曖昧トルマリン

graytourmaline

面霊気〈伍〉

 老女中の語った昔語りは既に過ぎ去った歳月を語るものでありながら、なお屋敷の隅々に薄く染み込んで離れない湿り気を思わせた。誰の口からも責める言葉は出ず、恨みもなく、妬みすら見当たらない。それにも拘らず、胸の奥底には名も知れない澱が静かに堆く沈みその澱だけが時を吸い続けていた。
 薬売りは細く息を吐き、奥座敷へ続く廊下へと視線を遣る。障子は閉ざされ昼の日差しは白く滲むばかりで屋敷の奥へ奥へと静かに差し込んでいた。それは暖かさを含みながらも、今この瞬間はただ昼であることだけを告げるだけの光であった。
 はと言うと庭石に留まる四十雀の番を眺めている。餌を啄むその小さな命達は屋敷の庭を縄張りとしてしか認識しておらず、モノノ怪の有無や三様になど欠片も興味もないようで掃き損なわれた落葉の下に隠れていた樹の実を割り砕いていた。
 白砂の上へ落ちた梅の花弁が吹き渡る風に逆らえずころりと転がる。薬売りはその様を眺めるともなく眺め、やがて静かに口を開いた。
「 参りましょうか 」
 声音は何事にも執着しない風を装いながら、その実、刃を納めたまま柄へ指を添える剣士にも似た静けさを帯びていた。
 は一つ頷く。だが薬売りは、そのまま歩み出ようとはしなかった。
「 紅葉を一枝 」
 不意にそう告げられは秋の山肌へ腕を沈めるような所作で薔薇色の打ち掛けの袂へ褐色の指先を差し入れる。
「 山葡萄も 」
 理由は語られない、しかし思惑は理解出来た。
 柔らかな衣擦れの音と共に紅葉の切り枝が姿を現す。春には決して在るはずのない、秋の盛りをそのまま閉じ込めたような葉である。燃え尽きる間際の炎を閉じ込めたような深紅でありながら、枝を離れて久しいはずの葉脈にはなお命の水が通うかのような艶があった。
 続いて、疎らながらも房を成した山葡萄が取り出される。小さな粒は夜露を宿した紫紺に膨らみ、薄く白粉を帯びた皮は山中で育った力強さを感じさせた。その香りは甘さよりも山の酸気を思わせ山霧の冷たさと陽を浴びた岩肌の温もりとを併せ持ち、この屋敷には似つかわしくない野の息吹を静かに漂わせた。
 花売りがそれらを薬売りへ差し出すその刹那、薔薇色の打ち掛けを流れていた金糸と銀糸が音もなく淡く霞み始める。
 肩に織り出されていた一つ楓は、秋風に攫われる木の葉のように輪郭を失い、金糸は一本ずつ光を解いて絹地へ溶け込んでゆく。裾を這う下がり葡萄もまた、銀糸の蔓がほどけるように消え、房を成していた実は露が朝日に溶けるように跡形なく失せた。
 繍が解けたのではない。最初からそこに存在しなかったかのように、紋だけが静かに失われてゆく。は刺繍の消えた打ち掛けへ一度だけ目を落とした。山から借り受けた秋は現へ還り、衣には薔薇色と未だ日の目を見ない紋だけが静かに残る。
 薬売りは紅葉を一瞥し、山葡萄を掌へ受けると、微かに口元を緩めた。
「石竹の入り用では御座いませんで」
 の問い掛けに薬売りは懐へ手を差し入れる。細く畳まれた包みを取り出し、その中から乾いた草を一本覗かせた。
 花は既に萎れ、淡紅の面影もなく、乾いた茎は指先ほどの細さしかない。それでも、人の手で摘まれ、日に干され、薬となるために形を留めたその姿には、生きていた頃とは異なる静かな力が宿っていた。
「 瞿麦は 持ち合わせがあります 」
 そう言って包みを懐へ戻すと、紅葉と山葡萄をの花籠に入れ音もなく踵を返した。
 秋麗の葉、新涼の実、そして四季を外れ煎じられた薬。
 生きる季節も役目も異なるものばかりが一つところへ集められ、その取り合わせはどこかこの屋敷そのものに似ていた。
 春の中に秋があり、生きる者の中に既に失われた者がおり、今を生きる女の姿の中には、なお他人の面影が静かに息づいている。
 風が吹き残り少ない庭の梅がまた一輪、音もなく零れる中で、二人はそのまま後妻の待つ座敷へと歩みを進めた。薬売りは先を歩き、はその半歩ほど後ろを音もなく続く。屋敷の静けさは先程よりもなお深く、磨き抜かれた床板には人影よりも先に何か別のものが映り込んでいるような気さえする。
 砕けた鏡が片付けられたばかりの座敷の障子が静かに開かれた。
 後妻は几帳を背に端然と膝を揃えて座しており、傍らには主人もいる。二人の間には湯気の細く立つ茶が置かれているが、その湯気は春の陽気に溶けることなく白い糸のようにまっすぐ天井へ昇っていた。
 主人は二人の姿を見るなり、小さく居住まいを正した。鏡の件が耳に入ったのだろう、声音には焦りを押し隠した色が滲む。
「薬売り殿……モノノ怪は、退治出来そうなのでしょうか」
 その問いに、後妻は僅かに目を見開いた。
「モノノ怪、ですか」
 その言葉は初めて耳にする異国の響きを確かめるようで、薬売りは主人にも後妻にも視線を留めないまま飄々とした素振りで座敷に腰を据え口を開く。
