曖昧トルマリン

graytourmaline

面霊気〈壱〉

 町は春へ向かう途中にあった。
 冬の名残はまだ軒先の影や石垣の隙間に潜んでいるが、日差しを浴びた周囲の山々や町中は既に色付き始めている。凍った土は緩み、留まっていた水は動き、眠っていた木々の枝先には微かな膨らみが見え始め、誰に急かされるでもなく芽吹く支度を整えていた。
 碧空に吹く風は穏やかであったが、その穏やかさが却って物足りなく思われるような昼下がりである。往来を行く人々は皆、それぞれの用向きを抱えて足早に過ぎて行った。商人は荷を担ぎ、女は買い物籠を提げ、子供は叱られながら駆け回る。
 その流れの中を、一人の薬売りが歩いていた。
 下駄に頭巾、まるで笑っているかのように錯覚させる派手な化粧、背には大きな背負子を担いでいる。その足取りは変わらず軽くも重くもなく、まるで道そのものに歩かされているかのようであった。
 そして、その少し後ろを花売りが歩いている。籐で編まれた花籠の中には何処で手に入れたのか四季折々の和花に加え、南蛮渡来の洋花までもが収められていた。白い花もあれば紅の花もある、儚げな花もあれば極彩色の花もあり、彼の周囲だけは春とはまた異なる甘く柔らかな香を漂わせていた。花売りはそれらを売るために持ち歩いているのか、それともただ持ち歩いているだけなのか、見た目には判然としない。花売り自身、花を売り歩く商人よりも色街で足取り軽く遊ぶ蝶のような歌舞いた姿をしている事も大きい。
 それでも、花というものは人に好まれる。好まれるから売れる。好意も弔意も敬意も花には込められるから、売り方さえ間違えなければ需要は常にあるものなのだ。だが、花売りは売れることそのものにはあまり興味がないらしかった。
 もっとも、それは薬売りも似たようなものである。薬を売り歩く男でありながら、拙者親方と申すはお立合の中に御存知のお方もござりましょうが等の芝居がかった口上などとは無縁で、薬を積極的に売る姿はそう頻繁には見られない。
 中々奇妙な二人であったが、その奇妙さに気付く者は少ない。人は案外、自分の見たいものしか見ていないので、薬売りは薬売りに見え、花売りは花売りに見える。
 それで十分なのである。
 やがて二人は一軒の商家の前で足を止めた。古びながらも立派な商家であった。
 表戸は磨かれ、格子は歪みなく組まれ、暖簾にも汚れはない。人目に付く所には疎漏なく手が入れられており、主人の性分や商いへの姿勢がそのまま家の姿となったような佇まいであった。繁盛しているのであろう、軒先に積まれた荷や出入りする奉公人の様子からもそれは窺えた。
 しかし家というものは妙なもので、整っているほど隠したものが目立つ事がある。
 何が悪いとも言えず、何処が変だとも言えない。ただ、長く人の情念を見てきた者の目には、家そのものが息を潜めているように思われた。
 人が多ければ賑やかになるとは限らず、大きければ明るいとも限らない。むしろ、人の思いが積もるほどに家は静かになる事がある。
 この屋敷にはどこか、そうした静けさが滲んでいた。
 誰かが声を潜めているような、誰かが何かを忘れようとしているような、誰かが知らぬふりをしているような、そんな気配である。
 薬売りはしばらく門先に立ち、その家を眺めていた。そして、隣に佇む花売りのは細く息を吸い、鼻先を掠めた香りを嗅ぐ。
 土の匂い、木の匂い、人の匂い。そして。
「新しい匂いと古い匂いが致しますよって」
 の言葉に、それまで化粧の下に無表情を浮かべていた薬売りが、ようやく口元に笑みのようなものを浮かべた。
「 古い家ほど そういうものでしょう 」
