曖昧トルマリン

graytourmaline

幽谷響〈弐〉

 真っすぐに宿に帰るように言いつけられたが、躾なされた飼い犬よろしく律儀にそれを守っていた姿を呼び止めた男が居た。
 日陰になった茶屋の軒の下で饅頭を食べていたその男は、服装から宮司だと判断できて、随分と人のいい笑みを浮かべて手招きしている。
 杉の香に混じり、先程嗅いだ紫陽花の練り香水もほんの微かにふわりと漂い、神社の境内に居た女性はこの宮司の妻だったのかと一人納得した。
「まあ、まあ、お座りなさい。饅頭はお嫌いですか」
「いいえ……けれど」
 薬売りに道草を食うなと言われた以上、は何をおいてもまずは宿に帰らなければならない。夏の暑さの中で立ち止まり、それを口に出すべきなのかと戸惑っていると、宮司は勝手に注文を済ませいよいよ彼の立場を追い詰めていった。
 異種族とはいえ完全な善意から来る行動に心苦しく思い、それでも薬売りからの言いつけを守るべきなのだと葛藤する。
 中々隣に座ろうとしないの心情を読み取った訳ではないだろうが、それでも宮司はそれ以上の無理強いはせず懐紙に包まれた二つの饅頭をすっと差し出した。
「いや、済まない別嬪さん。其処まで嫌がるとは思わなんだからね」
「申し訳御座いません」
「……ひょっとして、もう一人の別嬪さんの言い付けかな」
「シロ……クスリウリ様の事もご存知で?」
「小さな村だからね。君たちのような派手な人が来れば直に噂は広まるよ」
 確かに宮司の言うとおり、薬売りも花売りも、一見するとその商売が判らないような派手な格好をしている。商売道具一式を背負った薬売りはともかく、などは街へ行けば遊び人と間違われる程にその服装は同業者の中では大層奇抜であった。
 とはいえ、それはあくまで人間が商っている正式な同業者であり、副業らしき事も行っている。というのは言い訳に過ぎないが、薬売りも花売りも、それぞれに自らの考えがあってその姿を選んでいるに違いない。
 奢りだと言われ手渡された二つの黒い饅頭を有り難く頂き、頭を垂れると、何かに気付いたのか宮司の指がの褐色の頬を指した。
「その頬の傷、どうかされたかな」
「嗚呼……これは。その。」
 突然の指摘に、嘘や誤魔化しが得意でないはしどろに視線を動かし、尖った耳をぴくりと跳ねさせる。
 それだけで大体の事が悟れたのか、宮司は両の掌を下にして皆まで言うなと無言で告げた。上手く表現できない己の感情に肩を窄める美男子の姿は、知る者が見れば、咎められない悪戯に自分だけが後悔している犬そのものである。
 宮司は僅かに目を伏せてお茶を口に運ぶと、口元の筋肉を少しだけ緩ませて膝を二三度叩いた。
「酷い事をなさるんですね」
「いえ。決してそういった訳では。これもきっとあっしが何か粗相をしたからに違いないんです」
「まあ、そうでしたか」
 ゆるりとした温い風が汗を微かに冷やして、薄い雲が太陽を覆う。
 の足元の影が薄くなり、下駄の歯が砂を踏んで音を立てた。何処か居心地の悪い思いがして踵を返そうとすれば、その広い背を宮司の声が呼び止める。
「宜しければ、これから一緒にわたしの家へ来ませんかね。これでも宮司ですから、貴方にとって、そう悪くないお話が出来ると思うのですが」
「いいえ。生憎と……時間が。それに神社からは。丁度帰って来た所ですので」
「そう、ですか」
 毒針のような不気味な光を宿した視線に見上げられ、花売りの両脚に力が篭った。
 自分を見下ろして不審そうな表情をするに、宮司は日陰の区別が無くなった軒下で腕を組む。
「その、薬売りの方は。もしやまだ神社に?」
「……ええ。恐らくは」
「嗚呼、ならば結構です……いや、此方の話ですから」
