面霊気〈弐〉
表から見た時にも立派な屋敷と分かっていたが、中へ入るとその広さは更に際立って見える。表通りに面した店構えの向こうに幾つもの離れが連なり、それらを渡り廊下が結び、庭があり、蔵があり、その奥にも人の暮らしの気配が続いていた。
長い年月を掛けて蓄えられた富と代々受け継がれてきた家の格が派手さとは異なる形でそこかしこに滲んでいるようで、磨き上げられた廊下は薄く光を映し、柱は艶を帯びている。障子紙は張り替えられて間もないらしく、欄間の透かし彫りには職人の技術と手間が惜しみなく注がれていた。
柔らかな陽が白い光となって渡り廊下へ落ちていたが、その光もまだどこか頼りない。冬は去ったものの完全に去り切ったわけではないのか、廊下の板戸の隙間から入り込む風には冷たさが残っている。庭木の枝先には若芽が覗いていたが、葉はまだ薄く、陽光を受けてもどこか眠たげに見えた。
通りと変わらない、穏やかな昼下がりであった。本来であれば。
は歩きながら周囲を見渡した。人の暮らしには匂いがある。炊き立ての飯の匂い、干した布の匂い、囲炉裏の煤、古い柱へ染み込んだ湿り気。そうしたものが折り重なり、家というものは独特の香りを持つ。
人が住んでいるだけでは家にはならない。そこに住む者の癖や記憶や執着が、少しずつ木に染み込み、畳に沈み込み、ようやく家になる。
にはそれが見えていた、否、見えているような気がしていた。山犬として山を駆けていた頃から、目に見えない気配を嗅ぎ取る事だけは得意だった。
この屋敷の中に、血の匂いはない。死の匂いもない。ただ、もっと曖昧で、もっと長く残る、誰かが忘れられずに仕舞い込んだ記憶そのものが匂いになったかのような、人間だけが生み出せる奇妙な匂いを感じ取る事は出来た。
渡り廊下の角を曲がった先で、不意に風が吹く。開け放たれた障子の隙間を抜けた風は庭を静かに流れていった。
風の中に香りを感じ、の足が止まる。
花の香り。しかし庭から流れてきたものではない。
生きた花の香りには青さがあり、土の匂いと雨を待つ葉の気配が混じる。彼の感じ取ったそれは、乾いていた。長い時間を掛けて色を失い、それでもなお捨てられずに残された花の香りだった。
紙と墨の間に挟まれた押し花を思わせる香りには振り返るも、誰もいない。ただ、磨かれた廊下が奥へ続いているだけである。
屋敷はあまりにも静かだった。商家である以上、人の出入りは少なくないはずである。奉公人が行き交い、帳場では算盤が鳴り、どこかで荷が運ばれる、そうした音が家というものには付き纏う。だが、この屋敷ではそれらが妙に遠い。
人の声が聞こえない。気配はある、確かに誰かはいる。けれど、皆が息を潜めて暮らしているようだった。
春の昼であるにも関わらず、家全体が夕暮れのような静けさに包まれている。嫌な静けさではないが、場違いという印象を植え付けるような。
「どうかなさいましたか」
前を歩いていた主人が足を止め、は視線を戻した。
「いえ」
主人は不思議そうな顔をしたが、それ以上は尋ねずに再び歩き出す。
薬売りは黙ったままその様子を見ていた。売り物の薬を背負った旅人の顔をしているがその目だけは違い、細く閉じられた瞼の奥で既に何かを測っている。
この主人である。
薬売りがモノノ怪を斬りに来たと告げた時、彼は驚いた。だが、怒らなかった。笑いもしなかった。世迷言を申すなとも言わなかった。
それは奇妙な事であった。
薬売りはこれまで数え切れない程の怪異の場を訪れており、その際、人は怪異より先に薬売りを恐れる。
怪異は見えない、だが、薬売りは目の前にいる。
だからまず疑い、呆れ、罵り、門前払いするのだ。嘘吐きか、詐欺師か、狂人かと。いずれにせよ追い返す素振りを見せる。追い返せない者は怒鳴る。怒鳴れない者は震える。大抵はそういうものだった。