「そういう話ではございません。なんと言うべきでしょうか。同じ巣の中に二匹の主がいるような」
 そこまで言っては首を傾げる。山犬から天狗へと変じた彼は己が得た感覚を人の言葉でどう説明すればよいのか分からない様子であり、それを見て取った薬売りはそれ以上聞かなかった。
 獣には獣の理があり、人には人の理がある。互いに完全には分かり合えないからこそ、時に役に立つ事もある。今はまだ、その時ではないだけだった。
 薬売りはやっと腕を上げ戸を叩くと乾いた音が響き、しばらくして奥より足音が近付いて来る。程なくして開かれた戸の先に現れたのは年嵩の女中であった。髪には白いものが交じり始めているが背筋は真っ直ぐで着物の乱れもなく、長く仕えてきた者に特有の凛とした貫禄と落ち着きがある。
 女中はまず薬売りを見て、次に花売りを見た。そして、色とりどりの花が溢れる籠へ視線を落とし、柔らかな声を漏らす。
「あら、珍しい商い物でございますこと」
「 薬はいかがです 」
 会釈する薬売りに女中は花籠から視線を逸らし少しだけ笑った。笑ったが、その笑みはすぐに薄れた。まるで、過ぎ去ったものと失われたものを思い出したかのように。
「今は特には」
 彼女はそう言いかけて、少しの沈黙の後に続ける。
「けれど、以前なら入り用でございました」
 薬売りは黙って聞き、花売りも詳細を問わない。
 沈黙は時として言葉を促すもので、女中はややしてから口を開くと自然と話し始めた。
「前の奥様が長く患っておいででしたので」
 その一言で家の空気が少しだけ重くなった。
 風は変わらず吹き、花は香り、鳥の声も聞こえる。だが人の記憶というものは、それだけで周囲の景色を曇らせる事があった。
「薬も試しました。医者も呼びました。神仏にも祈祷いたしました」
 女中はそこで言葉を切り、以降は語る必要もないだろうと表情だけで結末を読ませる。願いが叶わなかった事を改めて最後まで語る必要はないとでも言うように。
 その折である、奥より男の声がした。
「誰か来ているのか」
「旦那様、お客様でございます」
 女中が振り返ると薄明かりの向こうから商家の主人が現れた。
 年は三十を幾つか越えた頃であろう。身形は良く、顔立ちは穏やかで物腰も柔らかい。本来は女中が応対する場に現れても嫌な顔一つされない所からも申し分のない人柄に見える。
 商家の主人は薬売りを見た。次に花売りを、そして彼の手元の花籠を目に入れて表情を和らげる。
「花売り殿でしたか」
 歩み寄るその様子は花を待っていた者のそれであった。彼自身が必要というよりも、彼の親しい誰かが欲しているような態度は花売りにとって珍しくもない。世の男の大多数は己の為よりも、己の大切な誰かの為に花を買う。
「丁度良かった。花を見繕っていただきたい」
 そう言って一輪の白い花へ手を伸ばしかける。
「家内が活け花を嗜んでおりまして」
 主人のそれは、ありきたりで穏やかな態度と声であった。だが、その言葉を聞いた女中がほんの僅かに目を伏せた事を、薬売りだけは見逃さなかった。
 誰の反応にも気付かないまま、と花を見ていた主人は続ける。
「余程好きなのか、毎日のように活けております」
「毎日とは。奥方は雅趣に富んでおりますようで」
 風が吹き籠の花弁が揺れ、取り留めのない会話をすると主人の隣で、薬売りは女中越しに家の奥を見た。
 取り残された冬の影が潜む閉じた襖。人の住む気配。そして、その奥に沈んでいる何か。
 目には見えないが確かにある気配に、薬売りはゆるやかに微笑んだ。
 庭には若葉が萌え始め、軒先には柔らかな陽が差している。往来を吹き抜けてきた風も穏やかで、遠くから聞こえる荷車の軋みや人々の話し声には冬を越えた安堵が滲んでいた。
