面霊気〈肆〉
青葉は陽を受けて輝き、築山の苔は深い緑を湛えていた。池には雲ひとつない空が映っていて、時折、水面を撫でる風がその青を細かく砕いては何事もなかったように元へ戻してゆく。睡蓮の葉はその揺らぎに身を任せるように傾いていたが、その穏やかさの下には見えないものが息を潜めている気配があった。
広い庭を横切る石橋の中央に、薬売りは欄干へ軽く指先を添えて立っていた。水面を覗き込んでいるようにも見えたが、その視線は映る空ではなく、更に深い水底の闇へ届いているようでもある。錦鯉がゆるりと尾を振って石橋の影へ潜り込み、睡蓮の葉の下からは小さな魚が銀の背を閃かせて走った。至る所に春を迎えようとする昼の庭の光景が溢れている。
それでも、この屋敷には何か、景色へ溶け込まないものがあった。
風景は静かであるのに静まらず、陽は明るいのにどこか翳りを孕み、水面は鏡のように澄んでいるのに、その底には誰かの視線でも沈んでいるような居心地の悪さが拭えない。
怪異とは、姿を現して初めて怪異となるものではない。
人の暮らしの隙間へ染み込み、誰もその違和を言葉に出来ないまま積もってゆく。その積もり積もった澱が、ある時ふと形を得る。
「 しかし 鏡ではない 」
飛び石を踏む軽やかな足音が近付いて来た事を知った薬売りが顔を上げると、が姿を現した。腕に抱えた花籠は行きと変わらず色とりどりであるのに、不思議と花々までがこの屋敷の空気に気圧されたように幾分色を失って見える。
「 さて 聞けたか 」
薬売りは振り返りもせずに問い、は水面を一瞥してから肩を竦めた。
「聞けたと言えば聞けたのでしょう。ゴサイ様は自分の好きな花も好きな食べ物も。よくご存知でおりましたよって」
そこで言葉を切り、自身の感じた違和感を口にする。
「しかし。妙な御方でした」
「 妙 とは 」
「ゴサイ様は好きな花の色を答えました。しかし花を見ても何も思い出さない者のようで。花を好きであったという過去のみは確かにあるのです。けれどその思いと。今眼前にある花との間に深い河があるような」
言葉を探しながらは眉根を寄せ、頭の上に浮かんだ感情の形をどう定義してよいのか分からないと首を傾げた。対して薬売りは水面に目を留めたまま口を閉ざし、緩く流れる雲影を視線で追う。魚影が水面を掠め輪のような波紋が静寂を破り、薬売りの着物の袖がそよ風に揺れて、帯の房飾りがかすかに触れ合う微かな音が聞こえた。
やがては息を一つ吐く。自分の中の感情の言語化を諦めた者の溜息だった。
「花だけでは御座いません。好きな色も好きな娯楽もその調子でして。それで一つ尋ねました。幼い頃に何をして遊びましたかと」
薬売りの視線だけが僅かにへ向く。
「ゴサイ様は山と答えました。ですがその途端」
「 鏡が 割れた 」
確認のように放った薬売りの一言に鈴の音が応え、風も、鳥の囀りも、何か遠く隔てられたように静まり返った。
薬売りは細く息を吐き、指先に天秤を掲げてモノノ怪との距離を測る。しかし天秤は爪の先で無関心に回り続けるだけで、まるで釣り合いなどとっくに取れているかのようにどちらにも傾こうとはしなかった。
は更に詳細を語り、割れる寸前の鏡の中で自分が見たものを薬売りに伝える。秋の山を駆ける幼い後妻、少女に重なる能面のような女の顔、少女の全てを強く否定するかのように女の顔が告げるあの方という誰か。その言葉に右手に握られていた退魔の剣がもどかしいとでも言いたげに歯を上下に揺らす。
薬売りは剣へ目を遣る事もなく柄へ静かに掌を添え、僅かに鳴っていた鍔の震えはまるで主人へ窘められた獣のように次第に収まり、やがて鈴の音だけが風へ細く溶けていった。
斬るべきものは既に姿を現しつつある。しかし、その刃が求める三様は未だ揃わない。ここに巣食うモノノ怪を三分咲きと評したの見立ては正確で、周囲に甚大な害を与えない代わりに求める三様までの道もまたか細い。
橋の下では何事も知らない鯉が尾を翻し、水底へ消えていく。一拍置いてから、が口を開いた。
「あの方とは。ドナタでしょうか」
薬売りは視線だけをに向け、すぐに反対にある母屋の縁側にそれを移す。視線の先の老女中もまた薬売りの視線に気付いたようで、無言でのやり取りの後に庭へと降りた。
