幽谷響〈肆〉
ではどのようにして、崖から突き落とされこんな場所へと招待されたかというと、モノノ怪の仕業に間違いないだろう。しかし、落ちた直後に退魔の剣に彼女がそうかと尋ねてみればそれはどうもそれでは足りないようなので、何とも表現し難い様々な感情が入り混じった溜息を吐いてしまった。
足元に転がるのは身動きの一切を彼の持つ札に奪われた猿に似た生き物で、血生臭い息を吐き出し声を上げながら薬売りを口汚く罵っている。誰が好んでこんな妖に食われるものか、と口を封じるために更に札を投げ付けて大人しくさせると、ようやく彼の周囲は静かになった。
「 さて どうしましょうかねえ 」
血生臭さと腐臭の混じったこんな場には誰だって長く居たくないもので、それは薬売りとて同じではある。がしかし、そこから離れる手段がないのが現状だった。
樹齢を感じさせる太い根はちょっとやそっとでは引き千切れる代物ではないし、第一そういった力仕事は主に薬売りではなく彼の傍に何時も居る、正しくは居させているの得意とする所である。
あれでも天狗の端くれらしく、不思議な道具や能力も持ち合わせていた。紋に出来るものなら生きている馬すら喰らう打掛や、風を操る八手の団扇、酒の尽きない瓢箪等が主だったものだが、そう言えばそういった物を使っている様子は終ぞ見た事がない。
使わないのか、はたまた使えないのか、後で少しからかい混じりに訊いてみようかとあの褐色の青年の事を考えながら人知れず表情を崩し、格子の如く絡み合っている木の根に掌を這わせてみる。
普段彼が漁火に使っている天狗火を投げ付けてやれば直に解決しそうなものだが、それは『彼女』たちに悪いかと思い直し奥の暗闇を見つめた。
腐臭の発生源でもあるその暗闇に潜んでいるのは、目の前に転がっている妖たちに食い荒らされた人間の骨の山と一欠片の肉で、女物と判った衣服には蛆が這っている。何十という数の中の死骸の中には宿屋の名が染められた前掛けや薄汚れた緋袴があり、蝿の集っていた腕の先にある爪は無残に割れていた。
引っ掻き傷の残る、出口を塞いでいるこの木の根が彼女たちの爪を割ったのだろう。しかしこれがモノノ怪の理かと問えば、退魔の剣は口を開けたまま、また違うと応える。
完全に八方が塞がれ、薬売りは薬箱を降ろしその場に足を揃えて座り込んだ。そうしたのは無論絶望や悲観からではなく、他にすることが無くなったからに過ぎない。一応この外にはが居るだろうし、あれは自分を木偶だ阿呆だという割に実はそうでもない働きを見せる。
無論惚れた欲目もあるのだろうし、釘を刺しておかないと間抜けな事をしでかすが、平時一人でモノノ怪を探っては小まめに薬売りに知らせに来る程度の力は確かにあるのだ。
「 ただ 絶望的に鈍いんですよねえ 」
鈍いどころか、はそういった関係の神経が在るかどうかすら疑われる男だ。きっと、何故四六時中薬売りが彼にとっては些細な行動に腹を立てているのか気付いていないだろう。
そんな男は、今頃は宿の一室で自分の帰りを待ち侘びているのだろうか、それとも部屋の隅に巨体を押し込んで怯えているだろうか。多分後者だろうなと僅かに口端を吊り上げて光の差す方へ視線をやれば、薬売りの髪が夏の風に揺れる。
突然、その光の筋が巨大な影に遮られ、流れ込む風も半ば程塞ぎ止めた。木の根にしっかりと足をかけたその影の正体など、一つしか思い浮かばない。陽光を背にした影の表情は見て取れなかったが、それは此方も同じ事で、思ったよりもずっと早く自分に辿りついた男に表情が緩んだ。
「シロウサギ。シロウサギ。聞こえていらっしゃいますか」
「 遅かったですね 」
「申し訳御座いません」
寧ろ思っていたよりもずっと早かったというのに、情けない声でそう問いかけられると元よりあった嗜虐心と、同時にあの子供のような男を安心させてやりたいという矛盾した気持ちから咄嗟にこんな言葉が出てくる。
