曖昧トルマリン

graytourmaline

角切りトマトのガスパチョ

 香は魔縁をさけて聖衆をあつむる徳侍り。しかるに、聖衆生死を深くいみ給ふほどに、心の出くる事難き也。沈と乳とを焚くべきにや侍らん。又、反魂の秘術をおこなふ人も、七日物をば食ふまじき也。
 さて、これがかの撰集抄、巻五第一五に収められている西行於高野奥造人事から引用した反魂の術の一部である。
 術に失敗した西行法師に伏見前中納言師仲卿が述べたこの言葉を要約すると、抹香には魔性を遠ざけて菩薩の類を招きよせる徳があるので使ってはいけない。菩薩の類は生死を厭うので、折角人を作っても心を与える事は困難である。焚くのならば沈香と乳香が適当で、また反魂の秘術を行う者も7日の間は断食しなけれればならない。という事である。
 他にも砒素が出てきたり、様々な植物を集めて使用したりと色々な事が書いてあるが、この通りに使用すればひとまず意思を持った人間が出来上がる。一般人が作れるかどうかは知らないが、少なくとも魔法使いならば可能な術であった。
 代用品として他にも漢の武帝が使用した反魂香があるが、これは蘇りの石と効果が同じで触れ合う事が出来ないので今回の件では使用出来ない。そもそも、この反魂香の元となる反魂樹が東海の祖洲や西海の聚窟洲という辺鄙というか一般人お断りの場所に生えている為、入手が非常に困難なのである。
「普通は入手困難なのが当たり前なんだ、私からしてみればこの術の方がありえない」
「そう言われましても、私の世界では可能なんです」
 出来てしまうものは仕方がないと告げると、メルヴィッドは諦めたように溜息を吐き自分の作業へと戻って行った。
 8月最後の日曜日の朝、空は今の所、快晴。庭のプランターで育てているハーブの世話をしている最中の事である。
 天気予報によると今日は暑くなるらしいので今の時間帯に終わらせてしまおうと雑草を引き抜きながら薬草の成長具合を確かめ、各々の様子を観察ノートに書き込んで行った。大体は順調に生育しているのだが、土との相性が悪いのかプランターに植えられた背の低いローリエだけ少し元気がないようである。同じ土や肥料を使用している他のハーブは元気なのだが、何故この子だけ成長が遅いのだろうか。
 理由が判らず首を傾げる私の背後で、メルヴィッドは自分の腕を一定水準以下まで衰えさせない為に屋外のダイニングスペースを陣取り、久々に朝食作りに励んでいる。
 温められたスープ、手作りのハムとハーブソーセージが焼けるいい匂いがする。ドライフルーツ、ナッツ、ヨーグルト、シリアル、マッシュルーム、卵、薄く切ったトースト等、他に並んでいる材料を見ると本日は伝統的なイギリスの朝食にするらしい。味と見た目と調理法以外で。
「だがその魔法、出来たと言う人間は居ないのだろう?」
「言える訳ないじゃないですか、口に出したら術者も甦った方も消滅してしまうんですよ。その代わり甦らせた事を書面で通知する方は祖母や父の知人に居たそうですが」
「それは言ったも同然だろう」
「口にさえ出さなければ何とでも」
「何だそのザル規定は」
「枠さえ残っていればいいのでしょう。ああ、メルヴィッド。そろそろ引き上げないとソーセージ爆発しますから、気を付けて下さいね」
「このくらいが引き上げ時だったか、後でスープの味見もしろ」
「メルヴィッドが味見しながら作ったのなら心配無用ですよ」
「いや、一味足りない気がするが、何を入れるべきなのかが判らない」
「そういう事ですか。物足りないのなら、塩気ではないと思いますが」
「……お前達、朝から夫婦の惚気を見せ付けるな!」
「おや、おはようございます。ユーリアンも一緒に土いじりしますか?」
「お前の為だけに敷地内で防護呪文を張っているとはいえ、万が一にでも見られたどうするつもりだ。さっさと失せろ、もしくは姿を消せ」
「夫婦って単語に突っ込んでくれないかな!?」
 朝から元気で低血圧とは縁遠そうなユーリアンは突如姿を現して、今日も今日とて満身の力を込めて絶叫する。自分でボケを振っておいて突っ込んで欲しいとは中々難易度の高い要求をするものだ、メルヴィッドはきっと判って放置したのだろうが。
 ユーリアンを無視して、ハムとソーセージを皿に移しマッシュルームを炒め、溶き卵を加えてスクランブルエッグを作ろうとしていたメルヴィッドの目がようやく、かなり面倒臭そうな雰囲気を帯びて向けられた。矢張り私には彼等が弟の我儘に手を焼く兄にしか見えない。
「この化物を母親にしたいとは遂にお前も気が狂ったか」
「何でそうなるんだ!?」
「そんな、ユーリアン……こんな爺を母だなんて」
「俯くな頬を染めるな涙声を出すな気持ち悪い!」
