面霊気〈参〉
表座敷から離れるにつれ家の空気が少しずつ変わり、いつしか帳場の算盤も荷を運ぶ掛け声もの耳にすら届かず聞こえてくるのは庭の音ばかりになった。
若い枝先を撫でる風と池の縁へ寄せては返す水音、どこかで鳴く鳥の声。春は確かに訪れているのだが歩みはまだ緩やかで、日向へ出れば頬が緩むほど柔らかいのにふとした瞬間に冷たい空気が袖口を掠め、冬が忘れていった冷気がまだ残っている事に気付かされる。表通りと同じように、境目が曖昧なまま春と冬が屋敷の中を漂っていた。
後妻は歩く間もほとんど喋らなかった。とはいえ、無愛想なのではなく、むしろ穏やかで物腰も柔らかく沈黙が自然ではある。まるで言葉を発するよりも先に、心のどこかで考え込む癖が身に付いているかのようだった。
は歩きながら庭を見る。盛りの過ぎた梅が数輪咲いていて、枝先には花よりも若芽の方が目立ち始めている。それでも風が吹く度に白い花弁が一枚二枚と離れ、陽光の中をゆっくり落ちていった。
梅が零れる様子は雪に似ている。ただ、しんしんと降り積もる雪とは違い、遊ぶように零れ風に攫われる花弁は消えゆく季節の残滓だった。
やがて、後妻は一つの部屋へを招き入れる。障子越しの光が畳を淡く照らしており、よく整えられた部屋だった。無駄な物が少なく、柱は磨かれて飴色に艶を帯び、畳は丁寧に掃き清められ、隅々まで人の手が行き届いている。その中で、先程主人が買い付けた白い花と花器、鋏等が人が生活する場である事を控えめに主張をしていた。
人が日々ここで過ごしている部屋だった。反面、その暮らしの気配は過剰に静かで、まるで誰かが息を潜めながら生きているような印象を与える。誰かがそこで笑い、怒り、泣き、日々を重ねているという温度が不思議なほど感じられない。
の視線が床の間へ向かう。
そこには花が飾られていた。豪華なものでも名花でもない、どこにでも咲いているような野に咲く花が数輪、小さな花器へ慎ましく活けてあるだけのものだった。しかし枝の角度も葉の残し方も計算されている。誰かがただ漫然と花を飾ったのではなく、花と向き合い、花を見つめ、花の為に時間を使った事が伝わってくる。
後妻は彼の視線に気付いたようで、控えめに柔らかく笑う。
「拙いものですが」
にはその笑顔が遠く見えた。春霞の向こうにある景色のように、輪郭は見えるのに手が届かない。
後妻に勧められ、は花籠を下ろした。山を越え、谷を越え、人里を巡り、時には人ならざる者の領域まで共に歩いてきた籠である。
見た目こそありふれた籐の籠の中から季節を違えたありふれていない花々を取り出し始めれば部屋の空気が変わり、途端に花の香りが広がった。一つの花の匂いではなく幾つもの季節が入り混じった香りが部屋の中に満ちる。四季の花に、山の湿った土、陽を浴びた海風、遠い土地の雨、朝露を含んだ若葉、遠い山の雪解け水、それらが混ざり合いながら不思議と濁らない。
籠の中には梅があり、山吹があり、藤があり、桔梗があり、竜胆があり、本来なら同じ時期に咲く事のない花々に加え、南蛮や西国よりも遥か遠い異国の花さえもある。深紅の花弁を持つもの、金色に近い色を帯びたもの、花なのか鳥なのか分からない奇妙な姿のものが当然のように籠の中へ収まっていた。本来ならば同じ場所へ集うことのない花々であったが不思議と違和感なくそこへ収まり、まるで誰かの記憶の中だけに存在する庭をそのまま編み込んだかのようである。
四季を巡り、国境を越え、山野を渡った風そのものを閉じ込めたような花籠に、後妻は思わず息を呑む。その吐息は小さいが、静かな部屋でははっきり聞こえた。
「まあ」
その一言には驚きと喜びが混じり、彼女は籠へ身を寄せる。指先が伸び、しかし、触れる寸前で止まった。
花を傷付けないための遠慮からの行動のようだったが、には少し違うものに見えた。何かを懐かしみ、遠い昔の景色へ触れようとして躊躇う者の手のように見えたのだ。
後妻は花々を確かめるように、或いは忘れている何かを探すかのように長い時間を掛けて見ている。
は何も言わず、ただ待った。花を売る時、人は勝手に語り始める。欲しいものがある者は静かに吟味し、花が分からない者は何も分からないから任せると早々にへ選択権を譲渡するからだ。
風が障子を揺らし、陽光が少しだけ移動する。その光の中で、後妻はふと微笑んだ。
「不思議です」
それは誰かへ聞かせるためではなく、自らの胸の内へ落ちてきた思いを確かめるために零れた言葉のように聞こえた。