「 三様のうち 一つは明らかになりました 」
 そう言うと、薬売りは背負子の抽斗へ手を伸ばす。乾いた草根や樹皮、幾重にも包まれた紙薬が整然と収められており、その中から幾つかを選び取ると布を敷いた畳へ並べた。
「 残るは 理と形 その為に 少々 薬の話でも 」
 その口調はどこまでも穏やかで、主人は一瞬だけ怪訝そうに眉を寄せる。しかし、それがモノノ怪を退治する糸口となるのならばと無言で了承を行い、薬売りは僅かに口元を緩め乾いた草を一本摘み上げた。
「 さて 春の七草は食すもの 秋の七草は愛でるもの とは申しますが 煎じれば こちらも立派な薬になります 」
 乾いた葉からは微かな香りが立つ。それは春の青さではなく、夏を越え、秋の陽を浴び、冬を耐えた草木だけが持つ、土と風の匂いであった。
「 萩 」
 細い枝を示す。
「 根は婦人病に用いられ 咳を和らげることがあると申します 」
 次に、真っ直ぐに伸びた茎と髭のような根を手に取った。
「 芒茎 」
 豊かで柔らかな穂はなく、残された茎と根だけが乾いている。
「 熱を散らし また 毒を解く助けとなる事も御座います 」
 さらに太く捻れた根を掲げた。
「 葛 」
 主人は思わず頷く。
「 葛根湯 という名くらいはお聞き及びでしょう 」
 薬売りはその反応を見ても頓着せず続けた。
「 熱や頭痛を鎮め 血行を促し 首や肩の強張りを解く 」
 白く裂けた根を元の場所へ戻し、今度は黄褐色の細かな根を摘み上げた。
「 敗醤 女郎花の生薬名で御座います 」
 醤油が傷んだような独特の香がほのかに漂う。
「 腫れを鎮め 熱を祓い 膿を散らす 」
 続いて香り高い草を指先で挟む。
「 蘭草 元の名を藤袴 」
 薬売りが揺らすたび、かすかな芳香が冷えた座敷へ流れた。
「 湿を除き 身体の巡りを整えると伝わります 」
 そして最後に白く乾いた太い根を置く。
「 桔梗根 」
 その断面は雪のように白い。
「 咳を鎮め 胸につかえたものを外へ導く 」
 六つの薬草が白い布の上へ静かに並ぶ。秋を彩る雅な花々は、かつて人の目で愛でられ楽しませるものであった、しかし人は、それらを枯らし、刻み、煎じ、苦い湯へ変え、病を癒す力としても用いる。
 美しいものは、美しいままだけでは終わらない。その在り方は、人という生き物によく似ている。
 薬売りは最後に懐から細い包みを取り出した。慎重に紙を開けば、中には淡紅の色も失せ乾き切った一株の草が眠っていた。
「 そして 瞿麦 世には撫子 と呼ぶ方が馴染み深いでしょう 」
 薬売りは乾いた花を指先へ乗せ、視線を上げる。その眼差しは後妻へ向けられているようでいて、どこかその奥にあるものを見ているようでもあった。後妻は咎める色も、探る色もないそれに気付いたのか、膝の上に置いた手を僅かに強く重ねる。
「 そういえば 奥方様は撫子色のお着物を好んでおいでだとか 」
 道端に落ちていたものを拾い上げ、それが何であるかを尋ねるような、何気ない世間話のような口調であった。
 後妻は一瞬、薬売りの指先で弄ばれる瞿麦へ目を落とし、それから静かに首を横へ振る。
「違います」
 声は穏やかで、薬売りもまた、そうですかと言うでもなく、乾いた花を掌へ戻した。
「 では 山を駆け 紅葉を狩るのがお好きだとか 」
「違います」
 今度の返答は間を置かなかった。
 主人が僅かに眉を動かすも、薬売りは気付かないふりをして、花売りの抱く籠の中の紅葉と山葡萄へ目をやった。
「 山葡萄を 好んで口にしていたとか 」
「違います」
 三度目の否定は硬く強い。
 その一言が落ちると、座敷の空気が止まった。
 庭先では風が吹いている。障子の向こうで梅の枝が揺れ、細い影が畳の上を横切った。その影は一度、後妻の膝元まで伸びて、それから何事もなかったように引いてゆく。
 薬売りは傍らの籠の中から紅葉と山葡萄を摘み上げ、独り言のような声色でそれらを指先で転がしながら言葉を紡いだ。
「 人は 好きでもないものを好むことが出来る 」
 後妻は顔を上げた。主人は後妻を見た後、薬売りを見る。
「 欲しくないものを欲しいと言い 知らないものまで知っている顔をする 」
 主人の眉間に深い皺が刻まれた。障子越しの昼の光は場違いな程に白く穏やかで、庭の梅枝を透かして座敷へ細い影を落としている。その影が畳の目に沿って揺れるたび、そこに座す者の顔まで別人のように見えた。
「何を仰りたい」
 主人の声には押し殺していたものが滲み、怒りとも恐れともつかない、しかし妻を守ろうとする者の硬い響きがあった。
「薬売り殿、貴方はまさか、妻がモノノ怪の理だとでも仰るのか」