本当ならばもっと他の言葉も掛けてやろうと思ったのだが、無心に木の根を引き千切る影を眺めているとその気も失せて来た。焦っているようにも見えるが、何時ものとは様子が少しばかり違うようにも感じる。
しかしそれ以上の時間を与えるつもりのない影は子供一人が楽に通れる穴を直に作り出し、残りは面倒だとばかりに強引に縦に引き裂き上から落ちて来た土埃を払った。その右腕に引っ掻かれた様な無数の傷が出来ていたが、気に留めていないのか忘れているのかしているは正座している薬売りに向かって手を伸ばす。
「お怪我は御座いませんか」
「 程では ありませんよ 」
「シロウサギがご無事ならそれでいいんです。あっしは大した傷では御座いませんし」
赤い線が幾重にも重なった痛々しい右腕を指せば、は薬箱を背負いながら少年のような屈託のない表情で首を傾げて見せた。
そうして薬売りの傍らに屈むと、幽谷響を焼き殺した時に出来た傷を負った腕を背中に回し、左腕を膝裏に入れて抱きかかえる。薬箱を背負った故の選択であろうが、所謂姫抱きをされた薬売りはというと目を見開いて男の奇行に思考を停止させていた。
落としてしまうかもしれないから腕を回して欲しいと言うの要求に気味悪いほど素直に従うと、彼を支えていた褐色の肌の下の筋肉が張って一層力強く腕の中の体を抱き締める。
男二人と大荷物という重量を支える一本歯の下駄は負荷など感じさせない軽さで動き出し、頑丈に入り組んだ木の根をしっかりと捉えた。眼下に流れる水流などに一欠けらの恐怖も抱かず、足場を確保すれば後は簡単だと琥珀色の瞳は空を仰いで軽く跳躍する。
夏の風が二人の体を押し上げるように吹きつけて、薔薇色の打掛がふわりと揺らぎ静かな着地と共に踏み固められた地面の上に広がった。軽く曲がっていた膝を伸ばし、強い日差しの遮られた木陰の下で改めて薬売りを確認すると何かがおかしい事に気付いて横抱きのまま名前を呼ぶ。
「 何でもありません 早くおろして下さい 」
「嗚呼。はい」
厚手の着物越しでも判るほど筋肉を固まらせた薬売りを地面に下ろし、どうしたのだろうと顔を近づけようとした直前、白い手で作られた握り拳がの左頬に見事にのめり込み視線を強制的に右側へと移動させた。
日頃から暴力行為に馴らされている彼にとってそれ自体はさして痛くも無かったが、前触れも無くいきなり殴られた事には当然驚き目を丸くしてゆっくりと顔を元の位置に戻す。
最初に入ったのは朱色の耳で、次に息をする度に上下している肩。顔を俯かせていたのでそれ以上は確認しようが無かったが、あまりにも普通ではない薬売りの態度に、自分はまた何をやらかしてしまったのだろうと右往左往する。
自分と薬売り、それぞれの想いには気付いたものの世間で言う照れ隠しという概念を理解していない男は、視界の端に映った白い物体を見つけ、この奇妙な空気を打開するためには仕方ないと恐々それを引き抜き薬売りに差し出した。
「あの。シロウサギ。天秤が……」
「 …… 天秤? 」
「ほら。先程別れる際にあっしに投げて寄越したじゃあないですか。スギの根元に刺さりっ放しだったんですよ」
珍しくに対して過剰な反応を見せない天秤は褐色の手の平の上で何度か回ると、独りでに彼の背負う薬箱の中へ帰って行ってしまった。直後、二人の間に当然のように降りてくる不自然な沈黙に、彼は初めて天秤に恐怖ではない別の感情を抱く。
何故要らないと強く思う時ほど自分に向かって来て、必要な時に限って当然のように去っていくのかと言う内心に吹き荒れる不条理の暴雨をひた隠しながら、は次の話題を必至に探すと、それは以外に彼の思考の近くにあったようで直に両の手を合わせた。
よくよく考えれば、それは天秤よりも先に見つけ出して話さなければならないものだったのだろうが、人間だろうと妖だろうと逸るとまず目に付いたものから切り出す習性というものがあるらしい。そんな言い訳じみたことで心の暴雨を治めると、は帰り道で出会った宮司と、そして恐らくモノノ怪の仕業であろうと思われる事象を手早く説明し始める。