両腕には布を敷いた籠を抱え、その中には陽光を受けて細かく光る硝子片が幾重にも積まれている。欠片の一つ一つは小さく陽を受ければそれぞれが異なる景色を映し、砕けた鏡でありながら、なお何かを映そうとしているようでもあった。
老女中は足元へ視線を落とし、庭石を選ぶように静かに歩いてくる。その歩みには乱れがない。長い年月をこの屋敷で過ごし、喜びも別れも、誰にも語らないまま胸へ納め続けた者だけが持つ、静かな重みがその肩に滲んでいた。
この家の移ろいを見続けてきた者。家を知り、店を知り、主人を知り、前妻を知り、後妻を知り、その狭間に流れた歳月を誰より近くで見届けてきた者。恐らくは、この屋敷に残された記憶そのものである。
老女中は石橋の袂まで来ると二人の姿を認めて静かに一礼した。腕に抱えた籠が僅かに揺れ、その中で銀色の硝子片が触れ合い微かな音を立てる。その音は鈴にも似ていたが、どこか乾いていて耳に届くより先に消えてしまうような頼りなさがあった。
薬売りは一礼を返すこともなく、その籠へ目を落とした。大小様々な欠片は、空を映し、木々を映し、池を映し、そして二人の姿を幾つにも砕いて映していた。同じ顔である筈なのに、ある欠片では僅かに笑い、ある欠片では伏し目がちとなり、あるものは目元だけを切り取って、まるで他人の眼差しのように覗き返している。
鏡とは映すものを選ばない。そして砕かれた途端、一枚であれば決して生まれなかった無数の貌を生み出す。
薬売りはその欠片から視線を上げると、老女中の皺深い顔を静かに見据えた。
「 少々 お尋ねしたいことが御座います 」
「何なりと」
その返答に迷いはない。
あたかも、この時が来ることを幾年も前から知っていた者のように。
風が橋を渡れば庭木の梢が擦れ合い、木漏れ日が老女中の顔へ細かく揺れた。その陰影は歳月そのものが皺となって刻まれたかのようであり、穏やかな眼差しの奥には容易には掬い上げられない深い記憶が静かに沈んでいる。
薬売りは急かさない。人の口から語られる真は、問い掛けた瞬間に現れるものではない。沈殿した水を掻き回せば濁るばかりであり、静かに待てばやがて底にあったものが自ら姿を見せる。
「 今の奥方様は 」
薬売りの声は風へ紛れるほど穏やかだった。
「 いつ頃 このお屋敷へ 」
老女中は抱えた籠へ一度目を落とす。
硝子片に映る空は細切れとなり、欠片ごとに異なる青を湛えていた。その一つを見つめるうち、彼女の視線は次第に現在から遠ざかっていく。
やがて、乾いた唇が静かに開かれた。
「まだ、お嬢様とお呼びしていた頃で御座います」
その声音は誰かの噂を語るものではなく、既に過ぎ去った日々を一つずつ掌へ載せ直すような慎ましさを帯びていた。
「今の奥方様は、花嫁修業の為に上女中として参られました」
風が止む。庭は昼の明るさを保ちながら、不意に音だけを失った。
老女中は目を伏せ、懐かしむように微かに笑む。
「それはもう、よう働かれる方でして」
その微笑みは今の後妻へ向けられたものではなく、まだ何者にもなっていなかった一人の娘へ向けられたものだった。
老女中の眼差しは、石橋の向こうでも、庭でもなく、もう幾年も前の屋敷へ向けられていた。はその視線の先に、鏡の中で見た少女の姿を幻視する。
「元より、このお屋敷へお嫁入りなさる筈では御座いませんでした」
「 まあ 上女中とは大抵 そういうものですね 」
「ええ。御実家と懇意にしておりました商家へ嫁がれるお話が、幼い頃より決まっておりましたので。こちらへ参られたのも、その家へ入る前に礼儀作法や家事一切を身につける為で御座いました」
花嫁修業。その響きは穏やかである。
しかしそれは、一人の娘が嫁ぎ先の家風へ己を馴染ませる為の歳月でもある。歩き方を覚え、言葉遣いを改め、帳場の仕切りから客人への茶の出し方に至るまで、嫁ぐ先の家で恥をかかないよう、日々少しずつ己を整えてゆく。
それは裕福な家の娘ならば誰しも通る道であり、殊更に珍しい話ではない。
「明るく聡明で、朗らかなお方でした」
老女中は小さく笑う。