 薬売りは紅葉と山葡萄を手放し、指先に乗せた瞿麦を眺めている。乾き切った茎は細く、花弁は既に色を失っていた。かつては淡紅の花を咲かせ、人の目を楽しませたものが、今では薬となるためにその形を留めている。薬売りはそれを掌へ収めると、何でもないことのように顔を上げた。
「 ええ 」
 あまりにも素直な肯定に主人の顔色が変わる。
 後妻もまた、息を詰めた。膝の上で重ねていた指が僅かに震え、その震えを隠すように更にもう一方の手を重ねる。まるで手の中にあるものまで他人の目から隠そうとするかのようだった。
「妻を疑うのですか」
「 いいえ 疑っているのではありません 残りの二様を探しているのです 」
 その言葉と共に薬売りの手が胸元へ入り、取り出されたのは小さな鏡である。
 真澄の鏡。
 銀とも水ともつかない静かな光を湛えた鏡面には、座敷の様子がそのまま映っている。主人も、後妻も、そして薬売りの傍らに座るも。庭の梅枝までが映っているというのに、鏡の中には風がない。
 薬売りは鏡を後妻へ向け、そこには一人の女が映った。
 後妻である。
 今の着物を着て、今の髪を結い、今の座敷に座っている。何一つ変わったところはない。少なくとも、目で見ればそうであった。
 けれど鏡は、人の目ほど親切ではない。
 女の顔の上に、ごく薄く別の顔が重なっている。
 穏やかな女。花を愛した女。人から慕われ、主人から深く愛された女。
 その面影は浮かんだかと思えば消え、消えたかと思えばまた別の顔が現れた。鏡の中だけで、女は幾つもの顔を持っている。どれも後妻の顔であり、どれ一つとして後妻そのものではない。
「 さて ご主人 誰が 見えますか 」
 問いは静かだった。
 主人は一度、妻を見た。それから鏡を見る。
「妻です」
 迷いのない声だった。
「私の妻です」
「 その妻とは 一体 誰の事ですか 」
 主人の表情が止まる。
「何を」
「 奥方様の好きな着物の色をご存知ですか 」
「朧花色……いや、そうではなくて」
 答えがない。しかし薬売りは鏡を持ったまま、少しも急ぐ様子がない。
「 奥方様の好きな季節は 」
「初夏、では、ない」
 主人の目が後妻へ向き、後妻は顔を伏せている。
「 奥方様の好きな言葉は 」
 沈黙が深くなり、庭で鳥が一声鳴いた。その声だけが妙に遠い。
「 奥方様の好きな花の色は 」
 主人は口を開きかけたが、言葉にならない。
 白。そう答えればよいのかもしれない。
 だが、それは本当に後妻の好きな花の色である確信が主人にはなかった。後妻は確かに白い花が好きだと言ったのだろう、けれどそれは本当に後妻自身の言葉であったのだろうかと気付いたのだ。
 朝、目を覚ませば隣にいる。食事をすれば向かいにいる。季節が巡れば同じ庭を眺め、夜になれば同じ屋根の下で眠る。妻であるという事実だけなら、疑う余地はない。
 けれども、後妻である彼女が何を好み、何を嫌い、何を恐れ、何を愛していたのか。それを尋ねられた途端、主人の記憶にはぽっかりと穴が開いた。
 そこに浮かぶのは、別の女の姿ばかりである。
 花を愛した女。穏やかに笑った女。病に伏しながらも、主人の手を握った女。前妻の記憶ならば、いくらでも語れる。その声も、仕草も、好んだ花も、好きだった菓子も、幼い頃の話さえも。
 けれど今、目の前にいる妻については、一つとして言葉が出てこない。
 薬売りは鏡を静かに傾けた。
「 では 」
 声音には責める色がなかった。
「 奥方様のお名前は 」
 その瞬間、後妻の肩が大きく震え、主人が振り返る。
 後妻は俯いたまま動かず、薬売りの鏡の中でその顔がまた揺れた。
 一つの顔が消える。
 別の顔が浮かぶ。
 また一つ消える。
 幾つもの面が重なり、互いを押し退けるようにして現れては、どれも長く留まらない。
 名とは、その人をその人として呼ぶためのものだ。名を呼べば、その者が振り向く。その者であるからこそ、その名に応える。
 ならば、名を呼べない者は一体誰なのか。
「……止めてください」
 小さな声だった。
 けれど、次の言葉は明らかに違った。
「止めてください」
 初めて、後妻が薬売りの言葉を拒んだ。
 膝の上で組んでいた手は固く握られ、白くなった指先が震えている。俯いた顔は見えないままでも、肩の細かな震えだけで何かが限界まで張り詰めていることは分かった。
 主人は後妻を見つめ、ようやく気付いた。
 自分は今まで、この女の名前を何度呼んだだろうと。
 呼んだことは当然ある。しかし、それはただ妻を呼ぶための音だったのではないか。その名を持つ一人の女を、見つめて呼んだことがあっただろうか。
 薬売りは何も言わず、真澄の鏡で後妻を映し続ける。
 鏡面の中では、後妻の顔が微かに揺らいでいた。先程まで幾重にも重なって見えていた面影が今は一つの顔として留まることさえ出来ず、女の輪郭そのものが水面のように歪んでいる。髪も、頬も、伏せた瞼も、すべてが定まらない。何かを映しているというより、何かが鏡の内側からこちらを覗き返しているようであった。