 しかし、屋敷の内だけは違う。
 同じ陽が差し込み、同じ風が流れているはずであるのに、そこには妙な沈みがあった。
 古井戸の底に冷たい水が残るように、雪解けの山陰に白い雪がひと筋だけ取り残されるように、人の目には映らない何かが家の奥深くで澱んでいる。
 人の住む家には人の気配があり、笑い声の残滓、怒りの痕跡、喜びや悲しみ、そうしたものが染み込んで家になるのだが、この家の奥にある気配は少し違っていた。春の陽射しの下にありながら、そこだけが薄く曇って見える。
 主人はそれに気付かずにいるらしかった。ただ穏やかな顔で花籠の前へ身を屈め、白い花と薄紅の花とを見比べている。
 その横顔には商人らしい実直さがあり、花を選ぶ指先にも迷いがない。花に興味のない男ではないのであろう、あるいは、自分のためではなく誰かのために選ぶからこそ、なお真剣なのかもしれなかった。
 そして、はというと黙ってその様子を眺めていた。
 人はよく花を愛でる。花が美しいからである。しかし花を愛でる者が花を理解しているかといえば必ずしもそうではなく、咲いているから好み散れば忘れる、その程度の愛であることも少なくない。そして、花を売り歩くはそちらの側であった。
「どのような花がお好みで」
 とはいえ、花に対する深い愛情を持たずとも十分に商売は成り立つ。は穏やかな声で主人に問い掛けると、何の迷いもなく答えが帰って来た。
「家内は白を好みますので」
 その答えはあまりに自然であり、自然であるが故に、女中の目がほんの僅かに伏せられた事が却って目立つ。長年仕える者だけが知る何か、口に出さない、或いは出せない何か。それが一瞬だけ老いた瞳の奥をよぎる。
 薬売りは女中の沈黙を見た、一方では主人の迷いの無さを見た。
 人は花の好みひとつでも迷うものだが、主人の口から出た答えには一分の揺らぎもない。それ程までに仲睦まじいのか、それとも主人がそう信じ切っているだけなのか。まるで昔から決められていた答えを読み上げたかのようだと違和感が湧き上がるも、外に出す行為をしなかったは白い花を二輪ほど選び取り包み、主人は代金を渡しながら微笑む。
「家内が喜びます」
 穏やかで柔らかな声であった。
 だからこそ薬売りは何も言わず、その代わり再度家の奥を見た。
 女中は気付いていた。主人は気付いていない、或いは、気付きながらも面に出さない。薬売りは底知れないものを含んだ笑みのまま、ようやく口を開いた。
「 ご主人 少々 お話を伺いたく 」
「私にですか」
「 ええ 」
 薬売りは静かに頷き、主人は怪訝そうな顔をする。
 風が吹き、庭木が揺れた。花弁がひとひら籠から離れて空中を舞い上がり、漂ってから足元へ落ちる。誰もそれを拾わない。
「 私は 薬を売りに来たのではありません 」
 主人の眉が微かに動き、女中の顔から血の気が引く。
 薬売りは主人の瞳の奥にあるものを覗き込むように、真っ直ぐ見据えた。
 春の陽は暖かく、屋根瓦に反射する光は眩しいほどであったが、主人の顔に浮かんだ微妙な翳りは陽光にも拭い難いものであった。薬売りの言葉が、まるで庭木の根に絡みつく枯葉のように心を縛り付けているように見えた、まるで、帰り損ねている冬がまだそこにいるかのように。
 その中で、薬売りは静かに告げた。
「 モノノ怪を 斬りに参りました 」
 まるで街角で天気の話題を振るかのごとき気軽さで、薬売りはあっさりと言い放つ。しかし、その言葉は刃のごとく部屋の空気を切り裂いた。
 遠くで鶯が鳴いた、春を告げる声である。けれど、この屋敷の中だけは、まだ別の季節の中に取り残されているように思われた。