「紅葉が好きなお方でした。秋だけではなく、春に咲く赤紫の小さな花も、夏の緑も。冬に葉を落とした庭木に来る小鳥をご覧になっては目を細め、休みの日となれば裏山へ登りたいと仰るようなお方で」
その言葉に、は鏡の前で後妻が零した一言を思い返す。
あれは決して作られた答えではなかった。誰にも教えられず、誰の真似でもない、彼女自身の記憶だった。
「ですが、御縁とは、時として人の望まぬ方へ転がるもので御座います」
老女中の抱えた籠の中で、硝子片が小さく音を立てた。
「嫁ぎ先の御店が傾きまして」
静かな声音はそれだけで済ませるには余りにも短い一言でありながら、その背後には幾人もの暮らしが揺らぎ、幾つもの約束が音もなく崩れてゆく重みが滲んでいる。
彼女もまた、商売を生業とする家に勤める者だからこそであろう。
「最初は持ち直すと、皆そう申しておりました。されど商いとは、坂を転げる石のようなもので。一度勢いを失いますと、止めようにも止まりませぬ」
再び風が池を渡り、水面に映る空が揺れ、その青は硝子片の中でも細かく砕けた。
「婚儀のお話は延び、また延び、やがて先方様からお断りが入りました」
硝子片の一つを見つめるその口調には恨みも憤りもない。ただ、そういう時代であった、と語る者の静けさだけがあった。
「誰が悪いという話では御座いません。商いが傾けば、家を守ることが先になります。婚儀どころではなくなるのも、無理からぬことで御座いました」
そう言って小さく息を吐く。
「ですから、お嬢様もお帰りになるものと、皆そう思っておりました」
「 しかし 前の奥方様が 病に伏せられた と 」
「はい」
その一言は短く、それだけに重かった。
「前の奥方様は、お身体の丈夫なお方では御座いませんでした」
庭を吹き抜ける風が枝を揺らし、葉擦れの音が木陰へ幾重にも重なって消えてゆく。
「季節の変わり目には床へ就かれる事も御座いましたが、それでも気丈なお方でした。決して弱いところをお見せにならず、旦那様の前ではいつも笑っておいででした」
老女中は懐かしむように目を細め、僅かに首を振る。
「けれど、あの年の冬で御座います。一度床へ伏せられてからは、お身体が戻る事は遂に」
昼の日差しは少しも陰りを見せずにいるのに、その場だけが薄曇りへ入ったような静けさに包まれた。
池では一尾の鯉が水面近くまで浮かび上がり、口を開いては閉じる。その波紋だけが、時の流れを忘れないよう静かに広がっていた。
「それからは、お薬もよう使いました。朝も昼も夜も。町のお医者様も、遠くから名医と呼ばれる方もお呼び致しましたが」
言葉はそこで尽きた。続きを語るまでもないのである。
薬売りも、花売りも、その沈黙を遮らなかった。その沈黙を受け取った老女中は、やがて静かに口を開く。
「家の内では、様々な話が御座いました」
その声音は慎重であった。
「跡取りの事。御店の事。御親類のお考え。奉公人の間でも、この先どうなるのかと囁かれぬ日は御座いませんでした」
主人の愛妻が病に伏せれば、それは病だけでは済まない。
暮らしがあり、家があり、商いがある。一つの命を巡って、多くの思惑が絡み合う。それは情の浅さではなく、人が世を生きるということの重さであった。
「旦那様は、後添いを迎える事に、決して首を縦には振られませんでした。前の奥方様がお元気になられると、最後まで信じておいででしたから」
その言葉には主人を責める色も、哀れむ色もない。
ただ、その真っ直ぐさを見届けてきた者だけが持つ実感が滲んでいた。
「ですが。前の奥方様は、ご自身のお身体をようご存じでいらっしゃいました」
老女中の低い声に風が止み、池の水面は一枚の鏡のように静まり返る。
「ある日、奥方様は、お嬢様をお部屋へお呼びになりました」
老女中はその日のことを思い返すように、遠く母屋の一室へ視線を向けた。
「二人で何をお話しになったのか、誰も存じませぬ。ただ、その後で奥方様は旦那様へ申されたので御座います」
老女中は一度目を閉じた。
「『私がいなくなりましたら、あの方を妻に迎えてくださいませ』と」
花売りは僅かに息を止めた。反対に、薬売りは表情を変えない。
老女中は静かに首を垂れる。
