幽谷響〈参〉
鎮められない胸騒ぎを抑えるように下唇を噛むと、薄い皮が捲れ血が出そうになる。そのにおいを得意としないは慌てて唇を噛むのを止め、誰も居ない背後を振り返った。
生い茂る山の木々の間に僅かに見えるのは、神社へと続く石段だけで、何者の影もない。雲が流れた所為で日差しは相変わらず地を照りつけ、陽炎を作り出していた。
自分よりも余程強い薬売りに何かあったとは考え難いが、それでも宮司の残した不安の火種は彼の中にずっと在って、再び歩き始めるも数歩も行かないうちにまた立ち止まってしまう。
琥珀の瞳に浮かんだ葛藤はその旅に大きくなるが、それでも言いつけ通り、道を戻る事は決してしない。
自分はただのアヤカシだ。行って何の力になるというのか。そう言い聞かせて。
「花売りの旦那様?」
「嗚呼。ご亭主……」
「一体どうされました」
薬売りと共に部屋を借りた宿の亭主の声に振り返ると、顔を見られるなりそう返される。
指摘されたとおり、の表情は先程の不安から沈んでいて、この暑いのに律儀に打掛を羽織っている所為で生地の色が変わるほど汗に塗れていた。これで不思議がらない人間はそうそう居やしないだろう。
だというのに、亭主が彼を見上げる目付きや口調は朗らかで、とは対照的だった。心なしか、彼を祝福しているようにさえ見えてしまい、筋違いだというのに妙に腹が立って仕様が無くなる。
「神社にお行きになられたんですね」
「何故判るのですか」
「判りますよ。そうだ、お連れ様が先にお帰りになっていらっしゃいますよ」
「……は!?」
予想していなかった宿屋の亭主の一言での目の色が変わり、それまで燻っていた何もかもが一斉に消し飛んでしまう。
確かに所々で時間は食ったが、まさか薬売りが先に宿に着いてしまうなんて。その事だけが彼の思考を占め、亭主への礼も早々に走り出した。
恐らく、部屋を空けた瞬間に天秤が飛んできて、額に刺さることになるだろう。そして怪我を放置されたまま正座を強要され、長い長い説教が始まって、そのうち訳の判らない場所まで飛躍した行為まで非難されて、あっという間に夜が更けて。
普段ならば急いで宿に行くどころか、踵を返して逃げ出したくなるような想像だというのに。まるで親を待ち焦がれる子供ではないか、と自分の行動に苦笑してしまう。
結局坂井の化猫の一件から全く成長していない。目を見張るほど早く成長しても自分が自分でなくなったようで困るのだが、これでは成長どころか精神的に退行しているのではないかと軽く叱咤する。
それでも本能に近いそれを抑えることなどには不可能で、風の様な速さで宿まで走り切れば打ち水をしている女将と視線がぶつかった。柄杓を持っていた手が止まり、肩で息をしている青年に穏やかな表情で軽く頭を下げる。
「花売りの旦那様、一体どうされました?」
「いえ。ちょっと……」
大した事ではないという意味で言った言葉を止め、ある事に気付いて目の前の女性を凝視する。
意識して嗅覚を働かせると、彼女からはあの神社の杉と同じ匂いがした。宮司やその妻は当然として何故彼女まで、その疑問が、姿を隠していた不安を引きずり出して肥大化させる。
「神社にお行きになられたんですね」
「……何故判るのですか」
「判りますよ」
はにかんだ女性から距離を取るようにして、両脚に力を込めた。
若干険しい顔付きをしているにも関わらず、女将は取り立てて気に留めるような事でもないように宿の二階を見てから柄杓を手桶に戻した。
濡れた土から水分が蒸発し、慰め程度に周囲の気温が下がる。
「そうだ、お連れ様が先にお帰りになっていらっしゃいますよ」
「左様ですか……ありがとう御座います」
この暑さだというのに鳥肌の立った腕を摩り、は累乗されていく不安を殺して宿の敷居を跨ぐ。来た時と何等変わりのない小さなその宿の階段を上り、確かに何かの気配はする一番奥の部屋へ突き進んだ。
襖に手をかけたところで呼吸を止め、咽喉を上下さる。今までの荒っぽさが嘘のように静かに襖を開けると、蝉の合唱を背にして窓辺に腰掛けた美青年が横目で笑っていた。
隈取のような派手な化粧に、蛾を模した着物と女物の帯。他の誰とも見間違えようのない美しい貌が光を背にして、右手が部屋に入ってくるよう宙で舞っている。
「 」
「……」
薬売りに付けられた名を呼ばれると、耳が自然に動いて表情には険しさが増した。鼻先に皺を寄せたそれは、まるで本来の姿そのものを見ているようでもある。