 薬売りの手の中で、真澄の鏡が震えた。
 初めは指先に伝わるほどの微かな震動だった。からり、と金属の縁が鳴る。それが一度、二度と続き、やがて鏡そのものが小刻みに震え始めた。
 薬売りの顔から緊張が滲み、鏡面が波打った。
 音もなく、何かが内側から叩いている。
 次の瞬間、鏡が大きく跳ね、薬売りの身体が傾いだ。
 しかしそれよりも早く隣に控えていたが立ち上がり、籠の中の紅葉と山葡萄が畳へ落ちる。赤い葉が一枚、紫の実が二つ三つ、ころりと転がる前には薬売りの肩を掴み、その身体を支える。
 鏡はなおも震えており、その震動はもはや道具のものではなかった。
 生き物が、狭い場所へ閉じ込められて身を捩るような震えである。
「 来る 」
 薬売りはの腕を借りたまま、妙に落ち着いた声で呟いた。
「何が」
「 面が 」
 が鏡を見る。
 真澄の鏡の中には、もう後妻の顔はなかった。
 黒い。ただ、黒い。その黒の奥で、白いものが一つ浮かんだ。
 顔だった。
 女の顔。しかし、それは生きた女の顔ではない。
 面である。
 目を閉じた面。口を結んだ面。泣いているような面。笑っているような面。怒っているような面。いずれも表情を持ちながら、いずれも生きた表情ではない。
 薬売りはへ鏡を差し出し、は黙って受け取ったまま掲げ続ける。真澄の鏡は退魔の道具であり、設えてある鏡のように簡単には割れはしない。それでも薬売りの指が離れた途端、鏡は一層激しく震えた。はそれを両腕で支え、胸の前から高く掲げる。
 鏡面が昼の光を受けるも、光は返らず吸い込まれた。
 まるで鏡そのものが、座敷に満ちる明るさを一滴残らず飲み込んでしまったかのように、辺りが急に暗くなる。
 薬売りの指が札を挟む。先程までの飄々とした気配が消えたわけではない。ただ、その軽さの奥に潜んでいたものが、今ははっきりと表へ現れている。
 鏡を掲げたままのが後妻と主人を見る。後妻は動けず、主人も同じだった。二人共、何が起きているのか分かっていない。ただ、座敷の空気だけが明らかに人の住む場所のものではなくなっていく。
 薬売りは退魔の御札を構え、四方の空間へと貼り付けていく。
 赤い御札の隙間と障子の向こうから、音が消えた。庭がなくなった。梅の枝も、白砂も、昼の空もない。そこには何もなかった。
 障子が消え、襖が消え、庭も廊下も、そこにあるはずの柱や壁までもが音もなく失われており、残ったのは天井と床だけで、その間を埋めるものは何もない。いや、何もないのではなかった。そこには闇があった。墨を幾重にも溶かしたような黒が、天井から床までを満たし、その奥行きも果ても知れないまま静かに広がっている。
 昼の光も、梅の枝を揺らしていた春風も、屋敷の匂いも、すべてが遠いものとなった。ただ足元には畳があり、頭上には天井がある。それだけが、この世とまだ細い糸で繋がっているようだった。
 障子の紙一枚を隔てた向こう側にあったはずの景色が、まるで最初から存在しなかったかのように消え、その代わりに白いものが浮かび始める。
 一つ。
 また一つ。
 障子の向こういっぱいに顔がある。
 その闇の中に、面が浮かんでいる。
 一つではない。十でもない。数えることそのものが無意味になるほどの面が、何処からともなく現れ、何処へともなく漂っていた。
 白い面、紅い面、古びて黄ばんだ面、磨かれたばかりのような艶を持つ面。若い女の顔もあれば、老いた女の顔もある。目を閉じたもの、見開いたもの、微笑むもの、泣くもの、怒るもの、何かを訴えるように唇を開いたもの、何かを乞うように見つめるもの。そのどれもが女の顔でありながら、同じ顔は一つとしてない。同じ輪郭を持つものさえ、その表情が僅かに違えば別の女に見えた。
 けれど、その面には身体がない。首も肩もなく、ただ顔だけが暗闇の中へ静かに浮かんでいる。人が顔を持つのではなく、顔だけが人から切り離されて残ったような有様であった。
 襖の向こうも同じだった。
 いつの間にか部屋の奥行きが失われ、襖の向こうには別の部屋などなくなっている。暗闇の中に、無数の仮面だけが浮かんでいた。
 何十。何百。数えようとすれば数えるほど増えてゆく。顔と顔の隙間から、また別の顔が現れる。その一つ一つが、誰かの顔であるようで、誰の顔でもない。
 そして、こちらもその全てが女だった。
 同じ輪郭。違う表情。
 同じ目。違う口元。
 同じ顔をしているはずなのに、一つとして同じ顔には見えない。誰かと似ているはずなのに、誰にも似ていない。まるで何者であるかを決める事すら許されないまま、顔だけが次々と取り替えられているようだった。