 私達の冗談がお気に召さなかったのか白い肌から更に血の気を引かせ、序でに姿も気配も消して指輪の中に引き篭ってしまったユーリアンに対し、メルヴィッドは心底どうでも良さそうに肩を竦めながらスクランブルエッグを作り続けた。
 もうそろそろ朝食の用意が整うだろう。例のスープの味見をする為にダイニングスペースに上がって、土塗れの軍手を外してノートを閉じた。
 鍋の中でふつふつと煮立っているトマトと豆のスープを一口啜り、確かに全体的に締りのない味だと納得して庭で群生するバジルを切り取り、粗挽きした黒胡椒と共に鍋の上に散らし終えたものを再び味見する。少々癖は出たが纏まったのではないだろうか。好みは分かれるだろうが、メルヴィッドならばきっと食べてくれるだろう。
 もしもの時の為にメルヴィッド好みの甘いロイヤルミルクティーの用意に取り掛かると、隣でその嗜好を持った主がフライパンを揺すりながら話しかけて来る。
が珍しく乗って来たな。一体どういう心境の変化だ?」
「仕掛けたのはメルヴィッドでしょう。それでなくとも連日貴方達の微笑ましい漫才を見ていると偶に混ざりたくなる気持ちが湧き出て来るんです、きっと今日はその気持が抑え切れずに乗りたい気分だったのでしょうね」
「存外楽しそうだったな」
「貴方もね」
 綺麗に完成したスクランブルエッグをソーセージと同じ皿に移している隣で、私もスープを器によそい屋内の冷蔵庫からラズベリーのジャムとオレンジジュースを呼び寄せた。ミルクティーはもう少しかかりそうだが、先に食べ始めても問題ないだろう。
 小麦の皮で出来たシリアルにドライフルーツとナッツを混ぜ込み、それをヨーグルトに散らしていると皿にソーセージと卵を盛ったメルヴィッドが食卓へ現れる。彼の右手に持っている皿に盛られた量が尋常ではないのは何時もの事だ。
 因みに、意外に思うかもしれないが、この家の食費への出費は大層な額の割にエンゲル係数は一般中流家庭並である。勿論極力食材を無駄に捨てないよう爺なりの努力はしているが、それ以外の理由としてメルヴィッドの給料やら私の内職やらポッター家の財産やら収入が結構あるのだ。
「マーマレードはないのか」
「オレンジがジュースと被るじゃないですか、トマトジュースもスープと被りますし」
「先月にレモンマーマレードを買った」
「おや、何時の間に」
 未開封だから冷蔵庫には入っていないと言いながらラズベリージャムを杖の一振りで消して、何処かに放置していたらしいレモンマーマレードを呼び寄せる。1ヶ月程放置された所為で瓶の表面にうっすらと埃が積もっているが気にする程の事でもないだろう。彼は必要ではあるが重要ではない物の扱いは割りと雑であった、私が良い例である。
 最後にカトラリーを用意して準備は終わり、向い合ってそれぞれ朝食にありつくが、普段は何気ない会話を交わす所なのに互いに一向に口を開かない。
 理由は、勿論判っている。
「……からかい過ぎたか?」
「母親ネタは、拙かったでしょうか」
「いや、私は平気だが」
「だって彼まだ成人したばかりの多感な10代ですよ。1世紀生きた爺や世間の荒波に揉まれた上に私と3年以上過ごした20代とはメンタルが違うのでは」
「ああ、そういわれれば、私もお前と協力しあってもう3年以上になるのか。確かにここ最近色々と麻痺しているような気がして来た」
「今はユーリアンの心配して下さいよ」
「私は常に、誰よりも私自身が大切だ」
 何時もなら朝一番の口論で負けたユーリアンが第二の襲撃をする事なのだが、その気配が訪れる様子が微塵もない。落ち着きを取り戻したメルヴィッドとは反対に、私は妙な焦りを見せながら恐る恐るトーストに手を伸ばすと、突然家の中から破壊音が轟く。防護呪文の為音が敷地外に出ないのが救いであった。
 敵襲かと誤解しそうなそれはしかし、今の私達にとって安心出来る音である。
「ユーリアン、家具に八つ当たりしていますね。調剤室が無事であればいいのですけれど」
「全くだ。あそこには魔法界の書物や新聞がごまんとある、印刷されている写真に嗅ぎ付けられては元も子もない事が判らない程の馬鹿ではないと思いたいが」
「念の為外界の情報が入ってこないように呪文を施して、貴方以外は部屋に入れないようにしてあるとは聞いていますが。この破壊音を聞くとどうにも不安になりますね」
「お前の部屋はやられているかもしれないな」
「大した物はないのでそれ程打撃はありませんが。しかし、この前買った発泡スチロールは無事であって欲しいですね」
「ああ、あれか。あんな塊を買って一体何に使う気だ」
「爺の要らぬ心配を少しでも解消する為とでも……おや、屑籠が廊下を飛びましたね」
「後でシメるか。あの餓鬼が、大体誰が片付けると思っているんだ」
「さも自分で為さるような台詞ですが、勿論私ですよね?」
「お前にはこの後やって貰いたい事がある。片付けはあれにやらせよう」