後ろ手に襖を閉めるとは首に絡んできた腕を邪険そうに眺め、体のいたるところに纏わりつく匂いに牙を剥き出しながら口を曲げた。
白い肌から香るのは杉と、幾つもの女物の香水。そして彼にすら嗅ぎ分けることが難しい程微細な、肉が腐った臭いが奥に潜んでいる。
姿形は寸分の狂いもなく薬売りの『それ』は不思議そうに首を傾いで、を騙すように艶やかな笑みで口元を飾った。
「 どうかしたんですか 」
「シロウサギはどちらですか」
「 此処に 居るじゃあ ありませんか 」
聞き慣れた声が耳元で囁き、嗅ぎ慣れない匂いが部屋全体に満ちていく。
体温を持った手が褐色の手を取って着物の帯を解くように促していたが、そうする気など全くないと振り払うと同じ言葉でもう一度問いかけた。
「シロウサギはどちらですか」
「 …… 騙されてくれたって いいじゃありませんか 」
自分が薬売りではないと告げた『それ』にの表情が益々険しくなる。
自分の体に知らない匂いが付くことが腹立たしく、絡んでいた腕を力任せに振り解いて咽喉に右手をかけると薬売りの姿形をした『それ』は玩具を見るような目付きで舌なめずりをした。
村の女たちも『それ』と同じ匂いを漂わせていた所を見ると、恐らくは彼女たちも皆偽者なのだろう。加えて、男たちのあの様子。
薬売りが姿形以外の一切を真似ておらず、彼女たちもそうだとしたら、彼らは自分等の妻が全く違う『それ』となっている事に気付いているに違いない。恐らくだが、あの宮司も、この宿の亭主も。
だから、同類と見なされた自分に声を掛けたのだと。
「不愉快極まりない」
「……!」
気管支と共に声帯を締め付けられ声を上げることが叶わない咽喉の白い肉が、突如発生した熱によって黒く焦がされていく。褐色の掌からは陽炎が立ったかと思うと、真っ赤な燐光が右手全体を覆うように不気味に揺らめき始めた。
助けを請うように真っ白な両の手がの右腕に爪を立てるが、元より異種族に対して情が希薄な男はその俗世離れした美貌を一切歪める事無く薬売りの姿形をした『それ』を黙って眺め続ける。
人間の熾す炎とは違い発生させた本人以外では消せないそれを纏った右腕先の存在は、彼の腕に無数の引っ掻き傷を残し程なく絶命した。後に残ったのは、凡そ成人男性とは思えない、精々猿ほどの大きさしかない炭の塊と肉の焦げた匂いだけである。
その消し炭を畳へ放り投げてから右腕を振り払えば手を覆っていた炎が吹き消えて、熱せられた空気も夏の暑さに溶けてしまう。さわりさわりと髪を撫ぜる風が部屋の中で行き止まって、匂いも空気も宙に浮かぶ何もかもを混ぜながら襖をかたかたと揺らしていた。
「ヤマビコですか」
山から山へ、谷から谷へと音を運ぶ、何処にでも居る妖怪。何故それが人の形をしているのかは理解しかねる事象であるが、その成れの果てにすら腹立たしさを覚えるのだからこれは相当だと彼にしては珍しくまともな自己診断を行う。
そもそも何故自分と同じ、ただの一妖怪に此処まで不愉快にされなければならないのか。どかりと畳の上に座り込んで考えたい気持ちを抑え、再び炎天下の下へ行くために襖に手をかけた。
今はそれよりも薬売りの安否を確かめる方が先だと、気が其方に行き過ぎてしまったのが原因だろう。
半ば程開いた襖を突き破るようにして突如振り下ろされた鍬がの脳天に直撃して、一瞬だが意識が遠退きかける。
麻痺する視覚と聴覚を切り捨て本能だけで部屋の窓際まで後ずさると、二撃目を感じ取って横転。ようやく火花が収まった視覚で鍬の先を確認すれば、そこには笑顔のままの宿屋の女将が居た。
成程、大した失態だ。彼女から香るのも、消し炭となったヤマビコからした匂いと同じ、杉と香水と腐臭。それどころか村中の女がそうだったのだから、早い所算段しなければ敵討ちだか何だかと称されて刺殺か撲殺されてしまうと急いで階段を駆け下りる。
幸い身体能力は人間の女と大して変わらないのか、階上から聞こえてくる足音は鈍い。何かあったのかと暢気な質問をする宿屋の亭主を無視して下駄を履くと、通りとは反対の藪の中へ身を躍らせた。ここならば人間の生身に近い幽谷響も、元の姿をとったそれも不得手な場であろうと推測して、重力を感じさせない速さで坂を駆け上る。