「 無数の面 無数の顔 ただ事実のみを映す鏡を拒絶し 割り砕きながら 奥方が捨ててきた無数の人格 」
 背負子の中から退魔の剣が独りでに飛び出し、薬売りの手の中に収まると、硬い音を鳴り響かせ一様が揃った事を周囲へ告げる。
「 面霊気 形を 得たり 」
 は鏡を掲げたまま、初めて僅かに身を引く。しかしそれは退く為の態勢ではなく、次に来るかもしれない襲撃に対しての構えであった。
 薬売りは退魔の御札を構えたまま、ただ目の前を見据えている。
 無数の仮面が、ゆっくりとこちらを向いた。
 音はない。しかし、何百もの視線が一斉にこちらへ注がれたことだけは分かる。
 座敷の中央で、後妻が小さく息を吸った。その音に呼応するように、仮面が一つ、また一つと口を開く。声はないはずなのに、薬売りには何かが聞こえたようであった。誰のものでもない声。あるいは、誰のものでもあった声。そしてその無数の面の奥から、ひどくかすかな女の声がした。
「……私を、見ないで」
 後妻の声が落ちると、無数の面が一斉に揺れた。
 足があるわけでもなく、身体があるわけでもない。ただ白い仮面が、畳の上を音もなく滑るようにして近付いてくる。障子の向こう、襖の奥、暗がりの底に面が浮かび、その一つ一つが少しずつ距離を詰めてくる。
 激しさはない、しかし、逃げ道もない。
 そう思わせるほど、面は増えていた。
 主人は後妻を見ていた。否、見ているつもりで今まで一度も見ていなかった女を、初めて見ていた。
 目の前にいるのは妻である。そう思っていた。妻だから傍に置き、妻だから名を呼び、妻だから同じ家で暮らしてきた。しかし、その妻という言葉の中へ女を押し込めてしまえば、それで分かったつもりになっていた。
 だから、女が何を好むのか知らなかった。何を嫌うのか知らなかった。何を恐れているのかも、何を愛しているのかも。
 主人の喉が震えた。
「……私は」
 面が近づく。白い顔が、じりじりと畳の上を這う。
「私は君を見ていなかった」
 後妻の肩が僅かに揺れ、主人は続ける。
「妻だと思っていた。それだけで、君が誰であるのかを知ろうとしなかった」
 それは懺悔であった。
 けれど後妻は、首を横へ振った。
「それで、良かったのです」
 静かな声に呼応するように、面の群れがまた一つ近づく。
「それが良かったのです」
 今度は少しだけ強く言った。
「私は、それを望んでいたのですから」
 後妻は顔を上げた。
 無数の仮面がその背後を埋め尽くしている。けれど、その白い群れを見ても、もう目を逸らさなかった。
「私は、奥方様と旦那様が好きでした」
 主人の表情が止まる。
「奥方様のことを、ずっと好ましく思っておりました。あの方はお優しくて、穏やかで……それなのに、芯のある方でした。花を愛されて、花を見ているだけで嬉しそうに笑われて。旦那様とお二人でいらっしゃる時のあの方が、私は一等好きでした」
 声は震えていない。それは、今まで誰にも語らなかった言葉を、ようやく自分のものとして口にしている者の声だった。
「お二人の仲に、憧れておりました。嫁いだ先で奥方様と旦那様のような女夫になりたいと思ったことも御座います。あの方の生き方を、好ましいと思っておりました」
 後妻の目が、主人を見る。主人の顔から血の気が引いた。
「奥方様が亡くなる前に、お願いされたのです。旦那様は、私がいなくなればきっと悲しまれる、化けてでも会いに来て欲しいと言い出しかねないでしょうから、どうか旦那様を支えて欲しい、と」
 その言葉が座敷へ落ちた途端、面の一つが小さな音を立ててひび割れた。
 だが、その音を合図にするように、幾つもの面が揺らめいた。
「奥方様の好きだった花。奥方様の着ていた色。奥方様が使っていた器。奥方様が座っていた場所。旦那様が覚えていらっしゃる奥方様のこと。その一つ一つが、お屋敷の中に色濃く残っておりました……私は、そこへ自分が座ることなど出来ませんでした」
 主人が息を呑む。
「奥方様と旦那様が大切にしていた場所を、私が奪うことなど出来るはずもございません。かといって、私が奥方様の代わりになることも、許せませんでした」
 後妻は自分の胸元を握る。
「だから、消そうと思ったのです」
 誰もが、何を、と問う必要はなかった。
「自分を」
 その言葉と同時に、御札の結界を突き抜けて仮面の一つが後妻の顔へ重なった。
 白い面。知らない女の顔。それが後妻の顔を覆い、また剥がれる。
「私の好きなものを捨てました。私が好きだった場所も捨てました。山へ行くことも、山葡萄を食べることも、紅葉を愛でることも、何もかも。奥様が好まれたものなら、それを好きになろうと思いました」
「それがいつしか、好きなのか嫌いなのかさえ分からなくなったのか」