流石にこれには薬売りも何時もの様子を取り戻し、宮司とその妻、そして村の女性たちが皆死んでいるという話を真剣に聞き入った。
この崖の下で、骨と衣服だけを残し妖に食われてしまった女性たち。薬売りを助けた際、鼻の利くも口には出さないもののそれには気付いてしまっていて、決してここからは見えることのない横穴に視線をやる。
何となく、村の女性は皆死んでいるだろうという事は予想がついていた。それでも、もしかしたら、薬売り以外にも生きている人間が居て、誰かの助けを待っているのかもしれないという願望もあったのは確かである。
結局は叶えられなかった望みに言い表しようのない気持ちを覚えたが、逸早くそれを捨てて眼前の問題を片付けるために薬売りにとって必要な事柄を尋ねた。
「殺されたオナゴたちが『コトワリ』ですか」
「 …… いいや違う 」
「では……一体何が」
微かに瞳を翳らせたの言葉を否定し、そう告げると背の天秤が澄んだ音を響かせる。
鈴の音は突如止んだ蝉の声と草をにじる気配に飲み込まれ、始めからそこには四人の男女以外何も無かったような奇妙な静けさが辺りに漂う。
薔薇の打掛を挟んだ崖側の二人の男は不気味なほど静かに現れた一組の夫婦をそれぞれの感情を秘めながら見つめ、褐色の青年が体を反転させる間に神社側に身をおいた男の唇がゆっくりと動いた。
「残念だよ、貴方になら判って貰えると思ったのに」
傍らに緋袴を履いた女性を携えた宮司が、失望の表情でを見下す。憮然とした態度は鈍いと称される彼も流石に気に食わなかったのか、首を少しばかり傾いで、不愉快だ。と今日二度目になる言葉を零した。
「そんなモノの何処が良いのか理解しかねますし。第一同属と見なされていた事が癪に障ります」
初めて見た時にはその淑やかな妻を演じている外観に気を取られたのは確かだが、中身は何処にでも生息している猿に似た妖と知ってしまった以上、それに向かって愛想を浮かべる気には到底なれないでいる。不機嫌を察して怯えるように宮司の背に隠れた仕種の一つ一つが滑稽に見えて仕方なく、また、そんな紛い物と知っていて庇う男の姿は笑止の至りだった。
男の視界から外れたのをいい事に、肩から顔を覗かせて薄気味悪く嘲っている妖を見ていると不思議と猿の丸焼きを作りたくなるが、面倒事が嫌いなは大息を吐いて思考を外へと追いやる。
「わたしからしてみれば、其方の方が理解しかねるけれどね。何故そこまでして薬売りの方に尽瘁しているのか不思議で仕方ない」
「 それは …… 」
「あっしがそうしたいから。ですよ」
何時もの調子で返そうとした薬売りがどうはぐらかそうか言い淀んだ隙に割って入った言葉が、場の時を止めた。
固まる二人の男と、両人を見比べる女性の姿をした妖。言葉を発した本人だけがその氷糖のような空気に気付かないでいるのか、腹を立てているという事を明確にするために子供のように頬を膨らせる。
「この御方を愛しているんです。十分な理由でしょう」
その幼子のような仕種に反し、瞳だけは酷く真摯で、不釣合いな眼光が宮司を射竦め熱を孕み弛んだ大気をピンと張らせた。幽谷響は袖を一層強く掴み、眼力に気圧されつつある男は汗を拭う動作をする。
自らの背後を認知する機能があれば、滅多に見ることの出来ない頬を染めた薬売りを見る事も出来たのだが、人間ではない彼も流石にそこまで生物離れした能力は備わってはいなかった。それを幸とするか不幸とするかはさておいて。
そんな男に向かい合った宮司は、湿気を含んだ熱気の中で乾いた舌は粘ついた音をさせながら、唯々真っすぐとし過ぎた意志を揺るがすための言葉を探し始めた。
「冗、談じゃない。わたしはそんな自己本位な人間は御免だ」