しかし珍しい事に、この商家の主人は違う。理由を尋ねもせず、証を求めもせず、まるで誰かにそう告げられる日を待っていたかのように二人を招き入れた。
薬売りは主人の背中を見る。商売を切り盛りしてきた立派な男の背中である。だが、どこか疲れている。肉体ではなくもっと深い場所が、長い間同じ夢を見続けた者のように。
主人はやがて、一つの座敷へ二人を通した。
南に面した広い部屋は障子は開け放たれ、昼の光が畳の上へ静かに流れ込んでいる。障子の向こうには梅の木が植わった庭が広がっており、冬の色が残る池の水面には風が吹く度に細かな波紋が走った。
梅はとうに盛りを過ぎていたが、枝先にはまだ幾つか花が残り、白い欠片のように揺れている。その向こうでは早咲きの菫が濃い紫の花弁を可憐に咲かせていた。
は手入れの行き届いていた美しい庭を眺め、すぐに妙な庭だと感じた。花が、あまりにも強いのだ。
季節毎に植え替えられた草花に丹念に剪定された木々。誰かが深く愛情を注いでいる様子は一目で分かる。それなのに、そこに人の気配がない。花を愛する者の息遣いが感じられないのである。まるで花そのものだけが残り、それを眺める者だけがいなくなってしまったようだった。
そんな中で、主人は二人へ向き直る。少しだけ躊躇うような間があった。
「見苦しい話をお聞かせする事になるやもしれません」
主人はそう言って頭を下げ、薬売りは視線だけで座敷を見回す。
部屋の隅に鏡が置かれていた。女物の化粧鏡には布が被されておらず、磨かれた鏡面は昼の光を受けて静かに輝いている。
「 何か お心当たりがあるようで 」
薬売りがゆっくりと、しかしはっきりとした口調で問うが、主人はすぐには答えず視線が庭へ向く。無論、庭を見ているのではなく、もっと遠くの、ここにはない何かを見ている目だった。
「近頃、この家では鏡が割れるのです」
その声は低かった。
「誰も触れておりませんのに」
は主人の話を確認するかのように座敷の中の鏡を見るが、目に入ったのは何の変哲もない鏡だった。
その化粧鏡へ陽光が差し込み、鏡面が一瞬だけ白く光った。
鏡には座敷が映っている。薬売りが映っている。主人が映っている。自身も映っている。何一つおかしなところはない。
だが、ほんの一瞬前、あの鏡には誰も映っていなかったような気がした。
春の光だけが映り。空っぽの部屋だけが映り。その奥で何かがこちらを見ていたような気がした。光と影の境目に誰かが立ち、顔を寄せているような錯覚。
今、鏡は沈黙している。何も語らず、ありのままを映し、ただ静かにそこにある。にも関わらず、その奥では無数の誰かが息を潜めている。春の訪れにも溶けず、冬の終わりにも消えず、鏡の向こうで静かに息を潜めているものの気配が、古い花の香りのように部屋の隅へ沈んでいた。
主人はその鏡を見なかった。見ようとしなかったのか、それとも見慣れてしまったのか、視線は庭の方へ向けられたまま水面に映る春浅い空の色を眺めている。
「最初は古くなっただけかと思いました」
主人は一瞬の異変を感知出来ないまま続ける。
「鏡など割れる時は割れるものです。落とさずとも、長く使えば歪みも出ましょう」
言葉は理屈であり、商いをする者らしい考え方だった。しかし、その理屈を口にする声にはどこか力がない。
「しかし一枚では終わりませんでした」
主人はそこでようやく座敷の隅にある鏡へ目を向ける。静かな声の底には直接ではないにしろ怪異に触れた者の疲労が沈んでいた。
「離れの鏡が割れました。その次は奥の間です。そのまた次は蔵の中の鏡でした。どれも夜の内に割れております。朝になると破片が床へ散らばっている。誰かが触れた形跡もございません」