「旦那様は、お怒りになりました。まだ生きている奥方様の口から、そのような言葉を聞きたい者などいるはずもありません。けれど、前の奥方様は、それでも考えをお変えにならなかったので御座います」
老女中の口元に、ごく淡い微笑が浮かぶ。その笑みは、過去を慈しむ穏やかさであった。
「お嬢様のことを、それはそれは可愛がっておいででしたから」
「 それは いずれ商家に嫁ぐ 同じ境遇の娘だからですか 」
「いいえ、嫁入り前の娘としてでは御座いません。まるで、妹のように」
庭を渡る風が、二人の間を柔らかく吹き抜ける。
「花がお好きだった奥方様と、山がお好きだったお嬢様。好むものは違いましたが、お二人は不思議なほど気が合いまして。縁側で季節の花をご覧になりながら、よく笑い合っておられました」
その笑い声だけは、今もなお、この屋敷のどこかへ残っているように思われた。
老女中は懐かしむように目を細めるが、その眼差しの先には、もう誰の姿もない。だとしても、縁側には二人の娘が並んで座り、庭へ咲く花を眺めながら他愛もない話へ笑みを零しているのであろう。皺の刻まれた口元には悲しみを含んだ穏やかな笑みが浮かんでおり、遠い昔、もう二度と戻ることのない日々が不意に胸へ触れた者だけが零す笑みであった。
幾年も前の事を、まるで昨日の事のように老女中は語る。
彼女の瞼の裏に残るのは、まだ庭木が若く、縁側の柱に新しい木肌の色が残り、病も別れも知らない頃の屋敷である。
人は古い記憶を語る時、思い出しているのではない。その時分へ、一度だけ帰る。
老女中の声は、今この庭へ立つ者のものではなくなっていた。
「お嬢様は、よう仰っておりました。『私もいつか、お嫁入りを致しましたら』」
一拍。
風が庭木を渡り、梢の葉がさらさらと擦れ合う。
「『奥方様と旦那様のような女夫になりとう御座います』と」
その言葉は願いであった。
まだ何一つ失っていない娘が、未来を疑うことなく口にした、小さな夢であった。
薬売りは何も言わず、もまた、その続きを促さなかった。
老女中の記憶は、一度流れ始めた川のように、自ら先へ進み始めていた。
「旦那様がお帳場から戻られますと、奥方様は決まってご自身でお茶をご支度なさるので御座います。花を活け替えながら、その日の出来事を話される奥方様。それを聞きながら笑われる旦那様」
昼の光が池へ落ち、その揺らぎの向こうへ縁側へ並ぶ二人の姿が見えるような気がした。
花を活け替える前妻。その傍らで、花嫁修業の為に花鋏を手に取る後妻。帳場から戻った主人が、その様子を見て小さく笑う。
言葉は少なく、笑みは絶えない。
その穏やかな時の流れは、まるで庭の池のように静かで、誰一人として、その水面が砕ける日など思いもしなかった。
池の水面へ一枚の葉が落ちる。波紋は幾重にも広がり、やがて何事もなかったように消えていった。
老女中は抱えた籠を見つめ、笑みを消し、小さく息を吐く。
「ですから、まさかご自身がそのお隣へ座る日が来ようとは。お嬢様は、一度も思ってはおられなかったので御座います」
「 周囲からの 反対などは 」
「あるはずも御座いません。お嬢様はお人柄もお家柄も十二分に備わっておりました、奥方様の遺言も御座いました。誰一人反対する事もなく……だからこそ、奥方様の願いは叶ってしまったのです」
老女中が姿勢を正し、腕の中の鏡の欠片が静かに鳴る。
「お嬢様がお慕いしておられたのは、旦那様では御座いません。旦那様と奥方様、お二人で築かれたあの暮らしそのものに御座いました」
静かな断言だった。
「お労しくてなりません。お嬢様……今の奥方様も、前の奥方様も、旦那様も、誰も悪くなど御座いませんのに」
「 それが 真か 」
拍子木を打ったような音が響き、鳥が飛び立ち、庭は再び静けさを取り戻す。
後妻は主人を恋い慕っていたのではない。ただ、前妻と主人が築いた夫婦の在り方そのものに敬愛を抱いていた。
誰か一人を恋うたのではなく、誰かから何かを奪いたかったのでもない。
夫婦という形。互いを思い、互いを気遣う日々。そこへ自分もまた、いつの日か誰かと肩を並べ、あのように穏やかな歳月を重ねたいという、それだけの願いであった。
だからこそ、その憧れの場所へ自分が座ることになる運命は、あまりにも残酷であった。