辛うじて放てた言葉はにとって何の意味も為さず、音として認識され通り抜けた。声が質量を伴っていれば宮司の言葉等その辺りに転がっている砂利と何等変わらないだろう。
会話を成立させる気が互いに存在しない事も手伝い、宮司はひたすら無意味な言葉を垂れ流した。しかしそれは決して価値がない訳ではなく、鈴の付いた剣を構えていた薬売りは桜色に染まった肌のまま己にとって必要なものを探り出す。
その前方で、万が一の為には両脚に力を込めて重心を整えた。それは二人を囲むようにして居る多くの妖の視線と、彼の言う『ハナ』が徐々に近付いてきている事をそれとなく感じ取っているからなのだろう。
有事の際には壁となるか、背の君を連れて一時的に撤退するか、以前のように限られた狭小な屋敷の中ではなく自らの能力を発揮出来る山中という事もあって、前に比べれば格段の落ち着きも見せていた。
幽谷響を庇いながらも恐慌状態に陥った宮司は、濁った茶色の瞳で二人の男を見据え、しかし焦点は其処に合わさずに自分の妻がどんな女だったかを吐き出している。例えそれがこの場に居る誰の心に届かなくても、彼は自らが満足するまで話すのを止めようとしなかった。
「我侭な女も、暴力を振るう女ももう懲り懲りだ。おれはあの女の下男じゃない」
悲鳴じみているそれに呼応するように薬売りの手の中の剣がかたかたと動く。理はすぐそこだというのに、宮司は最早それを思い出すのも嫌なのか、汗に濡れた肩で息をして狂気と憎悪に縁取られた視線だけを二人の男にくれてやった。
すると、それまで宮司の言葉を聞き流していたが薬売りが言うよりも早く、火薬庫に花火を遊び半分で放る知識不足の気安さ、あるいは馬鹿と表現してもいい様子で言葉を紡ぐ。
「つまり。奥方がそういった行動をとる程に貴方に魅力が無かったんですね」
「なっ……!」
「違うのですか?」
道行く百人に訊けば百人が美男子と答えるであろう青年にそう言われ、逆上しない男は滅多にいない。
宮司も例に漏れず、憤怒に顔を染め飄々としている風に見れる美しい顔をした褐色の男を睨み付けた。殴りかかっても返り討ちにされる事を想像できる程度には自制が出来たのか、見た目だけは可愛らしい妻を抱き寄せてそうしている格好は一層哀れにすら感じる。
「お前に何が判る。日頃横柄だった妻がこうなった事で、どれだけ幸せになったことか」
「ご自分の都合のいい様になっただけでしょう。共有したい価値観じゃあありませんよって」
「妻を自分の望み通りにして何が悪い。崖から突き落とすだけで理想の女が得られるんだ、普通の男は誰だってそうするさ」
「……突き落とすと仰いましたが。其方の奥方は足を滑らせて落ちたのでは?」
「『わたしの妻は』な。けれど二人目からは違う、村の連中はわたしの妻の話を聞いて挙って女を捨てに来たよ。毎晩、女の肉を食べる事が出来て幸せだったわ……え?」
宮司の咽喉から甲高い、女性のような声が上がる。その声は、彼の腕の中に居る妻の形をしたものと瓜二つで、一瞬にして顔面を蒼白にした男は恐々と今抱いている奇怪な生き物を見下ろした。
「嗚呼、喋り過ぎよ。貴方はわたしに必要な言葉を言って、必要な餌を持って来てくれればいいの」
凍りついた表情とは別に男の唇だけが意志を持ったように動き、甲高いようでひどく濁った女の声が吐き出される。
毛に塗れたその幽谷響は腐った臓腑の息を吐き出しながら二人の青年を見ると、鋭い牙を覗かせている口端を耳の付け根の辺りまで吊らせた。
「一応。自力で喋れない訳ではないでしょうに。ご自分の口を使って下さい」
「他の物に憑き、音を真似てこそのわたし。天狗の使い走りが、出しゃばるんじゃないよ」
男と女の声が混ざった不協和音には顔を顰め、もう相手にしたくないと全身の雰囲気で語りながら薬売りを振り返った。
「もう宜しいでしょうか」
「 ああ 充分だ 」