 こんな事になるのならば、薬売りの言葉通り道草等食わずに宿に帰った方が良かったと反省し、黒糖の饅頭を袖にしまった。
 風もないのに打掛が棚引くが、袖の中の物が饅頭だと判断すると金と銀の刺繍が杉の紋を巴の形に変化させ、薔薇色の中を漂い始める。
 しかし、そんな事は宮司の気に留めるような事ではなかったのか、彼は新しい饅頭を二つに割って中の餡をじっと見つめていた。
「ところで、どうしてこんな辺鄙な村へ?」
「……モノノ怪を。斬りに来たんです」
「モノノ怪、ですか」
「あっしはただの付き人で。クスリウリ様が。ですが」
「それは……」
 心当たりがあるのか、宮司は半分に割った饅頭をそれぞれ両手に持ったまま固まり、ややあって左手のそれを皿の上に置く。
「……困りますね」
「困る?」
「あれは、悪いものではないんですよ」
 右手に持っていたものも皿の上に置き、と目を合わせないように俯きながら、頭を左右に振った。
 ぱさぱさと黒い髪が音を立て、膝の上で組まれた指に爪が食い込む。日差しは一層弱まり、影の消えた地面に立ち尽くしどう声を掛けるべきか躊躇っていると、やがて宮司の方が重々しく口を割った。
「数年前の師走の、雪の激しく降った日の事です」
 その年も何時ものように神木の新しい注連縄の為に小さな神事を行い、全てが滞りなく済んだ、そんな皆の気の緩んだ時だったという。
 知っての通り、あの杉の木の裏は崖になっていて、人が落ちればまず助からないという場所で、特にその日は大層な量の雪が降っていたという事もあったのかもしれない。
 境内の隅で古い注連縄を一人で片付けていた自分の元に、血相を変えた村人が走ってきたのだ。
『奥方が落ちた』
 何処に、誰の妻が落ちた等尋ねる必要はなかった。
 踏み固められた雪の上を走り、人の輪を掻き分けて見たのは、雪に残る、人が足を滑らせた跡。眼下には渦巻く川と雪化粧をされた真っ白な岩。
 血の紅は何処にも見当たらず、恐らくは川の流れに飲まれてしまったのだろう。夕刻には雪は吹雪になり、妻の躯を探すことも出来ず、眠れぬ一晩を過ごした。
 けれど、翌朝の早朝、村中の人間が我が目を疑う事が起こったのだ。
 昨日、崖下に落ちたはずの妻が、神社の境内に箒をかけていたのだから、無理もない。
 彼女は消えたときと同様の巫女姿で、溶けかけた雪を隅に寄せながら首を傾げて、気付いたらここに居たのだとはにかんだ。朝餉も出来ていると温かい汁物を振る舞い、昨日放り出したままの古い注連縄を片付けようかと言ってきた。
 死人が……正確には死んだと思われていた人間が生きてかえって来る何て常軌を逸した話かもしれない。それでも妻は帰って来たのだ、彼女は生きているのだ。
 今日までずっとあのように過ごしてきたのだと、宮司はそう言ってを見上げた。縋られるような視線を睨むように見つめ、再び顔を出し始めた陽の光に目を細める。
「妻は何も悪い事などしていないんだ。たとえ、モノノ怪であったとしても……」
「……あっしに何を申されても出来る事は御座いません」
 僅かに芽生えた小さな罪悪感を容易く摘み取り、投げ捨てたは神社のある方を眺め強く拳を握った。
 もしも宮司の妻がモノノ怪であれば、そうしろと言われたとはいえこのまま暢気に宿に帰っていいものなのだろうか。けれど、本当にそうだとしたら、寧ろ自分は足手まといなのではないかと思考が巡る。
 だからこそ、薬売りはあの場から離れるように言ったのかもしれない。
 琥珀色の瞳が神社から外されると、薔薇色の打掛を翻しは言いつけ通り、宿のある方へと足を向けた。
 冷たいお茶を用意して、饅頭をお茶請けにして、彼の帰りをただ待とう。
 遠くから聞こえる蝉の鳴き声と宮司の視線を背にして、は自分にそう言い聞かせながら夏の道を黙って歩いて行った。