「着物も真似ました。言葉も真似ました。仕草も真似ました。花の名を覚えました。奥方様のことを知れば知るほど、自分のことを忘れていきました。それが最善であったのかは分かりません、けれど、そうすることで旦那様は時折笑われるようになりました」
「……ああ」
「旦那様は奥方様に向けられる笑顔を僅かながら取り戻していかれました、奥方様とのお約束を果たすために、私は自分を忘れようといたしました。けれど、どれだけ忘れても、ふとした時に旦那様の妻が奥方様ではない現実に打ちのめされました」
 主人の目から涙が落ち、畳が濡れる。
 一滴。その小さな水滴を、無数の面が一斉に見た。
「奥方様になりたかったのではありません。愛されたかったのでもありません。私はただ、あの方の場所にいる自分が、許せなかった」
 仮面の群れが揺れる。
「だから、自分を消し続けたのです。けれど、自分を消しているうちに何を消したのか、分からなくなりました」
 その言葉はもはや誰かへ語るためのものではなく、自分自身へ向けてようやく辿り着いた答えだった。
 後妻は自分の胸へ手を当てる。
「私は、誰だったのでしょう」
 面の群れが、ざわめいた。至る所に小さな傷が生じ、無数の口が開く。声は一つではない。泣き声。笑い声。囁き。嘆き。それらが重なり合い、座敷そのものを震わせてゆく。
 薬売りは退魔の剣を手にしたまま、最後の一つが明らかになったその様を見届けた。
「 自分が その場所にいることを許せなかった心 」
 薬売りの静かに響く声に応えるように、面霊気のすべての面が一斉にこちらを向いた。
「 自分が代わりになることを許せず 自分を消し 自分自身を忘れた」
 砕けた面の奥から、さらに新たな面が現れる。
「 それが 理 」
 三様が揃い、空気が変わる。
 薬売りは退魔の剣を構え直した。剣の刃が、昼のない座敷で静かに光る。
「 形と 真 理によって 剣を 解き放つ 」
 言葉が途切れ、薬売りの姿が静かに揺らいだ。
 衣の裾が風を受けたわけでもなく、身体が大きく動いたわけでもない。ただ、そこに立つ男から、人の世に属するものだけが一つずつ剥がれてゆくように、輪郭が曖昧になった。人の肌の色が濃くなり、顔立ちは生身の者とは異なるものへと変じ、長い髪が銀砂を流したように背へ垂れる。褐色の顔に浮かぶ金は何処とも知れぬ異界の色を帯びていた。
 人の姿を借りていたものが借り物を脱ぐようにして姿を変え、現れたのは薬を売る男ではなく、人ならざるものが人の形を捨てた姿であった。
 異様なことに、周囲を取り囲む面は誰も襲わなかった。
 神儀に変じた薬売りへ向かうこともない。へ牙を剥くこともない。主人を囲むこともなく、まして後妻へ触れようとすることもない。
 幾百の面は、ただ静かに浮かび、こちらを見ている。近付いてくるものもあれば、遠ざかるものもある。しかし、そのどちらも攻撃のためではなかった。まるで何かを待っているように、あるいは何かを見届けるために、そこに在るだけである。
 は真澄の鏡を両手で掲げたまま、その景色を見つめていた。鏡面にも数多の面が映っている。だが、暗闇に浮かぶ面と鏡に映る面は、同じであるようでいて僅かに違っていた。鏡は、あるものを映す。けれど今ここにあるものは、映される以前から面であった。そこにある顔そのものが、何かを失った後に残った形であるように見える。
 にはその違いが何を意味するのか分からない。ただ一つの身体に一つの顔しか持たない自分からすれば、数え切れないほどの顔が一つの場所に集まり、それでいてどの顔にも身体がないという有様は、獣の群れとも人の群れとも違う、ひどく奇妙なものに思えた。
 薬売りはその中央に立っていた。数多の面を一つずつ見渡し、その一つ一つの奥に残されたものを量るように眺めている。
 その視線が後妻へ向いた。後妻は床へ座したまま、面の群れを見ていた。先程までのように顔を伏せてはいない。恐怖に身を縮めているわけでも逃げようとしているわけでもなく、自身から生まれ、自身が捨ててきたものが、今こうして目の前に姿を得ている。その事実を否定することが出来なくなっていたからである。
 主人もまた、その隣にいる。何かを言おうとして、何度か唇を動かした。しかし声にはならない。ここでは夫も妻も、主人も奥方も、肩書きによって守られることはなかった。前妻を愛した男と、前妻と主人を愛し自分を消し続けた女。それだけが、暗闇の中に残されている。何百もの面は、その二人を責めることもなく、ただ見つめている。
 面霊気は何もしない。ただ、そこに在る。それは、何かを奪う怪異ではなく、既に失われたものを見せる怪異であるかのようだった。
 薬売りが退魔の剣を構え直す。刃には、暗闇の中でも失われない光が宿っていた。明るい光ではない。闇を照らすこともなく、ただ刃の縁だけを細く浮かび上がらせる、熱を持たない静かな光である。