薬売りは一歩前へ出て、死人のように青くなっている男と、それにぶら下がっているモノノ怪を見比べ、手にしていた退魔の剣を掲げる。
「 偶然女性の肉の味を覚えた貴方は それを気に入り食べ続ける為 人を此処に誘き寄せては殺してきた それが貴方の『真』 」
水晶をぶつけた様な音が辺りに響き、すぐに訪れた静寂に被さる様にして薬売りは続けた。
「 けれど 人に比べさして力のない貴方は 餌である人の肉を得る為に その者の望む女を与える代わり男に同族殺しをさせて来た それが貴方の『理』 」
再び鳴った軽い音に森の梢がざわめく。音を得て形を成した風が彼らの髪を揺らし肌を撫で付けて、僅かな空白の時間が過ぎて行った。
怖気が走るほど静かな、けれど蒸し暑い夏の森の中で、剣を抜くべく言葉が紡がれる。
「 貴方はその性質上 大元となる何かが存在しなければならない 故にその男が存在してこそ 初めて貴方の『形』は成り立つ 」
三度、剣が薬売りの声に応え、音もなくふわりと宙に浮く。それを合図には道を譲るように数歩後退し、両腕に陽炎と紅色の炎を纏って辺りを伺った。
入れ違いに歩を進めた薬売りに視線を戻すと、黄金色を纏った男が鞘から吹き上がる剣を振り下ろし、色鮮やかな火花を撒き散らしながら幽谷響を斬っている様子が瞳に焼き付く。しかし、それも瞬きをする間に、泡沫の夢のように音もなく消え去り、後に残ったのは耳を塞ぎたくなるほど存在を誇示する蝉の声と、三人の男。そして、上から降ってきた黒い影だけだった。
はそれが何なのか脳が認識する前に両腕を空に振り上げ、自分と薬売りに向かっていたものだけを炎で出迎え、容赦なく焼き殺す。断末魔の醜い叫びは数え切れない程森に集まった蝉の声に飲み込まれ、辺りに漂う肉の焦げていく臭いだけがそれらの死を伝えていた。
赤過ぎた炎は死体から森の木々へと移り始め、橙色に変色しながらゆっくりと燃え広がり始める。夏の暑さに加え、度を越した熱気がたちまち辺りを包み込み上っていく煙は傾き始めた太陽を覆い隠そうとしていた。
「 いいんですか こんな事をして 」
「何か問題が御座いましたか」
「 …… いや 」
視線の先で食い殺されながら火炙りにされている宮司を眺めていた薬売りは、何等悪びれない様子のに話しかける。彼自身、今の状況に深く感情を揺さぶられている訳でもないので声は平坦なものであったが。
火の爆ぜる音に混ざって、村の方から男たちの絶叫が聞こえてくる。恐らくは妻だった『モノ』に食い殺されている最中なのだろう。目の前の男のように。
「ひとまず何処か焼死しな場所へ参りましょう。御手を」
左手には八手の団扇を持ち、右手をゆるりと差し出した男は、その腕一本で薬売りの腰を抱えて持ち上げると火の手が伸びない崖の方へと跳躍した。すると、仰がれた左腕の団扇から風が絡み付き二人の男を空高くへと押し上げる。
見えない足場で跳び直し、自分たちの居た場所を見下ろせば、そのすぐ下の崖にある横穴からも炎と煙が上がっているのを見て取れた。それだけ確認すると、はいずれ炎に包まれるであろう小さな村に背を向けて夕焼け色の空を走り始める。
「 一寸した 騒ぎになりそうだな 」
「一寸なら問題ないのでは」
前向きと表現するよりは無責任と言える言葉で返した褐色の男は左腕で足場を作り直しながら淡々とした様子で続けた。
「最初から居ないか。今から居なくなるか。大した違いには思えませんし」
「 …… 薄情な男だ 」
「あっしは唯のテングですよって。ヒトが幾ら死のうと関係御座いません」
何時も聞いているはずの言葉に、薬売りは体を強張らせる。
それを右腕から感じ取った褐色の男は夕日に映える美しい男を見上げて口を開こうとした。すると、陽の色に染められた元は白い指が何処かへ下ろすように指示するので、目に付いた大きな杉の木を目指して一際高く飛翔する。