奥からは水の流れる音が聞こえ、あの神社の杉の裏の川と同じものだと理解したは躊躇う事無く其方へと走り出し、夏の日差しと共に降り注ぐ妖怪の影を一斉に焼き払う。運の良かった何匹かは川に落ち焼死を免れたが、大半は白い岩の上で苦しみながらのたうち回り、絶命していった。
「天狗火。お前、天狗か!」
「如何にも」
紅色の炎を操るの姿に、今の今まで牙を剥き出していた猿に似た耳の大きな妖怪が恐れ戦く。
山に属する妖怪の中でも特に天狗は武闘派に分類され、上位のように神通力をほとんど持っていない下位の天狗ですら、こうして天狗火を操ったり体が頑丈に出来ていたりした。これでも化猫相手に生還したのだから、普段どんなに自分を蔑もうが天狗の名は端くれだろうと伊達ではない。
「其処を退いて下されば何も致しません。手を出されるのであれば焼き払います」
炭となった仲間をまだ生きている幽谷響が黙って見つめ、やがて一匹、二匹と道を空けて行く。はその横を風のように走り抜けて遥か向こうに見える杉の木を目指した。
薬売りに会うためだけに全力で走るのは今日で二度目だと、思考はそこで止まり、疑問符が付いて繰り返される。そう、何故自分はそれだけの為にこんなに焦って走っているのだろうかと。
当然だ、彼は自分の中でも特別な上客で、危険な『ハナ』を売っても生還する数少ない人間の一人だ。けれど、それなら何故彼の姿形を真似られたことに腹を立てたのか、否、そもそもそういった上客ならば押し切られた形とはいえ共に旅などせず、さっさと次の『ハナ』を探しにいけばいいのではないか。それが彼の為であり、自分の為でもあるのだから。
そうして湧き出てきた疑問が一気に煮えたくり、の思考を全て奪う。彼は物事を深く考えるという事を得意としなかったが、今回ばかりは、だからと言って匙を投げてはいけない気がした。
「違う。違う。ちがう」
一体何が違うのか、自分でも判らないまま呟いていた言葉を塗り替えるように、薬売りが自分に告げた言葉が鮮烈に蘇ってくる。坂井の屋敷で、あの化猫に会う直前に交わした会話。
薬売りは襖越しに、に懸想していると告げたのだ。
「……」
そんな事は冗談だと思っていた。己が好いている相手を殴るはずないと、そう思っていた。
けれどその相手が自分と、否、例え話にすると余計訳が判らなくなる。が薬売り以外の存在に目を奪われたり、好意を寄せたりすれば話は別なのかもしれない。自分以外を見るなという、そういう意思表示だったのかもしれない。
今更そんな事に気付いたのかとそれこそ鼻で笑われそうだが、獣の思考も多少は有するにとっては当時の薬売りの行動は本当に理解の範疇を超えていたのだ。
だからこその仮定形。そこが彼の思考と想像力の限界でもあった。
「嗚呼。でも。そんな」
あの杉の木の下で絡まる、崖から剥き出した木の根を見上げ褐色の青年は愛おしさと苦しさに目を細めて歯を食いしばる。突然ともようやくとも言える恋の自覚に胸を締め付けられ、絡まった糸のようだった思考がまっさらに塗り潰された。
それならば全ての説明が付く。薬売りが共に来るように言った時に、本気で抗わなかった理由も、薬売りの姿をした偽者が自分の前に現れた時の憤りも、自分よりも遥かに強い薬売りを矢鱈庇いたがる訳も、今持っている感情も全て。
自分は彼を慕っている。それに偽りはないが、決定的に足りなかったのだ。ただ慕っているだけではなく、自分も彼に恋慕していたのだ。
自分は何度、彼の言葉を冗談だと一蹴したのだろう。どれだけの数を否定したのだろう。その申し訳なさと、それでも衰える様子のない自分本位なその感情に任せ、は地面を力の限り蹴りつけて崖の中腹辺りに突き出した根に足をかけた。
様々な木の根が密集したその奥には、ひたすら暗い空間が広がっているようで、時折通り過ぎる風が不気味な音を奏でている。けれど、同時にその風は、の良く知った香りも運んできてくれた。
「シロウサギ。シロウサギ。聞こえていらっしゃいますか」
どうか彼が無事で、出来る事ならば無傷で居るように。その願いを込めて呼びかければ、耳に馴染んだ男の声が存外早く返って来る。
「 遅かったですね 」
「申し訳御座いません」
姿の見えない薬売りに対して、は今持っている感情を言葉に乗せる術を思い付かず、いつも通りの返答に終わらせた。
代わりに褐色の腕は太い木の根を引き千切り始め、眼下の川へと次々と捨てていく。汗と土に塗れながらも、彼はひたすら薬売りに会うためだけに障害物を取り除き始めるのだった。