風が吹き、障子が微かに鳴る。その音に混じって、どこか遠くで誰かが話している声が聞こえたが、これは奉公人達だろう。
しかし声はすぐに途切れる。誰も大きな声を出さない。この屋敷全体が何かを恐れているようで、主人もそれに気付いているのだろう、苦く笑った。
「私だけならまだよいのです、奉公人達が気味悪がっておりましてな」
言葉と共に肩が僅かに落ちる。
「夜番を嫌がる者もおります。鏡を布で過剰に覆う者もおります。誰もおらぬ廊下に浮かぶ女の顔を見たと言う者まで現れました」
庭の梅が揺れ、残り少ない花弁が一枚、風へ攫われる。
「このままでは商いにも差し障りましょう」
主人は深く頭を下げた。
畳へ額が付くほどではない。それでも、商家の主が旅の薬売りへ向ける礼儀としては十分過ぎるものだった。
「加持でも祈祷でも構いません。手立てがあるのでしたら、どうかお願い致します」
座敷が静かになり、風の音だけが残る。
その静けさに呼応するように、薬売りもしばらく何も答えなかった。細い目を閉じているのか開いているのか分からぬ顔で庭の向こうを眺めていたが、やがて背負子の中から退魔の剣の匣を取り出した。
人の世の物とも思えぬ奇妙な意匠のそれが畳の上へ静かに置かれ、薬売りは柄に鬼を象った剣へと指を添えた。
「 残念ながら 」
声音は柔らかく、その柔らかさの奥には揺るがないものがある。
「 私は 僧ではありません 故に 祈祷も加持も出来ません 」
主人は顔を上げ、薬売りは続けた。
「 斬れるのは モノノ怪だけでございます 」
春の風が吹き、どこか遠くで戸の軋む音がした。まるで、屋敷の奥で誰かが耳を澄ませたように。
薬売りは続け、人の世と人ならざるものの境目を覗き込むような雰囲気を纏う。
「 もっとも 斬ることも容易ではありませんが 」
「難しい理由をお聞かせ願いませんか」
「 モノノ怪を斬る為には この退魔の剣を抜かねばなりません しかし 剣は勝手には抜けません 」
「では、どうすれば」
薬売りはいつもの口調で、いつもの言葉を淡々と続けた。
「 形 真 理 」
その三つの言葉だけが静かに落ちる。
「 モノノ怪が何であるか 何故生まれたのか どのような情念から生じたのか それらが揃わねば剣は抜けません 」
主人は黙った。理解したわけではなく、理解出来ないのだろうとも悟った。
大抵の退魔師は、そのような条件を付けない。目に見えない条件を看破し、理由を述べ、ありがたい御札なり祝詞なりを唱えて追い払う。
少なくとも人間はそう考える。だから主人もまた、すぐには言葉を返せなかった。
畳の上に置かれた剣を見る。薬売りを見る。そして最後にを見る。主人は言葉を選ぶような間を取ってから、慎重に口を開いた。
「その形と、真と、理」
聞き慣れぬ言葉を確かめるように繰り返す。
「それらは、どのようにして分かるものなのでしょう」
薬売りはというと、まるでその問いを待っていたかのように細い目を主人へ向けた。
「聞くのですよ」
「聞く、というと、尋ねるという事ですか」
「 ええ 」
薬売りは静かに頷き、そこで言葉が途切れる。
そして少しだけ視線が動いた、座敷の隅の鏡へ。
その鏡面の奥の光の届かぬ深いところで、何かが耳を澄ませているような気がした。誰かの名を待つように、誰かの言葉を待つように。しかし、鏡は何も語らない、まるで沈黙そのものが何かを隠しているかのように。
「 人に 時には モノノ怪に 」
主人の顔が僅かに強張るも、薬売りは構わず続ける。
「 人の口から語られる事がございます 語られぬ事もございます 嘘もございます 思い違いもございます 」