留まった枝の幹の方へ薬売りを下ろし、先端の方へと自分の体をやると、一本歯の下駄で危なげなく立ったまま何事かと首を傾げた。不興を買ったわけではなく、何時もと少し違う薬売りにない知恵を絞る。
けれど、ないものはどれだけ探してもない、という訳では早々に自身の頭に見切りを付け薬売りの言葉を待った。
「 ならば おれはどうだ 」
「どう。とは?」
「 おれが死んだら は何を感じる 」
「何も感じませんよ。そんな事より先に。後を追ってしまうでしょうから」
俗世間を知らぬ子供のような無垢な顔で返された殺し文句に、薬売りの中で歓喜とも悲哀ともつかない感情が浮かぶ。しかしそれを悟られる前に表情を取り繕おうと軽く顔を背ける。
赤みが差した耳は夕日に混ざり視認し辛く、どうしようもなく熱い頬は夏の風の所為にして、飄々乎としている癖に妙に鈍くて頭の足りない男を近くに呼び寄せた。疑う事を知らない様子で言葉に従うそれはどちらかと言えば犬によく似ていたが、ようやく相思相愛となった思い人に余計な口を利くのは今日くらいは自制しようかと留める事にする。
「あの。何か?」
袖を掴んでもっと傍に来るように促すと、己の中で膨れ上がる疑問に耐え切れなくなったがようやく首を傾げて見せた。彼はつくづく表情や行動や雰囲気に思考が表れる男だった。
服と服が擦り合わさる程寄った褐色の体に腕を回すと、彼の鍛え上げられた筋肉という筋肉が瞬時にして強張り、その何倍もの時間を掛けて解けていく。
「シロウサギ?」
躊躇しながらも、薬売りが自分にしているように腕を背に回すと火照った白い顔が肩に埋められた。再び硬直するが可笑しいのか、抱き締めた体は抑え切れなかった感情に震えていた。
薬売りが溜息によく似た、艶っぽい吐息をすると熱の篭った息が直肌に触れる。それが彼の笑いの終焉らしく、青い瞳が上目遣いで琥珀色の瞳を捉えると背に回した藤色の爪を僅かに立てた。
「 傍に居ろ 一生だ 」
何処にも行かせる気などないという意志表現のように絡み付いてきた肢体を見下ろしていたは、何時ものように返事をする代わりに、静かに微笑んで両腕に収まっていた体を壊れ物を扱うように優しく抱き締める。
「 気付くのが遅い 遅過ぎる 」
「はい」
「 なのに どうして気付けた 」
「……シロウサギの紛い物があっしの前にも出てきたんですよ。それに腹が立って」
何故腹が立つのか考えてみたら好きだという事に気付いたと、自嘲のようなものを混ぜながら説明したに薬売りは興味のない声を出しながらも満更でもない感情を抱いていた。もしかしたら表情にも出ていたのかもしれないが、肩に埋められた彼の表情は誰も見ることが出来ない。
今の状況に満足したらしく、白い腕は薔薇色の打掛を開放して美しい貌をした男の頬を撫でる。そこに昼間自分の付けた血色の線を見つけると、もう必要ないかとひとりごちて、後で薬を処方してやろうと指の腹でそれをなぞった。
「 それでも よく気付けたな 」
「何がですか」
「 おれの偽者にだ 姿形に声まで瓜二つだろう 」
「いいえ。判って当然でしょう」
少しばかり驚いた表情をしたは橙色の光を全身に浴びて破顔する。
「ですから。あっしは鼻が利くんですよって」
「 …… そうか 」
「はい」
「 」
「はい?」
今までとは違う、否、何時も浮かべているような黒いものが混ざる笑みを浮かべた薬売りは、橙色の光を全身に浴びて輝いている男の肩を叩いた。
訳も判らず笑っている男が無性に腹立たしく思い、肩に乗せた手は衣服の下の肉にまで爪を立てる。そこまでされてようやく彼の機嫌を損ねたと理解したは微笑を引き攣った笑みに変えて退路を探した。
しかし当然そんなものが木の天辺に存在するはずも無く、ただ刑を待つ罪人の気持ちで執行官こと薬売りを黙って見つめている。
「 おれの期待を返せっ! 」
その言葉を合図にかけられた足払いによって、哀れ阿呆なは杉の木から真っ逆さまに地上へと落ちていったのだった。