「あの子出来ますかね、そういうの。もしもまともに過ごせそうになかったら調剤室に居て下さいね、後でやっておきますから。それで、私がやるべき事とは?」
 お前はユーリアンに甘いと視線で語りながらポケットの中から取り出した鎖状の物を投げ付け、後は判るだろうと視線だけで指示を出す。彼の口は今スクランブルエッグを咀嚼するのに忙しいらしい。
 手の中で朝日を反射して輝いているのは緑の宝石が散りばめられたSの文字。以前に私がアンティーク市で購入したロケットを魔法で弄り、記憶を頼りにメルヴィッドが本物と瓜二つに仕上げたサラザール・スリザリンのロケット。
 蓋は決して開くことなく、触れただけでも強力な防護呪文で守られている事が判り、長い間握り込んでいると寒気が来る仕組みになっているようだ。ぱっと見ただけでは本物と区別が付かない上、生半可な魔法では壊せないように作られている。
 魔法や科学の道具を一切使用せず、肉眼だけで真贋を見分けろと言われたら無理だと言える。それ程精巧にこのロケットは作られていた。
 これをブラック家の本物と擦り替えろ、という事である。
「くれぐれも悟られるな」
「肝に銘じます」
 厚く切ったハムにナイフを入れながら、メルヴィッドは上から絶えず聞こえる破壊音に溜息を吐きながら続けた。
「それと、絶対に生気を与えるな。これ以上の面倒は、今はまだ手に余る」
「承知しました」
 ロケットをポケットにしまい、そろそろミルクティーが出来上がる頃かと席を立つと、丁度建物の陰から現れた近所の老夫婦と垣根越しに視線が合った。どうやら、愛犬と一緒に朝の散歩をしていたらしい。
 メルヴィッドと私が其々挨拶をすると、夫妻は実に微笑ましそうなものを見る目で私達に挨拶を返してくる。
「珍しいね、今日は外でお食事かな?」
「ええ、天気もいいので弟と一緒に。そちらはお散歩ですか?」
「そうなの、夫とこの子と一緒に歩くのが毎朝の日課よ。あらまあでも本当に、仲が良くて羨ましいわ、ねえ、坊や。彼、優しいお兄さんでしょう? 近所でも評判なのよ?」
「はい、とても優しい、尊敬出来る兄です。凄く格好良いですし」
「そうよね、格好良いわよねえ。私の旦那様の若い頃には負けるけど」
「旦那様は今でも格好良いじゃないですか、お似合いのカップルだと思いますよ」
「弟君もお兄さんに負けず口が上手いね。しかし本当に仲が良くて羨ましいよ。いや、偶に買い物に出掛ける君達を見掛けるんだがね、その度に思っていたんだ」
 夫妻は真っ白な髪を陽光で煌めかせながらにこやかに笑い、私達も出来るだけ人のいい笑みを浮かべて応対する。内心でメルヴィッドは食事の邪魔をされた事に腹を立て、私は私でミルクティーの心配をしているのだが。
 何とか夫妻の会話の合間を見つけミルクティーだけでも救出させると、破壊音と共に薄茶色の液体に映った何かが揺れた。これは、窓硝子だ。
「あら、何かしら。もしかしてペットでも飼い始めたの?」
「そうだね。今、窓硝子に何かがぶつかって揺れたような」
「ああ、それは弟です。ついこの間、此方に来たばかりの」
 彼等には聞こえない破壊音を無視して柔らかな笑顔を浮かべてるメルヴィッドだったが、夫妻の視界から隠れた手元のソーセージが惨殺死体の姿に変わり果てている事に私は気付いた。気付かない訳がないだろう。
 脳内でユーリアンに向かって十字を切っている最中、メルヴィッドは畳み掛けるように、しかし決して言い訳じみた口調にならないよう尤もらしい説明を始めた。
「私が扱う漢方薬の仕入れルートを開拓してくれているんですが、世界中飛び回り放しでお会いする機会に恵まれませんでした。ああ、それでその弟、この子と違って寝起きが酷く悪いんです。大方朝食の匂いで目を覚まして、寝惚けてぶつかったんでしょう」
「おや、そうだったのか。是非見てみたいものだね」
「そうね、お兄さんが格好良くて弟君は可愛い顔立ちだから、その中間かしら」
「彼は私似ですよ。ただ生憎、またすぐに東アジアの方へ行くようなので、残念ですが」
「あらそうなの、残念ね。じゃあまたの機会にね」
「そうだね。おや、もうこんな時間だ、長話をして済まなかったね。よい一日を」
 老夫婦が無邪気な笑みを浮かべたまま犬と共に去っていた後、出来上がったロイヤルミルクティーを手渡そうとして、メルヴィッドが輝かんばかりの笑顔を浮かべている事に気付いた。陽光ではなく、スタングレネードを一斉射撃したような輝きだったが。
「あの馬鹿は、後でシメないとな」
 人は、自らを律する事の出来る限界まで激怒すると自ずと笑顔になってしまうらしい。
 この後、逃走も許されず確実に制裁が加えられるであろうユーリアンに、私は自業自得という言葉を心の中から送りたいと思う。