も弁えずに浮かれ狂うのもどうかとは思うが、メルヴィッドやユーリアン曰く私の価値観やら何やらは色々と常軌を逸しているらしいので、今更浮ついているのを自覚しても問題らしい問題にはならないだろう。
「ただ、彼女が何者なのかは私には判りません。体が透けていたので幽霊なのかと訊ねましたが、彼女は幽霊でも悪魔でも、天使でも神様でもないと、人の皮を被った化物だと。淡々と、そう答えました……今となっては記憶も朧気なので、そのような話をした程度しか覚えていませんが、はっきりしている事は、彼女に直接お会いしたのは後にも先にもその一度きりだという事です」
「直接という事は、君にもミスター・ガードナーのように?」
「はい、偶に手紙をいただきます。今でも数ヶ月に一度、お金と一緒に」
「彼は手紙や参考書と言っていたけれど、君にはお金が?」
「多分、大人の方から見たら大金ではありません。小遣いだと、手紙にはそう書いてありました。虐待から保護された私のような経歴の里子は満足な生活をさせて貰えないだろうからと、簡単な料理のレシピなんかと一緒に、薬や食べ物や、勉強道具を買いなさいと」
「ああ、成程。そういう理由でなのか」
一息ついて紅茶を口に含み、乾いた口内を湿らせる。ティーカップをソーサーにゆっくり戻して、安堵の表情を作った。
「今までこんな事、誰にも話せませんでした。化物と名乗る女性が突然現れて今でも私を助けてくれているなんて。だから、メルヴィッドと出会えた時は本当に嬉しかった。想像上の友人を作って現実逃避をするなと叱咤せず、事実をありのままに受け入れて、真実を判ってくれる人がやっと現れてくれたと」
「君は、本当に彼の事を慕っているんだね」
「はい。ああ、そうです。言い忘れていましたけれど、見付けて下さったぬいぐるみのピーター君、彼も彼女からの誕生日プレゼントなんですよ」
「ピーター……ああ! そうだ、まだ君にぬいぐるみを返していなか、痛っ!」
表向きの訪問目的を今更思い出した事を恥じたのか、慌てて杖を取り出そうとしたレギュラス・ブラックは、そのまま勢い余って右手をテーブルにぶつけ、紅茶をひっくり返す。クリーチャーもクリーチャーで主人の名を呼びながら紅茶がテーブルの端に届く前に消失させたり、私達に謝ったり、慌てる主人を落ち着かせたりと忙しない。
繕いが取れた歳相応の可愛らしい顔を真っ赤にして失態を詫びながらピーター君を手渡すレギュラス・ブラックに私は微笑み、メルヴィッドは声を立てないようにしながら朗らかに笑った。ユーリアンに向ける笑みによく、似せている。
「いや、失礼。お陰で緊張も解れました。」
「はい、新しい紅茶を淹れて来ますね。申し訳ありません、ミスター・クリーチャー。お客様に片付けをさせてしまって」
「いいえ、クリーチャーは喜んでお片付けになります」
受け取ったピーター君をソファの隅に座らせ手を開けると、ハウスエルフらしい口調でクリーチャーがティーカップを渡してくれた。当然、これも疑問に思うべきだろう。
ただ、言葉よりも早く私の行動が一瞬静止した事に気付いたレギュラス・ブラックは、彼はそういう種族なんだと赤い顔のまま話し掛けてきた。
「ハウスエルフといって、今のが彼等の標準語なんだよ」
「そうなんですか」
「普段は私達と同じ様に喋る事が出来るんだけど、少し興奮しているのかな」
「控えめな興奮の仕方をなさるんですね」
小さな体に不釣り合いな大きな目玉と視線を合わせ可愛らしい方だと呟くと、それを耳聡く聞き付けたのかレギュラス・ブラックが今や半分以上欠けている紳士の仮面の残りをを破り捨てて、物凄い速度で食い付いて来た。
「僕と同じ考えをする人に初めて出会えたよ。君には判るんだろう、彼等が、ハウスエルフが如何に愛らしいか」
「レギュラス様。クリーチャーは誠にお恥ずかしい限りで御座います」
そうだ、思い出した。否、何故忘れていたのだろう。彼は自らの命を賭す程クリーチャーを可愛がっていたのだ。
先程態度が急激に和らいだのはハウスエルフも人間も区別なく、同等に客人扱いした事について喜んだからに違いない。妖怪も人間も神様も同等である実家と同じように振舞ってしまったが、確かにイギリスの魔法界から見れば私のもてなし方は少々奇怪に映るだろう。
私の性質を知るメルヴィッドはこの魔法界では奇特とされる言動を判っていたのだ。私が下心なくレギュラス・ブラックとクリーチャーに全く同じもてなし方をする事を。だから失言の多い私のマイナス点に目を瞑り、同席するようにと誘ったのだろう。
「、しばらくお客様の相手を頼むよ。紅茶は私が淹れてこよう」
とても付いて行ける世界ではないとばかりに、メルヴィッドはティーカップを持ってキッチンへ逃亡を開始した。ホストが席を外すのは本来ならば非礼なのだが、今この瞬間に於いては寧ろ私が席を立つ方が非礼なのかもしれない。本当にそうなのかは判らないが。
テンションが上がっているのかテーブル越しに両の手を握って離さないままハウスエルフの素晴らしさについて語り出したレギュラス・ブラックの言葉には、取り敢えず同調しておく事にする。丁寧語と尊敬語と謙譲語が入り乱れる言葉遣いや目元自体は切れ長だがボールのように大きなな目玉、細い丸太に長い枝を突き刺したような身体つきが可愛いと思ったのは確かであるのだから。
己の価値観を正直に告げると、レギュラス・ブラックは益々喜びの感情を顕にし、クリーチャーは主人の暴走を止めようと右往左往する。しかし結局従臣の努力は実らず、紅茶を淹れ終わったメルヴィッドがリビングに戻って来るまで、延々と彼の語りは続いたのだった。