その声音は穏やかで、商人が帳面を照らし合わせるような調子でもある。
春の陽が少し傾き、障子の桟が畳へ細い影を落とす。
「 ですが 人は存外 自分の知らぬところで様々なものを零しております 自分では忘れたつもりでも 隠したつもりでも 語らぬと決めていても 心は別のところで口を開く 」
薬売りはそう言って庭を見る。
風が吹いているわけでもないのに池の水面が揺れて、波紋が広がっている。まるで、誰かが水面へ指を差し入れたように。
主人は黙って薬売りの言葉を聞いていた。理解できた様子はないが、先ほどのような戸惑いも薄れている。分からぬなら分からぬなりに聞こう、そう決めている者の顔だった。
薬売りは背負子へ手を置いた。
「 形は姿 真は事実 理は情念 」
その言葉が座敷へ静かに落ちる。
「 その三様が揃い ようやく 退魔の剣を抜く事が出来ます 」
主人の眉が僅かに動く。理屈を求める、商人らしい顔だった。
それでも聞く姿勢を取り続ける主人へ薬売りは続ける。
「 しかし皆が皆 モノノ怪となる訳ではありません 深い恨みがあれば必ずなる訳でもありません そして 身を裂くような悲劇があれば必ずなる訳でもありません 総てが揃い形を得て 始めてモノノ怪となるのです 」
滔々と語られる言葉をは黙って聞いていた。
薬売りが退魔の剣を抜く条件を説明する時は土壇場や鉄火場の最中である事が多い。これ程までに穏やかに、人の死も血の香りもしない内からこの言葉が紡がれるのは稀であった。
「 故に 探すのです 何があったのか 誰が何を思ったのか 何故そうなったのか 」
薬売りの声は静かで春の陽だまりの中で世間話でもしているような調子であるが、その言葉の先には、人の生死も、怨みも、執着も、数え切れないほど見てきた者だけが持つ静かな重みがある。
しばらくの間、主人は返事をしなかった。何かを考えているようにも見えたし、何も考えられなくなっているようにも見えた。
座敷には風の音だけが残り、庭の梅が揺れ、そして、廊下の向こうで衣擦れの音がした。
奉公人の慌ただしい足音とも違う、もっと静かで、慎ましい音。その音を知る主人が顔を上げた、商家の主人ではなく一人の男としての顔がそこにはある。
「旦那様、奥様がお見えです」
「入って貰いなさい」
「……失礼いたします」
春の光を連れて現れたのは、一人の女だった。年の頃は二十歳を過ぎたところで、春めいた薄い青色の着物を纏い、髪も丁寧に結われ、慎ましく整えられた姿だった。
けれど、その姿を見た瞬間、は妙な違和感を覚えた。
どこが、と問われれば答えられない。
立ち居振る舞いは自然である。言葉遣いも穏やかそうに見える。ただ、何かが薄い。輪郭だけが先にあり、その中身が少し曖昧になっているような、そんな感覚だった。
後妻は主人へ一礼した後、薬売りとへ柔らかな笑みを向ける。
「お客様でしたか」
その視線がの花籠へ止まり、後妻の表情が少し明るくなった。
主人が苦笑する。しかし、その表情には喜びが宿っていた。
「花は気に入ったかな」
「はい。心惹かれました」
「ではもう少し、買い足そうか」
「有難うございます。見ておりますと、どれも美しくて」
後妻は少し恥ずかしそうにはにかみ、なによりも目を引く南蛮渡来の花を物珍しそうに眺める。しかし、すぐに野に咲く名も知らぬ小さな花々へと視線を移し、山の匂いを残した花を愛でていた。
「もしよろしければ、見せていただけませんか」
後妻の問いには花売りの顔で主人を見て、主人も軽く頷いた。
「言った通り、家内は花が好きでしてな」
その言葉を聞いた瞬間、は薬売りの横顔を見る。薬売りもまた後妻を見ているが、その奥で何かを考えていることだけは分かった。
「 花売り殿 」