籠の中へ視線を落としたまま、白い花の傍らに咲く名も知らぬ小花へ目を移し、次には異国の花へ、そしてまた別の花へと視線を漂わせる。その様子は品定めをする客というより、古い蔵の中で忘れていた品を一つずつ見つけていく者に近かった。
「知らない花も沢山ありますのに、どれも懐かしい気がするのです」
ようやく続いたその声には世辞とは違う、彼女自身でも理由が分からない戸惑いが混ざっていた。懐かしいと言いながら何を懐かしんでいるのか本人にも分からない、そんな不確かなものが含まれている。
後妻はふと昔を思い出そうとする人の顔になり、手を伸ばせば届きそうなのに指先から零れ落ちてしまうもどかしさが僅かに瞳の奥を曇らせた。
「奥方様は。花がお好きなようで」
がそう声を掛けると、後妻は籠の中の花々へ視線を落としたまま静かに微笑う。障子を透かして差し込む春の日差しは柔らかく冬の名残を含んだ空気の中を白く漂い、光は花弁の縁を照らして籠の中へ収められた数多の花々に淡い影を落としていた。
「ええ」
後妻の返事はどこか空虚で、花を愛する者の声でありながら、その愛着がどこから来るものなのかを本人自身が見失っているような響きを含んでいる。
の褐色の手が籠の中から一輪の白い花を取り上げた。雪解けの頃に路傍で咲くありふれた花は人の目を奪う華やかさを持ち合わせてはいない。しかし春先の光を受けたその花弁は妙に静かで、妙に清らかで、眺めていると何かを思い出しそうになる花だった。
「奥方様は白い花を好まれると。旦那様が仰っておいででした」
後妻の視線が静かに持ち上がり、の手の中にある白い花へと落ちる。どこにでも咲く花は人が名を覚えるほど珍しくもなく、庭師が競って育てるほど華やかでもない。道端に咲いていても踏みつけられ、見過ごされるような花である。しかし、後妻はしばらくその花から目を離さなかった。
「ええ、存じております」
その声音には驚きも喜びもなく、ただ静かな理解だけがある。まるで自分の事ではないような素振りには怪訝な表情を浮かべた。
後妻は白い花を長く見つめる。花弁の重なりを見ているのか、光を見ているのか、それとも花の向こうにある何かを見ているのか判然とせず、ただその目だけが遠くを向いていた。
の目には後妻が人間ではない何者かのように映る。白い花が好きという言葉を否定するつもりはない、しかし、その感情は彼女自身のものではない。好き、という感情そのものが理解出来ていない、そんな応答だった。
自身は山犬であった頃、花の好き嫌いなど考えた事はない。食べられるか、食べられないか。毒か、そうでないか。匂いはどうか。咲く季節は何時か。場所は何処か。その程度であった。人の姿を得て、商売の道具として扱うようになってからも大して変わらない。
けれど、好きというものは知識ではなく感覚で分かっている。
暖かな岩場、冬を越せる洞穴、群れの匂い、そして何よりも薬売りという一人の存在。それらの理由など考えた事はない、好きだから好きであり、好きだから愛するのだ。
だからこそ、後妻の言葉は理解が及ばない。
「ご自身の好きなものは。知るものなのでしょうか」
後妻は少しだけ困ったように笑い、まるで小さな子供に大人は単純ではないとでも言い聞かせるような声色で答える。
「そのような場合もございます」
その笑みは弱々しく、鏡に映った他人の表情を借りているようだった。
「では。奥方様のお好きな食べ物は」
「白和えを好んでおります」
「お好きな甘味は」
「錦玉羹を好んでおります」
「お好きな季節は」
「初夏を好んでおります」
「お好きな着物の色は」
「朧花色を好んでおります」
「お好きな娯楽は」
「活け花を好んでおります」
「子供の頃は何をして遊びましたか」
その問い掛けに後妻は口を開きかけ、止まる。考えているのではなく、暗い蔵の奥から何かを拾い上げようとするように探し、しかし見失った人間の姿だった。
後妻の瞳が微かに揺れた。閉ざされた障子の隙間から光が差し込むような、ほんの一瞬の変化にの嗅覚が反応する。モノノ怪の気配が強まったのは確かだった、しかし、敵意や殺意は何処からも放たれてはいない。
変化の起点は何であったか。今まで決められていたものを選んでいたかのような後妻の答えが濁り、思い出すものへと変わった。
その様子は、まるで長く閉ざされた蔵の中へ独りで降りて行く者に似ていた。何処かに確かにあるはずなのに、何処へ仕舞ったのか分からない。埃の積もった箱をひとつひとつ開けては覗き込み、違うと首を振る。そんな遠い作業をしているようだった。
やがて、その沈黙の奥から小さな声が落ちる。モノノ怪の気配は変わらない。
「山へ」
は瞬きをした。