 面の群れはなおも動かない。薬売りを囲みながら、それでも襲い掛かろうとはしない。そのことを確かめるように、薬売りは一歩だけ前へ出た。
 面が揺れた。
 一つ。また一つ。
 その揺らぎが波となって、何百もの面へ伝わってゆく。けれど、最後まで攻撃するものはなかった。薬売りはその様を見て、僅かに目を細めた。やがて剣を持つ腕が、ごく静かに動く。力を込めて振り上げるでもない。大きく踏み込むでもない。ただ、そこにあるものを確かめるように、刃を一閃させた。
 音はなかった。
 ただ、空気を裂く僅かな気配と光だけが暗闇を走った。
 その刃が何かに触れたようには見えなかった。けれど、最も近くに浮かんでいた一枚の面に、細い亀裂が走った。額から鼻筋へ、そこから頬へと、蜘蛛の巣のような裂け目が静かに伸びてゆく。面は砕けなかった。ただ、その亀裂の向こうから、これまで隠されていた何かが覗くように、僅かに揺れた。
 亀裂は薄氷のように広がり、面の縁へ達する。ひびの入った面の向こうから白いものがこぼれた。光ではない。煙でもない。花弁にも似た、細く淡い何かが、面の内側から静かに剥がれ落ちてゆく。ひとひら、またひとひら。落ちたものは床へ届くことなく、暗闇へ溶けて消えた。
 それを合図にしたように、二枚目の面にも亀裂が走った。
 次いで三枚目、四枚目、無数の面へ一本の傷が渡ってゆく。
 それは刃で斬られた傷というより、長い間閉ざされていたものが、ようやく内側からほどけてゆくような裂け方だった。面と面の間にあった僅かな空間へ細い亀裂が走り、その亀裂がさらに別の面へ伸びてゆく。やがて暗闇いっぱいに、白いひびが幾筋も浮かび上がった。
 何百もの顔が、一斉に揺れた。
 泣いているようにも見えた。笑っているようにも見えた。けれど、そのどちらでもなかったのかもしれない。
 それらはただ、長い間そこに留められていた顔だった。誰かの顔になろうとして、誰かの代わりになろうとして、あるいは誰でもないものになろうとして、捨てられたもの。忘れられたもの。忘れようとされたもの。その一つ一つが、剣の光に触れるたび、面としての形を失ってゆく。
 後妻はそれを見ていた。
 声を上げることもなく、ただ静かに見つめている。
 その頬を、一筋だけ涙が伝った。泣いていることに本人が気付いているのか、それすら分からない。ただ、涙は確かに頬を伝い、顎先から落ちた。
 主人は何も言わなかった。
 言える言葉がなかった。
 前妻のために生きようとした女。前妻の代わりになることを拒みながら、その場所にいる自分を許せなかった女。自分を消し続け、最後には自分の名さえ遠ざけてしまった女。そのすべてが、今ここで面となって浮かんでいる。
 主人はようやく、それらを自分の妻の一部として見ることが出来た。
 が掲げていた真澄の鏡も、いつの間にか震えを止めていた。
 鏡面には何も映らない。暗闇すら映さず、ただ静かな銀色だけが残っている。
 最後の面が消え、世界に音が戻った。
 梅の枝を揺らす風。庭先で鳴く鳥。遠くで軋む廊下。人の家には当たり前にあるはずの音が、一つずつ戻ってくる。障子が現れ、襖が現れ、昼の光が戻ってきた。
 薬売りの姿もいつの間にか元の姿へ戻っている。
 退魔の剣は静かにその手に収まり、次いで独りでに背負子の中へ戻った。硬い音が一つだけして、蓋が閉じる。
 は真澄の鏡を見た。鏡はもう、何も震わせず、ありのままの座敷を映していた。
 座敷の中に佇む主人、後妻、そして薬売り。それだけである。
 後妻はしばらく俯いていたが、やがて顔を上げた。
 その顔に別の面影はなかった。前妻の面影でもなく、何処かで見た女の顔でもない、一人の女の顔がそこにあった。
 主人が、その顔を見つめる。
「……春の彼岸に、墓参りへ行こう。君を君として愛し、亡き妻もまた亡き妻として愛すると伝えても、きっと彼女は笑って頷いてくれるだろう。君は、どうだろうか」
 後妻は言葉で答えず、ただ、小さく頷いた。
 庭から風が入り、畳の上を撫でてゆく。
 畳の上には紅葉と山葡萄、そして瞿麦がまだ残されていた。薬売りはそれを拾わず、何事もなかったようにへ目を向ける。二人の間に会話はなく、庭に咲く最後の一輪が咲く梅の枝に四十雀が留まる様子を眺めていた。
 は鏡を薬売りに返し、薬売りは静かにそれを受け取ると、モノノ怪の去った屋敷から立ち去るために座敷の外へと踏み出す。
「……薬売り殿」
「 何でしょう 」
「感謝申し上げます」
「私からも、是非御礼を」
 薬売りは振り返った。その顔には、いつもの薄い笑みがある。
「 礼には 及びません 選んだのは 貴方達だ 」
 そう言って薬売りは外へ向かい、もその後へ続く。しかし、座敷を出る直前、が一度だけ振り返った。
 残された季節外れの花と枝と実の向こうで後妻は主人と向き合っており、もう誰かの面を被ってはいない。