その声には僅かな含みがある。調べて来いと犬に告げる飼い主の言葉だ。
「 折角ですから お売りなさい 」
「私からも、どうかお願いできますかな」
主人も続けるので、は一礼してから場を辞する事を決める。
後妻は穏やかに待っており、急かす様子もなくただ花籠を見ている。その視線は花そのものへ向けられているようでいて、どこか別のものを見ているようにも思えた。
「では、こちらへ」
後妻は立ち上がり、女中が先導する。
花売りは籠を抱え直し、後妻の後に続いて座敷を出て、障子が閉じられた。庭に注ぐ春の光が遮られ、座敷には主人と薬売りだけが残る。
そして古い花の香りが、先程よりも少しだけ濃くなったような気がした。
「薬売り殿。彼女は、後添いなのです」
先程の梅の花弁のように声が零れる。
「もし」
しかし、その先の言葉が続かない。商いの席ならば淀みなく言葉を紡げる男なのだろう、しかし今は、長く胸の内へ沈めていたものを掬い上げようとしている声だった。
「もし、この家にいるモノノ怪が、亡き妻であるならば」
主人は鏡へ目を向けた。座敷の隅に置かれた化粧鏡には春の光が淡く映っている。
「私は、どうすればよいのでしょうな」
その言葉には怒りも恐れもなく、あるのは疲労だけだった。
薬売りは答えず視線を下ろすが退魔の剣は沈黙を貫き、主人は微かに息を漏らし独白のように続ける。
「彼女を娶った事を恨んでいるのでしょうか」
風が吹き、障子が小さく鳴る。二人の間にある音はそれだけで、鳥の声すら座敷の中には届かない。
「もしそうなら、恨まれても仕方がない」
主人は苦く笑い、その笑みはどこか寂しかった。
「顔合わせの時からずっと、妻を大切に思っておりました。一時として忘れた事はありません、忘れられるはずもない。病に伏してから亡くなるまでの事も、好きだった花も、好んだ着物も、よく口にした言葉も」
主人はそこで目を閉じる。瞼の裏に残る前妻の記憶を見ているような仕草だった。
「今でも覚えております」
それは誇りではなかく、懺悔にも似た響きのように座敷の中で転がる。
薬売りは主人を見て、ただ聞いていた。主人も、薬売りの反応を望んでおらず、ただ紙と板に仕切られた部屋の中で胸の内を少しだけ開ける。
「ですが、独りを貫く訳にもいかなかった」
清聴していた薬売りは急く事なく、口を開いた。
「 ご主人 奥方がお亡くなりになったのは いつ頃でございますか 」
主人は少し驚いた顔をする。もっと怪異に関係のありそうな事について尋ねられると思っていたと表情に出ていた。
しかし怪訝な表情は浮かべず、ただ過去の痛みを思い出したような顔で短く答える。
「一昨年です」
「 長く 患っておられたので 」
「ええ……二年ほど」
「 その間 ご主人はずっと看病を 」
「店の事も御座いますので、出来る限りでしたが」
主人の目が遠くなる。
その言葉に嘘はない。少なくとも本人はそう信じていた。
「 亡くなられた後は どのくらいで今の奥方を迎えられたので 」
問い掛けに、今まで淀みなく答えていた主人は少しだけ言葉を詰まらせた。
その一瞬を薬売りは見逃さなかった。
「喪明けの後、直ぐに。周囲から勧められましてな」
主人は苦笑した。
「店の事もあります、跡取りの事も」
薬売りは頷き、否定も肯定もしない。ただ淡々と次の問いを口にした。
「 では 」
その声音は変わらず穏やかである。しかし、その一言で空気が少し変わった。
「 今の奥方は どのようなお方でございますか 」
主人は口を開きかけ、そして止まった。沈黙だけが座敷へ落ち、時間だけが過ぎていく。
薬売りは待っていた。急かしもせず、助け舟も出さず、ただ静かに主人が答えを探し始めるのを見ていた。