「山」
「ええ」
後妻は頷き、ふと口を閉ざした。
語りかけていた相手が突然いなくなったように静寂が落ち、その目から先程までの光が少しずつ失われていく。それは己の足跡を自ら消しながら歩いて来た者のようで、何処から来たのか分からず、何者だったのかも分からず、ただ今いる場所だけが残されている在り様がにはひどく異様に映った。
はその変化を静かに見ている。水面へ浮かび上がったものを自らの手で押し戻してしまうように後妻は長く沈黙をして、やがて微笑みを湛えた困惑の表情で首を傾げる。
部屋の隅に置かれた鏡が、ふと光を返した。
障子を透いた陽が差した磨かれた銀面が光を映したのではない。鏡の奥そのものが淡く明るんだように見え、は視線を向ける。
そこに映るはずの後妻の姿はなかった。そして、自分の姿もない。
鏡は部屋を映していなかった。
赤く染まった秋の山。木々は燃えるような色を重ね、乾いた風が梢を揺らしている。陽は高く、空はどこまでも青い。その山を一人の少女が駆けていた。
撫子色の着物を着て、裾を土で汚しながら笑っている。腕に抱えられた籠の中には美しい紅葉と紫がかった山葡萄が秋の光の下で輝いていた。
少女は栗の木の下でしゃがみ込み、落ちた毬を木の枝で転がし器用に中の実を取り出している。掌に収まった艷やかで大ぶりの栗を掲げる様は宝物でも手に入れたかのようで、その顔はどこまでも無邪気で何の陰りもない。
は瞬きを忘れた。少女は後妻だ、今よりもっと幼い頃の。
先程までの後妻とは似ても似つかぬほど生気に満ちている。だが、その笑い方だけはどこか面影を残していた。風に吹かれた時の目元の動きや、何かを見つけた時に少しだけ顎を上げる癖が重なる。
鏡の中で少女は溢れんばかりの栗の入った籠を胸に抱え、振り返る。誰かを呼ぼうとしているようだった。
そして、声に呼応するように、鏡の中の景色が微かに歪んだ。
少女の顔の上へ、別の顔が重なる。
白い、能面のように白い女の顔だった。女の顔の口だけが動き、不自然なほど静かな声が鏡の中で響く。
「あの方は山になんて行かなかった」
少女の笑顔が止まる。秋の風も止まり、山も空も色を失ったように動かなくなる。
「あの方は白い花がお好きだった」
声が続く。
「あの方は穏やかで」
少女の顔が掠れる。
「あの方は誰からも慕われて」
少女の姿が上から塗り潰されているかのように薄くなる。
「あの方は」
の背筋を冷たいものが走った。モノノ怪である事は間違いない。
今、この場で襲われる可能性を考え腰を浮かすと、鏡面の中央に細い亀裂が走る。一本、また一本と白い蜘蛛の巣のように罅が広がり、少女の姿を切り刻んでいく。
籠を抱えた腕が割れ、笑顔が割れ、赤い山が割れる。そして最後に、無数の亀裂の奥から幾つもの顔がこちらを覗いた。
若い女。幼い女。泣く女。笑う女。怒る女。どれも同じようで、どれも違う。
無数の面が重なり合い、一斉にこちらを見た。
次の瞬間、鋭い破裂音と共に鏡がひとりでに砕け散った。銀色の破片が畳へ降り注ぎ、障子から差し込む午後の光を受けて鈍く光っていた。
部屋は再び静寂へ沈む。あまりにも静かで、先程まで確かにそこにあった異様な気配さえ幻だったのではないかと思えるほどである。
は動かなかった。獣であった頃より、嵐の前と後の空気の違いを彼は知っている。今の静けさは終わった静けさではなく、何かが身を潜めた後の静けさである。茂みの奥へ消えた獣が、こちらを見失ったのではなく、こちらを見ている時の静けさだった。
後妻は砕けた鏡を見つめており、驚いているようにも見える。
「奥方様」
が呼ぶと後妻はゆっくりと顔を上げた。
「先程の鏡に何が映っていたか覚えておりますか」
しばしの沈黙が落ちた、後妻は割れた鏡片へ視線を戻す。
欠片の一つに陽光が差し、その中に小さな空が映っている。
「いいえ」
静かで確かな返事だった。
「分かりません」
そう答えられた以上、は更なる問い掛けを行わなかった。聞いても答えは出ない事を経験から推測したのだ。
音を聞きつけた女中がやって来て、後妻が鏡を片付けるよう柔らかく指示を出す。その横顔を見ながら、はふと先程の鏡の中の少女を思い出した。
秋の恵みを抱えて笑っていた娘。山の風に吹かれながら駆けていた娘。あれが本当に後妻であったのなら、今ここにいる女は何者なのだろう。
答えはない。
ただ、割れた鏡の欠片が畳の上で微かな光を返していた。その小さな光の一つ一つが、失われた顔の名残であるかのように見えて、は女中を気遣いながらも振り返る事なく部屋を後にした後妻の背中を見送った。