「旦那様……私は、栗の強飯と山葡萄が好きなんです」
「そうか、そうか」
「けれど、それだけでは御座いません。奥様の好んでいた茄子の白和えも、同じくらいに好きなのです。初めて口にした時、嫁ぎ先にも振る舞いたいと申し出ましたら快く調理法を教えていただきました。それに、あの錦玉羹も」
「では、夏になったら茄子と錦玉羹を取り寄せよう。そして、秋になったら栗と山葡萄を」
「はい」
 二人の会話を背にしたが襖を静かに閉じる。来る時と同様に、春の冷たさを残した風が渡り廊下を細く吹き抜けていった。
 屋敷には怪異の気配はなくなり、賑やかな表通りと同じ空気が流れ始めている。匂いの齟齬がなくなり安心したのか、は小さく息を吐いた。薔薇色の打ち掛けの裾が風に揺れ、その刺繍には相変わらず金糸や銀糸が踊っている。
「しかし。妙なものですね」
 薬売りは歩みを止めなかった。下駄の音が、乾いた通りの上で二つ、三つと続いてゆく。
「 何が 」
「ヒトというものは」
 は言葉を探すように、しばらく黙った。屋敷を出れば、もうそこには人の声がある。荷を運ぶ車の軋む音、店先から聞こえる呼び声、どこかの家から漂う飯の匂い。つい先程まであれほど濃く人の情念が淀んでいた場所が、戸を一枚隔てただけで何事もなかったように日常へ戻っている。
「自分を消してまで。誰かの為に在ろうとする」
 薬売りは答えない。
「山犬だった頃も。天狗になってからも。死別は経験しましたよって。しかし自分を捨てて他の誰かに成るということが分かりません」
 の声には後妻を責める響きはなかった。ただ、本当に分からないという、素朴な困惑だけがあった。
「何故そこまでして自分を失おうとするのでしょう」
 山に遮られない太陽から春の光が降り注いでいる。冷たい風の中に僅かに土の匂いが混じり、まだ冬の名残を残す風の奥には確かに春がいた。
 薬売りは足を止めない。
「 理解する必要はない 」
「左様ですか」
「 ああ 」
 薬売りはいつもの調子で言った。
「 人の心というものは 知ったからといって どうにかなるものでもない 」
 薬売りがそういうのならそうなのだろうと納得し、は黙った。
 後妻が何故、自分を消したのか。
 前妻を憎んでいたわけではなく、敬愛していた。主人から愛されたかったわけではなく、前妻と添い遂げて欲しかった。前妻になりたかったわけでもない。ただ、自分がその場所にいることを許せなかった。
 そのために、自分の好きだったものを捨て、自分の記憶を捨て、自分の顔を捨て、最後には自分自身まで捨てようとしていた。
 には後妻がどうしても理解出来なかった。
 群れのために己を差し出すことなら知っている。誰かを守るために牙を剥くことも知っている。命を分けることも、命を奪うことも知っている。けれど、自分というものを少しずつ削り、他者の形へ自らを変えてゆく心は、どうしても知り得ない。
 人であるからこそ生まれ、人であるからこそ深く絡まり、そして人であるからこそ、自分自身でも解けなくなるものだった。
「ヒトとはまこと複雑怪奇な存在にございます」
「 嫌いになったか 人を 」
「いいえ。ヒトは好きです。特にシロウサギのことは一等好いておりますよって」
 下心はないが真心は込められているの告白に薬売りは笑う。
 昼の町は怪異など素知らぬ顔で賑わっていった。荷車が通り、店先では商人が声を張り、どこかから子供の笑い声が聞こえる。空は明るく、柔らかい風が屋根瓦の上を渡った。
 は歩きながら、薔薇色の打ち掛けを見下ろした。
 紅葉と山葡萄の金糸と銀糸は消えている。けれど、その布そのものは残っていた。
 自分が何者であるのかを忘れたわけではない。山犬であったことも、天狗となったことも、花を売って歩くことも、薬売りと共にいることも、何一つ捨ててはいない。
 きっと、あの後妻のことはこれからも分からない。しかし、そういうものなのだろうと納得は出来たようだった。
 はもう一度だけ屋敷を振り返った。屋敷はただの商家に戻っている。記憶の中の梅の枝が、四十雀の重みで揺れていた。
「シロウサギ。ヒトというのは難しいものですね」
「 そうだな 」
 薬売りは空を見上げた。
 淡い春の空が広がっている。
「 だが 総てを理解などしなくとも 寄り添える 」
 その理屈には首を縦に振る。薬売りが寄り添うことに理解は必要はないと言った以上は分からないままでよかった。
 人の心を人ならざるものが完全に理解する必要はない。
 人は人のまま、妖は妖のまま。互いに分からないものを抱えたまま、それでも同じ道を歩くことは出来る。
 二人の影が春まだ浅い道の上へ落ちて、やがて人波に紛れ、その姿も見えなくなる。
 後に残ったのは、何事もなかったように賑わう宿場町だけだった。